We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年04月

すべての分離感の原点
それは「目的を設定する」事だと思う

「いま、ここ」があり、そして
「いつか、どこか」を考えること・・・

だからこそ人間はマインドという脳の機能を発達させてきた
それによって文明を作り、地上で最強の甲羅を手に入れた

私はそれを責めたいんじゃない
単なる事実の指摘をしているつもりだ

OSHOは、神に、そして人々の人生に究極目標などあるわけない
っと喝破している

なぜなら、その具体的な“究極目標”は、さらに説明を追加出来るからだ
如何なる論理的な結論も、そのさらなる説明を請求出来うる

   「WHY?  なぜ?」

だから、原因と結果の連鎖を追い求めていってもそれは無限に
延長可能なのだ・・・・

        「生命の究極の目的は論理には無い」
         と言うことはあっさり証明可能だ



・・・じゃあ、わたしたちは何処に向かえば良い?

そこで行き着くのが、  「味わうこと」

・・・マインド(論理のおしゃべり) に、口出しされずに・・・
   いまここを味わうことが、
     人生のすべてであり究極の目的なのだと言うことになる

      そしてそれが、   最も完全な唯我独尊ということでもある

  いま、この菓子は実にうまい!のだ、ザッツ・オール、・・・ピリオド!!

それゆえ、ここが宇宙の中心であり、宇宙の果てだ

私たちの人生にはそれ以外の現金=キャッシュは一切無いのだ


   映画「ルーシー」で、脳細胞が爆発的に進化しかかっている主人公が
   莫大な理解の連鎖の中にありながらも

     「これをどうしたらいい?」
  っと
   モーガン・フリーマン演じる教授に問うシーンは実に意味深である

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つまり、森羅万象が理解出来たとしても、根本の「なぜ?」が得られない以上
すべては無に帰してしまう

それを回避する為に教授は、永続するであろう生命の営みに付託しなさい

   つまり、「伝えなさい」っと提案する

lucy

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これとよく似たテーマは
スタートレックのTMP「ザ・モーション・ピクチャー」にも出て来る

宇宙のあらゆる知識を溜め込んだヴォイジャー6号が、唯一得られない回答が
これらの“探索し続けよ”という使命のすべてにどんな意味があるのか?
っという「WHY?」だった

   ・・・・自己の存在の根底に疼く「WHY?」の切望を満たすことが出来ずに、
      虚しさ、息苦しさで泣きじゃくるところだ

https://livedoor.blogimg.jp/gocky_z/imgs/6/3/63edc954.jpg

       論理の鬼であったスポックも、
       ビジャーの苦しみと孤独に涙を流す



            ・・・本当はこれは、生の衝動に突き動かされながらも
              その意義を見失ったすべての存在の悲しみなのだ


しかし多くの人々は、この悲しみの根底を問い詰めない、・・・目をそらす
そしてその替わり何を選ぶのかと言えば

    命の記憶を「伝える」こと、 
    誰かに「理解してもらう」ことこそが
    人生の究極目的なのだと自分に言い聞かせてしまう

     多くの人々が言うところの〝愛〟とは、
     この〝理解=自分のすべての受信者〟になって欲しいのだ
                        ・・・という要素は非常に大きい

つまり、〝シェアー=分かち合い〟 とは、愛の代名詞でもあり
そのもっとも直接的な体験がセックスだ

それゆえに 
   人間にもまだ自然が強く息づく
    セックスというシステムは

   「愛とはほぼ遠いが、
     でも、愛への階段の最初のステップになり得る」

               OSHO:セックスから超意識へ

「いままで」 の人間の様に・・・

「伝える」「理解してもらう」「分かち合う」ということだけに終始し、
「生き延びる」「子孫にバトンタッチしてくたばる」ことだけに
                    満足しようとしたとき・・・・

・・・・自分自身に突きつけられた、根底の「WHY?」という疑問を
        「〝中二病〟だったのさ!」 と笑い飛し
              いつしか忘れ去り、
                    思索を放棄したとき・・・・

 「生きる」「味わう」「感じる」というシンプルな目的の重要性は
              見落とされたまま、忘れ去られる

その替わり、
  「生き残る=サバイバル」
   「結婚し、生殖する」
     「競争する=弱肉強食」
        「遺伝子や知識、経験、栄光を、伝える、理解してもらう」

という〝手段的雑事〟が、人生の日々の目的として居座ることになる

手段が、目的を食べてしまった・・・・それがいまの文明の危機なのだ

       人は、「生き残る」に「生きる」

すると何が起きるか????
  とてつもない人生の砂漠、孤独感、枯渇感、焦燥感、退屈、無気力さ、だ

  この、凄まじい針山地獄の痛みを私たちは
    「特権意識」「選民意識」「宗教その他社会的帰属意識」・・・・
    「選ばれし者だけが持ち得るスペシャルな絶対的信念体系」
       によって、忘れようとする  ・・・スピリチュアル・ゲームもそれだ

                          それゆえにスピリチュアルとは
                     現実逃避、夢想主義にならざるを得ない

  しかしこの文明最強の麻薬は、・・・・・・
       ・・・暫くは酩酊した平和と充実感をもたらすが

       「死の恐怖」を何倍にまでも増幅させるという
        恐ろしい副作用をともなって、わたしたちの神経を
                   さらに何倍にまでも責め悩ます・・・・

  だって、  「選ばれた者」であるはずの自分が・・・
         「死ぬかも知れない」だなんて?、あってはならない事だからだ

  ・・・そう、
     誰もが、自分は特別だと思いたがり、不老不死を夢見るが
      「そうは問屋が卸さない」ことは、誰でも、直面せざるを得ないのだ

   「永遠性」「永続性」とを混同した人々の悲劇、
                           ・・・・罪と罰がここにある

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             「死」とは、
             人生が用意してくれた最高の覚醒剤だ!!

  如何なる信念体系や意味づけによっても回避できない「死」が
  自分自身の存在への疑問という姿で
              ヒタヒタと、
              ありとあらゆる瞬間に、
                 また忍び寄ってくるのだ

               ・・・この“死に神”からは誰ひとり逃れられない!!!

              だから「いまここ」にゴールが見つからなければ
                「WHY?」という疑問からも逃れられないのだ


疲れた人のための風景画像 thum0vip20ch133936


      死に神が向かえに来たら、
       両手いっぱいのエクスタシーの花束を抱えて出迎えなさい
                    そうしたとき、死に神自身が死ぬ


OSHO_ _Now-Here_ All the Time 投稿者 maneel-katal

映画「Lucy/ルーシー」では、生命の究極目的を以下の様に
言っている・・・・



でもわたしは、この回答に疑問を感じる・・・
    ・・・「伝える」ことに何の意味があるというのだろうか?

  だれか子孫とか、他の人類の福利厚生に使えるというのか?

確かに生命にはそれを目的としている様な、
情報伝達構造、遺伝子があり、
さらに人間には言語、文明がある

でも、それらが本当に未来に活かせるというのだろうか?

釈尊は悟ったとき、このまま沈黙すべきかどうかを迷う
それを、「是非広めて下さい」と梵天が勧める

いわゆる梵天勧請

・・・つまり、悟った仏さえもが迷うほど、「後の世に伝える」ことが
   「是か?否か?」というのは、〝際どい〟問題なのだ

前の記事に書いた「他人に理解を期待しない」というのは
自分の知識も体験も、自分ひとりで消滅するに任せる、っということだ

映画「ブレード・ランナー」のラストでも語られる様に
「自分を思い出してくれる人も無く」
「自分の思い出や知識、発明、成果を引き継いでくれる誰も居ない・・・」

  ・・・もちろんそれは寂しいことだ

ブレードランナーロイ0a292d42

      でもじゃあ、〝残す〟 方が良いのだろうか?

  「わたし」というのは、この宇宙に一回こっきりの唯一な現象なワケだし
   それはそれで、いいのではないだろうか?


巨大な図書館や、巨大なインターネットの情報空間を考えたとき
そのライブラリーの片隅を飾る一冊の本なりファイルなりになることが、

        ・・・・ 本当に〝究極的に良い〟ことなのか?

むしろ、「飛ぶ鳥跡を濁さず」という美学もあるのでは無いだろうか?

  その「個人の消滅」の潔さの方が、価値があるのかも知れないと
   いま、私個人は思っている

そうならば、わたしはただただ静かに死を待つことが出来る

夢を見た

   「人に理解されない」
        「誤解される」   ・・・・緊張感が
右の頬骨の下に鬱血として凝固していく夢だった

右の頬骨の下には事実、最近、大きなカタマリが見つかって
強い痛みをガマンしつつも、それを日々ほぐしている最中である

これは歯茎にも悪影響をもたらし
顎関節から腰にかけての強い緊張の原因となっていた

この緊張は物心ついてからずっと続いていたものだろう

まさかこれが、「他者からの無理解」が原因であったとは
昨夜の夢を見るまでは気が付かなかった

そして、これはもちろん“孤独感”とも表裏一体の関係だ


・・・思い出してみれば
私の父は、他人に理解されないとすぐにムクレてしまい
すぐにさじを投げ出してしまう悪い癖があった。
そのクセは父と同じ血液型Aの弟にも
強く表れていた・・・

血液型Bである私は、あまりさじを投げるクセはないが
人間関係で絶望的になって、追い詰められた感じになると
やはり私の奥底からも出て来る

私の場合おもに、
アスペルガー特有の「説明がクドクドして細かくなる」という
習性=脅迫観念的行動で、この「人からの無理解の恐怖」は
表現されていた

しかし、こうして自分の悪癖の原因とおぼしきものと直面してみると
いままでの 「くどすぎる説明」 という強迫観念の表れが、多少は
クリアーに客観的に見える気がする・・・・

   他人とは、無理解なもの、無頓着なもの なのだ!
    ひととは、無関心なもの、無責任なもの、 なのだ!

ただそれだけのことだ
そんな事にいちいち苦しむ必要など無い


   これからはもう少し冷静な距離感の人間関係を
          築けるようになるのではないだろうか?

OSHOネオタロットNo.6~No.7「強欲~強欲さを超えて」の動画化

     「エンライトメント・キュー」

2012年の編集に画面比率他、若干修正しました

↓ デイリーモーションより


↓ FC2より

数年程前、仕事先で知り合った男を居候させていた時期があった


水戸の山奥から震災時に東京に出てきたが、
AKB48大好きな、ミーハーなあんちゃんだった


わたしに負けないアスペルガーの持ち主で
その分、純情な素直なところもあり、その点可愛げはあった

だからこそ心を打ち明けるまでは時間がかかったが
気心が知れはじめたら、やや弟分的な甘えも出てきた

そして、寂しさや心細さも出してきた

それでだんだん気が付いてきたのは
彼は非常に責任転嫁と被害者意識が強かったが、
それと孤独感とが強く連動している事だった

それが非常に私にとっては勉強になった

誰にも根深い孤独というものが有る
それは外向きの意識から発生している

自分の人生、自分の運命が常に外部要因、
他人任せ、風任せでは、確かに心細いことだろう

かといってスピ系でよく言う
「運命は自分自身で作っている」ということに
確信を持つということは難しい事だ

人生に「降りかかってくる」ことなど本当にないのだろうか?

それをこの居候の男のおどおどした姿は
常に私に問いかけてきた

  少なくとも、「愚痴る、怯える、寝ぼけている・・・」
  そんな彼の状態が良い未来を招き寄せるとは到底思えない

彼を観察していると、常にこころが「いまここ」に
定まっていなかった

何か話しかけても、
まるでビー玉のような目つきで
うつろに聞いていることが多く、
カラ返事が多い奴だった

  「いまここ」を見いだせない者は、けっして人生に
            手応えを感じることはないだろう

  反面、
  彼の心を蝕み続ける「寂しさ」が「いまここにあること」
   の充実感を見逃し続けている原因なのかも知れなかった

さて、どっちが原因で、どっちが結果なのだろうか?
たぶん、彼の中ではずっとこの悪循環がループしてきたのだろう

彼は非常に無意識で、まるで生きたロボットのような男だったが
かつての私もきっとそうだったに違いないし、今の私にも
完全には脱し切れていない要素である・・・

・・・ただ、その問題点の自覚があるという点では今の私は幸せだ


 それらを、彼のマンガチックな程ひどい無意識状態に
            犯された姿は、わたしに教えてくれた

   しかし、風邪をこじらせて私の部屋に駆け込んでいない時は
   彼はよく道玄坂のネカフェで好きこのんで泊まりに行った

  ・・・・面白いことに、こんなにも寂しがり屋のくせに
     実は私から見ても驚くぐらいタフな一面があった
     その〝強さ〟を本人は、あまり自覚していないようだった

人は皆、如何に無意識な状態であっても、何らかのお役目を
果たしているものなんだなと、(皮肉ではなく)感心させられた

彼が創価学会に入信してしばらくの時点で、私は彼の
ウワ言のように繰り返す不安の言葉がガマン出来なくなって
絶縁した・・・  もう会うこともないだろうが、それでも彼は
私にとっては貴重なメッセンジャーだった

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