We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年05月

あなたは、完全に消滅したいと望んだことはないだろうか?

「穴があったら入りたい」という程恥ずかしいおもいをした時とか・・・
 誰かを傷つけてしまった時、やりきれない悲しみに襲われた時・・・

    孤独感に圧迫され、世界から自分だけが取り残された様に感じた時とか?


また必ずしもネガティブな理由ではなく
  自意識の重みから脱皮して、全宇宙の全方向に花開き、溶け込みたいと思った時とか?


いずれにせよ、   自分自身を〝かたまり〟の個体と実感することが
                     絶えられなくなった時はないだろうか?


  その反面、様々な自分の側面を見てみたい、自分自身のあらゆるポテンシャルを
   この目で見てみたいと感じることもあったのじゃないだろうか?

    折角生まれてきたのだから、この可能性を存分に確かめてみたい   ・・・っと



わたし自身も、そんな風にしょっちゅう思う

  「自我の消滅」を望む反面、「あらゆる自分」 を確かめてみたいという野心に駆られること・・・・


            たぶん、私たちはこの願望をすでに叶えて居るのだと思う

自意識の消滅、ってどんな感じなのか?

私は子供の時、フトンの中で眠りにつく前、死後の状態を想像して、よく怯えた

真っ暗で、光も、色も、音も、臭いも、あらゆる感触もない
すべての感覚が遮断された真っ暗闇の時間が無限につづく世界を想像して怯えたものだ・・・

 ・・・そんな恐怖に取り憑かれながら、幼かった時の私はいつしか眠りについた

    しかし、気が付くべきだったのだ!朝、目が醒めた時に・・・!!!

     私たちは皆、睡眠の中で
     夢見ることも無い完全なノンレム睡眠の時間を体験しているのだ!!
                          ・・・・しかも毎晩!!!

完全に無意識・・・
つまり心神喪失状態、失神状態において、
そこでは無限につづく真っ暗闇なんて存在しなかった・・・・

  ましてやそんな真っ暗なトンネルの中にどこまでもいつまでも埋まっている状態なんて
  ありはしなかったのだ・・・  単純にその間、私たちには何一つ体験した記憶は無い

    意識が消失している時、実は世界も消失している
    だから〝真っ暗闇〟すらないのだ!!
      恐れるべき対象さえ存在していないのだ!!


   夢の記憶ならかすかに残っていることはある

  夢の中では「自己」と「他者」との境界線は実に曖昧であるが故に、
  明瞭な記憶を持ち帰ることも難しい  ・・・しかしこれらはある時はとてつもなく楽しく愉快で
                                  またある時は死を感じる程の恐怖でもある


そして日中、ここには明瞭な 〝他者〟 の存在する日常生活がある
この世界では、     他者に対して 〝失礼〟 があってはいけないし、
                   その為に常に身構えていなければいけない

気ままに書いているこのブログに対してすら、最低限のインターネット上のエチケットはある

で、これらの事に対して責任を負うために、
自分のしたことを最低限は自覚し、覚えておかなければいけない

でも
これほどまでにハッキリと自他の別れた世界があるが故に
人々は実にバリエーション豊かな個性を持って、それぞれが独自の生活を営んでいる

これほどまでにハッキリと自他が別れていても、もし、本当はそれがヴァーチャルであり
あなたもあなたもあなたも・・・  実は自分の分身であるのなら!!????

だとしたら、
きっとそうしている理由は
「多様な自分のバリエーションを目撃するため」  ・・・なのではあるまいか?

この宇宙に存在するもの全てが、実は私のヴァリエーションに過ぎず
私を試し、楽しませるための「他の私たち相互の」舞台に過ぎないのだとしたら?

もはや塊=カタマリ・・・  魂=たましいとしての〝わたし〟 っという認識は
本質的な自分の実相ではないことになる・・・・

  ここにおいて「わたしという魂、個別的塊」の概念は消滅してしまう

    だって〝他人〟というのは実はゲーム上のルール(便宜)に過ぎず、錯覚だったのだから

  わたしたちは明晰で明瞭で、自他の区別が厳密で、継続的な思考と記憶を要求される世界を
  「これが現実だ!」 「私は今覚醒している」 っと認識しているが・・・本当だろうか?

  何がリアルなのか? っというのはリアルとは何かという観念や定義の問題に過ぎない

   ある観点から見れば、自他の区別が曖昧で、
   曖昧模糊とした夢の中の方がよっぽど〝リアル〟なのかもしれない!

   あるいは、全く夢を見ていないブラックアウトした、
   あらゆる世界のヴィジョンも自意識もない世界こそが〝実相〟なのかもしれない・・・


    でもなんでこういう考え方をバカバカしいと思うか?  あるいは怖いと感じるのかと言えば
      こういった「別観点の世界観」に囚われると、最もルールのシビアな継続性のある
        この三次元世界で  ・・・・叱られてしまう、痛い思いをするからだ


魂は消滅するのではなく、はじめっから存在しないのかも知れない
それは単なるゲームの駒に過ぎないのかも知れない
そしてこのゲームのプレイヤーこそが本当のわたし・・・・?

でもその〝本当のわたし〟 とは、この世界で唯一の存在者なのかも知れない

この広大な宇宙のなかで、あなたはたった独りだ……

そこにはだれもいない。


以前シャンタン氏と電話で話していて、
「わたしたちはニルヴァーナの静寂に退屈して生まれてきたのじゃないか?」
                   (退屈とは知性があってこそだから・・・)

っという面白いテーマを頂いた


ちょっとここからもう一歩踏み出した仮説が先程脳裏に浮かんだので
ここに書き留めておきたい

  それは、“退屈さ” が次に求めたのは “限界と不完全性” なのではないか?っということだ

    さらには、「自分は未熟である」と思い込む体験だ


NPO法人「自分文化ー安住村」代表の伊東聖縞氏

「この宇宙が生まれてきた理由とあなたが生まれて来た理由とは同じなんですよ」
っという実に刺激的な発言をされていた

ある多次元世界研究家の女性にわたしは「生命の起源についてどう思う?」という質問を
したら「すべては愛から生まれたんでしょ」という答えだった

まあ、そういうのもアリなんだとは思うし、その見解に反論したいわけではないが
しかし「生老病死」の観点から見るならば、〝生〟つまり、始まりがあったからこそ終わりがあるのだ

   ・・・つまり、私たちの「生まれてくる前の世界」、「かたちが無い世界」とは
       ニルヴァーナのことであり
     なぜか?わたしたちはここにジッとしていなかったので、
       こんな所でこんなにも苦しんでいるのだ

      もし私たちが〝魂のふる里〟への帰郷を遂げて、そこに満足していたら
                          それでもまた生まれてきただろうか?

      「生」とは、「苦」の第一原因、根本原因なのかも知れない


      有史以来、男と女の営みは「生」の原因として神聖視されていたが
      これが私たちの苦しみの原因かも知れない

         これを「愛」と呼ぶべきだろうか?

         むしろ「渇愛」によって、わたしたちはこの世界へ
         輪廻転生して舞い戻ってきてしまったのじゃないだろうか?


      なぜ?生命は存続しなければいけないのか?
      なぜ?そういう動機を生命体は、はじめから強い衝動として持続してきたのだろうか?

      ここにすべての苦闘、すべての欠落感、すべての不完全感と孤独と・・・

         ・・・そして、全知全能の神のイメージを自分勝手にでっち上げて、
            その願望の妄想に救済を求めつづけてきた人間の愚かさの原点・・・・

           つまり、宗教発生原因があるのじゃないだろうか?


もし、私たちが何一つ望まないならば、
たぶんわたしたちはいまここにはいないんじゃないだろうか?

悪魔もまた、神の誕生と共にすぐさま必要だった

神には敵が必要だった

でなければ、わたしたちはすべてが完璧な神だけの世界にはいられなかったからだ

世界は悪魔によって不完全である必要があった
だから神を作った人間達が、すぐにヘビの誘惑を必要として、失楽園が必要だった

神と悪魔の闘いが必要だった、人々の葛藤を外部化して説明する必要があった
わたしたちはいつまでも不完全性を引きずり続けた

もし、世界がパーフェクトな平和に満たされ、私たちが悪魔の蹂躙から解放され
完全な自由が実現してしまったなら?

   ・・・この世界に意味があるのだろうか?

    ・・・わたしたちはこの世界を持続する意味が  ・・・一体あるだろうか?


          庶民がリッツカールトンに行ったら死にたくなった。

私たち人間から見れば、
「継続的な自己保存意思性」が見られない存在を
生命だと見なすのは難しい

つまり、たとえば発光現象のようなパッと現れパッと消えてしまう
ものは、何かの物理的、エネルギー的現象としての原因はあっても
それはあくまでも「無機的な現象」にしか見えない

そこに継続的な生命の自己存続の意思が確認出来ないのに
それを生命現象だと、どうして確証を得られるだろうか?


これはあくまでも私たち自身を中心にした生命の定義に過ぎないが
わたしたちは大体、そのことにすら気が付いていない

「生き延びたい!」という強い意志がなくて、知性は生まれないだろう
エサを探す、不要となった成分を糞として排泄する・・・
外敵から身を守り、同種で協力し合う・・・・

こういった「生きる知恵」とその「継承、継続」が、生命に知性をプール=蓄積させてきた

  その最終結果がわたしたちの文明社会だ

SF映画「ターミネーター」や「マトリックス」は、
これらの方法論、手段の蓄積が
ひとり歩きして
私たち人間の当たり前の営みをも冷酷に圧迫してきているのではないか?

                ・・・・っという危惧から生まれてきた映画だ


これらの異常な進化と・・・  ひょっとしたら?の「叛乱」を心配するより前に
わたしたち人間自身が、非常に心配性で、怠惰で、臆病故に、
常にこういう技術の進化に莫大なエネルギーを使ってきた・・・

そして、さらにさらにこういった技術やらシステムやらに依存しようとしている・・・

   ・・・そしてその依存心こそが際限が無く、最後には私たち自身の首を絞めている

              そのことの方がよっぽど身近で現実的な危惧だろう

ロボットの叛乱以前に、すでに全人類を抹殺する為の核が、国同士で睨み合っている事
それ自体が充分すでに脅威なのだ

震える手で世界最終戦争のボタンはまだ押されていないという
すでに妖しげなバランスの元に私たちは今この瞬間も生きているという現状の方が
よっぽど危惧するべきで、その「震える手」を払いのけてロボットが勝手にボタンを
押すのではないか?  っっというのは実を言えば無能で臆病な支配者層の、
単なる責任転嫁の口実なのかもしれない  そしてこの “責任転嫁” の
本当の責任の大元は、こういう指導者をまだ容認している私たち自身なのだろう

3.11の福島第一原発事故のように、結局は政府も東電も、本当に責任を取っている
者はいない  ・・・責任転嫁がぐるぐる回って、うやむやになるシステム・・・
これを望んで、容認しているのは、私たち自身じゃないだろうか?

これが私たち人類が誇る “知性” の正体だ

つまり “根無し草” ・・・それが人間の知性の正体だ

コロイド状のどろりとした物体がそこにあって
それが生物なのかどうかを確認したければ
棒でちょこっと突っついてみればいい

たとえプニプニして弾力があっても
それだけの反応ならばたんなるゼリー状の物体に過ぎない

・・・でも、ビクッと反応してウニウニと逃げ出しはじめたら生きている


生命と非生命っとの境界は何かと言えば
やっぱり自分の意思を持っていると言うことではないだろうか?
そして、その意思である種の形態と秩序を保とうとする・・・

・・・そういう反応をするとわたしたちは

  「お、コイツ生きてるぞ!」  っと理解出来る

これがわたしたちの“生命”に対する実感的な定義であり、
この広い宇宙には、わたしたちのこの実感では到底
生命と思えないような生命現象がいっぱいあるかもしれない


高度な知性のみならず、高級な情緒を持ち合わせた生命体であれば
きっとこの宇宙の素晴らしさ、美しさを堪能していることだろう

その反面、もし、如何なる素晴らしい光景が存在しても
そこにその観察者、鑑賞者、堪能者がいなかったらどうだろうか?

観客が不在の大スペクタクルの宇宙の劇場も、虚しいものだろう・・・・

  ・・・宇宙は観客を必要としているに違いない、でなければ寂しい

  オリオン座の近くで燃える船、タンホイザーゲートのオーロラ・・・・

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それらの光景も、虚しく雨のように流れ去ってしまう

花々は、きっと見てもらいたいに違いない
たとえホームレスの冴えないおじさんでも、愛情深く見つめてもらった時
きっと花は単なる植物の一現象ではなく「華」になる・・・

        自分自身の可憐さをおじさんの目を通して自覚してはにかむに違いない

   ・・・生命とは、
   ・・・・自己の存在を意識出来る者達とは、この宇宙の観客なのではないだろうか?

あなたという堪能者、参加者がこの宇宙に現れるまでにも、宇宙には
いろいろな気の遠くなるようなドラマがあったに違いない・・・

                     でもそれに何か意味があるだろうか?

あなたという参加者がいる宇宙と、いない宇宙とでは、全く違うのだ

あなたもいずれはこの宇宙から去るだろう
でも去ったあとの宇宙は、もう違う宇宙だろうし、
あなたにとってこの宇宙が、もし意味が無くなってしまったのなら
この宇宙にとっても、あなたは意味の無い存在になってしまうだろう

だから反対に
もしあなたがこの宇宙から物理的に去ってしまっても
あなたにとって大事な思い出や、想う家族が残っているのなら
あなたの肉体が朽ち果てて、三次元上での接点を失っても
あなたはこの宇宙から完全に去ってしまったわけではない
そしてこの宇宙から見てもあなたという存在はある意味では残る

人が、友人や家族を作りたがり、子孫を残したがるのは
きっとこの三次元宇宙との絆を残しておきたいからなのだろう

・・・・・・・・

生命とは何かを考えたとき、答えは夜空に有るのかも知れない

  広大な闇の空間=スターバックスが広がるが、ここに星がなければ
   ただの虚しい莫大な闇の空間だ
   ・・・そこに輝く星があった時
    この広大な闇はきらめき、彩られる

  しかし昼間の空で、わたしたちは星を見つけることは困難だ
   闇が広がった世界で、星は輝く

   「わたしは在る」、っという自覚は、 
   「わたしがない」、
    あるいは
   「わたしではない、あなたや、その他・・・」  が、意識出来なければ得られない

   「イエス」には「ノー」  「在る」には「無い」  「そう」には「そうでない」ものが必要なのだ

    この三次元空間とは、まるごとすべて「あなたではないもの」だ

     それゆえにあなたはあなたを実感出来、わたしはわたしを実感出来る


    でも、  もと包括的に言えば

  「あなたを自覚させてくれた」という点では、
   「あなたではないすべてのもの」こそが、「あなたの分身」であるとも言える

  だからひとたびあなたがあなた自身に目覚めた時、
  あなたではないすべてとも、あなたは一体に融合するのかも知れない

狂気を解放しなさい!

リラックス〝する〟とは、本来は
「なにもしない」ことだ


しかしこの言葉通りに行かないのが現代人、文明人で
只管打坐にスンナリ移行など出来ないのだ


こころの中では文明の狂気のドタバタが
アタマの中をかけずり回っている

昔のコマーシャルから、好きだった流行歌...
現代の巷に溢れかえるコマーシャル、
様々な音楽、映像、...イメージの洪水、

瞑想のために部屋を暗くし、アロマを焚けば
神や宇宙に関する試行錯誤、・・・

自分や家族の将来・・・
明日の仕事の手際はうまくいくかどうか??

その他様々なものが静かに座った途端に
駆け巡る・・・


例え一瞬マインドが静まりかえっても
その静寂を覗き込んだらもっと不安になる・・・
「死」を感じるからだ・・・


基本、誰もが将来が不安で、
いまが祝福されていることに気が付かない

本当の意味での只管打坐が可能ならば
あとはすべてが全自動で起きる・・・

でも
   自分自身の運命を信頼できない人が
      人生に敵対意識を感じている人が
「ただ今ここに座る」だなんて出来るわけがないのだ

だからOSHOは、
「それら狂気のごたごたを全部投げ出してしまえ!」
っと、すすめているのだ

     リラックスのための努力
        努力しないという努力
  緊張を投げ出すためのあらゆる格闘・・・

パラドキシカルではあるがそれしかないし
実はそれが唯一可能な正気への努力だ

それ以外の〝余計な〟努力は、
リラックスに向かうようでいながらも結局の処は緊張を溜め込む

   例えそれが「無条件の愛」というスピ界の必殺呪文の
    シュプレッヒコールでも状況は同じだ

例えどんなに丁寧にコテで塗るように塗りつけられたものでも
上塗りされたファンデーションとは皮膚呼吸を止めてしまうものだ

でもなにか〝良い〟ことをしようという作意に取り憑かれていると
私たちは「クレンジング」ではなく「上塗りを」する


リラックスということ、心理的な過剰防衛のばかばかしさを解除することが
本当の「最初の一歩」であり「最後の一歩」であることを
徹底的に理解出来れば、リラックスそれ自体は全く難しい事じゃ無い

「最も何もしていない状態」「手放しの状態」が悟りなのに
        実際にはその単純なことを理解するために
                   長い長い旅をしてきた

・・・・馬鹿げたことだったとは思うが、でもやっぱり必要なことだった

    なぜなら、わたしたちはその苦闘という対価によって
    この単純な真実の価値を理解出来るからだ


OSHO_ Selling Bliss 投稿者 maneel-katal

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