We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年03月

『ウイルス君、ばい菌ちゃん、
あなたたちを悪者にしてしまった人間を、お許し下さい』


風間 夕夜 イスラムの砂漠圏に住む人は、日本人から見れば
「水のない不毛の地に暮らすなんて大変だね~」っと思う

ところが彼らからすれば日本は
「あんな多湿なバイ菌だらけの所によく住めるね」っと思っているそうだ

要は「善玉菌」とか「悪玉菌」ってのも人間の勝手な定義なんだよね

その定義をあたかも絶対的な正義の様に振り回している以上
戦争は終わらない



OSHOが絶賛してくれた〝禅〟が、なぜその故郷である我が国で
廃れてしまったのかと言えば、西洋的な唯物主義と、その定義の
前に戦争で屈してしまったからだ


戦争という暴力のステージの上では、西欧のロジックの世界が
勝つに決まっている・・・

「定義」は常にそのホームグランドがある
野球にルールがある様に・・・
「言語」にもそれを使う母国がある様に・・・


日本の神道も、インド発祥の仏教も
莫大な大系や専門用語はあっても、その根底には

   「無」

が広がっている

しつこい様だけれど、
「無」とは不在ではなく存在全てだ、闇ではなく光だ

そこで唯一、存在しないものが、我々人間の為した〝定義〟だ

〝定義〟も、そのボディーは「無」の世界で存在はできる
しかし、「何も決まり事、思い込みが無い世界」とは

まるで、霊界であり
それは、無限の世界でもあるために、もはや「定義」によっては何一つ
束縛することは出来ない

何度も書くけれど
霊界、あるいは無限世界、ゼロ次元世界に唯一存在しないのは
「壁」である----

   そのもっとも具体的な顕現が・・・

  ・・・・つまり、この私たちの住む三次元+時間の世界において
     最高の発明品が「壁」なのだが、・・・

    それは「言葉」→定義、概念なのだ

私たちの祖先は、この強力な武器によって世界征服に乗り出したのだ
つまり私たち人間は

     「冒険と発見と開拓の旅」に出発した

・・・・そして、
   「旅路の果て」・・・  「世界の果て」・・・
     つまり「地球人類の滅亡の危機」まで辿り着いて

        わたしたちは気が付いた

      我々の最大の敵は、自然ではなく、
       何でもかんでも敵だと思い込む
        「我々のマインドの暴力性それ自体」なのだ

暴力からの解放
J.クリシュナムーティー
たま出版
1982-01



    これこそが私たち自身を自滅させかかっている
     映画「マトリックス」や「ターミネーター」で描かれている
              「人類の敵」のラスボスとはこれだったのだ

  だから、
   だから〝ユダヤ陰謀論〟というのも部分的な問題に過ぎないのだ


私たちが使っている “ことば” 〝定義〟〝概念〟 というのは
実に便利なツールで有り、そして武器なのだが、
いつしか私たちはこのツールに頼りすぎて、
自分自身のアイデンティティーすら
飲み込まれてしまったのだ

あとは、〝かれら〟が独自の生物種の様に、どんどん勝手に増殖している

私たち人間の生殖行動さえ、〝かれら〟が、宗教や政府という姿を得て
コントロールしている

「これは良いこと」「あれは悪いこと」
「これは善玉菌」「あれは悪玉菌」

・・・・そういう全てが身勝手な〝定義〟だ

  そこでわたしたちは再び〝禅〟〝神道〟などの示す「無」に
  帰り着こうとしている

その最後のハードルとは、「無」とは「何も無いことだ」という概念だ

日本人の「無念無想」への憧れ、「和の精神」「潔癖主義」へのこだわりは
最後のつまずきになっている

「無」とは、日本の禅僧が着る「黒」ではない、「闇」ではない
「黒」の否定感とは、本来は「壁(思い込み)」に対する否定観なのだと思う

            しかし今は、葬式の時の「お悔やみ」の礼装
                  と言う意味でしかなくなってしまっている

衛生面を気にしないと、食中毒などがすぐ起きる我が国の
風土の中で暮らす上で、いままで日本人が潔癖症だったのは
やむを得ない生活の知恵だった

しかし
   バイキンだろうがゴキブリだろうが、人類が存在する前から
   ずっと存在してきた大先輩である

   それを人間が自分の都合で名付けてイメージ化し否定したときから
   かれらとの「仁義なき戦い」は始まったのだ・・・・



21,Giving
   与えること
 いまこそ開いて、けちであることをやめて、
 自分がなしうるかぎりのことを、
 自分がもちうるかぎりのものを与えることです。
 あなたのありあまる愛を、
 あなたのありあまるハートを与えることです。


 マリー・マグダレーナを覚えているだろうか?
 私には、彼女だけが本当にイエスについて行った人のように思える。
 彼女の真正さは途方もなかった。
 
 ある日、彼女はやってきて、
 非常に、非常に高価な香水をイエスの足にかけた。
 
 
 ユダはその場にいて、その機会を逃さなかった。彼は言った。

 「いいですか、あなたは彼女を止めるべきだったのですよ!
  これは無駄です! 
  あのオイルは非常に高いのですよ
  ……売ることだってできたのです。
        人びとは飢えています。

 それに、この香水は非常に高いのに、なぜ
         それを無駄にするのですか?」
 
 論理的に見える。
 だが、イエスはなんと言うだろう?

  イエスが言うことは非常に非論理的だ。
  彼は言う。

  「貧しい人たちは常にいる。私が去ったら、
  お前が彼らの面倒を見ればいい。
   お前にはこの女性のハートがわからない。

   彼女に香水をかけさせるがいい
   --高価か、高価でないか、
   それは関係ない。

 私は彼女のハートのなかにすばらしいフィーリングが
立ち昇っているのを見ることができる。これが祈りだ……
私には彼女の祈りを邪魔することはできない」

 マリー・マグダレーナにはハートの美しさがあることを
 イエスは理解した。
 イエスが見ているのは香水ではない

 ---彼はその女性のハートを見ている。




       ZEN:THE PATH OF PARADOX.Vol.3,p.312
      THE WISDOM OF THE SANDS,Vol.1,pp.265-266

「火の鳥」~全ての過去が焼け落ちたとき
~からの続き的な記事です

・・・・過去~「既知、既成の記憶」と言うクサビ、
    自己規定から自由になると言うことは

・・・・・未来~「未知、希望への期待」と言う虚構
  自己の「予測性の解放」も意味する

それは
「どこにも行くな」「何もするな」という禁止なのでは無い・・・
・・・むしろ、あらゆるタブーの彼方に飛び去ることになる

しかし、結果としては、
「どこかに行かなければいけない」という焦りも
「何かをしなければならない」という不安からも
・・・解き放たれることになる

今まで歩いてきた道を終始一貫してこれからも歩き続ける必要は無いのだ
「誰か」「何か」の為に終始一貫する方が信用はされるに違いないが
もうそれは〝外側の世界〟の為に“内面の霊感”を抑圧した生き方になってしまう

だから、アートマンであるということは、ボヘミアンの生き方以外あり得ない


OSHO_ Creativity Is the Greatest Rebellion In... by maneel-katal

  ただし〝ボヘミアンである〟ことを、単にカタ通りに解釈するべきではない

    〝ボヘミアン〟という言葉は通常「故地喪失者」などと訳される
    もうちょっと新しい表現なら〝ヒッピー〟であり、私の世代では
   「フリーター」・・・   今の日本では「ホームレス」というよりも
   「ニート」「ヒキコモリ」という感じだろう・・・必ずしも物理的放浪者ではない

ああ・・・・  なんてこった・・・・

私たちはいままで、「時間と空間」の継続的な前後関係から物事を判断してきた

「いまここ」というと、従来は一種の神秘主義として聞こえてきた

しかし、それは私たちの親の世代が途轍もなく愚鈍で独善的であったため、
そう見えただけだった!!!!!


OSHO_ Bringing Up Children (Preview) by maneel-katal

ニートのような、親の脛をかじるという行為は、
わたしたち(親の世代の人たち)の心配や恐怖



わたしたちは「火の鳥」として飛び立ってみると、全ては一目瞭然であった

「石のことは石に訊け・・・」

  単純に・・・、  いまここで・・・  
あるがままのものを「率直に見る」「素直に触れて、感じ取る」と言うことが、
もっともダイレクトな物事の理解のしかただ・・・・と言うだけだったのだ!!



  「未来について何の計画も、策略も、予定調和もなく、
                 未来に対してOPENに生きる」・・・

  「完全に過去から自由な、新鮮な創造性に生きる」  こととは

            ・・・・「今この瞬間に生きて死ぬ」
     フレッシュに出会い、その場で全部終わりにする

                            ことと、  同義だ


だからこれは「武家文化」と接する死生観だ
そしてこの死生観は当然、仏教と無関係では居られなかった

   ・・・・そうして生まれたのが「禅宗」だ

明日の合戦で死ぬかも知れない武士達にとって
死後や来世の極楽や地獄を問題にするのは、「気休め」にすぎない


OSHO_ Anybody Who Gives You a Belief System is... by maneel-katal

〝死〟は
いまこの次の瞬間に襲ってくるかも知れないし
         十年、二十年後かも分からない

この生まれてからずっと私たちを悩ませる気まぐれな
絶対的恐怖の運命に対し、いったい私たちは、・・・
                    どうしたらOPENでいられるだろうか?

・・・もし、  その解答が難解な哲学であったり、修行での会得ならば
                 何と人生とは理不尽なものなんだろうか?

  つまり、「今この瞬間」であっても、わたしたちは「死」を
     受け入れざるを得ないのかも知れないという厳粛さを見つめれば

難解な哲学や修行体系など、何の役にも立たないことがハッキリする

「あ~して」「こ~して」だなんて言うことをやっていたのでは
時間切れかも知れないのだ・・・・

「今この瞬間」のちいさな時空間の一点の中に全人生を投入して
「いますぐ出せる解答」こそが
「次の一呼吸には死を抱きしめられる」、唯一の解答なのだ

   ・・・・つまり答えは永遠に「いまここ」以外には存在し得ない


新しい人間は、大いなる量子的跳躍が可能な段階にやって来た。

あなたは自我(エゴ)ではない。 この純粋な意識、中心のなかに留まりなさい。


これに、「ストラヴィンスキー 火の鳥 小澤征爾」
それから手塚治虫のアニメをコラボ

で、こんなんなりましたぁ


全ての過去が焼け落ちたとき 投稿者 maneel-katal

「お前は誰だ」と鏡の中の自分に問い続けると
「心神喪失状態になって危険です」とのこと・・・

でも、そもそもなぜ私たちは鏡で自分の顔を覗き込むんでしょうか?
なぜ自分の顔を覗き込むことに興味があるのでしょうか?

それは、自分の顔の奥にこそ、宇宙が広がっているからではないでしょうか?


クリシュナムルティーはデビッド・ボームとの対論において
冒頭、こんな風に切り出してくる

「自我こそがあらゆる無秩序の原因ではないでしょうか?」


Jiddu Krishnamurti _ The Roots of Psychological... by maneel-katal

この言葉を聞いたときにまっ先に浮かんだのは
3.11大地震の直後、整然と列を並んで物資を買おうとしている人達だった

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/74/cab50f7444c6f2033d36b284d385de5e.jpg

私もこう言う報道映像を見て、胸が熱くなり、また日本人としての誇りを感じる
ひとりだ

だから思った・・・、
「あれ?日本人のこういった〝秩序正しさ〟というのが
クリシュナムルティーが言うところの〝自我の超越した姿〟なのかな?」

  しかし、それは違う・・・それは私たち自身がよく知っている

私たち日本人の大半が別に「エゴを超越した人々」と言うわけではない・・・
単に、「こうした方が効率が良いから」 に過ぎないと理解しているからなのだ

まあ動機は何にせよ、海外からは好評な姿だった様だ

この後、
親日国であるトルコでも被災したときには
「日本人の秩序を見習おう!」っというかけ声が上がった
のは
やはり嬉しいことには違いない

  でもやはり我々は、別段、エゴを超越した人々、っと言うわけではない

   じゃあ何かと言えば、
   「エゴが洗練された民族・・・」 とでも言うべきかも知れない

   私とシャンタン氏とで、デール・カーネギーの処世術について
   先日議論を交わした・・・

   シャンタン氏は
   「私の今のワークは、こういった日本人の〝儒教的な関わり方〟を
    脱するための段階なんだ」っという考えを聞いて、私も同意して
    カーネギーの言葉を紹介したビデオ投稿を削除した

   シャンタン氏の言わんとすることは私もよく理解しているつもりだ

   なぜなら私自身が、日本人のこういった「上っ面の優しさ」に
   葛藤し続けてきた、ぶきっちょな人間のひとりだからだ


日本人は、
「自分から進んで社会のロボット(奴隷)になりたがる」素養が
強い気がする

その最たる例が〝神風特攻隊〟かもしれない

私は彼らの様な英霊に対して、感謝と敬意は惜しまない
だからロボットだとか、奴隷だとかとは言いたくはない

しかし、反面よく言われるのは、日本というのは自由社会ではなく
〝最も成功した〟社会主義、共産主義ではないのか?〟っということだ

そもそも敗戦後の日本に進駐してきたGHQとはルーズベルトが信任した
〝ニューディーラー達〟だった

つまり敗戦後のニッポン改造とは、日本の社会主義的な改革だった

でもそれは妙に日本人の体質に合っていた要素があった
・・・それこそが「成功した社会主義国家」であり、官僚天国の社会だ

つまり天皇陛下を中心とした〝社会に〟「我が身を捧げる」「貢献する」という
ことが美徳の社会だから、それが「骨身を惜しまずよく働く社畜達の世界」と
なったフシがある・・・

官僚社会、すなわち「ホンネと建て前」を上手に使い分ける儒教的な社会だ

これは何も〝ニューディーラーのせい〟というよりも、江戸時代にすでに
ドップリ儒教に浸かっていたのだから、別に不思議なことではない

去年(2014)の7月27日のバガヴァンの発言
「日本人の霊的進化が遅れているのは日本人のせいではなく
ワンネスが日本人の特殊性に気が付いたのがつい最近だから・・・」っということと
非常に関係している様に思う

クリシュナムルティーが上記言ったことに関しては、別に日本人も例外ではないのだ
ただし、〝エゴのタイプがかなり特殊〟なのだというわけだ


かなり前にわたし自身がこのブログで書いたことなんだけれど、
それは、『日本人の〝冷酷な〟優しさ』についてだ

五木寛之の名作小説「青年は荒野を目指す」の中にこんな描写が有る
アメリカでは黒人は〝差別〟される

ヨーロッパでは白人の女性と黒人の男性とが平気で一緒に歩ける
なぜなら黒人は〝差別〟はされていない、〝区別〟されているからだ
      ・・・差別というのはまだ、同じ人間とみている

ヨーロッパでは黒人は人間と見なされていない、〝別種族〟だからだ

だからヨーロッパでは黒人と白人は一緒に歩ける・・・、
犬を散歩に釣れているのと同じ様な感覚なのだ


私たちは知らずに「ガイジンさん」に対して、もっと強烈な区別
をしている様なのだ

私たちは、〝ガイジンさん〟に対しては、割合フレンドリーで親切だ
外国の人達は日本に来るとはじめはそこに感動する・・・

・・・ところが、実際に日本に長期滞在すると、誰もが一様に
強烈な寂寥感を覚えるのだそうだ

わたしたちが〝区別〟しているのを、彼らは強く感じるらしい

  ・・・どうだろう?身に覚えはないだろうか?

別に「ここがヘンダヨ日本人」と言いたいのではないし、
外国から見た日本が必ずしも客観的で正しい評価だとも思っては居ない

何が言いたいのかと言えば、私たち日本人は
「外側と内側との使い分けが〝上手すぎる〟民族なのではないか?」と
言いたいのだ

  いわゆる、「ソツがない」と言う奴だ

私の様なアスペルガーというのも、一種のガイジンだ
同じ日本人としては、インサイダーだけれど、精神病理的にはアウトサイダーなのだ
だから、最初は日本人の優しさに感動した〝ガイジンさん達〟が、実際に日本に
長居していると、「何だか強烈に寂しくなる」のが、分かる気がするのだ

  ・・・どうしようもなく、絶対的に埋まらない溝を感じる

            例え表面的には〝優しく〟されてもだ


  それが、自分の家族、自分の両親に対しても感じてきたことだった

いつも「アローン・アゲイン」だった

この、「孤独感」の分析こそが、このブログを書いている上での大きなテーマだ
つまり私の人生の大きなテーマなのだ

新世紀エヴァンゲリオン_ 「まごころを君に」 より6分抜粋


そわそわするんだ by maneel-katal

ある意味で、「優しさ」ほど残酷なものはない

「お前が嫌いだ、あっちに行け!」ならば、アスペの私でも非常に理解しやすい

しかし、「お断りします」ではなく、「考えておきまひょ」という京都風の断り方には
面食らってしまうのだ (映画「ブラック・レイン」だったかな?)

なぜ嫌われたのか?断られたのか?
ありとあらゆる憶測をせざるを得なくなる、ループが頭の中で惨いほど錯綜する
やがて、すべてが憶測の域を超えて解答できないと分かると、全てが面倒くさく
なってしまう

  ・・・自分が 「日本人的な察しが出来ない・・・」

               アウトサイダーである事を、
                とことん思い知らされる瞬間だ


日本人は秩序正しい素晴らしい民族だ、っという、話の最初に戻そう

その秩序の向こう側に、本心が隠れて見えないのが

                      私から見た
                    ニッポンノヒトタチだ

あなたは微笑んでくれるだろう。
わたしも微笑み帰すだろう

あなたはわたしをハグしてくれるかも知れない
わたしもあなたにハグを返すかも知れない

      ・・・・でもそこには寒々としたものしか感じられない

なぜなら何処に本音があるのか?サッパリ分からないからだ
そこにはホンモノの体温が全く感じられないのだ・・・

  それは地獄だ

アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」において、主人公:碇シンジは、実の父で
ある司令官、碇ゲンドウからロボット兵器のパーツの様に扱われ続ける

eva光る目

シンジは人に愛されることを望みつつも、自分が〝部品〟として扱われ、
その功績によって〝褒められる〟ことには疎外感、違和感を感じる

私の両親も、
「そろそろ結婚するのが当たり前」の歳だから結婚し、
「子供を産むのが当たり前だから」私を産んだ

  わたしもまた、パーツとして誕生した人間

両親は唯物主義で、自分たち自身が社会のパーツである事に
全く疑問を持っていない様子だった

物心ついたときに、すでにその両親の愛情に〝疑い〟を抱いていた私は
もはや、両親の愛情にそれ以外は感じなかった

どんなに優しくても、気遣ってくれようとも、
それは私という子供が
「自分たちの遺伝子のタイムカプセル」だというメリットがある故だったのだ

こういった
人生そのものにずっと感じていた
疎外感、社会との違和感、
不安、葛藤、軋轢を    ・・・・・両親に言葉で説明しようと試みたこともあった

 両親が揃ってコタツにはいっているところに

「お父さん、お母さん、ボクにはオナニーを見られるよりも
恥ずかしい気持ちがあるんだ・・・」っと小学生ぐらいの時、両親に必至で
打ち明け、説明を試みたのをハッキリ覚えている

(子供だったのでまだちゃんと言語化できておらず)・・・両親はキョトンとしていた


  わたしは「奥の細道」を歩き出さざるを得なかったのだ

  「人間関係」というものには
  原理的に、絶対的に、期待は出来ないものなのだ

  自分と全く同じように感じる、考える人間、などこの世にはふたりと居ない
  (いるとしたら、それは〝人間を超えた何か〟だろう)



  わたしにとって、
  すべての人間関係とは致命的にひびが入ったクリスタル・グラスだ
  もはや皮膚の擦り傷、切り傷の様に、自動的に閉じて小さくは成らない、

  決定的に自分が割れて砕けるまで、ひびは広がり続けるだろう
  あるいはもう割れてしまっているのかも知れない・・・

       わたしが寂しくなって、あなたに本心を尋ねたとしても・・・

       たとえあなたがわたしにちゃんと本音で答えてくれても・・・

    それが、「本心」「本音」である証明は永遠に出来ない、為されない

    なぜなら、あなたは「優しく礼儀正しい日本人」だからだ・・・・・・・・・

だから私がこの人生で感じ取れる確かな手応えとは、
                     「ひとりであること」以外には

                      ・・・・・・もう、なにもないのだ


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