We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年07月

津留晃一の世界:内部対立
「私が無限であるという事は、私は全てという事だ」


「独りで在ること」においてのみ、あなたは光明を得ることが出来る。

osho


今日訪ねてきた
「日本文明のルーツを研究してきた」友人と話していて、
やや右寄りの思想を持つ彼はこういった

「正神と邪神との霊界での闘いが
この現象界で実体化しているのです」

私はこの彼の発言に非常に引っかかるものを感じた

ナルホド確かにある視点から見るならそういった〝実体化〟を
私たちはあちこちで見かけるだろう・・・彼が言っているような

    「正神と邪神」

               が天界で大戦争しているような、

あるいは
「〝大銀河連邦の〟正義の宇宙人と悪の宇宙人との最終対決」が
存在するのではないか?と思わせるような状況はいくらでも見つかる


しかし、わたしたちはそういった大戦争、最終戦争(アルマゲドン)を
本当に目撃することがあるのだろうか?

いまわたしたちはウルトラマンとバルタン星人との闘いならば
youtubeですぐに再放送をいつでもオンデマンドで観ることが出来る

でも、正神と邪神との本当の闘いをリアルに目撃することがありえるだろうか?


  今日観たStarTrek TNGに以下の様な恐ろしいエピソードがあった
  スタートレックTNG 第51話「愛しき人の為に」詳細データ



          ハルマゲドンを目撃して、もし最後にあなたが生き残ったとしたら

                    あなたの罪と罰を裁くのはいったい誰だろうか?


あなたは自分の家族や自分の周囲の隣人が

一万人虐殺されるのを目撃するかも知れない


そして、あなたは

自分の内に秘めた偉大な力に気が付かずに

その虐殺してきた「悪い宇宙人」数百億人を種族ごと根絶やしにしてしまうかも知れない


・・・もしあなたひとりだけがこの広い宇宙に生き残ってしまったとしたら

   それこそがあなたが自分の本当の正体に覚醒する時かも知れない


バルタン星人と闘っていたのは、ウルトラマンじゃなかった・・・あなただった



でもたぶん、そう気が付いた時はもはや手遅れのような気がする

もはやその時は責任転嫁するべき「正神」も「邪神」もこの宇宙には存在しないだろうから


          ハルマゲドンを目撃して、もし最後にあなたが生き残ったとしたら

                    あなたの罪と罰を裁くのはいったい誰だろうか?


あなたは全てが死に絶えた世界で、すでに死んでしまったはずの老いた妻と

二人っきりでワルツを踊り続けるのだろうか?


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ある友人は「絶対善」という言葉をよく使っている
彼女がどういう意味合いで使っているか?明瞭ではないが
たぶん「相対としての〝悪〟が存在しない〝善〟」という意味なのではないだろうか?

であるとしても「Right=正しい、右」は必ず「Left=残されたもの、左」という概念の〝影〟を
落とすので、わたしは「絶対的な善」というものを信じる事は出来ない

p1f


でも絶対的な「肯定」、完全に内発的、自発的な「受容」ならあるとおもう
それが「エンライトメント」だ


なぜなら
私達はすでにトータルだからだ

もしあなたが「トータルであろう」と祈願するとしたならば
その祈願とは、努力とは、
「今自分はまだトータルではない」と自分に言い聞かせていることを意味する

たった小さな一点であれ、わたしたちは
自分の中に
        ・・・・・例えば疑問、たとえば嫌悪、たとえば悲しみ、痛み、疼き・・・・

・・・そういうものを
自分の内側に見いだし

   そういうものを
「切り落とそう」「置き去りにしよう」「コントロール(制圧)しよう」という
努力、奮闘、葛藤があると

              ・・・・・私達は決して全面的に生きることなど出来はしない

     ちょっぴり深爪しただけでも
        指先がひりひり痛んでいて  笑顔で居ることは難しいし
                           笑顔を作ったとしてもそれは見せかけだ

その深爪の痛さに向き合わなければいけない
そのニセモノの笑顔の「嘘っぱち」に醒めていなければいけない


 わたしたちは決してトータルになることなど出来ない

  トータルになろうとする程、その努力そのものが
  「あなたの自己信頼は嘘だ」「そんなフリをしているだけだ!」っと
  警告音を鳴らし続ける  ・・・あなたの耳をつんざき続ける

  そのウルサイ警告音をノイズとしてカットしようとしてはいけない
  とことんその自分自身の叫び、嘆き、悲しみと付き合ってあげるべきだ
                 悟り澄ました仏陀のマネをすることほど
                     無自己の達成から遠のくことはない

    自分自身への微妙な嘘  ・・・ホンの小さな指のさきっちょ程の自己欺瞞

            そんな小さなデリケートな嘘が、
                          大きな回り道になる
                           大きな時間のロスに結びつく

     決して十全に、トータルなろうとするな!

           あなたはすでにトータルなのだ!  

あなたの内なる小さな叫びは、嘆きは、疑惑は
   決してあなたがトータルであることを邪魔しているのじゃない
    あなたがすでに素晴らしいトータルな存在であることを
      思い出させようとしてくれているのだ!!

その囁きは
   だから 決して切り離しは出来ない、決して誤魔化すことも出来ない

それはノイズではなく、それは至福への誘(いざな)いなのだ
如何にあなたのなかを一瞬よぎった小さな感覚ですら、それは愛おしいあなた自身なのだ



自分の中のあらゆる感覚に対してでさえ
「大なるもの」も「小なるもの」もない  ・・・そこにランク付けなど無いのだ

それがトータルと言うことだ

だから自分自身の感覚=タッチへの
ありったけのシャープさ、ありったけの繊細(デリケート)さ、敏感さ、優しさ・・・

これらを何一つ誤魔化すことなく極限まで研ぎ澄ませたものだけが
自分の中にすでにずっとある宇宙の秩序=トータリティーを見つけ出すことが出来るのだ

 (すでに生まれた時から在る)「内なるトータリティー=全体性の発見」
                これ以外に私たちが自己信頼に達することなど可能だろうか?
                 これ以外の完全なる自己信頼など、いったいあるのだろうか?

はないち
 アメリカの研究でこんな実験がありました。


祈りとは
「かく在らんことを・・・」と言う想いであり

願いとは
「かく成らんことを・・・」と言う想いだ

「在る」と「成る」との違いが
「祈り」と「願い」の違いだと思う

・・・在り方を問うている点で祈りの方が願いよりも高度だと思う

在り方とは、こころの姿勢のことだけれど
成り方とはハウツーの問題だ

その点で病気などには祈りが効果的だというのは頷ける
・・・こころの在り方というのは癌などの病気には特に関係していると思うからだ

しかしどちらにせよ、
「今はまだそうではない」ことを意味しているし
「今はまだそうではない」ことを強調することになる

「すでにそうであるところ」に意識をフォーカスした時に
祈りや願い以上の強い実現性があると思う

だってすでに「そうであるもの」を強調することは
ずっと容易いからだ


・・・んなバカなことあるもんか!
   現にボクは、私は、いま、
   自分自身への否定感を克服できずに苦しんでいるし・・・

そんな反論が早速聞こえてきそうだ
しかし、それは本当に「自己が自己を否定している」のだろうか?

   なるほど、あなたのこころの中では
     あなた自身を罵る声があなたを苦しめているかも知れない

  しかしそれは本当にあなた自身の声なのだろうか?

   「 だ れ か 」 の声ではなかろうか?


内なる神でも仏性でも、悟性でも、真我でも、ハイヤーセルフでも・・・・
まあ、呼び方は何でも良いけれど、本当のあなた自身が
あなたを否定することなんて有り得るだろうか?

・・・私は疑問に思う

   確かに良心の呵責とか、その他のこころのブレーキというものは
   誰にもあるかも知れないが、内なる神、仏性というものは例えあなたが
   如何なる間違いを犯そうとしていても責めたり咎めたりはしないと思う



   ・・・・それが本当にこころから為したいことであるならば
      本当のこころがそれに逆らって「ノー!」を突きつけるとは思えない


   もしそんな事があるならばきっとその人は心の底から分裂しているのだろうけど・・・


確かに全てを 「やりたいようにやって」 いたならば 「困った」 事態になるかも知れない
それは世間的に見れば いわゆる 「失敗」 だとか 「犯罪」 かもしれない

             いや、それ以上に怖いのは、誰かを傷つけることだろう

でもそれをこころからやりたいことであったなら、あなたはそれを為しても
きっと後悔はしないだろう  ・・・「為さなかった後悔」 は有り得るが・・・・・

     誰かを傷つけ、自分勝手だと罵られるかも知れないが
      その非難も、こころから為したことならば甘んじて引き受けられるに違いない

   わたしたちは、
    心ならずもぶつかり合い、傷つけ合い、迷惑を掛け合いながら生きいくしかないのだ

では、こころからしたいことを責めたり制圧したり嘲ったり文句を垂れたり諦めさせようとする
「心の声」とはなんだろうか?

  たぶんそれは 「あなた自身」 を装った 「誰か」 だと思う

  両親か?兄弟か? 教師か? 世間体か? 心ない野次馬の罵声だったのか?

今はもうあなたの目の前には居なくてもあなたの心に巣喰って、
あたかもあなた自身の声であるかの様にあなたに文句を垂れ続ける声・・・

あるときはもっともらしく紳士的で、行儀良くあなたを説き伏せようとする

    「あなたに失敗させたくないから
     心配して警告して上げて言っているんだ!!」  という、

     まるであなたの母親の様な声・・・・

              ・・・これらは、「あなた自身」ではない

ただし、それらの声を「自分自身である」と選択してしまっている以上は
     あなたはそれを自分自身の声として聞き続けるだろう

      そして振り回される


でも、本当の自分自身の「こころの奥底からの」声ではない以上、
一見どれ程正当な、正しく聞こえる声であれ、あなたはこの声がもたらした結果に対して
きっと釈然としない結果になるだろう

  たとえお金儲けが出来ても 
   たとえ地位と名誉を得たとしても・・・

   でも実際の所、あなたが従った「心の声」がもし、他人からのウケウリであったのなら
   あなたはどんな素晴らしい結果でも、どんな悲惨な結果でも
   その結果を「自分自身のもの」として受け入れられないだろう・・・

    あなたは、〝借り物の声〟 が、もたらした結果に対して責任が取れない
    なぜなら その結果というのも 〝借り物〟だからだ

     きっとあなたは、人生にヘンな疲労感、虚脱感、虚無感を感じるだろう

      自分ではないものが、自分自身をコントロールすることを許してしまったからだ・・・

     あなたに「その声」を植え込んでいった当の本人達は
     もうあなたにそんな事を言ったことさえ忘れているかも知れない
     もうあなたの目の前には居ない人達かも知れない

      そうだ、彼らはあなたに「声」を植え込んで(インプラントして)いったかも知れないが
      たとえあなたがその声に忠誠を誓っても
      実際の所、
        かれらは、
              その「声」(助言)に責任を取ることなど出来はしないし
               その「声」(意見)の責任を取るつもりすらないだろう



      〝借り物の声〟 がどれ程の成功をあなたにもたらしても、それは失敗だ

     〝自らの正直な声〟 はどれ程の失敗と困難をもたらしても、それは成功だ

    なぜなら、それはあなたがちゃんと自分自身の人生を生きた証しだからだ


もし 「自己否定」 が存在しえるとしたならば、
それは  「自分で自分を分別良く〝誰かの意見〟で説得した」 と言うことなのだろう

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