We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年06月

この数ヶ月、あるいはもう〝年〟の単位かも知れない・・・

  ・・・ずっと〝特定の価値観〟というものを信じない様にしてきた
     自分の中の「不可知論」を徹底させるためだ


その結果、特定の「良い」「悪い」という判断は殆ど自分の中に見かけなくなった
  それは確かにある種の自由であり統一でもあったけれど、
  同時に人生に対する情熱を失うという、ある種の無気力感は
  (もともと子供の頃から強かったが) ますます悪化してしまった・・・・


しかし、思いついてみれば、特定の価値観を持ち出さなくても
人は情熱の対象を見いだすことは出来る

たとえばピアノが上手く弾ける様になったなら楽しいだろう・・・
・・・それは必ずしも「ピアノのコンクールで優勝を狙う」 などといった
  〝動機〟 〝野心〟 〝価値体系〟 に振り回されていることを意味しない

人は人生を純粋に楽しむことが出来る・・・  そんなシンプルなことでさえ
思い出せないぐらい、わたしはこのところずっと頑なであった


またはじめから、  常に初心から、  人生をはじめれば良いのだ・・・・

何も積み上げる必要は無い 
たとえ積み上げていったとしても、 そこに強迫観念があるとは限らないじゃないか?

確かに人はピラミッドが積み上がりはじめると、得てしてそれに執着してしまうものだ

  でもそれは〝油断〟 しなければいいだけなのだ・・・・

・・・たしかに人は過去の積み重ねがあると、ついついそれに自己同一化を持ち込む
    でもそれにさえ気をつけるならば、

     「作り上げる」  のも 「積み上げる」  のも  「ぶちこわす」  のも自由自在だ

「私とは誰?」

・・・これ程馬鹿げた、ナンセンスな疑問はあるだろうか?

   試しにちょっと周囲の人々に訊いてみて欲しい

     「私って一体何なんでしょうね?」  ・・・っと


誰もがこんな質問を途端に振られたならある人は呆れ、即答するだろう

  「何言ってんのさ?今この瞬間も感じているだろう?」
       「オレはオレ、お前はオマエさ!」

またある人は怒り出すかも知れない

  「オマエ何かの変な宗教にでもかぶれてるのか?」

  「いいトシこいて、まだ〝自分探し〟なのかよ??  頭冷やせ!」

ある意味でこれらの返答は間違っていない

  「アイアム・ザッツ・アイアム=私は私」であり

  「自分探しなんてキリのない堂々巡りなのさ!そんななかで変な洗脳されたりするなよ?」


   しかしこれらの〝正解〟〝正論〟をどれだけその人達が奥深く咀嚼しているのかは
   また別の話だ

周りの人々は、当然の様に人間として生まれ、人間としての自覚=アイデンティティーで生きている

だからこの質問は無意味に見える・・・お互いに人間として生まれ、自分という主体と意思決定は
人間なのだという自覚   ・・・あまりにも明白すぎて疑問が挟まる余地がないのだ


ところが、「あまりにも明白な存在であるはずの〝主体者〟」を、私たちは指さすことが出来ない

オーケー、物体ではなく、具体的な「何か」ではなく「脳内の現象、反応」こそが〝主体者〟なのだ!

じゃあ、「他の誰でもない」「全くのオリジナルな、他の誰とも違う主体者、選択者、決定者である自分」

っと呼びうる〝自分オリジナルの反応、対応、決定〟を何か列挙してみよう・・・・

世界中から天才と称賛されたあなたオリジナルの作品、発明、・・・・
これぞあなただけの真骨頂と呼びうるライフワーク、マスターピース(代表作品)・・・・

 「自分は平凡な人間だからそんなものは無い、でも私はそう言えるべき非凡な人間が一杯居るし
いままでの歴史にも沢山居たことを知っている」  っと答えるかも知れない

では〝非凡〟な人のみが自分自身を持っていて、平凡な人達は持っていないのだろうか?

いや、たぶん誰もが「じぶんは他の誰とも違うユニークな主体者だ」っという自覚を持って
生きているに違いない  ・・・他人から認められるかどうか? 世間が称賛するかどうかは関係なく
「わたしはわたしだ」っと誰もが実感しているはずだ


   ・・・この強い確信を誰もが持っているはずなのに、ではなぜ「私は誰だ?」っという疑問が
     生じるのだろうか?  ・・・それは一時期の単なる中二病なのだろうか?


いや、そうではない・・・   わたしたちはこの肉体で瞬間瞬間に知覚し、感じている
〝わたし〟という主体の正体が、まるで分からないのだ!

わたしが〝誰か?〟〝何か?〟も分からなければ、それが確かに存在しているのかどうか?
さえわからないのだ・・・・

わたしたちにかろうじて宣言できることと言えば、

    「これらすべては、瞬間瞬間に起きてくること・・・・」

          「そして、消え去り、流れ去っていくこと・・・・」   たったこれだけなのだ

つまり、
  「分からない・・・」  それ故の質問なのに
  「何も分かっていなかった」 それが答えでもあったのだ・・・・



瞑想とはマインドの排除ではない
瞑想とは努力ではない
瞑想とは集中ではない

Q:あらゆるテクニックを超えて瞑想に入ることは可能ですか?

A:瞑想とはテクニックでもメソッドでも無い
唯一方法論を超えたときにだけ、瞑想は起きる


自分が無知であると知った瞬間、自我は消え失せる。

『反逆者は、空を飛ぶ鳥のようだ』


・・・・以上フェイスブックで見かけたOSHOの言葉の要約

参照:
「他人と仲良くすることを意識すると自分が薄まっていき
 自分と仲良くすることを意識すると自分が確立されていく」



「探求の終わり」にわかること やまがみてるお


「求める」ことは必要だった
でもそれは「求めること自体が如何に遠ざけてしまうのか?」理解しきるために必要だ

「求めることによって得たもの」それ自体が

  永遠では無い、
  普遍性がない、
  自分の中心からではない

    何よりの証拠なのだ

そのバカバカしいジレンマに気付くまで、口から泡を吹きぶっ倒れ、完全に降参するまで
堂々巡りは続く

   本当に瞑想が起きるのはそれからだ



なぜわたしたちは「信じられるもの」をいつも探しているのだろう?

   ・・・たぶんそれは自己の持続と発展、向上のためだろう


これは天国への梯子にたとえられる
それはずっとずっと、天界まで続いている

きっとそこでは神や仏が慈悲深い微笑みを浮かべて待っているに違いない
殆どの宗教や、殆どの信念体系とは、この〝天国への階段〟・・・蜘蛛の糸だ

この階段を私たちが手放すことは決して無い・・・  それは絶対的な絶望を意味するからだ

誰が好きこのんで絶対的な絶望を望むだろうか?
目の前に天国への階段があるというのに???

私たちは「愛」という言葉が大好きだ、「奉仕、慈悲、隣人愛」という言葉に畏敬の念を払う
それらが地上にあまねく行き渡ることによって地上の天国が実現出来ると信じているし
そう努力している人達に対して私も何の反論もないし、頭が下がる


  でも反面、そうしない、そうできない、また関心も薄い私は、
  これらの社会の〝暖かさと努力〟に対して負い目を感じてしまう

   だからこれらの〝愛に溢れた人々〟と、距離を保たざるを得ない
   でないと、わたしは天使のような人々に踏みつぶされてしまいそうだからだ

わたしはOSHOが言う様な反逆者には成りたいわけではないが
ただ単に、人々の「生暖かい視線」が耐えられないだけなのだ

わたしには天国への階段の、その先が本当に天国なのか?疑問を持っている
だから、もう私に箱の階段を上がる体力は全く残っていないのだ

この階段から手を離したら一体どうなるのだろう?

多分私はたったひとりで奈落の底まで墜ちて行くに違いない
そうだ、私は夢の中で何度も奈落の底へ何処までも落下していく夢を
すでになんども、なんども見ている

・・・でもそれでこの苦しみが終わるならいいのじゃないだろうか?

   私の魂が輪廻転生でどれぐらい努力し、何メートルぐらいこの階段を這い上がったのか?
   それらの努力は全部無駄になるどころか? むしろその〝高さ〟こそが、私を地面に
   叩きつける衝撃として帰ってくるだろう・・・

   何とも理不尽なことだけれど、それ以外にこの無限につづく階段をよじ登り続ける苦痛を
   終わらせることは不可能に思う

   母はわたしをアウトローと罵った、これは多分OSHOがいうところの反逆者という意味だろう
   別になりたくて成ったわけではない
   それどころがあらゆる「成りたい」を拒否しただけなのだ

   けっして積極的な自殺ではないはずだが、人はそれを自殺だというかも知れない
   あらゆるはしごを拒絶して落下していくのは確かに心細いし、孤独だし
   人から見て自殺行為に見えることもよく判る

   でも私はただ疲れただけなのだ
   もう生き残る為の努力に疲れただけなのだ



「愛」という言葉はある意味最強である

・・・・そこのけ、そこのけ、「愛」のお通りだ!

私たちはそのために他人を抑圧することさえするし
自己否定の理由にさえする

「ああ、自分には何て愛がないのだろう!」

これらの状況は皆
「自分は愛という偉大な何かを知っている」
っという前提がある
だから私は基本、愛という言葉をむやみと前提にして吹聴する輩を
にわかには信じない


動物たちの世界に目を転じれば、彼らには愛という言葉は知らなくても
その一糸まとわない赤裸な営みは、もちろんあるときは残酷で慈悲のかけらもないが
その飾り気の無い姿自体が真の愛らしさを見せてくれる

   かれらには「愛とは何か?」という問いかけも概念もないだろうが
   かれらの生きる姿は、問いかけ、概念化している人間よりも遙かに
   愛について真実を表現している様に思える

「愛」という言語化は、「愛のない状態」を連想させる

それはわたしに
「愛とは何か分からない」「私には愛とは何か解らない」「私には愛される資格がない」という
苦しみを与えた

            ・・・・でも本当にそうなのだろうか?

なぜ、「愛とは何か知らない」はずの動物たちがあれ程にも愛らしく
常に愛を探求しているはずの人間は醜いのだろう?

彼ら動物たちは、なによりもあるがままを生きている・・・そこにそのヒントがあるに違いない
かれらは「愛を実践しよう」などという思惟はない  ・・・たぶん微塵もない

かれらにはモーセの十戒もないし、イエスの言葉も知らないが、彼らは皆
「野のユリ」「空を飛ぶ鳥」そのものだ

つまり私たち人間は「愛を実践しよう」とするまずその第一歩から転落しているのだと思う

わたしたちは“実践者”であるまえに、そもそも「愛を知っているの」のだろうか?

動物たちはまず、自然が与えているすべてを受け入れている、素直に受け止めている
「真心で受け入れる」と書いて“愛”なのにもかかわらず、果たして私たちは
そもそも全てを真心で受け止めているのだろうか?

わたしたちはまず、愛の実践者になろうとする前に、
自分自身の人生を愛しているのだろうか? 真心で受けとめているのだろうか?

・・・そうでなければ、到底「愛を知っている」とも言えない
   わたしたちは「知らない」ことを実践しようとしたとき、
   代用品として信念体系、代用品として強迫観念で行動しはじめる

   ・・・結果、自他を苦しめているのじゃないだろうか?


   わたしたちはまずは、愛について、いきなり実践者であろうと焦る前に
   日の光を受け止める葉っぱの様なレセプター(受容体)であることに
   徹するべきじゃないだろうか?



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