We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年08月

もんじゅ まさき
「あるがままの肯定とは?」


それは
寝ぼけて夢見るマインドの現状をうべなうことじゃないよ。

ましてや

くだらない人間関係の縛りを放置することでもない。


そうではなく、社会に催眠術をかけられ、
骨抜きにされる前の素の姿、野生の感覚を取り戻すことさ。


そして生まれながら携えてきた固有の種子が
はばかることなく咲くように、必要があらば
いのちをかけて闘うこと。


ただくつろいでリラックスするだけなら、牛でもできる。
くつろいだなかに、凜然とした覚醒の炎が立ち上がらずして
どうする!?。


この話はそのまま「本当の自由とは何か?」を論じていると言えるのかも知れない

「飼い慣らされた檻(オリ)の中でのリラックスなんて本当の意味での
〝あるがままの肯定〟じゃないよ!〝真の自由〟じゃないよ」 というわけだ

私はものごころついた時から〝人の和の外〟に居た。
....社会の外にいた

人々の輪の中に溶け込もうと努力しようとしたこともある
人の和の中での自由も有り得るかもと思ったことがあったからだ
それが出来ないから私にはいつも寂寥感に悩まされるのではないか?っと
仮説を立てたからだ・・・・でもこの仮説は間違っていた

    一匹狼であることは孤独ではない、孤独の原因ではない

ただし、女性との肉体関係が伴う恋愛結婚関係など、
個人との一対一の深い関係を形成出来ないことと、集団的な協調能力とは切っても切れない

フレンドシップ、グループ、ファミリー・・・・
これらにはかならず〝馴れ合い〟〝妥協〟が発生し、心理的な閉塞、束縛で
苦しめられるようになる   ・・・・もんじゅさんが指摘するまでもなく、冷たい
家庭で育ったわたしには、この「心理的な閉塞、束縛」は生理的に耐えられない
感覚があり、それが今に至るまで続いている

「関わらない」という選択は確かにインスタントな自由は得られるが
常にアウトサイダーとして放浪していることが自由なのかと言えばそうではない

では、インサイダーとして社会の改革を内部から試みるべき事が自由への出口なのか?
安保法制の議論に加わってデモ行進の中のひとりになることが?っと問うならば
こんな言葉が死んだ世界で何をどう制度をいじくっても無駄であるような気がする

・・・・その結果例えこの世界にファシズムが吹き荒れようが、核で滅びようが
   この社会の表面的な延命にどれ程の意味があるのだろう?
   いや、むしろこの延命措置は新生への拒絶ではないのか?


たぶん、その国の憲法が骨抜きになった時から、
文明は発達しても、文化としての大黒柱はもう無いに等しいのだ

文明の煌びやかな御殿はあっても
人間のまともな営みが可能な文化のオアシスは存在しない
個々人の心の自由も存在しない   ・・・・文化が滅んだ国が
如何に恐ろしい無法地帯になるのかは中国を見れば判る

 ・・・ハリボテのような高層建築が立ち並んだ巨大な廃墟だけがある

言葉(憲法の理念)の滅んだ国は実相的にはもうとっくに滅んでいるのだ
私たちの国は敗戦の焼け野原から、実際には何ひとつも変わっていない
それほどまでにGHQによる岸信介のユダヤ代理統治=奴隷化計画とは徹底的だったのだ


だから、すでに滅んだ国の中でのデモ行進に参加するなどは
死霊の盆踊りに参加するようなものだ

そこには使命感に満ちあふれた人達の笑顔が有りはしても
そこに本当の人の温もりがあるわけではない

自由を阻むくびきを外すためには制度の攻防戦に参加することではなく
どうやってこのくびきをするりと抜けるか?が重要だと思う


この世界に参加しつつ、この世界に囚われない・・・・
人間社会を拒絶して自給自足の農家を営むことではないのだ
都会でも田舎でも、自由に羽ばたける蝶になるべきなのだ


家とは建物を指さすべきではなく、人であり、まごころであり、そこから生じる
自由の文化なのだ   ・・・だから人とそのまごころが生き延びさえすれば
そこからまた〝家〟は再建出来る   ・・・だから〝家〟を守る為に
個人が踏みにじられるのは本末転倒なのだ

いまは安保法制を巡っての議論が熱い。
八月が過ぎ去ろうとしている今日も各地で
賛成、反対のデモなどが多かっただろう

でも、本当にこれが「天下分け目」「歴史的瞬間」なのだろうか?

誰もがそう思っているが故にきっとデモも盛況なんだろう
・・・・でもわたしは疑問に思っている


確かに憲法というのは重要な〝ハズ〟であるのだけれど
すでにこの国の憲法は砂川裁判によって死んでいるという論もある


2015-01.08 戦後70年「日本国憲法は既に“死んでいる... 投稿者 kigurumiutyuujin

その国の民にとって言葉によって記されたもので
もっとも重い意義を持つものとは言うまでもなく憲法だ

だからもし憲法が死んでいるとしたら、その国で暮らす人々の〝言葉による営み〟が
生きていると言えるのだろうか?

先週の土曜と今週の土曜(昨日)は、それぞれ光透波、カタカムナと、連続して
日本の言葉の根幹を学んだわけだけれど、しかしそれにつけ、上記の問題・・・

・・・つまりこの国の言葉は死んでいるのじゃないだろうか?という疑問が
頭から離れない


私達は確かに言葉に蹂躙されて生きている
感覚、感触、感受性が織りなす繊細なフィーリングやエモーションというのに対して
言葉とはより明瞭なデジタル信号で、客観性、説得力がある・・・・

     ・・・・私達のこの物質科学文明の牙城は、
          それゆえに築かれた鉄筋コンクリートと電子の要塞だ


それゆえにここでは人間の生々しい営みでさえ、システムの中に組み込まれている

一見話が飛んでしまうようではあるが、
今の金融不安にせよ、安保法制議論のような問題にせよ、
その根幹には宗教を根拠とした性の管理システムである結婚制度の
閉塞性が大きく関与しているように思えてならない

    ・・・・何も結婚制度そのものをぶち壊そうというのではない

でも今夜、ハタと思ったのは、
最も結婚制度に拘っていた。。。。縛られていたのは
          他ならぬ自分自身がかも知れない
と言うことだ

・・・私はまじめすぎたのかも知れない、
もう世の中の男女はもうとっくに〝制度〟という垣根の
すき間をひらひらと舞う蝶々のように生き始めているよね? ・・・・ っということだ

垣根を越えていく蝶々は言葉も法律をも超越した魂の世界に生きている
もうすでに人々は、そういう軽やかな生き方にどんどん適応(シフト)していっているのかも知れない

これからことばの世界、ロジックの世界のくびきはどんどん破られていくのではないだろうか?

          いや、「破られていく」のではない
       ・・・「ふわふわとすり抜けていく」と言うべきだろう

光透波にせよ、カタカムナにせよ、
究極の〝教え〟は
          〝無〟より出でて、
           この現象世界をはばたき舞い、そしてまた〝無〟へと
回帰していく様に思う  それは堅苦しい律法ではなく神話的なリーラ(戯れ)だ


「はじめに言葉ありき」と旧約聖書は言う

でも〝はじめ〟が有るものには必ず〝おわり〟がある
旧約聖書の世界観は、しょせん有限の世界を語っているのに過ぎない

憲法もまた然り、所詮は人間が発したものだ

人間が発したのであれ、神が発したものであれ、
〝発せられた〟ものは皆、すべて寿命がある

有限であり、部分であり、
そして賞味期限と有効範囲   ・・・・時空間の限定がある

ましてや〝死んだ〟言葉が拠り所になったものは、なおさら限界だらけである

その議論の対象となっている〝平和憲法〟がすでに死んでいるのだとしたら
なおさら、死守しようがしまいが次の時代の礎とはならないように思う

文明としては次々に精度の高い世界最高レベルなものを膿出し続けたが
こと言葉の文化と言うことに関しては、すでにこの国はゾンビだったのかも知れない
安保法制の議論とは「死霊の盆踊り」なのではないだろうか?

じゃあ生き返らせることが出来るのか?
生き返らせる意味があるのか?価値があるのか?

・・・はなはだ疑問だ

私達は「生きている」と「思い込んでいた」

そこからが本当の新生であるように思う  ・・・・垣根を跳び越えていく蝶々への新生だ

以下、もんじゅ まさきさんの投稿した
『信じることをやめなさい』苫米地英人、引用文

 日本人が奔放な姿を急速に失っていくのは、明治維新からのことです。


じつは、このとき

明治政府は、大がかりな仕掛けを用意しました
日本神道という、人工的に構築された宗教の仕掛けです。


 一般に、神道は多神教であるといわれています。


たしかに古神道は、森羅万象に神は宿るという思想に基づいた
原始宗教であり、それが八百万の神を崇める日本人の精神を
育んできました。


 ところが、
明治政府によって生み出された国家神道は、
伝統的な古神道の衣をまといながらも
宗教としての方向性はまったく逆を向いています。


なぜなら国家神道は、
天皇を唯一の神と崇める一神教として成立しているからです。


ここでは多くを語ることはしませんが、

国家神道は明らかにキリスト教をモデルにして

組み立てられているといわなくてはなりません。


 その狙いは、
国民統治の磐石などシステムを構築することにありました。
国民を総動員し、国家的事業を成功させるために、
これほど都合のいいシステムはありません。


 国家神道には『聖書』こそありませんが、
人々が天皇の考えを絶対化し、己の身を削ってでも
天皇の目的を遂行するという考えに日本国民を導いたからです。


 その行き着く先が、
「一億総玉砕」や「打ちてし止まん」に通じる
軍国主義だったことは、万人が認めるところでしょう。


〜〜〜〜〜〜


 明治以降の軍国主義、全体主義を生み出した主導者たちは、
ある意味で彼らなりのコーチング・ビジョンを強烈に保ち、
着実にそれを実現していったといえるかもしれません。


 鳩のように柔和であるだけでは、
狡猾なマインドを駆使するやからたちの策動から
逃れることはできないということ。


だから、よくよく目を見開いてその仕掛けを見抜かなければならない。




OSHO_ Anybody Who Gives You a Belief System is... 投稿者 maneel-katal

オレは何も信じない

何かを信じ込むことは 信条主義であって 頑迷さ以外の何ものでもない

同じくもんじゅさん投稿からの引用
黒澤明監督の直筆ノートより

人間は、間違いばかり起こしているのに
「これだけは絶対間違えない」だなんてどうして言えるんだろう?

それも、もう間違えたらオシマイだと言う様なことにさえ
どうしてそんな事が言えるんだろう?




 わたしはただただ 自分自身を信頼している

              ・・・・信頼と信用は全く違う

 わたしは今後もいろんな過ちを犯すだろう、

でもそれは
自分の〝謙虚さ〟を
単純にアピールしたいのじゃない・・・
自分が相対的な存在だからと言うのが原因による間違いなのではなく、
この世界は相対性に満ちて、流動的だから、誰にも未来は断言出来ないよね?
・・・単にそれだけのこと

自分自身の愚かさに嘆くことは、これからもあるだろう

自分の傲慢が人を傷つけてしまうこともあるだろう

でも、その時、その都度、
自分は精一杯の判断を下していることを
自分自身は知っている

過去から未来まで、
自分の愚かさをも含めて、嘆きをも含めて
それらのすべての沈黙の(裁かない)目撃者とは、
この世界でたったひとり

     ・・・・自分自身なのだ



私にとって、
何かを信じ込むこととは愚かさ以外の、無知と傲慢以外の、何ものでもない
なぜなら自分自身に対してすら、何一つ信用していない、からだ

    
自分自身に対しては  ・・・ただただ信頼があるのみだ

過去いろいろな信念に取り憑かれ、熱中し、
あまたの間違いを犯し、人に迷惑を掛けてきた

  穴があったら入ったまま、もう二度と出てきたくはない・・・
         ・・・そんな自分自身を、いったいどうして信用できるだろうか?

  明日をも知れない命のわたしが、
               いったいどうして誰かに何かを保証できるだろうか?

でも
誰もが、自分の中でのベストを尽くして、よかれと思ってやっている
      ・・・・それを誰が裁けるだろうか?  ・・・・誰が赦すというのか?

   ・・・自殺してしまった人すら、自らの安らぎを求めてした行為なのだ
     如何に自虐的な人間でも、その最奥では自らの幸福を望んでいる
     そしてそれに従ってその都度ベストと思える選択をしているだけなのだ

     誰もが自分自身に対しては
すでに無限の愛を持っている
39

                  あなたは999人を殺した大量殺戮者かも知れない・・・
             だったら自分自身を愛せないのだろうか?・・・自分自身を赦せない?



   ・・・そういう意味では、
    私は何も信用(believe)しはしないが、すべてを信頼(trust)している



    だからこの先に、何一つ確かなことはないが、リラックス(委ね、寛ぐこと)は可能なのだ

今朝夢を見た

社会的な責任を果たせずに逃げてきた「無能な自分」を責め悩む
サディスティックな夢だった

目が醒めてすぐ、自分にこんな罪悪感が残っていたことに驚いた・・・

   ・・・驚きはしたがとても心当たりはあった

    そしてこの罪悪感が、如何に今までの自分のセックスの観念にも
     暗い影を落としているのか?気が付いた


私は女性との性交渉に対して、この罪悪感に対する購いを求めていたのだ

これは「男性の肉体である自分」を反転させた「内面の女性」に
視点をひっくり返すなら、
「傷ついた男性を癒すために性的な関係をも忌諱しない」・・・・

                   ・・・・ヒーラー、聖母としての女性の姿だ

わたしは、こういった女性達とすでに現実の人生体験で何人も出会ってきた

それは私にとっては強烈な癒やしの体験であった、素晴らしい体験であった
そして私の心の糧であり、砂漠の中のオアシスであり、祈りと救済の宗教的体験だった

しかし、苦しみ故に盲目であったわたしの渇きに潤いが与えられ
〝生きた心地〟になってみると、だんだん別の次元が見えてきたのだ

   それは、「宗教的な受難と救済のドラマ」を超えた世界だった

    癒やしの対象としての女性を渇望し、飢餓海峡を彷徨っていた私は
     「女性の十字架」 ・・・つまり生け贄を密かに欲求していた

     だからその飢餓が満たされる恋愛関係、肉体関係=性的快感は
        相手の犠牲に成り立っているかの様な罪悪感を
       自分自身に募らせてしまう
   と言う「罪の上塗り」を自分自身に犯していたのだ

   それも無意識の中では判っていた・・・  
     自分を罰するマゾヒズムは性衝動をも宗教的な倒錯に歪め
                 女性に対する過度な神格化を求めたのだ

   私が関わってきた女性は、だから性的な虐待を経験してきた人ばかりだった

    社会性を強要された男に、性的な虐待を受けた女・・・・  それが自然に引き合ったのだ

        そういうカラクリだったわけだ!

     この生命の慟哭を持ち寄った男と女の営みは、
      私の内面での男性=アニムスと女性=アニマとのファーストコンタクトでもあった




  そしていま、私との温もりを分かち合ってくれた女性達の微笑みを思い出して
  ・・・・・改めて私は思う

   本当に愛がある女性は、・・・・いや、「女性の愛」というものは、
          わたしが罪悪感から憶測していたもの、記憶していたものよりも
 
    ずっと気高く、逞しく、涼やかでおおらかなもの
        だったんじゃなかったのか?っと

 私は自分が抱えていたトラウマと罪悪感故に、
     いままであまりにも女性を
       腫れ物のように
        ガラス細工のように  見過ぎていたんじゃないだろうか?



   女性は男性から〝お姫様〟の様に扱われることを
     〝優しさ〟〝男性の理解力〟〝包容力〟と
         解釈しがちだし、それを喜ぶ傾向があるが・・・・  しかし

  ・・・・これは女性本来の愛が持つたくましさ、強さに対する、
                 むしろ侮辱でさえ有るかも知れない



  もう生け贄の様なセックス、傷をなめ合うような恋愛など要らないのだ
      もはや慰めや救済を渇望し合う愛から卒業し、
       男女がより本当の尊重を寄せ合った愛情を
            育むべき時代が来たのじゃないだろうか?







桑原大治
光透波と体のスピリチュアル


光透波基礎講座

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