We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年03月

探してみて下さい・・・

一生懸命・・・


これは、「私のものだ!!」と、断言できるあなたのものを!

これは 「私ならではの反応 (リアクション) だ!」
これこそ 「わたしのオリジナルの思考だ!」と誇れるものを!!

隅々まで探してみて下さい
あなたの身体の中、あなたの思考の流れの中・・・・

集中して、何一つ見落とさないつもりで

精一杯、真剣に・・・、
可能な限り、熱心に・・・

あなたの完全に独自(オリジナル)の反応は、発想は、・・・何がありますか?

あなたの〝独自性(インディヴィディアリティー)〟はどこにありますか?



どうでしたか?

  「あなたという亀」のおヘソは見つかりましたか???


だってそれが見つからなくって、
どうして神様があなたに与えてくれた場所を見つけられますか?
どうしたらあなたの理想のツインソウルが見つかりますか?

あなた自身が見つからないなら、あなたのための場所も人も、
             ・・・・そりゃあ~見つかるわけ・・・  ないっすよねえ?

 ひょっとして・・・ そんな場所も、人も、使命も
             ・・・実ははじめっから無かったりして・・・(笑)


ニートな僕の敗者復活300日 投稿者 maneel-katal

『「私の~」というものは存在しません。それらはただ、あるだけです。』


平田 耕作 思考がなくてもこんだけ反応して喋れるのは 凄いなぁ〜
どうやって言葉や状況判断しているのかな?

カエルの脳は、目の前にハエが飛んできたら
それを即キャッチしようとする

単純な生物、たとえば昆虫などが複雑な脳を持たずに
凄まじい反応速度を見せるのは、光や音の情報に対して
ダイレクトに反応しているから

高等哺乳類や人間の場合、こういった情報は脳内で
一旦再構成され三次元立体のマトリックス世界を描く

これを苫米地英人氏は「内部表現」と呼んでいる
この「内部表現」をしているために人間は反応が遅い

しかしここまでは一種のハードウエアーエンコードで
全て無意識で自動的にやっている

ものごとを慌てず亀さんの様にゆっくりやることによって
このダイレクトな世界と内部表現との間のギャップ(溝)=
タイム・ディレイ(時間遅延)が埋まるため、直接的な世界との
タッチを感じ、安らぎ、至福、そして新鮮さを感じることが出来る

瞑想とはそう考えるならば極めて科学的な現象だ

わたしたちは世界を感じ取り、味わい、「新鮮に知覚する」ことによって
その次に「じゃあどうしようか?」とか
「あ、これはバラだな」「良い香りだな」というマインド(判断、感想、概念化)が
機能しはじめる

「感じて」から「判断」する・・・それは当然のことなのだけれど
判断を焦ってしまうために「まだ感じていない」ことまで憶測で埋めて
その先に行ってしまおうとする

それが私たちの不幸の源(みなもと)だ


『私は、あなたに自分勝手になることを教えている。』


OSHO_ Being In Love by maneel-katal

自分が自分と完全にピッタリ一致したとき何が起きるのか?
それは「宇宙的な常温超伝導」が起きる・・・・当然でしょ?

それが分かった2012年1月、わたしは猛然とブログを書き始めた

       自分の中に核融合が「起きた」のだ
     いや、「起きていたことに気が付いた」のだ

『内面で進行していることが実際に外の世界を創造するのです。』

そして、「超伝導」が起きるだけでは無い
それは「いまここ」の中でスパークを起こす


OSHO_ There Is No Tomorrow by maneel-katal

つまりロスレスで情報が「伝わる」事が可能になると
無限の速度での「演算」も可能になると言うことだ・・・!!

    ・・・・その意味がわかるだろうか?

無限の速度で演算が可能なとき、閃光=スパークが起きるのだ

それが時空間マトリックスを(バシャールに言わせると)10億分の一秒ごとに
書き換えることを可能にしている

わたし が わたし を認める愛すると言うことによって
全宇宙の時空間と全生命仮想現実として描くことが可能だ」 
 っと言うことだ

じゃあなんで全てがあなたの思い通りにならないのかと言えば
その理由はカンタンで、私たちは互いに離ればなれになる事で
「壁が存在する三次元空間」に住み、「自他を尊重する」という
ゲームを始めたからだ


11.Ordinariness   普通であること

ただ普通であることが奇蹟です。
何者かになろうと渇望しないことが奇蹟です。
自然が自らのコースを取るに任せましょう。
それを許すことです。


禅のマスター、盤珪(ばんけい)は、たまたま自分の庭で
庭仕事をしていた。ひとりの求道者がやってきて盤珪にたずねた。

  「庭師、マスターはどこにいる?」

盤珪は笑って言った。

  「あの扉--あそこからなかに入るとマスターがいる」

そこで男は入っていって、
内で肘かけ椅子に坐っている盤珪、---
---外で庭師だったその男に出会った。

  求道者は言った。

  「からかっているのか?その椅子から下りろ!
   神聖を汚すことだぞ!お前はマスターに敬意を
   払っていないではないか!」

盤珪は椅子から下り、床に坐って言った。

  「もう椅子にマスターはいないだろう
         --私がマスターだからだ」

偉大なマスターが、
それほどにも普通でありうるということが、
その男にはむずかしすぎて分からなかった。

彼は立ち去った        ……そして逃した。




ある日、盤珪が自分の弟子たちに静かに教えを説いていると、
別の宗派から来た僧に話を遮られた。その宗派は奇蹟の力を
信じていた。

その僧は、自分の宗教の創始者は筆を手に河岸に立ち、
対岸にいる助手が手にしている紙きれに聖者の名前を
書くことができると自慢した。

そして彼はたずねた。

  「あなたはどのような奇蹟を行うことができるのか?」

盤珪は答えた。

  「ひとつだけだ。腹が減ったら食べ、喉が掲いたら飲む」






唯一の奇蹟、不可能な奇蹟は、ただ普通であることだ。
マインドの望みは並外れたものになることだ。
エゴは認められることを渇望する。

  あなたが自分の【誰でもなさ】を受け容れた瞬間(とき)、
  あなたが他の誰とも同じように普通でいられる瞬間、
        あなたがどんな証明も求めていない瞬間、
あなたがあたかも自分は存在していないかのように存在しうる瞬間--

         それが奇蹟だ。

力はけっしてスピリチュアルではない。
奇蹟を行う人びとはどのような意味においてもスピリチュアルではない。
宗教の名のもとに魔術を広めているだけだ。それは非常に危険だ。



あなたのマインドは言う。

  「このどこが奇蹟なのか?
   腹が減ったら食べて、
   眠くなったら眠る、とは?」

だが、盤珪はほんとうのことを言った。
あなたが空腹を感じると、マインドは言う。

  「いや、私は断食をしているのだ」

空腹を感じていないと、腹が満たされていると、
マインドは首う。

  「食べつづけるのだ。この食べ物はとてもおいしい」

あなたのマインドが邪魔をする。




盤桂は言っている。

  「私は自然とともに流れる。
   私の存在がなにを感じようとも、
   私はそれをする。
   
   それを操っている断片的なマインドはない」

私もひとつだけ奇蹟を知っている。
自然が自らのコースをとるに任せること、それを許すことだ。






               ROOTS AND WINGS,P.212-221


新米パパが考え出した“寝かし付け方法”が…斬新だけど効果てきめんだ!と話題に

電車の中に揺られると睡魔に襲われるという経験は
誰もがしているのじゃ無いだろうか?

数日前、そのことをある記事で話題になっていたのを見かけてから
アタマから離れないことだったのでここに書き出しておく

その記事ではいわゆる 「1/f 揺らぎの効果が人をリラックスさせるからだ」
っと結んでいたけれど、私はどうしても違う回答が浮かぶ

つまり、
ひとは「自分は今、どこかの目的地にちゃんと向かっている」という
感覚の中で安らぐのじゃないだろうか? 

もし、私の仮説が正しいのなら、上記ラジコンのトラックに運ばれている
赤ちゃんであっても、そういう心理が働いているのかも知れない



このことをひっくり返して考えるならば

   これ程までに私たちの「目的志向は強烈だ」と言うことになる

    一昨日アップしたOSHOの講話を乗っけた動画「火の鳥」でも
    「無為の中にあるというのは最高に骨の折れることだ」と言う
    くだりがある

私たちは一瞬たりともジッとしていたくは無い
しかし、行動に駆り立てる苛立ちよりも、身体の疲労が勝ったとき
やっとこさ「睡眠」という無為の中に倒れ込むことを自分に許せる

   わたしたちのマインドそのものが、
    本質的に「ワーカーホリック」なのではないだろうか?
        何とも悲しい性(さが)ではないだろうか?

   だからこそ、電車などに揺られて、

    「どこかに連れて行かれる」「それに任せきる」
                ・・・・ことに安らぎを感じるのかもしれない


      でも、そうであるなら、心配などすることなど無いのだ!!!

   つまり私たちはいつも「運命の電車の中で揺られている」からなのだ
     これは一見、静かな部屋の中とかだと感じられないだろう
       でもそれは私たちが運命を「信頼していない」からなのだと思う

  そもそもわたしたちは
  なぜいつもアイドリングを止められないエンジンの様に空回りしているのだろうか?
  この言いしれぬ不安感は何なのだろう?

    それは静寂の中で

     「自分は何処にも向かっていないのではないか?」
       という不安に駆られているからではないだろうか?

     わたしたちは、静寂を望みながらも
         いざ静寂に包まれるとソワソワする、怖い、落ち着かない

  「自分はこんな所で、リラックスしていても良いんだろうか?」
       気が狂わんばかりの不安に駆られ
       そこから駆け出したくなる・・・


   しかし、冷静になってみれば、その心配は事実無根だ
        私たちが葛藤しようがしまいが、物理的な時間は
        ちゃんと経過している

   そしてその間も、(ありきたりの表現だけれど)
   わたしたちの生きたスターシップ「地球」は
   凄まじい速度で銀河を航行中なのだ

え?ホントの話!?地球は太陽の周りを回っていなかった

まあそうはいっても、これは非常に根深い心理だと思う

「運命を信じるかネオ?」このモーフィアスの問いかけこそが
映画「マトリックス」の旅の原点かも知れない

運命を信じるか?

つまり、ここで「全てに身を委ねて深々とシートに腰掛けたとき・・・」

それは青いピルを飲むまでも無く、ネオはアンダーソンとして
翌朝、ベッドで目覚めただろう

ただし、自分は本当は「ネオだ」っと自覚を持って、それでも
運命の運ぶところに身を委ねたのならば、それがOSHOがいう
「オーディナリネス」なのかも知れない


確かに、この世の中にはいっぱい問題が有る
あっちこっちに爆弾を抱えている

でもだからといって、あなたが闇雲に駆けだしていって
それが本当にプラスになるという確証はあるのか?

わたしたちは「より良くなる」という確証も為しに
メクラめっぽうにかけずり回っているのでは無いか?

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