すべての分離感の原点
それは「目的を設定する」事だと思う
「いま、ここ」があり、そして
「いつか、どこか」を考えること・・・
だからこそ人間はマインドという脳の機能を発達させてきた
それによって文明を作り、地上で最強の甲羅を手に入れた
私はそれを責めたいんじゃない
単なる事実の指摘をしているつもりだ
OSHOは、神に、そして人々の人生に究極目標などあるわけない
っと喝破している
なぜなら、その具体的な“究極目標”は、さらに説明を追加出来るからだ
如何なる論理的な結論も、そのさらなる説明を請求出来うる
「WHY? なぜ?」
だから、原因と結果の連鎖を追い求めていってもそれは無限に
延長可能なのだ・・・・
「生命の究極の目的は論理には無い」
と言うことはあっさり証明可能だ
・・・じゃあ、わたしたちは何処に向かえば良い?
そこで行き着くのが、 「味わうこと」
・・・マインド(論理のおしゃべり) に、口出しされずに・・・
いまここを味わうことが、
人生のすべてであり究極の目的なのだと言うことになる
そしてそれが、 最も完全な唯我独尊ということでもある
「いま、この菓子は実にうまい!」のだ、ザッツ・オール、・・・ピリオド!!
それゆえ、ここが宇宙の中心であり、宇宙の果てだ
私たちの人生にはそれ以外の現金=キャッシュは一切無いのだ
映画「ルーシー」で、脳細胞が爆発的に進化しかかっている主人公が
莫大な理解の連鎖の中にありながらも
「これをどうしたらいい?」
っと
モーガン・フリーマン演じる教授に問うシーンは実に意味深である
つまり、森羅万象が理解出来たとしても、根本の「なぜ?」が得られない以上
すべては無に帰してしまう
それを回避する為に教授は、永続するであろう生命の営みに付託しなさい
つまり、「伝えなさい」っと提案する
これとよく似たテーマは
スタートレックのTMP「ザ・モーション・ピクチャー」にも出て来る
宇宙のあらゆる知識を溜め込んだヴォイジャー6号が、唯一得られない回答が
これらの“探索し続けよ”という使命のすべてにどんな意味があるのか?
っという「WHY?」だった
・・・・自己の存在の根底に疼く「WHY?」の切望を満たすことが出来ずに、
虚しさ、息苦しさで泣きじゃくるところだ
論理の鬼であったスポックも、
ビジャーの苦しみと孤独に涙を流す
・・・本当はこれは、生の衝動に突き動かされながらも
その意義を見失ったすべての存在の悲しみなのだ
しかし多くの人々は、この悲しみの根底を問い詰めない、・・・目をそらす
そしてその替わり何を選ぶのかと言えば
命の記憶を「伝える」こと、
誰かに「理解してもらう」ことこそが
人生の究極目的なのだと自分に言い聞かせてしまう
多くの人々が言うところの〝愛〟とは、
この〝理解=自分のすべての受信者〟になって欲しいのだ
・・・という要素は非常に大きい
「いままで」 の人間の様に・・・
「伝える」「理解してもらう」「分かち合う」ということだけに終始し、
「生き延びる」「子孫にバトンタッチしてくたばる」ことだけに
満足しようとしたとき・・・・
・・・・自分自身に突きつけられた、根底の「WHY?」という疑問を
「〝中二病〟だったのさ!」 と笑い飛し
いつしか忘れ去り、
思索を放棄したとき・・・・
「生きる」「味わう」「感じる」というシンプルな目的の重要性は
見落とされたまま、忘れ去られる
その替わり、
「生き残る=サバイバル」
「結婚し、生殖する」
「競争する=弱肉強食」
「遺伝子や知識、経験、栄光を、伝える、理解してもらう」
という〝手段的雑事〟が、人生の日々の目的として居座ることになる
手段が、目的を食べてしまった・・・・それがいまの文明の危機なのだ
人は、「生き残る為」に「生きる」
すると何が起きるか????
とてつもない人生の砂漠、孤独感、枯渇感、焦燥感、退屈、無気力さ、だ
この、凄まじい針山地獄の痛みを私たちは
「特権意識」「選民意識」「宗教その他社会的帰属意識」・・・・
「選ばれし者だけが持ち得るスペシャルな絶対的信念体系」
によって、忘れようとする ・・・スピリチュアル・ゲームもそれだ
それゆえにスピリチュアルとは
現実逃避、夢想主義にならざるを得ない
しかしこの文明最強の麻薬は、・・・・・・
・・・暫くは酩酊した平和と充実感をもたらすが
「死の恐怖」を何倍にまでも増幅させるという
恐ろしい副作用をともなって、わたしたちの神経を
さらに何倍にまでも責め悩ます・・・・
だって、 「選ばれた者」であるはずの自分が・・・
「死ぬかも知れない」だなんて?、あってはならない事だからだ
・・・そう、
誰もが、自分は特別だと思いたがり、不老不死を夢見るが
「そうは問屋が卸さない」ことは、誰でも、直面せざるを得ないのだ
「永遠性」と「永続性」とを混同した人々の悲劇、
・・・・罪と罰がここにある
「死」とは、
人生が用意してくれた最高の覚醒剤だ!!
如何なる信念体系や意味づけによっても回避できない「死」が
自分自身の存在への疑問という姿で
ヒタヒタと、
ありとあらゆる瞬間に、
また忍び寄ってくるのだ
・・・この“死に神”からは誰ひとり逃れられない!!!
だから「いまここ」にゴールが見つからなければ
「WHY?」という疑問からも逃れられないのだ
死に神が向かえに来たら、
両手いっぱいのエクスタシーの花束を抱えて出迎えなさい
そうしたとき、死に神自身が死ぬ
OSHO_ _Now-Here_ All the Time 投稿者 maneel-katal
それは「目的を設定する」事だと思う
「いま、ここ」があり、そして
「いつか、どこか」を考えること・・・
だからこそ人間はマインドという脳の機能を発達させてきた
それによって文明を作り、地上で最強の甲羅を手に入れた
私はそれを責めたいんじゃない
単なる事実の指摘をしているつもりだ
OSHOは、神に、そして人々の人生に究極目標などあるわけない
っと喝破している
なぜなら、その具体的な“究極目標”は、さらに説明を追加出来るからだ
如何なる論理的な結論も、そのさらなる説明を請求出来うる
「WHY? なぜ?」
だから、原因と結果の連鎖を追い求めていってもそれは無限に
延長可能なのだ・・・・
「生命の究極の目的は論理には無い」
と言うことはあっさり証明可能だ
・・・じゃあ、わたしたちは何処に向かえば良い?
そこで行き着くのが、 「味わうこと」
・・・マインド(論理のおしゃべり) に、口出しされずに・・・
いまここを味わうことが、
人生のすべてであり究極の目的なのだと言うことになる
そしてそれが、 最も完全な唯我独尊ということでもある
「いま、この菓子は実にうまい!」のだ、ザッツ・オール、・・・ピリオド!!
それゆえ、ここが宇宙の中心であり、宇宙の果てだ
私たちの人生にはそれ以外の現金=キャッシュは一切無いのだ
映画「ルーシー」で、脳細胞が爆発的に進化しかかっている主人公が
莫大な理解の連鎖の中にありながらも
「これをどうしたらいい?」
っと
モーガン・フリーマン演じる教授に問うシーンは実に意味深である
つまり、森羅万象が理解出来たとしても、根本の「なぜ?」が得られない以上
すべては無に帰してしまう
それを回避する為に教授は、永続するであろう生命の営みに付託しなさい
つまり、「伝えなさい」っと提案する
これとよく似たテーマは
スタートレックのTMP「ザ・モーション・ピクチャー」にも出て来る
宇宙のあらゆる知識を溜め込んだヴォイジャー6号が、唯一得られない回答が
これらの“探索し続けよ”という使命のすべてにどんな意味があるのか?
っという「WHY?」だった
・・・・自己の存在の根底に疼く「WHY?」の切望を満たすことが出来ずに、
虚しさ、息苦しさで泣きじゃくるところだ
論理の鬼であったスポックも、
ビジャーの苦しみと孤独に涙を流す
・・・本当はこれは、生の衝動に突き動かされながらも
その意義を見失ったすべての存在の悲しみなのだ
しかし多くの人々は、この悲しみの根底を問い詰めない、・・・目をそらす
そしてその替わり何を選ぶのかと言えば
命の記憶を「伝える」こと、
誰かに「理解してもらう」ことこそが
人生の究極目的なのだと自分に言い聞かせてしまう
多くの人々が言うところの〝愛〟とは、
この〝理解=自分のすべての受信者〟になって欲しいのだ
・・・という要素は非常に大きい
つまり、〝シェアー=分かち合い〟 とは、愛の代名詞でもあり
そのもっとも直接的な体験がセックスだ
それゆえに
人間にもまだ自然が強く息づく
セックスというシステムは
「愛とはほぼ遠いが、
でも、愛への階段の最初のステップになり得る」
OSHO:セックスから超意識へ
そのもっとも直接的な体験がセックスだ
それゆえに
人間にもまだ自然が強く息づく
セックスというシステムは
「愛とはほぼ遠いが、
でも、愛への階段の最初のステップになり得る」
OSHO:セックスから超意識へ
「いままで」 の人間の様に・・・
「伝える」「理解してもらう」「分かち合う」ということだけに終始し、
「生き延びる」「子孫にバトンタッチしてくたばる」ことだけに
満足しようとしたとき・・・・
・・・・自分自身に突きつけられた、根底の「WHY?」という疑問を
「〝中二病〟だったのさ!」 と笑い飛し
いつしか忘れ去り、
思索を放棄したとき・・・・
「生きる」「味わう」「感じる」というシンプルな目的の重要性は
見落とされたまま、忘れ去られる
その替わり、
「生き残る=サバイバル」
「結婚し、生殖する」
「競争する=弱肉強食」
「遺伝子や知識、経験、栄光を、伝える、理解してもらう」
という〝手段的雑事〟が、人生の日々の目的として居座ることになる
手段が、目的を食べてしまった・・・・それがいまの文明の危機なのだ
人は、「生き残る為」に「生きる」
すると何が起きるか????
とてつもない人生の砂漠、孤独感、枯渇感、焦燥感、退屈、無気力さ、だ
この、凄まじい針山地獄の痛みを私たちは
「特権意識」「選民意識」「宗教その他社会的帰属意識」・・・・
「選ばれし者だけが持ち得るスペシャルな絶対的信念体系」
によって、忘れようとする ・・・スピリチュアル・ゲームもそれだ
それゆえにスピリチュアルとは
現実逃避、夢想主義にならざるを得ない
しかしこの文明最強の麻薬は、・・・・・・
・・・暫くは酩酊した平和と充実感をもたらすが
「死の恐怖」を何倍にまでも増幅させるという
恐ろしい副作用をともなって、わたしたちの神経を
さらに何倍にまでも責め悩ます・・・・
だって、 「選ばれた者」であるはずの自分が・・・
「死ぬかも知れない」だなんて?、あってはならない事だからだ
・・・そう、
誰もが、自分は特別だと思いたがり、不老不死を夢見るが
「そうは問屋が卸さない」ことは、誰でも、直面せざるを得ないのだ
「永遠性」と「永続性」とを混同した人々の悲劇、
・・・・罪と罰がここにある
「死」とは、
人生が用意してくれた最高の覚醒剤だ!!
如何なる信念体系や意味づけによっても回避できない「死」が
自分自身の存在への疑問という姿で
ヒタヒタと、
ありとあらゆる瞬間に、
また忍び寄ってくるのだ
・・・この“死に神”からは誰ひとり逃れられない!!!
だから「いまここ」にゴールが見つからなければ
「WHY?」という疑問からも逃れられないのだ
死に神が向かえに来たら、
両手いっぱいのエクスタシーの花束を抱えて出迎えなさい
そうしたとき、死に神自身が死ぬ
OSHO_ _Now-Here_ All the Time 投稿者 maneel-katal