We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年08月


59.Come,Come,Yet Again Come
   好きなだけ、繰り返せばいい

 あなたがどういう状態にあるかは関係ありません。
誰が来ようとかまわないのです。
マスターには常に用意があります。




 かつてない偉大なスーフィーのマスターのひとり、
 ジェラルッディン・ルーミーのすばらしい声明がある。
それをあなたのハートに受け取るがいい。


 おいで、おいで
 あなたが放浪者、崇拝者、学問の恋人
 誰であろうとかまわない
 私たちのキャラバンは絶望のキャラバンではない。
 たとえあなたが自分の誓いを
 千回破ったとしても
 おいで
 おいで、おいで、それでももっとおいで




 マスターは主人だ。

ほんとうのマスターたちはけっして誰も拒まない。


彼らはそうできない。

あなたが旅と頭上の燃える太陽に疲れて木の下に、
木陰のある木の下に行ったとして、
その木があなたを拒む、
あなたに避難する場所を与えない、

       あなたを保穫しない
         ……そんなことは起こらない。

 木には

 避難する場所を、

 その影を、その果実を、その花を、

     その薫りをあなたに与える用意が常にある。



 もし私が誰かに、

 「まずは行って、サニヤスに値するようになりなさい。
それから私のところに来るがいい……」と言ったら、
それはまるであなたが医者のところへ行って、その医者が
こう言うようなものだ。

「私はあなたが健康なときにしか薬を与えない。
 それが、私があなたに薬を与える条件だ。
 私はけっして自分の薬を病気の人たちに
 むだに使ったりはしない!」

 誰が来ようとかまわない。マスターには用意がある。





        COME,COME,YET AGAIN COME,Discourse1

今朝、悪夢を見て汗びっしょりで飛び起きた・・・・

日本が全世界に向けて大量に隠し持っていた核ミサイルを
世界各地に向けて一斉に発射する夢だった・・・・

もちろんそんなことは、あり得ない事だと私も思う

でも、あくまでも〝夢〟なのだから一種の〝比喩表現〟として
真実が語られている可能性はあり、では何を比喩しているのか?
目覚めた寝床で考えていた・・・・


そもそも歴史上に実際に起きた
ヒロシマ、ナガサキの2発の原爆投下とは何だったのか?

チェ・ゲバラは来日して広島を訪問した際に洩らしたそうだ

「日本人はなぜこんな酷いことをされて怒らないのか?・・・」

ここには日本人の潜在意識を解明する
大きなヒントがあるのかもしれない

つまり、2発の原爆投下というのは日本人の潜在意識が
〝アメリカとの戦争という現実〟を通して引き寄せたことだから・・・・
                       ・・・・なのではないだろうか?

  ・・・そうであるならば、「日本人が怒らない」説明がつく・・・・

「核兵器禁止」日本は賛同せず 被爆国なのにどうして?



わたしたちは、あまりにも悲しさを溜め込みすぎた のではないだろうか?

「〝家制度〟の存続のためにあまりにも自分自身を犠牲にしすぎた・・・」事が原因で
個々人の内面に破滅の願望を溜め込みすぎてしまったのではないだろうか?

・・・そんな風に考えれば、キリスト教的な自虐感、原罪感が日本人の
自己破滅的な潜在意識と結びつきやすいことも巧く説明出来る・・・・

エヴァンゲリオンというアニメを生みだし、主人公碇シンジをして
「みんな死んじゃえ」「ボクも死んじゃえ」と言わしめたこともスンナリと説明がつく

https://livedoor.blogimg.jp/gocky_z/imgs/f/a/fad32014.jpg

日本という国全体が、一種のヒキコモリ体質であり、
それゆえに長い長い鎖国という徳川時代を経験している・・・・

・・・ではなぜそんな「ヒキコモリ」体質があるのか?っと探るならば
   日本という国民性の共通潜在意識に
   「俺たちは他と違う」という特異意識が
    根強いからじゃないだろうか?

・・・ここで注意したいのは
わたしは「ヒキコモリ」という言葉をそれほどネガティブな意味合いでは使っていない
   「ヒキコモリ」という言葉をニュートラルに眺めて欲しい

なぜなら、「日本人の特異性」というのもまたある意味では事実だと思われるからだ

このことによって、
なぜ日本人はアーリア系の優位性を信じて闘ったドイツと同盟してWW2を闘ったのか?
その「運命の」説明ともなる・・・・

日本人の世界的にも見渡した上での〝特異性〟・・・・
これが例え事実としても
それはナチスドイツの選民思想と容易に結びつくものなのだ

    そしてなぜ?闘った相手はアメリカだったのか???

アメリカは「ユナイテッド・ステイツ」・・・つまり合衆国=多民族連合国家であるが
実を言うならば、世界最初の〝合衆国〟とは我が国・・・・  日本である

だから、越後国、下総国、備前国、丹波国・・・  現在の〝県〟、かつての〝藩〟は
日本統一が為されるまでは、それぞれが独立自治国家であった・・・

それが国家神道=天皇の名の下に、幕府という統一政府へと変遷したのだ


現在のアメリカが抱える病理を見れば、日本という自国が鏡のように理解出来る

名目上は肌の色の違いを越えて〝仲良く〟暮らしているというタテマエではあるが
実際にはごく少数のユダヤ特権階級やWASP白人至上主義が支配している
その矛盾の誤魔化しの為には

人工的で狂信的なキリスト教イデオロギーとも言うべき〝愛国心〟で
国としてまとめ上げなければ収拾がつかない混乱のるつぼのような国家である



   ・・・それゆえに物理的な享楽という麻薬を国民に与え続けなければならず
     戦争経済に依存し、常に「蒙古来襲」のような仮想敵国が必要なのだ

それはあたかも安保論争まっただ中の現在の私達とどこか似ていないだろうか?


民族のごった煮になっているアメリカでのキリスト教カルト的狂気がもたらす愛国心と
いうのを簡単な日本語に翻訳するならば、それは

   「俺たちは(神に選ばれた)特別な存在だ!!」「だから滅びるわけにはいかないんだ」
                              っということになる

日本とアメリカというのは、さまざまな点が正反対でありながら、ある種の
共通項がある・・・

     それが日本とアメリカの両国を
          「向かい合った鏡のような不気味な赤い糸」で
             結びつけているのじゃないだろうか?


日本人は国民性として、個性と個々人の権利を主張し合うタイプではない
でもそれ自体が、強烈な国民性全体としての〝個性〟になっている

  良く言えばそれゆえに社会的なモラルは高く、治安もいい
でも 
   悪く言えば個々人が伸びやかに成長する土壌としてはふさわしくないのだ


〝個の尊重〟というものが封印され、多様性、固有性が抑圧され窒息しかかった世界では
何が起きるのかと言えばそれは自殺の大量発生だ

人類の究極的な進化の最終シーケンスとは「個の開花」であり、
そこから究極の自覚する者・・・ブッダが生まれる

もし、最後の殻が破れず、諦めてしまったとき、何が起きるのかと言えば
幾何級数的な感染爆発のような自殺

  核の爆発とは何を表現するかといえば

           「人類規模の自殺」か?
  あるいは     「人類規模のエンライトメント」なのだ

フクシマはチェルノブイリを引き継いで、すでにこの世界の放射能漏れの中心となっている

             それは「具現化した集合心理的な癌の象徴」でもある

日本人の集合無意識がアメリカという自国の写し身の国家を使って
自らに核爆弾を投下したのだとしたら?

・・・・であるならば、その同じ集合無意識が世界に向かって
   「全世界に破滅をもたらす核ミサイルを発射する」
    という私の今朝見たヴィジョンが、たんなる悪夢の妄想だと言い切れるだろうか?

私個人もまた晩年の父のように、
人との馴れ合いに対しては歳を追うごとに拒絶感が強まってきた・・・・・

                    ・・・・・「わたし」は「あなた」ではないのだから


「わたし」 はもう、これ以上群集に迎合し続けるのも、もう疲れたし
     種の保存法則にがんじがらめの「女の狡猾さ、嫉妬、泣きべそ」にも愛想が尽きた
      かといって、ニセの、偽りの抱擁を交わし合うのはもっと嫌だ・・・・

しかし反面 わたしは
        「わたし」ではない「あなた」という存在を否定したいわけではない

むしろ わたしは
  「わたし」と違う「あなた」の存在と
   その個性の違いを自分自身と同じぐらいに尊重したいのだ・・・・・・

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 (互いの違いを尊重したまま・・・・)
    「わたし」 と 「あなた」 との境界線を無くす
                 手っ取り早い方法は?


         ・・・切腹するか? 

          ・・・・世界に向けて核ミサイルのボタンを押すか?

  あるいは・・・・ 


       時間も空間も介入出来ない「いまここ」から
        何かが生じてくるはずはない・・・

                   それが今までの常識だった

       それがわたしたちの頭脳が起承転結によって導き出せる限界だったのだ
                     だから私達は「いつかどこか」を探索し続けた

 ところが

   いつかどこかから〝来た〟ものは 必ず・・・・
   いつかどこかへと〝去って〟いくものなのだ・・・・

   だから当然のこととして
  〝永遠なるもの〟は、
   「いつかどこか」を探しても見つからない  ・・・決して

  たとえ全人生のすべての情熱をかけて探求しても・・・
  どれ程科学が進歩し、社会が便利になっても・・・・

     「いつかどこか」の宇宙を羽ばたく〝永遠の火の鳥〟は捕獲出来なかった


「いつかどこか」の追求によって
私達は
 より便利になり、より豊になり、
 より快適な暮らしは得られ、一時的な満足は得られても
        それが〝根本的な幸福〟に辿り着くことは無かった

なぜならこれら「外界への幸福の追求」では
        〝自分とは何か?〟という解答を見いだすことは出来なかった
からだ

「いまここ」というのが・・・
 まさしく「I am・・・(純粋意識)」であり、
 わたしという意識の物理的な定位置(ホーム・ポジション)
          そのもではないだろうか?


「火の鳥=THE FIREBIRD」全ての過去が焼け落ちたとき 投稿者 maneel-katal



幸福感も、惨めさも・・・、
天国も、地獄も・・・・、
まさしく
「いまここ」の光の中にあり
「いまここ」の闇の中に消滅していくというのは、
         「 喩え 」 ではなくまさしく事実なのではないだろうか?

あらゆる創造も破壊も、生も死も・・・・  

わたしたちは空間も時間もない

    「この一点」に

すべてが存在し、すべて生成し、すべて消滅していくのだと言うことが
いまだに論理的にはピンと来ない

目撃しているすべての森羅万象は
「どこか彼方から」次々と流れ着いてきて・・・
「どこか彼方へと」どんどん流れ去っていく・・・・

そしてこれら千変万化する状況に対する〝反応〟として
わたしたちは「嬉し」くなったり「悲しく」なったりするのが
当然なのだと思い込んでいた・・・

  この外界の状況に対する一喜一憂が私達なのだというなら
    はたして私達に自由があると言えるだろうか?
       私達がマシーンでもロボットでも化学現象でも無いと
                            断言出来るだろうか?

・・・・このプロセスが無限に継続することが「永遠」なのだと思っていた
     「ドラマが無限に継続すること」が「永遠」なのだと思い込んでいた

だから私達は不老不死に憧れるくせに、永遠の退屈を死よりも恐れてきた


わたしたちは何かあれば「だって・・・」という、「なぜならば・・・」と他人に説明する

   ・・・はたしてそれが自由だと言えるだろうか?
      むしろビコーズ、リーズン、ルーツ・・・こそが
        不自由(不幸)の元凶なのではないだろうか?

外界が原因で、内面がその結果であり続ける以上、
わたしたちは運命の被害者であることから免れるだろうか?

  その〝被害者〟であるわたしたちの、
   では〝加害者〟とは・・・・・・・・    ???

          その犯人は本当に〝状況=シチュエーション〟なのだろうか?

        ・・・その加害者の隠れた正体は私達の無意識なのではないだろうか?

   幸運や不幸も、シンクロニスティーも、
    わたしたちの目の前を通り過ぎるすべてのドラマは
      私達の潜在意識の〝仕掛け〟なのではないだろうか?


もしそうであるならば、この〝仕掛け〟と〝運命の犠牲者〟とのループ、
〝いたちごっこ〟は一体いつ終わるというのだろう?


21世紀が幕開けしたときに起きた「9.11同時多発テロ」・・・・

この事件のキーワードが「同時多発」であったり「自作自演」であったりというのは
一体何を暗示しているのだろうか?

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「ゴイム(非ユダヤ人)達に
 〝進歩〟という考えを植え付けさえすれば
  わたしたちは彼らを如何様にも支配出来る」

BY シオンの議定書


求めようとする心こそがあなたの悟りの道への最大の障害となっています。

子供の時、わたしたちはオトナに憧れた・・・

両親その他の大人達は人間の〝完成品〟であり、
相対的にヨチヨチ歩きの自分自身は〝未熟〟なのだと感じた

  必死に両親のマネをした
  ・・・そうすれば両親は目を細めて喜んでくれるから

  だから、大人をコピーすることで自己の〝完成〟を目指した、
                       自己の〝拡張〟に憧れた


幼い時にわたしたちがそう考える様になってしまったのは
無理からぬ事だけれど
本当は
5歳の時は5歳らしく、10歳の時は10歳の人生を
満喫すれば良いだけだったのだ・・・

何もしたくなくでも
何も目指さなくても
無為自然でも良いと言うこと
今の自分を尊重すれば良いと言う輝きを
わたしたちは幼い時に失ってしまった・・・

わたしたちはものごころ付いた時からすでに
「何かになる」ことへと常にこころをつんのめらせて歩く様になってしまった

そのことをカバラでは
「生まれてすぐに砂漠で絞め殺された赤ん坊(ギメル)」という比喩で
愛のない社会を表現している

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腹を立てた女は、腹を立てた男よりもずっと危険だ。

天使や、魂の進化した人間は
アンドロギュノス(両性具有)であると
秘教的(エソテリック)な知識では言い伝えられている

しかし誰もが生まれながらの
アンドロギュノスであり
アンドロギュノスを〝目指す〟必要は無い・・・・

すでにいまここで

  〝そう〟である、
    〝完成品である〟 と気が付けばいい・・・

          ・・・・・ただそれだけのことだったのだ

この世界では
誰もかれも、猫も杓子も・・・

 ・・・完成品になることを目指し、自己の無限の拡張を目指している

だから自分が
  いまここですでに完成している存在で、
  いまここの自分がすでに辿り着いた存在で、
  いまここの自分こそが尊重に値するということ・・・

  ・・・そのことに気が付く、是認すると言うことは、
      常に最も簡単なことでありながら、
      常に最も難しいことになってしまった

「わたしはこの肉体が死ぬ前に
与えられた人生を使い切ることが出来るだろうか?」

昨夜寝る前に、そうヴォイジャータロットに問うて一枚を引いた
果たしてその一枚はあにはからずや
モロにこれであった・・・


13

これを引いて思ったのは、
覚者が言うところの
「〝死の前の死〟というのは有り得るんだろうか?」   ということだった

肉体が死ぬ前のエゴの死というのがいわゆる〝覚醒〟〝悟り〟なわけだけど
これをOSHOは〝究極の死〟とも表現している

つまり、〝自分〟なんて幻想だった・・・っと気が付いた時、もはや個体として
肉体と自己同一化することは不可能(無意味)なわけだから、
生まれる、っという輪廻の堂々巡りから卒業することになるので、
もはや死もなくなる・・・・  つまりは〝究極の死〟というわけだ


バシャールは、私たちの観念を変えるだけで、自分の肉体のかたちさえ
変更出来ると言っていた

             ・・・ではなぜ実際には私たちはこの
                「岩のように堅い現実」を変更出来ないのか?

  その疑問もわたしは常々あったが、上記の「死」のタロットカードは
   その疑問への回答にもなっているように思うのだ

    つまり、
    自己イメージというものは、如何に巨大な堅い岩石よりも
    わたしたちにとっては圧倒的なリアリティーだから
  なのである
         それが私たちに、常に圧倒的にシリアスな感覚でしか
         この「死」のカードを受け止められない原因なのだろう

 「肉体とは可視の魂のことであり、
  魂とは不可視の肉体のことだ」 BY OSHO

            で、あるならば!、
            〝究極の死〟においては
             わたしたちはこの両方(からの自己同一化)を脱ぎ捨てる

肉体の死を迎える前に、
この〝悟り〟に辿り着けるか?っという達成目的、憧れが可能だった時、
はじめてそこへの努力、奮闘も可能になる

  「肉体の死の前の〝おおいなる死〟」を目指してのメソッドやら瞑想やら・・・
  ・・・つまり、〝二種類の死〟があることになるわけだけれど、それは本当なのだろうか?

これが上記のタロットを見た時の疑問だった


  〝大いなる死〟を達成していない私たちの立場からすれば
   私たちが体験してきたのは〝肉体の死〟だけなので
   「別の未知の〝死=悟り〟というのがあるのかもしれない」
    というのは
    多分間違いではないだろうが、でも、ブッダの立場からすれば、
    この〝二種類の死〟という概念は、あくまでも〝方便(ほうべん)〟なのじゃないだろうか?


つまり、〝大いなる死〟に達したあと、肉体の所有者というのもまた消え去っているはずなのだ

っとなると人々から見るなら、その〝悟った人〟というのは目の前で存命なのだけれど
ブッダの見地からすれば、「この肉体にはもはや所有者はいない(=死んでいる)」っとなる

わたしたちは日常の感覚として、
「これは自分の肉体であり、だから、生き延びる為には自分自身がケアしなければいけない」

   っという〝管理義務〟を感じて生きているが、それは同時に、
   「この肉体を意のままに操っているのは自分だ」という自意識が有ると言うことだ

   ・・・覚者達は、「それが錯覚であることを見抜け」と私たちに言うのだ

 恐れは生存するために必要ですが、
しかしまた、恐れは生きることを妨げ得るのです。


   「生き残る」ことよりも「生きる」ことへと優先順位を転換する・・・
       ・・・これが最も端的な、いわゆるアセンション、
          「体主霊従」から「霊主体従」へのシフトなのだと思う

桑原大治「光透波と体のスピリチュアリズム」・・・
「〇〇する~〝べき〟」「△△せ~〝ねば〟」、という囚われからの離脱


   さらにそれに私が第三のファクターを書き加えるなら 「××の~〝ため〟」・・・・

  この三つ、「べき・ねば・ため」からの囚われから離脱が進めば進むほど
  肉体も心も、軽く、希薄になっていく・・・・  「究極の死」はその極点にあると思う

あなたは
たえず自分を改善しようとしているが、
私は改善しようとしていない。 
私は未完成こそ
生のありさまだと宣言してしまった。


つまり、私たちは未完成のまま死ぬ・・・・  そこに〝無念〟を感じるならば
私たちはこの地上に何度でも舞い戻ってこなければならなくなる

この永遠の堂々巡りを終わらせる為には、
「未完成である自分を完全に、全面的に受け入れてしまう」
ことこそが、最大の完成なのだというパラドックスと対峙しなければならない

「肉体の死の前に、〝大いなる死〟に辿り着かなければ!!」っという焦りこそは
ある意味では、人間が抱き得る最大の野心、最高の完全主義なのかも知れない

だから

「究極の死」のあとに「肉体の死」が二重に来ることはないのだ

どちらにせよ   人生に〝死〟とは一回こっきりなのだ

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