We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年07月

これはD・カーネギーがその著作の中で紹介していた言葉だ
シャンタン氏の話によると
「OSHOは『カーネギーは駄目だ』といっていた」そうだ

私はなるべく人の言葉を〝ブランド〟ではみないように心がけている

ただ、個人の持てる時間は限られているから
〝ガチ〟なものを優先的に目を通していると言うだけで
その結果、OSHOやバシャールの言葉の引用が多いと言うだけだ

カーネギーは私の大嫌いなロックフェラーを称賛していたりもしているが故に
私はカーネギーの言葉には一時集中してみた

彼の様な〝成功哲学系〟は、おもに雑食型が多い
つまり、「何でも有効と思えるものは取り入れる」情報屋さんなので
OSHOが「駄目」といったカーネギーが、OSHOの言葉を引用しても
何の不思議もないのだ

何事も「ラベル、レッテルでものを見る」事こそが
まさしくOSHOが戒めるところではないのだろうか?

わたしは、ホームレスのオジサンや女子高校生が
大宇宙の真理を口にすることだってあると思っている


私たちはあまりにも沢山の〝前提(ラベル・レッテル、固定観念)〟に囲まれて
ガチガチに生きている

なぜなら現代社会は日々刻々と複雑になっているからだ

覚えなければいけないルールが沢山あるし、
積み重ねざるを得ない経験率が多い


のんびりとした見通しが良い田舎の一本道ならば、ドライブしていても
遠くまで安全を確認しながら運転出来る  ・・・しかしやや退屈なのだけれど

都会のゴミゴミとした道は一瞬の脇見が事故の原因になる
しかしそれだけ都会は良かれ悪しかれ刺激も多い・・・

・・・「良かれ悪しかれ」というのは、このスピード感のある都会の現代生活は、
神経をすり減らすものだけれど
この〝疲労〟は建設的、創造的方向にもなりえるし、破滅的にもなりえる

  それゆえに多くの人々は、〝チャンス〟を求めて都会へと向かうわけだ
   ・・・マインドは建設的、創造的方向にもなりえるし、破滅的にもなりえる

マインド無しにビルディングは建設出来ない
マインドが瞑想において〝邪魔者扱い〟されるのは
瞑想とはアーキテクト(建設者)とは正反対だからだ・・・
・・・それは自分の今ここにいる大地に直接触れることだからだ


わたしたちは葛藤に蝕まれている時だけ、マインドの虜になっている
マインドは破壊的に作用する・・・

    ・・・・カーネギーはそれを指摘しているのだ


では、葛藤はなぜ起こるかと言えば、
今この瞬間の自分と、過去や未来の自分との比較から起こる

    瞑想において「いまここ」が強調されるのはそれゆえだ

  わたしたちは、もはや遠い昔の田舎の一本道をドライブしているわけでもないのに
   「いままではどうだったか?」とか「これからどうなるんだろう?」という
   悩みに犯されてしまう

   そして、自分の現状を嘆く

今月上映されはじめた「ターミネーター・ジェネシス」でサラ・コナーは、
過去と未来との板挟みに遭って今この瞬間の判断に悩むシーンが多く出て来る

わたしたちは過去や未来のヴィジョンが鮮明であったなら、如何に便利だろうか?と
思うかも知れないが、実際は〝ガチな〟過去や未来のヴィジョンというのは
私たちをがんじがらめにしてしまうのだ


おおきな地震が多く、「火事と喧嘩は江戸の華」、諸行無常の観が強い
私たち日本人が、明日の戦場をも脇に置いて一服の茶を味わう
茶道や禅の文化を育み、〝一期一会のもてなしのこころ〟を
大切にしてきたのは偶然ではないとおもう

アメポチ統一教会の自民、創価公明は、
アメリカCIAの指導の下、何十年も掛けて「特亜の脅威」キャンペーンをやってきて、
いまその〝仕上げ〟にかかっているが、
もし明日、3.11クラスの巨大地震が東京を襲うと明確に判ったとしても、
わたしたちはこんな〝改憲議論〟やら〝新国立競技場議論〟やらに
かまけているだろうか?

明日東京が壊滅するのに安保議論???
たぶんそんなことよりも、誰もがこの24時間をどう過ごすかと考えるだろう

・・・私が言いたいのは議論のプライオリティー(重要度)のことではない

   未来で間違いなく言えることは唯ひとつ!
   個人にとっても社会にとっても、
   一寸先はすべての前提がひっくり返るかも知れない
と言うことだ・・・

   ・・・・その無常観のなかにこそ本当の日本人らしさが有ると言いたいのだ

   一寸先は闇・・・
  であるなら、
   一寸先を光で照らす以外に私たちに本質的に可能なことはないのだ

   ・・・そのことを忘却した瞬間から、
     わたしたちは葛藤の迷路の闇に彷徨うことになる

         ・・・「中国が攻めてくるかも?」という不安の虜になる

  わたしは「中国は攻めてこない」という予想や憶測、保証をしたいのではなく
  「そんな事を言うならば、すべてのすべては一瞬先も保証されていないよ」
  っと、いっているのだ


囲碁や将棋やチェスならば、何手先まで読めるかが勝負を決するが
実際の人生は、小さなゲーム盤とその中でのルールを遙かに超えた
複雑な要素が絡み合い、蠢いている

この地上というのも確かに〝小さなゲーム盤にすぎない〟ともいえるし
その上での〝新国立競技場建設〟も大切なプロジェクトだとは思うが
あくまでもそれらも私たちの人生にとって〝あさって〟のことだ

もはや田舎の一本道を走っているのではない以上、
私たちは〝あさって〟にこころを蝕まれている余裕など無い

もし次の瞬間、ゲーム盤がひっくり返されてしまうのなら

〝あさって〟のことで葛藤していた時間というのは
               如何に無駄だったのか?


               私たちは痛感させられることだろう

ゲームとはあくまでも
深刻に葛藤すべきものでも、
悲嘆すべきものでも無く
楽しむべきものだ

もしわたしたちが
深刻さに悲嘆し、虜になっていたなら、
きっとそれは大概、ゲーム盤という「過去や未来のマトリックス」に
目が釘付けになっている時だろうとおもう

あなたが10才の子供であったと仮定しよう

まだまだ義務教育も終わってない
社会人になるために学ぶ基礎的なことは沢山あるだろう・・・

    ・・・ではあなたは未完成な人生なのだろうか?


社会人(オトナ、成人)が完成品で、子供の人生は未完成なのだろうか?


ある意味ではそうだと言えるし、また社会的にはほとんどがそう見なされるし
また子供達もそう自覚して「早く大人になって自由になりたい」と思っている

  でもほんとうにそうなのだろうか?

あなたが大人に戻って、子供のあなたに訊かれたとする

  「ボクは大人になる為に急いで一杯勉強しなければいけないんだよね?」

  「大人になったら自由になれるんでしょ?」

  「人間は大人になって初めて完成なんだよね??」

  「大人になるってどんな素晴らしい気分?」

もし、あなたがいま幸福なのならば、

  「うん、大人になるって素晴らしいよ!毎日が楽しいよ!」

  「早く一杯勉強して大人になりなさい」

っと答えるだろう

  しかしこんな風に爽快に回答出来る大人達は何人いるだろう?

今の自分の人生を
     満たされたもの、
      完全な人生の開花だ
        と迷わず思える人は何人いるだろう?

大人達の大半もまた、
「いまここ」にリラックスすることは出来ず
「いつかどこか」に向かって
常に急き立てられ、競争し、
追い立てられ、焦っているんじゃないだろうか?

溢れる開花から友人関係、恋愛関係を持っているのだろうか?
それとも、何かの欠落感、不安感、焦燥感、退屈から
恋愛や仕事や趣味の出会い、仲間、パートナーを
年がら年中、募集中なのでは無いだろうか?

私たちは10才と5ヶ月13日目の人生を歩んでいる過去の子供の頃の自分に
何と報告するべきだろう?

  「わたしは未来のキミだよ!、キミのお父さんよりトシを喰ってしまった(笑)」

  「2015年を生きるいまのボクは大人になり、賢くなり、人生を開花させた、謳歌している」

  「さあ、急いで早く今のボクに成る為に頑張るんだ!」

そう言えるだろうか?


わたしはたぶん、子供の頃の自分と出会っても、自分の息子のようには見えないだろう

もちろん、その時の自分はまだまだ無知で、不器用で、苦しんでいるだろう

でも、そんな自分を子供扱いは出来ない、未完成品扱いは出来ない

いやむしろ、その過去の子供の頃の自分は父親の様に感じるかも知れない

そして、励ましながらも、内心感謝するだろう  ・・・幼い日の自分に

「よくぞ無事でいてくれた」「よくぞくじけずにいてくれた」っと

〝彼〟は今の私の通過点ではない、「踏み台」ではない、「手段」でも「未完成品」でもない

10才と5ヶ月13日目・・・完全な13日目を生きる人間なのだ

その時の自分は、その時の自分として独立した存在、そして完成した人間だと・・・
いまのわたしは思うのだ

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それと同時に、イメージ出来る・・・

もし将来への不安に怯える子供だった時の私に
今の私からの感謝と笑顔がもし伝わったのなら
きっと彼はとても勇気づけられることだろう

質問

OSHO、しかし結局のところ、生は悲惨ではないでしょうか?


それはあなた次第だ。

生そのものはひとつの真白なキャンバスだ。

それは何であれ、あなたがそこに描くものになる。



「スプーン曲げが出来る様になりました」っとウキウキしていた人がいた

「玄米正食という究極の食事法と出会いました」と電話してきた人がいた

「日本語の五十音の中に宇宙の真理を見いだした」と言う人がいた

誰もが、人生に何かのプラスになる事を探し続けている


真っ白なキャンパスのままではつまらない
だからいろいろな色彩と線で、
自分の人生を彩っているのだろう

でも、「知る」ことには常に責任が伴う
全くの単純な「良いだけ」のことなどない

何かを「知った」時、その周辺には無数の新たなる未知が広がる
一歩「知」に踏み出すと、そこには無量無辺の「無知」がある

基本的に「知る」こととは、人生を忙しくさせる
それは探索するべき事に無数の枝分かれ、選択肢を提供するからだ


 そこで疑問に思うことは、
  本当に「知る」ことが「知らない」ことよりも価値があるのか?
   ということだ


本当はソクラテスが言う「無知の知」に立ち止まった時に
人は幸福と安らぎを見いだすのじゃないだろうか?

この数ヶ月のあいだよく思うのはヘレンケラーのことだ
視覚や聴覚がなかった彼女より
私たちの方が本当に幸せなのだろうか?

もちろん、今の私たちは視覚や聴覚の恩恵を知ってしまっているが故に
もし視覚や聴覚を失えば狼狽えてしまうだろう、不幸に感じるだろう
それはそこに比較が存在するからだ


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私たちは知る事、何かを会得することに興奮を覚える
人生がまた一つ向上したと思って喜ぶ

・・・・でもそれは本当だろうか?

私は希望を失っています。

どうか助けてください、バガヴァン。




希望、理想、目的、信念がないと
わたしたちは虚無感に襲われる
わたしたちは常にどこかに向かって突進していきたいからだ

社会はいつも人々に活発でいて欲しいし
人には生きる為の原動力が必要だ

だから社会は
希望、理想、目的、信念、計画性を励行する・・・・
人々が常にこれらに突き動かされているならば
人が自分自身とは
誰か?何か?などという
ナンセンスな(究極の)疑問を持つことは
            ・・・・決して無い

希望、理想、目的、信念の中に生きる人々は
決して
沈黙、静寂、平和の中に留まっていることは出来ない

彼らはいつも内心ヘトヘトに疲れていて
      沈黙、静寂、平和、至福、愛を
          切望してはいる(つもり)だろうが

       でも実際にこれらと接すると
        途端に恐怖に取り憑かれてしまう

その時、
    希望、理想、目的、信念、・・・が

・・・その瞬間、消滅してしまっていることに気が付くからだ


だから、人生のゴールがどこかにあり、達成がいつか来て
「いつか、どこかで」待ち望んでいた
沈黙、静寂、平和、至福の中にくつろげるだろうと夢見つつ
でもそれが実際の所「いまここで」それらが起きることを恐れ、
                     そして逃亡してしまうのだ

「いまここ」を知らない人なんて居やしない
それは常に目の前にある

ところが
    「いまここ」、瞑想・・・・
     沈黙、静寂、平和、至福、愛、悟りというのが、

    何か神秘的な体験、特別なことだと思うことで
           私たちはいつも逃亡しているのだ


希望、理想、目的、信念、などを見失ってしまう時
        人は人生に失速感を感じ、
               疎外感、虚無感を感じる

自分は常に
何かに向かって
何かを身につけ
何かになろうと奮闘し、

それをもって「自分は生き生きと生きているのだ」と感じる・・・

・・・だからこれらの失速、欠落はとてつもない
虚脱感、無情さ、無気力さ、無価値感となる


この虚脱感から脱する為に
他人を批判し、社会を批判し、
そして究極的には
自分自身を否定する

絶え間ない葛藤の中に居る時だけ
私たちはその痛みの中で「生きている」ことを
実感できるのだ

   ・・・希望、理想、目的、信念が帰ってくる
              「過去と未来」を取り戻せる

静寂は、沈黙は、平和は、
決して追求し、探求して得られるものではない

それらに対して、私たちが出来ることは
ただただ、「待つ=招待する」ことだけだ

   ・・・希望、理想、目的、信念に逃げ戻ろうとするのでなく
     言語、論理、定義、常識、損得、善し悪しの価値観で
     自分を再び圧倒してしまおうとするのではなく・・・・

  これらの試みで、「静寂、沈黙、愛、平和、やすらぎ、至福」を
   捕まえることが出来た人がひとりでも居たなら知らせて欲しい


  他人を批判しなければ
  自動的に批判すべき自己もなくなる

  他人を評価しなければ
  他人からの評価も気にならなくなる

  他人と自分を比較しなければ、
  他人と自分との分離感も、自然と消えていくものなのだ

これって、
俺が今まで日本人として生まれて来て
今日まで見てきた日本人の実体そのものなんだけど・・・・

コロナイゼーションの進展としての
東京電力福島第一原子力発電所事故対応


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現代の日本社会で一番深刻化している病理は、
プライドとつまみ食いです。


プライドも、オモテに出ている実績や何らかの能力や所有物
についてのプライドであれば、そこには見るべきものがあります。
しかし実際には
プライドが高いのに、オモテではまるで謙虚であるかのように
ほとんど自虐的に振る舞い、
ウラで自分がつまみ食いできるパイの確保と拡大に徹底的に
こだわるようなプライドの高さが、次第に高じてしまっています。

オモテで流行している理屈や綺麗事には口先の賛意を示しますが、
こころの底ではあらゆる論理や徳目を軽蔑して憎悪しているかのようです。
合わせるふりをしてその精神を殺しています。

そして、本気になるのは、ウラで展開される寝技や腹芸で
自分たちの既得権を確保して拡大していく時です。

そのためには、オモテの名目には、それを見下していることを
周囲に知られないギリギリで、なるべく軽くだけかかわることが
よいと考えています。


***日本的ナルシシズム***


筆者も、そのような安全神話を共有していた日本人の中の一人でした。
このようなナルシシスティックなこころは、
現実が示す危険性の徴候よりも
自分たちが想像上で共有している内容を優先する

傾向が強くなります。

・・・・・・

これが病理的な水準に達すると、
「目立つおいしいところはきちんと立派に仕上げるが、
それ以外はなるべく手抜きをして、もし何かあれば
責任はだれかに押し付ける」
ということになります。
偽装が起こりやすくなりますし、
面倒なことには必死に関わらないで
逃げる姿勢を身につけるようになっていきます。



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