「あるがままの肯定とは?」
それは
寝ぼけて夢見るマインドの現状をうべなうことじゃないよ。
ましてや
くだらない人間関係の縛りを放置することでもない。
そうではなく、社会に催眠術をかけられ、
骨抜きにされる前の素の姿、野生の感覚を取り戻すことさ。
そして生まれながら携えてきた固有の種子が
はばかることなく咲くように、必要があらば
いのちをかけて闘うこと。
ただくつろいでリラックスするだけなら、牛でもできる。
くつろいだなかに、凜然とした覚醒の炎が立ち上がらずして
どうする!?。
この話はそのまま「本当の自由とは何か?」を論じていると言えるのかも知れない
「飼い慣らされた檻(オリ)の中でのリラックスなんて本当の意味での
〝あるがままの肯定〟じゃないよ!〝真の自由〟じゃないよ」 というわけだ
私はものごころついた時から〝人の和の外〟に居た。
....社会の外にいた
人々の輪の中に溶け込もうと努力しようとしたこともある
人の和の中での自由も有り得るかもと思ったことがあったからだ
それが出来ないから私にはいつも寂寥感に悩まされるのではないか?っと
仮説を立てたからだ・・・・でもこの仮説は間違っていた
一匹狼であることは孤独ではない、孤独の原因ではない
ただし、女性との肉体関係が伴う恋愛結婚関係など、
個人との一対一の深い関係を形成出来ないことと、集団的な協調能力とは切っても切れない
フレンドシップ、グループ、ファミリー・・・・
これらにはかならず〝馴れ合い〟〝妥協〟が発生し、心理的な閉塞、束縛で
苦しめられるようになる ・・・・もんじゅさんが指摘するまでもなく、冷たい
家庭で育ったわたしには、この「心理的な閉塞、束縛」は生理的に耐えられない
感覚があり、それが今に至るまで続いている
「関わらない」という選択は確かにインスタントな自由は得られるが
常にアウトサイダーとして放浪していることが自由なのかと言えばそうではない
では、インサイダーとして社会の改革を内部から試みるべき事が自由への出口なのか?
安保法制の議論に加わってデモ行進の中のひとりになることが?っと問うならば
こんな言葉が死んだ世界で何をどう制度をいじくっても無駄であるような気がする
・・・・その結果例えこの世界にファシズムが吹き荒れようが、核で滅びようが
この社会の表面的な延命にどれ程の意味があるのだろう?
いや、むしろこの延命措置は新生への拒絶ではないのか?
たぶん、その国の憲法が骨抜きになった時から、
文明は発達しても、文化としての大黒柱はもう無いに等しいのだ
文明の煌びやかな御殿はあっても
人間のまともな営みが可能な文化のオアシスは存在しない
個々人の心の自由も存在しない ・・・・文化が滅んだ国が
如何に恐ろしい無法地帯になるのかは中国を見れば判る
・・・ハリボテのような高層建築が立ち並んだ巨大な廃墟だけがある
言葉(憲法の理念)の滅んだ国は実相的にはもうとっくに滅んでいるのだ
私たちの国は敗戦の焼け野原から、実際には何ひとつも変わっていない
それほどまでにGHQによる岸信介のユダヤ代理統治=奴隷化計画とは徹底的だったのだ
だから、すでに滅んだ国の中でのデモ行進に参加するなどは
死霊の盆踊りに参加するようなものだ
そこには使命感に満ちあふれた人達の笑顔が有りはしても
そこに本当の人の温もりがあるわけではない
自由を阻むくびきを外すためには制度の攻防戦に参加することではなく
どうやってこのくびきをするりと抜けるか?が重要だと思う
この世界に参加しつつ、この世界に囚われない・・・・
人間社会を拒絶して自給自足の農家を営むことではないのだ
都会でも田舎でも、自由に羽ばたける蝶になるべきなのだ
家とは建物を指さすべきではなく、人であり、まごころであり、そこから生じる
自由の文化なのだ ・・・だから人とそのまごころが生き延びさえすれば
そこからまた〝家〟は再建出来る ・・・だから〝家〟を守る為に
個人が踏みにじられるのは本末転倒なのだ