We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年06月



私たちは常に何かを付け足そうとあがいている
何かを失うのは嫌で、何かを得ることが正義であった

何を人生に残せるか?が重要で
失うこと、忘れ去ることとは不幸なことだという思い込みに
私たちは囚われてきてはいないだろうか?



マルコムXの〝X〟とは「私は誰だ?」という問いかけのエックスだ

つまりこのXにはあらゆるモノが代入しえる
記号か?物体か?人間としてであるならば
ステータスか? ・・・結局の所、このXに何を代入しても
「代入し得るものは全て」 私ではない
    ・・・そんなジレンマに陥るのが〝自己探求〟という永遠の迷宮だ

「指させるモノとは即ち自分じゃない」という当たり前な結論に至るなら
それは「無とは何か?」という探求とソックリであることに気が付くだろう

そこで次は「無とは何か?」を探求してみると、これもまた
「指さしたものはすべて〝無〟ではない」という
これまた至極当然の結論に達する

・・・指さした先に何かが存在すればそれは無ではないからだ

   しかしだからといって何も無い空間を指さして
  「これこそが無だ!」と言えるかというとそれは違う
 ・・・そこには空間の座標が存在するからだ!

何も無いところをどれほど探して、指さそうとしても
そこには空間の座標が存在しえる・・・

もちろん肉眼では見えないかも知れないが

「ここ」 「そこ」 「あれ」 「あそこ」  っと指さしまくったにしても
どうしても私たちの脳においては、空間の座標から逃れ得ることだけは不可能だ

この時私たちは初めて自分の指先をまじまじと見つめることになるだろう

今日、この空間座標から逃れる方法をとうとう思いついた!!!!!


・・・つまりこの 「探求する自分の指先を降ろす」 ことなのだ

両手をだらりと下げて、どこに焦点を合わせることもなく
私は呟く・・・・「これはなんだ?」

そのときわたしは〝無〟を発見できた


つまり、自分自身が〝無〟になってこそ、
初めて私たちは〝無とは何か?〟知りえるのだ

映画「WALL・E」の一部

ikinokori

この800年後の人類の方舟「アクシオン」の
すっかりピザデブになってしまった艦長は
オートパイロットの「オート」によって地球への帰還を阻害される

オートは艦長を思い留めさせようとこう言う
「このまま宇宙にいれば
私たちは生き延びられます」

それに対して艦長は叫ぶ

「生き残りたいんじゃない!生きたいんだ!!」

でもこの映画の言わんとするのは遠い未来の話しではなく、
まさしく「いまここ」の人類のさしかかった大峠の話しだ

  「与えられ、飼育された快適さ」で700年間宇宙を彷徨って生き延びた人類が
  さらに何百年生き延びれば良いというのだろうか?

   生きるという事への満足に、あと何百年必要なのだろうか?

    ・・・いやもちろん、むしろそのような満足感からは彼らは遠のいていることが
      この映画を観たなら誰にでも分かるだろう


宗教が起きた、国家が成立し、政治が起きた ・・・資本主義、共産主義がおきた

日本の神道には大きく分けて二つの流れがある

  ・・・伊勢系と出雲系だ

伊勢系とは今までの国家神道だ  それは経済と物質社会を発展させてくるのには
好都合であった  それは「威勢が良」かったのだ・・・  これが人のつくりしものだ

アマテラスの下に天皇家があり、その下に将軍が居て幕府があった、いまなら国会がある

上意下達のピラミット構造は、「ひとしくみ=仕組まれた民主主義」を高層化するのには役立った
たぶんこの究極の姿が「アクシオン」かもしれない

伊勢系の神道はすべてが「お家の存続」にあった・・・それが個々人の目的であり
つまり個々人というのは〝手段〟〝道具〟に過ぎず、実際それは〝個人〟とは言えなかった


「お家、(つまりシステム)の存続」 は、常に人々に名誉のハラキリや神風特攻隊を要求する
そして、そうすれば「家は生き残れる」わけだ

この価値観は根強いし、また事実今までの時代においては必要だったと言える
現在の平和憲法の解釈や改憲の議論とは、まさにこの点が争点であるように思える

…単に法的な解釈としてどうか?というのではなく

   「(システムが)生き残るか?」 「(個々人が)生きるのか?」ということなのだ

  実話として、あるロッククライマーが岩に腕を挟まれ、生き残るために自分の登山ナイフで
  自分の腕を切り落として生き延びたというニュースをどこかで読んだ

  「私だったらどうするだろうか?」一昨日はそのことばっかり考えていた・・・

  「生き残るため」に「腕を切り離す」ということを誰が間違いだと言えるだろうか?
  確かに腕も大切だが、いのちあってのモノダネである

   ものごとにプライオリティー=優先順位を付けるというのはビジネスでも政治でも
   私たちの日常生活でも非常に重要なことだ

    しかし、「ものごとはそんなに単純に割り切れるものではない」というのもまた真実だ

     いまの「お金」が圧倒的な価値観の基準となる世界では、ナルホド確かに
     すべては数値化(金銭的換算)が可能かも知れない

      ・・・しかし、この「キッパリした世界」が環境破壊を生んだのは間違いないと思う

      伊勢系の発想は、いままでは有用だったが、いまは人類に自滅の道を歩ませている

       つまりこの「ピラミット的価値観の世界」は、もう限界なのだ

      「生き残る」という努力と執念それ自体が自爆装置に変化してしまっているのだ!!!

  それに取って代わるのが出雲系であるという風にシャンタン氏の話しを私は理解した
  つまり、日月神示などのいう「神仕組み」とは伊勢系から出雲系への交代劇であるというわけだ

これは私としてはなかなか説得力がある話しに聞こえる

仏教伝来とは何だったのか?

伊勢系の家系の友人が
「日本には本当は仏教なんか必要なかったんだ」と
言っていたのが気にかかってくる

平将門の怨霊を奉るという形で300年の太平の世を開いた徳川幕府は
ある意味で「出雲系(=縄文?)」をなだめる形で和合した「伊勢系(=弥生?)」の
幕府政権時代だったと言える

ユダヤの世界覇権、植民地政策によって開国させられ、大政奉還した日本は
伊勢系一色となり、富国強兵政策を進めるに先立って廃仏毀釈が起きたことも
近代史にいくつもの墨塗がある現代の私たちにはそれで理解可能になってくる

・・・この時、日本は仏教とも、仏教の発祥の地、インドとも縁が薄まったのだ

・・・それに変わって世界征服に暗躍するユダヤのシンジケートとの縁が強まっていく


  OSHOやバガヴァンのもたらしてくれたエンライトメントやワンネスへの発想は
  伊勢系の神道の発想とは相容れない訳なのだ

   「生き残る=伊勢系」と「生きる=出雲、インド系」との発想は正反対でありながらも
   双方に理があり、義が存在する・・・・  単純に「どちらが正しい」と一刀両断することは難しい


しかし結局の所、“流れ” は
「地球・テラへの帰還」つまり出雲系にあるのじゃないかとわたしは思う







昨日ある友人と電話で話していて、こんな話題になった

  「結局の所、
    本人が自発的に興味をもったものを優先的に追っていくのが
    やっぱり一番成長が早いんだろうねぇ~~~」


今朝ふと思ったことだけれど

人に葛藤がある時というのは、つまり〝ブレている時〟だ・・・
・・・そういうふうに表現し治せるかも知れない・・・

この〝ブレ〟とは、右や左にぶれていたり
前や後ろ、上や下にぶれているときだと思う

過去と未来という「時間軸」でのブレも、その典型かも知れない・・・・




このところ、この「膨らみがある世界=三次元空間」とはなにか?をずっと考えていた・・・
ヒッグス粒子によって解明できたと一時期騒がれていたが、、では空間の最小単位としての
〝粒子〟がどの様なものなのかという私にも解る説明を見かけたタメシがない

「世界は全てが波動である」と多くの人が行っているが、波動=フリークエンスとはつまりは
ブレのことなのだから、これこそが空間の膨らみの源泉なのではないだろうか?

・・・だとしたら世界は人間のマインドの葛藤によって生成しているのだろうか?

少なくとも「いまここ」にピシャリと留まっている時とは「葛藤の消えている瞬間」だろう

そういう状態の時とは静まりかえった純粋意識のみの状態で、目の前に空間はあっても
空間が提示する分離感も、欲望の選択肢も消えていることだろう


  「静止している」 とは、物理的にジッとしているという意味ではなく
  つまり、
    「葛藤が無い状態」「強迫観念が無い状態」
     「あるがままに、ただただ流れている状態」 のことだ

・・・その時、人は〝溺れて〟いない

   鈍感さとはリラックスのように見えるがそうではない
   鈍感さとは自分の中に微妙な「溺れた状態」があるのに気が付かない状態だ


自分の中のアップアップしている必死のあがきに、自分自身が気が付いていない・・・
・・・いや、
かつてはその辛さで、もがきくるしんでいた自覚があったけれど
社会の中に対応しようとする中で、半ば無意識に自ら〝封印〟して、
鍵を掛けてしまった・・・・・・切り捨ててしまった部分がある
                           と言うことではないだろうか?

   わたしたちはそれを、「大人になること」と呼んで正当化してきた

   でもそれは消えてなくなったのではなく、私たちの体内で腐敗し、癌化してしまう・・・

    その「臭いモノ」の封印を解いて、白日の下にさらすのには、
    ありったけの勇気と繊細さが必要なのじゃ無いか?と思う

    ・・・しかしこの〝手術〟〝浄化〟こそが瞑想やヒーリングなのだろうと思う

ただあるがまま、自分でいるために私たちはありったけの努力が必要だ
・・・無意識にしている「溺れるようなあがき」=「強迫観念」に気付くための努力だ


私たちはそれまでは「何か」に指を指す

「そこに何か」がある感覚というのは、つまりは緊張、つまりは違和感だ

              ・・・この空間のどこかを「指さす指」が消滅した時こそ、
                OSHOがいう「究極の死=光明」なのかもしれない

中村天風「心に成功の炎を」001

001は簡単に言ってしまうなら

「せっかくの一回こっきりの人生なのだから
 可能な限りのでっかい欲を持て」

っとまとめられる
そして心身一如について最後に触れる

昨日の「タガ外し大学」では
生命体の発生原理を追求していた川田薫氏は
ある日、デッカク書いた「生命体」と言う文字が
「生体」と「生命」とに分離して見えたのだという・・・
これはすこぶる霊感的なヴィジョンだなとおもった

  この世界には水やミネラル(鉱物)なら山程有る

   また霊(ゼロ)の世界は、もともと無限である

    そしてこの私たちのふる里、地球には
     この両者が結合した、多種多様な生命体も溢れている

ただし
圧倒的にこの世界に
     不足しているのが、

   ーーーゾルバ・ザ・ブッダーーー  なのだ

私たちは生命体である以上は、
ある意味ではすでに
「ゾルバ・ザ・ブッダ」なのだが、
心身の、
つまり「生体」と「生命」との単に中間で
(餓えや凍えや生存競争で)
 かろうじて

結びついている=サバイバルしている   に過ぎない

これを中村天風氏の言う様に
「可能な限りデッカクする」
ことによって
私たちは天と地を結ぶ架け橋となるだろう

これこそがOSHOの指さした
「ゾルバ・ザ・ブッダ」の世界なのではないだろうか?


OSHO_ I Am a Spiritual Playboy 投稿者 maneel-katal

何処か遠い宇宙の果てに人間よりも遙かに高度な知性が存在していたとしても
私たちはそれを知らなければ、彼を神として崇めることはしないだろう
いや、出来ないだろう   ・・・「知らない」のだから出来ようがない

   【この世は、人間に観測(認識)されるまで存在しない】

自分と深い関わり合いがあり、そのことを私たち自身が認識した際にのみ
わたしたちは「それ」に感謝したり崇めたりすることが可能になる


地球の大気や水が私たちの肉体と切っても切れない深い関係があることは
私たちは知っている・・・・

   ・・・もしその事実を強く意識するならば、私たちは地球の空気や水の
    自然な浄化システムに感謝せざるを得ないし、その神格化した神の名を
   「ガイヤ」と呼んでいる

世界には八百万の神が居る

   でもそれらのどれ一柱として、わたしたちの人生と無関係な神であるならば
  その神は単なる「登録上の神」に過ぎない

自我を投影できるもののみが、つまりは私たちが神として「ご指名可能な存在」なのだ

ここで気がつくべきなのは、神とはそもそも自我の投影だと言うことだ
本当には私たちがあずかり知らない偉大な存在がこの世界を支えてくれているのだろうが
私たちはその神に感謝や祈りを捧げたくても、その存在に気付いてさえいないのならば
その捧げられた感謝や祈りは的を射ることはないだろう


私たちは「神:カミ」という「鏡:カガミ」を通して、本当は自分自身を拝んでいる

   「自分という存在を支えてくれ、恵み深いから・・・」   こその〝かみ〟なのだ

あずかり知らぬ宇宙の彼方に、自分と無関係にポッツリと存在する神を、どうして
私たちは礼拝できる?

あなたが恋をしているならば、その憧れの彼、彼女があなたをどの様に見るかが
この宇宙の最重大事だろう  恋をしているあなたにとって憧れの彼、彼女は神だ

あなたが異性にモテたいのが最重大事ならば、異性に好評だと思える自分になる事が
最大の関心事だろう  その時、ボディービルやダイエットは「神への献身と祈りと奉仕」である

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  ・・・でも特定の憧れの人であるにせよ、不特定の異性であるにせよ
    その様な人達が、実際はどんな人達なのかをあなたは本当に関心があるのだろうか?

それら異性にとってチャーミングである自分
             ・・・本当は関心があるのではないだろうか?

サル慢「男女の発情」2



あなたと全く無関係なところで、愛する人が幸せかも知れないし、不幸に陥ってるかも知れないが
それに対してあなたが一喜一憂するのはまた別のことであり、例え愛する人であれ、その人が
どの様な運命にあったにせよそれはその人自身の人生として尊重せざるを得ない

重大なのは
愛する対象に対して、自分自身はベストを尽くしたのか?と言うことが全てだ

「トリック」の上田教授7


日常の細々したことであれ、あなたが関心を注いでいる対象は、大げさに言えば「神」だ

あなたは、その「関心を注いでいる対象」を通して、本当はあなたは自分自身を見つめている
つまりあなたが関心の対象を移行させたら、その移行させた対象をとおして、本当は
あなたはあなた自身を見つめている   ・・・表通りを歩くときの交通信号でさえそうだ

赤信号があなたに「止まりなさい」と告げている・・・だからあなたは止まる
   ・・・あなたと無関係な信号をあなたはロクに見もしないだろう

   街角には多くの広告が話しかけてくるが、あなたが目を止めるのは
   あなたの人生に影響を与えるかも知れないものばかりだろう

私たちはひとり部屋の中にいても、街角を歩いていても、常に「自分を映す鏡」を探しているのだ

では、瞑想で目を閉じて、これらの鏡探しをすべてシャットアウトしたとしたら何が起きるのか?

      ・・・・あなたは、鏡を通さずに自分自身と向かい合うことになる
       ・・・・もはや煩雑な関心の移行は存在しない
           「鏡」という反射無しに、迂回無しに、わたしたちは自分自身に向かい合う

             あらゆる過去の記憶とその蓄積、過程、功罪も、「かがみ」に過ぎない


     そのとき私たちは
      あらゆる 「自己投影という宗教」 を失う、 神を、 権威付けを、 確証を  失う
               混乱は知性のある人しか覚えないものだ

     ・・・・これらはすべて自己確証を得るための旅だった


          虚妄が排除されると同時に、 自動的に真実が露わになる


           これらの「探求の旅で得た確証」は、
            自分で求め、自分で得たものに過ぎなかったと・・・・

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