We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年05月

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OSHOは「片寄りが無いことに囚われるな」といった

osho

生は極端の集まりで構成されている


でもそれは、

「右と左との中間であることに気を取られるな」

と言っているのだと思う

それは「右や左に気を取られること」でもあるからだ


OSHOは儒教的な〝大人(たいじん)〟だとか、聖人君子を

養成することには興味が無い人だった


っというよりも彼のゾルバ・ザ・ブッダ・イズムはむしろその逆だろう

彼はむしろ、型破りでハッチャケたゾルバのような生き方を

人々に提案していた




  いわゆる「シャンタンのファン達」は必ずしも

   イコール「OSHOの人達(サニヤシン)」では無いので

    儒教的なニッポンジンも結構居る


「働かざるもの食うべからず」という価値観


右や左や、前後ろを気遣い、常にバランスが良いことを気遣う

スタイリッシュで、まじめで優しく善良で、ニートやヒキコモリを

常に非難している良識的な「オトナ達」は多い


  実際の処、中華思想の「真ん中」とは儒教的なバランスのことのように思える

  その点で日本もまた「中華思想」の濃い国民性だと思う


個人は常に肩をすぼめて「縮こまっていることを良しとする」のが日本のオトナだ
だから、常に自分の居場所は厳密に決まっている

「奉仕が絶対善」の社畜バンザイ社会だ

だからヒキコモリやニートとはまさしく日本社会が生みだした反作用だ

みぎ、まえ、ひだりから小突き回されれば、もう後ずさりするか?
自殺して消え去る以外にどうすれば良い?


  この感覚に関しては、人一倍身体が大きいわたしは、
  やはり大柄だった父と同じく、子供の頃から痛感していたことだった

そこに存在するだけで物理的に目立ってしまう人間にとっては
日本の小柄な同質社会とは決して居心地が良い場所では無い

周囲は称賛と善望のつもりで私を見上げていても本人にとっては
針のむしろなのが、「突出していることがハンディーキャップ」である
日本の社会なのだ

極端な話、
「ガリバー旅行記」の主人公になったのだとイメージしてみれば分かる

身体の大きな私にとって精神世界や瞑想の世界でのキーワード
「いまここ」というのが、物理的な「いまここ」のことでは無いのは
明かだった  ・・・そこには全く安らぎなど無かったからだ

中華思想的な「まんなか」とは物理的な比較の上での
妥協的な位置関係にすぎない・・・「そんなものに囚われるな」と
OSHOは言ってるのだと思う

「いまここ」、「中心=センター」、「アローンネス」・・・  皆同じだ
物理的な、社会的な相対位置を言ってるのじゃ無い
だから、
ダンスのような激しいアクションの中にあっても
子供が叫んでいても、カッコウが謳っていても
セックスの営みの中にあっても
それが自然な営みならば、それは「いまここ」なのだ

その外側の「いつかどこか」「比較と憶測の世界」は
すべて奈落の底だ、断崖絶壁だ

途端に「死の恐怖」があなたや私に取り憑く
他人の視線が、あなtをはみ出し者、アウトロー(無法者)として
あなたを縛り首にしたいと睨みつける・・・

なぜならば、社会秩序を乱すことなく、社会に奉仕し、有用で、常識的で
よい子であろうと誰もが遠慮して生きているからだ

そういう意味では誰もがマッターホルンの尾根を歩いている

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内側に、向きを変えることは、
向きを変えることでは、まったくない。

 「働かざるもの食うべからず」という価値観


高校生時代、
すでに団体行動への嫌悪感にかなり病的に取り憑かれていたわたしは
修学旅行もボイコットして高校の図書館に入り浸っていた

その時には、倫理の授業で習ったキルケゴールの実存主義
興味があった

全世界の人が口を揃えて「真実」として肯定したものでも、疑いえるのが
「わたし」というかけがえのない存在で、その中心は
「体積は限りなくゼロ、質量は無限大」なのではないか?

つまり、わたしにとって実存主義というのはブラックホールのような
自意識の指摘だった
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これはいま、OSHOがいう「アローンネス」とも私には同一に見える

誰からの同意も共感も、
(得られたにせよそこには)意味が無かった
そういう芸術家的な視点は岡本太郎の炎の言葉に勇気づけられた

〝そと〟の世界は
どこまで行っても比較と相対と不確定さだけが荒れ狂っていた
もちろん、日常的なのんびりした視点で見れば退屈さを感じるほど
安定し、絶対的に見えるが、それは私には映画「マトリックス」の主人公のような
「何かがオカシイ、気が狂いそうだ」という風にも感じられた

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DVD>内なる存在への旅ボーディダルマ2 [ オショー・ラジニーシ ]

シッダルータと同じく一国の王の王子として生まれたボーディーダルマは
王である父に出家を願い出た時にこういったそうだ・・・・

「父よ、私を死の運命から救い出して下さるならば出家は思いとどまります」
「しかしそれが無理ならば、どうか私を行かせて下さい」

・・・何と率直で痛烈で、切実な願いだろうか?

彼はすでに「外の世界には死なないものなどない」事を見抜いていた
だから内側の旅に向かおうとしたのだった



世界中でどんな議論がされていても関係ない
すべてが「死にゆくもの」「流れ去り、崩れ去っていくもの」を土台に
構築されているからだ

それらは比較し、評価し、査定しえる・・・・
それが唯一不可能なのが「内面の意識」だ

「私こそ神だ」「これこそ絶対だ」
と主張するものはいままでもあったし、これからもあるだろう

でも、それがウソか?本当か?を、
もはや信じる気にも疑う気にも、査定する気にさえならない

そこに居るのがホンモノの神だろうが絶対の世界だろうが
自分の外側に有るものは、失いうるものなのだ

だから、「外側にある」と言うこと自体が「私にとっては」相対なのだ

「ひとたび中心に辿り着いてしまったなら、後のことはどうでも良くなる」By OSHO

人類のマインド

シャンタンは繰り返しこの投稿を再録しているけれど

この記事はそれほどまでに難しい

映画「ターミネーター2」では
殺人ロボットとして設計されたシュワチャンことT800は
ジョン・コナーにガードマンとして改造され、人間について
学習するうちに生命の尊厳と愛について理解するようになる


t800

反面、救世主であるジョンコナーの母であるサラコナーは
その役割の大きさ故にこころを“鬼”にしてゆく
つまり、自らを殺人ロボット=鋼鉄のこころの聖母マリアへと
変えてゆく

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このふたりが物語の終わりには心が交差し、握手する

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「(種族として)生き残る」という執念が人類的なマインドだと思う

ところが、それは「人類の一個体としてのわたし」が
ロボットであることを要求してくる・・・


     2015年05月16日 三遍回ってワンッ!と言え!!

     

     2015年04月23日 生命の究極目標

つまり

「人類全体に目に見える奉仕が出来ないならば死ね」
っというのが、自己否定だ

これは非常に、
非常~ぉ~に、根深い

特に「大義の為のハラキリ」や「天皇陛下万歳」民族である
  私たち日本人はニートのような若者を冷淡に見る・・・・

わたしたちは皆、“有用な自分”に確信が持てないと
自爆装置が作動するようにプログラムされているのだ

この「自爆プログラム」の解除には瞑想が必要だ

なぜなら瞑想こそが、
「何かの役に立つ、ご奉仕する」
いつかどこか誰かの為に
いまここを犠牲にする」という
人類的なマインドの愚かさを見抜けるからだ

あなたは全人類とその信念体系と価値観を
客観視し、....  ひとり立つことが出来るだろうか?

たしかフェイスブックの投稿でもそんな事が流れていた

「子供はお母さんの幸福のために産まれてくる・・・」

なんという残酷な話だろうか?

わたしは父のために
いつも「自分のオリジナルな何か?」を打ち出すことに取り憑かれ続けた

わたしは母のために
いつも「絶対的な安心と静寂」への渇望に取り憑かれていた

この両親から引き継いだ2種類の強迫観念だけで
今日まで生きてきた

   ・・・これらは私への両親の無意識の〝期待〟が変形したものだった

   あくまでも〝変形した期待〟だから、
   わたしがある意味で期待にこたえようと死に物狂いであったことを
   両親はサッパリ分からすわたしを罵り続けていたし、そして何と!
   当のわたし自身も自覚していなかったのだ!!

   だから、「自分に素直な人生」とは何かが全く見えなかったのだ

  たぶん、私以外にも多くの「人の子たち」が、自分を犠牲にして
  両親の期待にこたえようとして生きている

  しかもその自覚さえ無しで!!!

  これが悲劇じゃなくてなんだろうか?

   新しい時代の魂が、古い魂の無意識の願望に踏みつけにされて
   生きて居るだなんて!!!

  だからこの国は、「お家主義」という巨人に皆が踏んづけられて生きているのだ
  だからこの国は、老人大国なのだ! 既得権者のための世界なのだ!

この国では若者達が皆、いまでも老人達のためにカミカゼ特攻隊にされている
果たしてそんなに若い世代の生き血ばかりを欲する世界に、存続すべき
文化だの歴史的価値だのがあるんだろうか?

「子はかすがい」だなんていうのはウソだ

潜在意識のレベルでは発展途上国と同じように、
延々と子供達が大人達に鞭打たれてコキ使われているのが日本だ

親は子に常にブツブツ小言を言い、ネチネチといびりながら
自分たちの古い幸福観念(実体は劣等感と欠落感)を植え付けようとしている

これからますます莫大なお金が老人介護に回るだろう
しかし、「お金」という代償で、古い世代への敬意と愛情の代役を
ヘルパーにさせようとしても、どんどん歪みは大きくなるだけだろう

介護「する」側も、「される」側も、誰もシアワセには成れない・・・・

本来お金で買えないものを換金しようとした、鈍感な世代に与えられる罰だ

自分たちの親を見捨ててきた世代が、私たちを「親不孝者!」と罵ったからと言って
私たちは罪悪感を保つべきだろうか?

本当に愛すべき親というものなら、子供達は幸福になっているはずだし
幸福の鍵を与えてくれた親を、子供というのは奪い合って喜んで世話をするものだ

そういう子育てをしてこなかった者だけが、最後はお金だけが頼りの
老後を迎える

彼らの計画はこうだ

最後には子供達から介護資金を出させそのカネでヘルパーという他人を
奴隷にし、我が儘放題を言って死んでいってやる・・・

じゃあわたしたちは?・・・私たちの親はそんな事まで
心配などしてはくれない・・・のたれ死ぬなり孤独死なり好きにしろと言うことだ

かれらの「お前達のためを思って・・・」っというのはウソだったのだ
心配しているのは自分たちが死ぬまでこの国と年金が保っていて欲しい・・・それだけだ

私の母も、二言目には「年金が・・・」だった
      ・・・・・・年金大好き、年金の亡者だった

私たちはもう、そろそろ
私たちを
牛馬のように罪悪感によって鞭打ってきた
親たちの呪縛からグッバイしようじゃ無いか?

彼ら唯物主義者、拝金主義者は、
自らが社会の奴隷であり、乞食であり、若者への寄生虫だ
自分たちが死ぬ寸前までの快適さ以外は何も考えていない

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8.Disciplehood
  弟子であること
あなたの生のあらゆる状況があなたに教えてくれるのを許しましょう。


スーフィーの偉大な神秘家、ハサーンが死のうとしていたとき、
ある人がたずねた。

  「ハサーン、あなたのマスターは誰だったのですか?」

彼は言った。

  「私には何千人ものマスターがいた。
   彼らの名前をあげるだけでも
   何か月、何年もかかるだろう。
   それに、そうするにはもう遅すぎる。
   だが、三人のマスターについて
   はっきりと話しておこう。」

 「ひとりは泥棒だった。
  あるとき私は砂漠で未知に迷った。そして、ある村に
  着いた頃には夜も非常に更けていた。すべてが
  閉ざされていた。

  だが最後になって、私は家の壁に穴を開けようとして
  いるひとりの男を見つけた。私は彼にどこか泊まれる
  ところはないかとたずねた。彼は言った。

   『夜もこんな時間ではむずかしいだろう。
    だが、私といっしょでよければ泊まれる-
    君が泥棒といっしょに一晩すごせればの話だが』」

 「ところが、その男は非常にすばらしかった--私は
  1か月も滞在した!そして、夜ごと彼は私に言ったものだ。

   『さて、私は仕事に行ってくる。
    君はゆっくり休んで、折っていてくれたまえ。』

  彼が帰ってくると、私はたずねたものだ。

   『なにかとれたかい?』

  彼はよくこう言った。

   『今夜はだめだった。だが、明日、またやってみる。
    神が許してくれればね……』

  彼はけっして絶望しなかった。いつでも幸せだったのだ。

 「何年も絶えることなく瞑想して、さらに瞑想しつづけていた
  にもかかわらず、なにも起こっていなかったとき、
  もう自分ではどうしようもなくて絶望の淵にあり、
  このナンセンスすべてをやめにしようと思う瞬間が
  何回となくやってきた。すると突然、私はその泥棒の
  ことを思い出したものだ。
  彼は夜ごとこう言っていた。

  『神が許してくれれば、明日には起こるだろう』


 「そして、私の二番目のマスターは犬だった。
  私は河へいくところだった。喉が渇いていたのだ。
  すると犬がやってきた。彼も喉が渇いていたのだ。
  彼は河のなかをのぞきこみ、そこにもう一匹の犬
  --自分自身の影--を見て恐くなった。
  彼は吠えると逃げて行った。だが、あまりにも
  喉が渇いていたために、戻ってきた。ついに自分の
  恐れもかまわずに、彼は水のなかに飛び込んだ。
  すると影が消えた。そこで私は、神から私に
  メッセージが来たのを知った

  --あらゆる恐れにもかかわらず
    人はジャンプしなければならない、と。

 「そして、三番目のマスターは幼い子どもだった。
  私がある町に入ってゆくと、子どもが火のついた
  蝋燭を運んでいた。彼はモスクに蝋燭を置きに
  ゆく途中だった。

 「ちょっとからかうつもりで私はその少年にたずねた。

  『自分でその蝋燭に火をつけたのかい?』

  彼は言った。『そうです、おじさん』。

  そこで私はたずねた。

  『その蝋鰍こ火のついていない瞬間があって、
   その蝋櫛に火のついている瞬間があった。
   --その火がやってきた源を見せてくれないか?』

  すると、その少年は笑って蝋燭を吹き消し、こう言った。

  『いま、火が消えるのを見たでしょう?
   それはどこに行ったのでしょうか?
   言ってください!』

 「私のエゴはこなごなになった。
  私の全知識がこなごなになった。
  そして、その瞬間こ私は自分の愚かさを感じた。
  それ以来私は自分の知りたがりをすべて落とした」



私にマスターがいなかったのは事実だ。
だがそれは私が弟子ではなかったという意味ではない
---私は全存在を自分のマスターとして受け容れたのだ。

私の弟子としてのありようは、あなたのそれよりも
もっと大きなかかわりだった。私は雲を、樹を信頼した。
           ……私は存在そのものを信頼した。

私にはマスターがいなかった。
私には何百万ものマスターがいたからだ。

   ---私はありうるすべての源から学んだ。

道において、弟子であることは絶対に必要なことだ。
弟子であるとはどういう意味だろう?

      それは学ぶことができるということ、
      学ぶべく、そこにいるということ、
      存在に対して感じやすいということだ。

マスターとともにあなたはどう学ぶかを学び始める
     ……少しずつ少しずつ、あなたは調子が合ってくる。

そして少しずつ少しずつ、同じように全存在と調子を合わす
ことのできる、そのポイントが見えてくる。

マスターはスウィミング・プールだ。あなたはそこで泳ぎ方を
学ぶことができる。一度学んだらすべての大洋があなたのものだ。


        THE SECRET OF SECRETS,Vol.1,pp.184-188

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