We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年04月

もし人生の楽しみ方を知っていたなら
あなたはそんなにお金に、取り憑かれることは、ないだろう。



    覚者が一杯の茶をすする

     まだ目覚めていない人が一杯の茶をすする


  さて、何が違うだろうか?

         ・・・・・・・何も違いはしないだろう


単に頭の中に
  強迫観念が取り憑いて   ・・・いるか?いないか?だけの違いだ

OSHO 自分自身を愛しなさい。

なぜ他人に理解を求めるのか?
なぜ他人に理解を求め、承認を求め、それが得られないと
ヘコむのか?

・・・それは、まずは根底として〝自分が自分を信じたい〟からじゃ無いか?

   だったら、他人を迂回せずに、周囲を鏡として利用せずに、
   きょろきょろすることも無く、占いを迂回する必要も無く・・・
    ただ、もてばいい!!  ・・・自分自身への信頼を!!!

しかし、
 誰かが同意してくれた方が心強い?
 賛同者が居る方が自信が持てる?  それは本当だろうか?

 誰よりもまず、自分が自分を信頼してこそ、全てが動き出すのでは無いだろうか?

  だって、思いだしてみればいい

                自信に溢れた人が居て・・・、
   自分自身をまずは、   強く信頼している人を見て・・・

     それで、あなたもその人を信頼できるのじゃ無いだろうか?

      その逆に、多くの賛同者に囲まれて安心している人を見て・・・
        それで、やっとこさ胸を張ってみせる人を見て・・・

      そんな人をあなたは信頼できるだろうか?

    信者やら、サポーターやら、お友達やら、権威者に囲まれて、
               周りを見渡して、やっと安心できる人を見て??

     ・・・・・あなたの自信は多数決で決まるのか?

     ・・・・自分自身からの信頼よりも他人からの信頼の方が価値があるのか?



これは愛に関しても同じだ

自分自身を愛せない人は誰かに愛を請う・・・

自分自身を肯定できない人は、うぬぼれに走る
うぬぼれとは、ニセモノの、誇張された自己肯定だ・・・・

   ・・・・・そんな〝愛〟そんな自己肯定で
              何か〝根付く〟ものがあるんだろうか?

エゴとは、外向きの自己愛だ

自己愛とはその字の通り、内側に向かってこそホンモノで
  外側・・・ 「誰か」や「何か」に向かって叫ぶ自己愛とは、
         ただただ、選挙カーのスピーカーの様に姦しい・・・

「他人に向かって主張を繰り返す自己愛」・・・それ自体が言葉の矛盾だ

世の中の醜いもの、見苦しいものの殆どは、そういったものだ・・・・

尻が痒いのに、膝をかきむしって、血が出ている・・・・
自分の尻が痒いのに、他人の尻を追いかけて掻いて上げようとする・・・・

そんなアホな毎日を今日も送る私たちであった・・・

尻が痒いなら、その痒い自分の尻を掻けば良いだけだ

TVドラマ「この世の果て」で、
鈴木保奈美演じるヒロイン:砂田まりあは
三上博演じる孤独な天才ピアニスト:高村士郎との関係を問い詰められて
以下の様にうっとりと答える

「愛だなんて陳腐なものじゃないわ!」
「彼は私を『必要だ』っと言ってくれたの・・・」

なぜ〝愛〟より〝必要性〟の方が
砂田まりあのこころを揺さぶったのだろうか?

・・・ここに「孤独の正体とは何か?」という手がかりがある

   人は自らの「無価値さ」「無力さ」と直面することに
   堪らなく孤独を感じるからなのだ

人に「必要とされる」時、自分には存在価値がある! っと確信できるからだ

「愛される」ということよりも、それは大きい

なぜなら人が与えてくれる愛とは、次の瞬間、その人の気まぐれで
引き揚げられてしまう可能性があるからだ

  私たちの心は、もっと永続的な確かな絆が欲しい・・・

   ・・・それが、「必要とされる」ことだ

例えばアフリカの餓えた人々・・・、
例えば捨てられて死にかかっている子猫・・・・

そういった存在が、命がけであなたの救いを求めてきたとき
あなたは立ち去り難くなる・・・  

  胸が締め付けられ、目にいっぱい涙が溢れる
   可能であれば、救いの手をさしのべたいと思うだろう・・・

あなたは「優しい人」だから?

・・・ 少なくとも「砂田まりあ」は〝優しい女〟としては描かれていなかった
    彼女は、幼いときに親の愛を確かめたくて自宅を放火し、
     妹を失明させてしまうという大きな心の傷を負っている女だった

高村士郎の、
自分の存在意義そのものをまるごと疑っている姿と
砂田まりあ自身の
自責のトラウマが重なり、
その中で救いを求める士郎に心が揺さぶられたからなのだ

   ・・・自分の存在価値を疑うこと程、深い孤独の闇は無い

  その「深い孤独の闇」に震える二人が出会い、求め合ったが故の
  二人の絆だったのだ

  砂田まりあにとって、高村士郎から「必要とされる」こととは
  捨て猫に必要とされることとは違っていたのだ


あなただけの流した血 投稿者 maneel-katal

まりあにとっては、士郎の〝求め〟は、
自分の魂の分身の慟哭の様に感じたのでは無いだろうか?

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でもしかし、
「必要とされる」ことが、それ程までに神聖なことなのだろうか?

確かに「強い絆」ではあろう・・・「救世主と信者」「羊飼いと羊」のように・・・
                    ・・・・たしかに〝動機〟がハッキリしている
                      ・・・・たしかにその必要性は命がけだ

でも敢えて言うならば、
この憐れな必要性のシリアスさは「餓え」ゆえである

(※ なぜ、日本人は不純な動機で結婚してしまうのか?

それが、「お金や食べ物」であるなら砂田まりあでなくても良かった
それだったら、豊川悦司演じる、神山財閥の御曹司がいくらでも代役出来る
彼女はこれ程は高村士郎に関わらなかっただろう
実際このドラマ終盤では、落ちぶれた高村士郎が神山を強請(ゆす)りに行くシーンがある

士郎の「餓え」は高名なピアニストでもあった自分の
全実存をなげうった全身全霊の求めであったが故に、
まりあは離れることが出来なかったのだ

しかし、それでも敢えて言えば、全身全霊なものであるにせよ、それは〝餓え〟だった

残酷な言い方をするなら、士郎も、まりあも、互いに〝乞食〟だったのだ
しかしそれは、「〝魂からの〟餓え」であったが故に、〝崇高な愛〟に見える・・・
ここに、この物語の悲劇性のエッセンスがある様に思える



このドラマに限らず、現実の人生でも
魂からの慟哭がそこにある以上、
わたしたちは狂おしい程に〝生〟にしがみつくだろう

どれ程自分を投げ捨てようとしても、否定しようとしても、
そこでは自意識が慟哭し続けるだろう、
そして、地獄の様な孤独に苛まれ続けるだろう

その、自己否定感には狂おしい反作用が起きるに違いない
「死の覚悟」は、その何十倍の「生への執着の業火」となって、
自分と周囲の人間をも巻き込んで苦しめ続ける

一回の人生で足りなければ、何度でも・・・

私は男に生まれているので、女性はどうなのか? ・・・分からないが
少なくとも男性の多くは、孤独感が性欲へと転向する
しかも健全な性欲では無く、ただれて、倒錯した性欲として噴出する



わたしの精神世界への入り口は、ノーシスという性エネルギー昇華を
目的とした秘教団体だった

セックスのエネルギー、クンダリーニの昇華が如何に重要か?
というテーマと最初に向き合わせてくれたのはこの団体だった

いま思うなら、このテーマの選択そのものはとても的を得ていたと思う
これこそが、人生のアルファーで有りオメガとも言えるテーマだと思う

しかし、テーマの選択は正しくとも、これ程までに深い内面の旅を
必要とする〝秘教〟もまた、無いのだ!

ノーシス=ミゲル・ネリ氏が教えていたのは、あまりにも教条的な
方法論に囚われすぎた教えだった・・・

            ・・・・そしてその最終目標は「超人」の生成だった

  ・・・その後、「ノーシスの卒業生達の多くがオウムに走った」と風の噂で聞いた

    かたや私は、バグワン・シュリ・ラジニーシの「セックスから超意識へ」という
           本との出会いを果たした

セックスから超意識へ (1982年)
バグワン・シュリ・ラジニーシ
ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン
1982-02



今日ふりかえってつくづく思うのは、
「ハートを伴わないタントラは単なるカルトへの転落でしか無い」ことだ
それら転落の谷底とは、〝自己否定〟という奈落なのだ

私たちは皆、セックスから生まれてきた

両親の恍惚の光を通って、この世界に肉体を得て、
それが私たちの存在そのものなのだ

それゆえ、「自己存在の否定」とは、「光の否定」と同義なのだ

わたしたちは自分自身への愛を、死に物狂いで探し当てなければいけない
その上で、セックスの抑圧とは、探索の道の破壊そのものなのだ

いきなり「エゴとは錯覚だ!」と叫んで自意識を切り倒そうとしても無駄だ
睾丸を切り落とし、物理的な性欲を切り落とすことも馬鹿げている

それは、自然な成長のプロセスを経て、充分な熟成によって真っ赤な実に熟せば
自然の法則に従って自然にポトリと大地に還る

その成長のエネルギーこそがクンダリーニなのだ

つまり簡単に言えば、
「自己否定」によっては「無我の達成」は不可能なのだ!
言葉上は一見似てはいるが、正反対だった・・・!!

それが砂田まりあと高村士郎のシリアスな関係に
いっけん深い真実の愛がある様に見えて、
しかしこの物語が悲劇で幕を閉じたポイントなのだ


「性の超越」とは、「孤独の超越」と極めて近いところにある
そして、「宇宙への開花=エンライトメント」と不可分なテーマなのだ

私たちは「孤独」という闇に迷うなら、確実に性の底なし沼に引きずり込まれる
しかし、
だからといってセックスそのものの否定は
自分の唯一持つエネルギーの否定でもある・・・  
ところがわたしたちは、
この自分自身の唯一のエネルギーとの格闘によって、力尽きてしまう

セックスとは底なし沼ではあるが、
これはブラックホールであると同時にホワイトホールでもある

  「トンネルを抜けると、そこは雪国・・・」これはホワイトホールのことだ

しかし、この「トンネル(産道)をくぐる」ことは大きな苦痛が伴う
そしてその新しい雪国から新しい「生老病死」が始まる

でも、孤独の超越によって、
そんな苦しみを繰り返す必要など無くなるのだ・・・

その「性の泥沼」と格闘するのでは無く、それを自らの養分にしたとき
そこから蓮がスクスクとまっすぐ育ち、開花するだろう

これが、性エネルギーの昇華だ

泥沼=性というのは「穢(けが)れ」では無かったのだ!


  〝必要性〟に取り憑かれている間は
   〝超越〟も〝昇華〟もおぼつかない

そして、超越した〝フリ〟をすることで、何人かの信者は獲得できるかも知れないが
それは自分自身のためには、手枷足枷でしか無い

じゃあ、〝超越〟とは何か?っといえば、私たちはスーパーマンを連想する
セックスの超越ならば、「性欲を完全にコントロール出来る」こと
食の超越ならば「仙人の様に食べなくなる」様なイメージを持つ

でも実際、「食の超越」とは、「不食」なのではなく、
「自然な求めに応じて食べること」なのだ

拒食や過食に走るのでは無い・・・  両極端に取り憑かれるのでは無い・・・・

むしろ不自然にコントロールしようとした結果こそが
「必要性に取り憑かれた餓鬼」を生みだしてしまうのだ

健やかな身体がそこにある以上〝必要性〟は、死ぬまで必ず生じる・・・
   ・・・しかし〝必要性〟に取り憑かれさえしなければ、
      そこには   ただ、ただ、自然な流れだけがある

            それが、〝超越〟なのだ

  それはセックスにも当てはまる

   まったくセックスをしないことでも無い、
    セックスを意のままにコントロールすることでも無い

それは、超人的な神話を好む男性達にとっては、ちょっとつまらない話だろう
男の子達は、小さいときからヒーロー物語が大好きだからだ

しかし、
その幼い憧れが・・・
超人的なヒーローを求める幼稚さが・・・
・・・救世主の物語を求め続け、作り続け、しがみつく心理的動機になっている


  この「人類の幼年期」を続けられる時間は、もう尽きたのじゃないだろうか?

   子供達のヒーロー伝説、英雄への憧れは、
    その救済を求める多くの「迷える子羊」を必要とした・・・
                   ・・・「救世主物語の成立」のために

もういい加減に
この様な物語をエンドレスで作り続けて
孤独を埋める愚かさ


                ・・・目覚めるときが来たのじゃ無いだろうか?

わたしは長い間、
人から理解されない恐怖
人に必要とされずに無視される恐怖と闘ってきた

しかし、わたしは幸運にも
他人を理解することに長けた人物、
人に必要とされて追いかけ回される人物を
間近で見るチャンスに恵まれて
「他人から必要とされる恐怖」も目撃できた

多くの人が、お金を追いかけ回さなければならない苦痛を
体験しているだろう

でも、わたしは幸運にも
お金から追いかけ回される苦痛の人生も
ある具体例を聞く事が出来た・・・・

そして思うのは、他人を羨むことは本当に愚かだと言うことだ

(※ 質問  嫉妬とは何ですか

敬愛するOSHOの人生でさえ、ある意味では羨ましくはない
ハタからみて素晴らしい人生ではあるが、マネなんぞしようものなら
とてもじゃないけれど、多分耐えられないだろう

人は皆、他人の人生の部分的な断面だけを観て羨ましがるが
その結果、自分自身の人生を全うすることが出来ない

これこそが人間の孤独感の根底だろう

例え今回の人生が終わっても、この地上に舞い戻ってこなければ
気が済まなくなる・・・

温もりを求めて、また、馬鹿な両親を探してそのセックスの中に
潜り込まなければイケナイだなんて!!!

      ろくでもない  全く馬鹿げている!!!

もういい加減、自分を試していじめるのはやめるべきだと思う

わたしは今回生まれてくる上で、

  「誰にも、何にも成りたくないということ」
   「何も偉大なことを成し遂げたい分けではないということ」を
       ・・・この地上で生きている間に何とか思い出したい!

          そんな悲願を抱いて生まれてきたに違いない・・・・

だから、
「大人になったら何になりたいか?」という
学校の作文課題に、常に白紙回答していたのだ

それで正解だったのだ!
そんな小学生だったときの自分の勇気に、
いまはエールを送りたい

しかし、その勇気は忘れられてしまった
充分な自覚が無かったが故に、
たとえ〝正解〟であったにせよ、私本人が
明確に正解であったと確信が無かったのだ

・・・その確信を得るために52才までかかってしまった

ひとつの区切りが付いたのだ

私は
誰にも成りたくない
何も成し遂げたいとは思っていない

人に伝えるべき事、人に理解を求めるべき事など、なにもない

そう明確に自覚することが
もっとも成りたかった自分で有り
もっとも成し遂げたかった事だ

わたしは本質的にニートの魂、ヒキコモリの男だ

それをもう、恥じるのをやめたいと思う

  それで、   ・・・・よかったのだ

そんな自分自身に「いいね!」して上げたいと思う(笑)

でなければ、こんなアウトローの私に
 誰も「いいね!」なんかはしてくれないだろう
  いや、してもらっても、何の意味も無い・・・・のだ

  それが、   ・・・・わかったのだ

前記事と関連した話なので連投する

ひとつの記事に詰め込んでしまうと、それだけ内容は濃くなり
有機的な繋がりを持たせることが出来るのだけれど
それはこのブログを読んでくれるあなたを疲弊させてしまうだろう

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国家の単位で考えたとき
個々人は使い捨ての働き蜂で有り、切り捨て可能な部品と見ることが出来る

いま、少なくとも名目上は民主主義の時代ではあるから
司法の場で個人が国家を相手に賠償請求することだってある

でもそれだって、全くの個人の我が儘を聞いてくれるわけでは無いから
国家と個人とは対等では無いと言えるかも知れない

国家というのは、実際は人格なのでは無く、個々人の集団が形成する
単位なので、国家を個人が訴える場合、実際には多くの人々の公共性に
照らして、その個人の訴えが公共性を持っているかということが争点になる


個人の訴えに公共性がある場合、それはつまりその個人に起きたトラブルが
誰にとっても起こり得る要素を孕んでいるから「公共性がある」わけだ

そのとき、その個人は全ての人々の縮図である

もちろん性別、年齢、職業・・・これらは人によって違うが、
たとえば理不尽な暴力を受けた場合、それを国家がサポートできないならば
他の「理不尽な暴力を受けた個人」が現れても、その国家は何もしてくれない
と言うことを意味している

もちろん個々人の我が儘を無限に聞いていたら国家は破綻してしまう
人と人は皆、シチュエーションは皆違うのだから、「平等」であることは
実現不可能だが、「公平」であることなら可能だし、それは必要不可欠だ
「不当な差別」は公平ではないが「正当な区別」がなければ、
男女のトイレの区別さえ無くなってしまうだろう

「壁」を全て壊せば「平等」にはなるだろうが、性別、年齢を含め、
個々人の違いが尊重されない・・・

    ・・・・「公平」には「壁=区別」が必要なのだ

だから天皇陛下が人間宣言をしたと言うことが、即、何から何まで
人々とまぜこぜにすると言うことではないし、「日本国民の象徴」としての
お役目を担ってもらう事に、日本という国家、国民の代表である政府が
それなりの処遇をするのは当然なのだ

・・・べつにそれが「民主主義に反する」事なのではない


「国家」というのは、その字の通りひとつの大きな「家」だ

大きすぎて「家」には見えないが故に、人間の姿をした象徴が必要なのだ
だから天皇家とは、一種の「ひな形」だとも説明できる

天皇家とは西欧的な「支配する一族」ではなく、「かがみ=鑑」だ

1/2 戦前の日本はユダヤの理想

ジャン・ジャック・ルソーが言うところの「君民共治」を象徴するものとしては
六十四卦の「風沢中孚(ふうたくちゅうふ)」が思い浮かぶ
親鳥と雛とのまごころを仲立ちとした関係だ
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何かの「主義」とか「信念大系」とか「実利」が、他人同士をつなぐ
強い絆となるが、本当の絆とは風沢中孚が表現するところの
「空」を仲立ちとした密着性だ

天体の運行が人間の運命を左右しているらしい?
だったらそこに何か重力波が?それとも微細な電磁波が?介在しているのか?

私たちはすぐに、「介在する〝もの〟」を憶測する

しかし、そこに「空=クリアランス」「適度な距離感」があるからこそ
互いの慈しみが生じ、絆が生じるのでは無いか?っとはナカナカ考えない

空間とは、
「AとBとを引き離す」だけではなく
「AとBとを結びつけている」ものでもあると私は思う

たとえば、金魚鉢の中の二匹の金魚を思い浮かべれば良い
そこに水という空間があるからこそ二匹の金魚は生きることが出来、
それぞれが自由に泳ぎ回る事が出来るが、それと同時に
金魚鉢のなかのひとつの世界を形成しているのだとも言える

ひとつの環境を共有しているのだから、その金魚鉢の中の水の状態を
調べれば金魚たちの状態はある程度察しが付くし、二匹の金魚は、
互いに「わかり合おう」としなくても互いの状況に察しは付く
同じ生活環境を感じているのだから・・・

つまり、これこそ「パイシーズ=魚座」の世界観だ

仏教で言うところの「阿吽(あ、うん)」もこんな世界観だと思う

本来空間には「境目」はない、空間を物理的に切り裂ける刃物など存在しないのだ
なぜなら刃物自体が空間の一部だからだ・・・

ディメンジョン=「壁」とは人間のマインドのみに存在している
それは、動物同士の「なわばり」から進化した幾何学的な概念だ

この「区分け」ゆえに、シンクロニスティーはオカルティックに考えられてきたが
野生の生物にとっては別に大げさな話ではない

弱肉強食という見かけ上の厳しい生存競争はあっても、
「喰うもの」 「喰われるもの」 同士でさえ、同じ生態系で隣接する家族なのだ

  ・・・それゆえ、自然のリミッターが働き、無益な殺生など動物たちはしない
     動物たちには冷蔵庫は必要ないのだ


この空間を共有するもの同士、すべてが、家族として繋がっている
家族がわかり合うことに、何の因果関係も必要ないし、不思議もありはしないのだ

いま、わたしたち人間も、この〝当たり前の一環〟に帰ろうとしている

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