We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年04月

OSHO

存在には、ヒエラルキーは存在しない、



これは占星学を学ぶ上で最も基本的な視点(仮説)だと言いたい


つまり、

スケールがデカイもの・・・ 例えば我々の人体からすれば巨大な

国家であるとか、天体であるとか・・・


スケールの小さいもの・・・  例えば細菌とか、ニューロンとか、

分子、原子、素粒子とか・・・


私たちから見て、生物か?非生物か?


同じ生命でも、高度なのか?原始的なのか?



     ・・・・すぐに比較したがるクセが、私たちには根強くあり

         この文明社会を建設した今日まで、多分歴史上

         一度も私たち人間は、この「比較するクセ」に関して

         自ら疑問を呈したことは無い


なぜなら、価値基準、価値比較というものは、

基本的に自己中心的なものであり、

主観的な視点であるのにもかかわらず

あまりにも私たちの生存欲求と根深く結びついているために

それを疑ってしまうとマインドは途方に暮れてしまうからだ


「比較することの重要性」というのは、

人間の唯物主義的視点を有史以来支えてきたのだ

そしてこれを疑うことはあまりにも恐ろしいことなのだ

だから根深い


もしあなたがビジネスの世界で成功するのならば

この「存在のヒエラルキー」をシッカリ持っておくことが

必要不可欠だ


つまりプライオリティー=価値基準を素早く付けて

それに沿って素早く判断していくことが、ビジネスには不可欠だ


占星学の世界でも、その市民権の獲得に腐心していた

石川源晃氏は、「天体が人間の運命に与える影響」という視点を

占星学が成り立つ上での大前提の仮説として掲げていた


・・・彼は私にとっては恩師ではあるが、

  占星学というものを考える最重要な

  この一点において、わたしはこの仮説に

  常々疑問を感じてきていた


シンクロニスティーという現象こそが、

もっとも大切な占星学的な基礎である気がする


エハン・デラヴィ氏は最新量子論における話題「量子のもつれ」という

現象を提示して、この

シンクロニスティーという現象の不思議さに

物理学的な解明の糸口を見いだそうとしている



フラクタルな渦の幾何学が大きさのスケールを超えて響き合うという

相似象学もまた、この話題には欠くべからざる話だ


つまり、目に見える大きさは、価値とは関係ない・・・

つねに、「大きいもの」が原因で「小さいもの」が結果なのかと言えば
それは疑わしい

私たちは日常で、
自我という統一された意思を持ち、感情を持ち、思考を保ち
脳細胞のニューロンの一つ一つは、その為の演算チップの様なものに
過ぎないと憶測して生活している

無数のニューロンの内、たった1個のニューロンが受信した霊感に
私たちの思考全てが大きく方向転換するかも知れないだなんて・・・

・・・考えただけでもぞっとするかも知れない
  ・・・そんなにまで脳内とは「民主的な議決」をしているのだとしたら
    「わたし」とは一体何だろうか?

それと同じ事が
民族レベルでも、地球レベルでも、太陽系レベルでも
銀河系レベルでも起きているとしたなら?

太陽系内の惑星ひとつひとつのテナントする黄道内の座標位置や、
天体相互に形成するアスペクトや、その他、様々な現象が
人間に対して一方通行の原因と結果で表現されているのだという
前提そのものが間違っていたなら?

もちろん私は、そういう「天体の描く図象」と「人間個人の運命」とが
不思議な一致を示すことはさんざん目撃している

でも、だからといってそれは
「天の事象と人とは不思議に響き合っている・・・」っというだけで充分で
それ以上、私たちが憐れな天体の操り人形であると考える、何ら根拠にはならない

 ・・・大きいものが原因者で、小さいものたちが単に結果を表現しているだけだと
憶測しがちなのは分かるが、それは憶測の域を出ていない

実際、〝科学的な立場〟を表玄関に掲げていた石川氏の立場からして
そういう表現をしているだけであって、実際は石川氏も宿命論者では無かった

石川源晃氏やジョン・アディー氏は、調波理論の開拓者でもあったので
天体と人の運命との間をつなぐのは、物理的なパワーの因果律なのでは無く
調波=ハーモニック・ウエィブなのでは無いかと、実際は思っていただろう

サーファーを連想すれば良い

人間が風や波を起こすわけでもないし
波が人間をただ物理的に押し流すのでもない

人間は、海の波という地球の誘いにのって
人生を楽しむサーファーなのだと考えるならば、
そこにあるのは宇宙的な戯れだけ・・・・・、

そこには運命の支配者も被支配者も存在しないのだ

山下達郎 Big Wave ~ I Love You(Part I&II)


・・・・いや、本当に良い波は、自分の手で作れるのかも?????

サーファーが発明した手作りビッグウェーブのアイデアが凄い


今話題になっている映画「インターステラ」とは、まさしくそういう映画だ・・・・

別に、サバイバル=生き残りの為の努力を一切するべきではない!
だ何て思ってはいないし、主張してはいない

ただ、高校生の時代から30年以上問い続けてきた疑問の
答えが、どおやらやっと出た様だ

それを、このブログでシェアしたいし、提案したいだけだ

    「生きる」という主題があってこそ、
     「生き残る」という方法論があるだけだ

その主客転倒があると、人生は虚しい、苦しい、寂しい、退屈だろう

単純な真実なのだと思うが、
なぜか?
この世界では、方法論が主体で、目的であるはずの「生きる」ことは
たんなる退屈しのぎ、うさばらし、気休めであるかの様に取り扱われる


  リアルでも、もちろんネットでも、日々が情報の洪水だけれど
  情報共有(シェアー)というのはあくまでも手段に過ぎないはずで
  でもなぜか?人々はいつも情報に人生を費やしている

  寸暇があれば、

   メールし、ゲームし、スマフォを覗き込みながら
   何かダウジングで宝探しでもしているかの様に、
   夢遊病の様に
   ゾンビの様に

     街の通りを歩いていて
     実に危なっかしい

      だれもが時間欠乏症だ、時間貧乏性だ
      「時は金なり」っという言葉に、人生の全てを捧げているかの様だ

      トイレに入り、排泄の瞬間でも
      スマフォをいじっているのじゃ無いかと疑いたくなるほどだ

      排泄の瞬間はとてもビューティフルなのに、なんでもっと
      人体の感覚を楽しまないのだろう? とっても簡単な神秘体験なのに


なぜ、生きている感覚を味わい、向かい合うことが、そんなに
「時間の無駄」だと思ってしまうんだろう?

バガヴァンは、「努力をしない努力」と表現したが
もう一歩進んで言うなら「努力をしないって、とっても楽」という
あたりきしゃりきのコンコンチキの言葉になる



多くのスピ系男女がノーマインドに憧れているが
「考える」というのは「努力」なのだから、必要な努力は必要なのだ!!

でも、必要ない努力は、ただやめればいい

しかし、「ただやめる」ということには完全な理解と気づきが必要だ
そこにはアートが必要だ、シャープさが必要だ、こころの動体視力が必要だ

それさえあれば、握りしめた拳は、自然と脱力する
つまり、「努力をしない努力」は完全な理解によって無用になる


わたしたちはなぜ主客転倒してしまったのかと言えば
これは  結構長い歴史的経緯がある・・・
      結構複雑な迷路に私たちは迷い込んでしまった

だから、 ただただ見守る、気付く、理解する・・・

   その最終プロセスは確かに単純だけれど
     その単純な出口に至る迷路は、結構複雑だ

結果、バガヴァンの「努力をしない努力」というのは至言だ!と言うことになる


OSHOによると、男女は同じ比率で悟っていると言うことだが
女性のマスターが少ないのはそのせいだろう

女性は悟ると内面からは男性原理が爆発して、とてもサッパリしてくる人が多い
つまりこれは男性的なストレート性なのだ

これは、静寂を言語で上手に説明できる男性のマスターが
女性原理を駆使した変化球を得意とするのと対(つい)を為しているわけだ

女性は個人的なグルとして活躍する事の方が多い






あなたが、ロビンソンクルーソーの様な生活をしているなら
文明的、社会的な努力を放棄するのはカンタンだろう
限りなくシンプルな生活をしているならば・・・

      それは出家僧の様な生活だろう

でも、そんな人でも、東京の雑踏に放り込まれれば途端に苦しみはじめる
慌てて、情報収集に全力を尽くさなければ、即、踏みつぶされる、生きてはいけない

周りは皆、冷たい微笑みを浮かべたマスクを付けた連中ばっかり

生まれたままの素朴な顔をして歩いているのはホームレスぐらいだろう
私たちは、日々、この雑踏の中で生きている
こんな中、たまには山寺で座禅を楽しむのも良いけれど
実際に必要なのは、この都会の雑踏の中で、正気で居られることだ

セレニティーな内面に同調し、保つことだ

今朝見た夢

実家では両親が死に、長男である私が
一戸建ての実家を引き継ぐことになった

50を越えてなお東京で狭いアパート暮らしを続けていた私には
天国のような広さだった

夢の中で、
「さあこの広い空間を独り占めして暮らせるならば
 どんな生活になるかな?」っとウキウキしていた

何よりも家賃の支払いから解放されたことが
嬉しかった


そして今朝、いつものアパートのベッドで目が醒めた

「あはは、やっぱ夢かあ~~」っと思いつつ
ふと思ったのは、どちらにせよ私はこの世界に家などはないと言うことだ
なるほど、ありがたいことに雨露をしのぐ部屋を借りることは出来ているが
どっちにしてもこの世界に私は永遠にいるわけではない

たとえ、自分名義の屋敷があろうが、墓があろうが、子孫が生きていようが
関係ない

いつかここから去る日が来るだろう・・・・
明日なのか?1分後なのか?10年後なのか?は知らないけど・・・

          そしたらこの世界には二度と帰ってきたくはない
            だってこの世界には、
             わたしのための誰もいないし何もない

               わたしのホームはこの心臓の鼓動だけ

        だからここには、何の義務も、  帰ってくるべき義理もない

これはカッコ良すぎる!
男性がとった素敵な行動に…バラの売り子さん大号泣!


昨夜はこんな素敵な話題を目にしたあとベッドに潜り込んだ

眠りにつく前に思ったのは
「なあんだ!瞑想と愛って究極的には同じじゃん!!」

っという、OSHOの言葉の追認だった

これを確認するのは極めて簡単で
自分が日常で接するもの、すべてに対して
ありったけの覚醒を持って接してみれば判る

あるいはその逆に、自分自身が
ありったけの注意深さで人から接せられることを
イメージしてみれば良いのだ   ・・・すると

「意識的である」 ことと 「愛情深い」 こととは
ほぼ同じであることを実感出来るだろう


ではこの反対に、「無意識的な」接し方とはなんだろうか?

それは、顔の筋肉を使っただけの笑顔であることがわかる
愛に似て非なるものこそが、もっとも、愛から遠いものだ


つまり、“顔芸” によって“世の中を上手に渡っていく” ことこそが
もっとも愛から、そして瞑想から離れた生き方だ



人間という生き物は、亀と同じく
内骨格と外骨格の複合した生命種だと以前書いた

ただし、人間の甲羅は一見、目には見えない

その外骨格とは肉体に直接付随した甲羅ではないからだ
文明という甲冑こそが、人間という生き物を地上最強の
生物種にのし上げたのだ

ところが、文明によって“外的な脅威” に対して最強になったあと
人間はさらなる恐ろしい“敵”と出会うことになった

   それは、“同種” つまり人間だ!!

これによって人間はさらに柔軟で、さらに強力な甲羅を必要とした

   それが、人間関係という “社交的文化” だ!!

わたしはこの、“人間の同種同士の甲羅=プロテクター” をジンメンと呼ぶ

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人間の「顔」・・・  顔の表情・・・  社交的駆け引き

これこそが
地上で最も恐ろしい悪魔的生物、・・・・

  ・・・・〝同種である人間〟から
       我が身を守るための最強の甲羅だ

公家の剃った眉毛も、真っ白く塗った顔も、表情を読まれないための
政治的な装甲なのだ

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しかし、最強のアーマーであるジンメンは
「生きたまま相手を喰う」だけではなく、
それは、いつしか自分自身の素顔までをも
「生きたまま喰ってしまう」のだ

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人は生きたまま、自分の顔に喰われる
つまり、自分の素顔、自分の本音を思い出せなくなってしまうわけだ


ある意味でこの「ジンメン」と対を為すのが「シレーヌ」だろう
美しい白い羽根と、甘美で豊満な乳房を持つ悪魔だ

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彼女が象徴しているのはちょうどジンメンと正反対の
官能的な野生の愛なのだとおもう

「愛は惜しみなく与え」「愛は惜しみなく奪う」のだ

彼女の乳房が誘う性的な欲望は、同時に
セックスが、死と不可分な関係にある事を意味している

たしかに性を交わしたからと言って、
男も女も即死するわけでは無いが
「次の世代を産み出す」という行為それ自体が、
「個体としての自己の死」つまり世代交代を暗示している

性と愛の要求するあまりにも大きな代償とは、「いのち」なのだ
真実の愛は、「顔の表情=ジンメン」では決してかすめ取ることは出来ない

男は恋にロマンスを求めるが
女は妊娠出産、そして、その後の人生のすべてを賭けて
男性と接する故に、女は男に「ロマンティックにさせる」ことには
神経を注ぐが、決して女自身はムードに流されるわけには行かないのだ



そこに、愛の残忍さと、愛の神々しさがある
https://livedoor.blogimg.jp/gocky_z/imgs/f/f/ff2d52af.jpg
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豊臣と徳川との決戦とは何を意味するのか?

“豊臣”という言葉は「豊かさに仕える」と書く
いかにも現代における商業都市、大阪を象徴する言葉だ

一方、“徳川”とは、その文字が意味するように
聖徳太子からの流れ(川)を象徴した言葉だ

秀吉とは、「優れている(秀才)である事が吉」と書く
一方、家康とは「健やかなお家制度」と読める

この闘いでもし、豊臣が勝っていたら???
その後の日本がどの様な社会になっていたか?

江戸時代はなく、大阪の商業を中心とした
経済が主体の国家になっていただろう

江戸の幕藩体制は結局の所、大阪の商人達による
「(当時の通貨の基軸である)米の証券化」によって崩壊した

1/4 「金融ビッグバン、ユダヤの巨大カジノに日本人はカモられる!?」
- ニコニコビューア


そして、明治維新以後、日本は第二次大戦での敗戦を挟んで
現代に至まで、エコノミック・アニマルと揶揄される社会を突き進んできた

つまり、これは
スター・ウォーズ エピソード5/エテ公の逆襲
Star Wars Episode V: The Etekou=秀吉 Strikes Back」なのである

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さて、だから天下分け目であった“関ヶ原の戦い”の浄化
意味するところは

スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還
Star Wars Episode VI Return of the Jedi

っと言うことになるだろう

映画「スターウォーズ」シリーズにおいて
一応の締めくくりとされたこの回のテーマは

          「武器よさらば」そして
           「家族愛の復活」であった

アナキン・ウォーカーが暗黒面に引き込まれた原因とは
母を慕うこころだった

「家族愛」がアナキンをダースベイダーにしてしまったのだ

息子のルークは、ベイダーの前でライトサーベルを
投げ出すことによって父親であるアナキンのこころを
暗黒面から救出することに成功した

 これがジェダイという宗家の「徳=フォースの川」の完成であり
 フォースの家系、血脈の復活  ・・・「家康」であった

関ヶ原の“関”とは脳幹にある“関所”のことではないだろうか?
“原”とは、脳の各分野のことのように思う

この脳の関所に何が通り、何が通らないかによって
脳の状態は大きく変動する
・・・・つまり、個々人の意識状態こそが、「決戦のゆくえ」を左右する

今年の末に公開予定の「エピソード7:フォースの覚醒」が
どういう意味を持つかが興味深い

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