We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年02月

それは、

わたしとあなたとの「はじめまして」という出会いの為に
これらの全てが準備された

距離が、広がりが、膨らみが、生成された

そして

わたしとあなたとの
ダンスのために時は流れ、
友情のために時が刻まれる


踊りが終われば、互いに拍手し、お辞儀して、
そして握手して、最後に挨拶する・・・・
「あなたにお会いできて光栄でした」
「さようならごきげんよう」


この為にだけ、この広大な宇宙空間は生成された





深刻」というのを和英辞書で引くとserious
真剣」だと「real swords」とも「serious」とも訳される
英語の「シリアス」というのには真剣とも深刻とも明確な線引きがされずに
翻訳されているようだ

でも、たぶんニュアンス的には
シリアスというのは深刻と言うことであって真剣とは微妙に違う

真剣というのが、英語でもモロに「リアル・ソード」という言葉があるのは
〝そのまんま〟で、面白いではないか?

これは、
「瞬間瞬間にあれ」「トータルに醒めていろ」という意味に近い気がする


わたしは
シリアスseriousという言葉を見る毎に、すぐに
シリウスSiriusという言葉を連想する

スピ系ではよくもてはやされてる星、
エハン・デラヴィー氏に言わせれば
「日本の文化に今も深く残っている」というシリウス文明・・・

シリウスとは「おおいぬ座α星」のことなので
犬が象徴する「忠誠心」が焦点になる

日本の武家文化とはまさしく「忠誠」の文化だ

問題は「何に」忠誠を誓うか?と言うことだ

このブログで先日も書いたけれど、日本の家紋文化とは
「命のやり取りをする戦場において、家の名誉にかけて
卑怯な振る舞いをしない」という血の誓約、名誉こそが
家紋の意味するところだ

メーソンがシリウス伝説を大事にしているのも、かれらが
忠誠を誓うべきダビデ王の再臨をまっているからだが
私に言わせれば、「それって天皇陛下なんじゃね?」と言いたい




「真剣」も「深刻」も、強烈な集中状態を意味する
しかも命がけと言っても過言でない程の・・・

ただ、
「深刻さ」には「暗さ・・・ネガティブ」を感じる
「真剣さ」には「明晰さ・・・ポジティブ」を感じる

つまり、「何に」「どう」集中するかによって
文字通り「明暗」が別れるのだろう

子供が
  くそまじめで、陰湿、おとなしいと
     大人達から称賛され

  明るく楽しく涼やか、
    つまり斉藤ひとり氏の言う「神道的である」時、
     大人達は「ふざけるな」と叱る

武士道においても、生と死との境界線における、ある種の
〝正気と狂気〟の哲学が、三島由紀夫のような例で見受けられる

スピ系で言われている程、
わたしはシリウス文明というものがポジティブだとは思っていない・・・
  この「真剣」と「深刻」の両方がシリウス文明に強くあるように思う

アカシックレコードで聞くと、たとえばLED発光ダイオードなんかも
シリウス文明から来ているだとか・・・・人間の精神を蝕む要素があるそうだ


なぜ青色LEDが一番目に悪いと言われているのかと言えば
最も波長が短く、網膜の奥深くを焼いてしまうからだそうだ
最近流行りのPCメガネもその理由で普及しはじめている

シリウスが「青白い星」であることとも、象徴的だなと思える

「青」は実は私の好きな色だ、
用い方によっては有用だけれど、危険性もある

人の心は青い大空によって解き放されもするが
人が生きる体温を奪ってしまう

「青」とは諸刃の剣なのだ

私は何人かいわゆるヒーリングというのを受けたことがある

もしテレビに出演すればセンセーションを引き起こすであろう様な
仰天するようなヒーリング、透視、予言、・・・が出来る人は
実は日本にいっぱい居る

じゃあ何でそういう人達が静かに縁のある人達だけに
ひっそりとそういう能力を使っているのか?


ふと、さっき感じたのは、
 多くの人々の「静かな日々」で感じている
  当たり前で平和な営みの中に、実は彼らヒーラーは
                      パワーをもらっている・・・・

        彼らはだからセンセーションを求めない

救世主の奇跡を渇望して殺到する人々の期待
彼ら自身のパワーの源を切断してしまうのだ

本当の愛と平和を知っている人は
宗教団体なんて作らないのだ・・・

テレビカメラの前で得意げに奇跡をやったりもしない
かれらは「お陰様」を知っている謙虚な人達だからだ

光の使者達は、自らを指さして
「私は光の使者だ!」なんて名乗りは上げない・・・・



   彼らのパワーの源は、
   私たちひとりひとりの中の
   平和で静かな内奥なのではないだろうか?


・・・・彼らは皆それを知っていて、
    愛と平和のためにのみ、宇宙的調和の調停者としてのみ
    自らの奇跡的なパワーを慎重に運用しているのではないだろうか?

もし彼らと会いたいのなら、彼らを見つけ出したいのなら
あなたは彼らに愛と平和と・・・「奇跡的なパワー」を求めてはいけない

かれらは出力のしかたを知っているだけだ
エネルギー源は「あなた」なのだ

するとイエスが癒えた人々に
「あなたの信仰が治したのだ」と、何度も念を押していることが
        如何に「謙虚な種明かし」だったのかが理解出来る


   あなたが「渇望」しているとき
   あなたはその「渇望」に答えるような
      ペテン師達しか引き寄せないだろう

あなたが自分自身に愛、平和、安らぎを求めるとき
あなたが何も求めない、まったき沈黙の祈りにあるとき
かれらとの接点が芽生えはじめる


常に何か生産的でなければいけない
常に何か前向きでなければいけない
常に何か向上してなければいけない

という強迫観念に取り憑かれている人にとっては
「待つ」ことは「死の危険」に等しい

そこに常に「意味」や「価値」がなければ
人々は大慌てで立ち去ろうとする

だから常に、「いまここ」に立ち止まることなど出来ない

物理的には常にわたしたちは「いまここ」にしか居られない
それはみんな知っている

しかし心理的にはだれも「いまここ」には居たがらない

なぜなら、 いつも「前向き」に「よりよい」「いつかどこか」が
        あるに違いないと思い込んで、
         自分自身をせき立てているからだ

その「あるべき人生、パーフェクトなゴール」は、
   自分の肉体の終わりをひとりぼっちで目前にした瞬間まで、

             夢の中までも、ずっと続く、追い回してくる

それがありとあらゆる「心配のタネ」を、「葛藤」を発生させ続ける

子供が出来て、自分自身に関しては一区切りも着くだろう
でも、休む間もなく、今度は子供のパーフェクトな人生を
「親の愛」という大義名分の許に追いかけはじめる

         ・・・自分自身の時以上に、狂った形相で!


                  ・・・これが「欲望」の世界だ

DEVILMAN_05_129


クリシュナムルティーが
「社会改革ではなく、心理的な革命が必要なのだ」
っとコブシを握って力説している事・・・・・・・・・

OSHOがいう「唯ひとつの革命」・・・・・・・

                 それらはこのことだ






         「欲」

  それは「いまここ」にある〝欲求〟にすぎない、他愛のないものだ
  「おなかが空いた」とか、「 眠い」「寂しい、みんなに構って欲しい」・・・

   原始的で子供っぽいかも知れない、しかし、自分に率直な欲求だ


 しかし、   「望」は?

それは
「でももし・・・」という不安によって、
    「いまここ」から踏み出してしまう、

「いつかどこか」
「あるのか?ないのか?」
    分からないことに彷徨い出してしまっている・・・

   これもまた、欲と同じく 「他愛なく」見える
    しかし、この「望」とは、際限のない無限の不安の妄想だ
    これは本人の精神を破壊し、恋人や家族をノイローゼに追いやり
    さらにパワーがあればその社会全体を飲み込んで狂気に陥れる

    なぜなら、多くの人がすでにこの同質の狂気を
                 多かれ少なかれ持っているからだ

        これが「領土を侵略される不安」にまで拡大する・・・・
             「宗教的信念」同士の衝突にまでエスカレートするのだ


わたしたちは信号機の前で立ち止まることは出来ない

私たちは一瞬たりとも待つことは出来ない
この瞬間に 

「ソヴィエトが攻めてくる」かもしれないじゃないか?

   え?ソヴィエトなんてもう無い?  じゃあ

 「中国人の漁船が尖閣諸島に乗り込んでくる」かもしれないじゃないか?
  「イスラムの過激派が日本を襲うかも知れないじゃないか?」

           恐怖、不安と、欲望とは同じ仮面の裏表一体なのだ

「STAND ALONE COMPLEX」という言葉を直訳すれば
「複雑に絡み合ったただひとつのもの」というところか?

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX


OSHOが弟子の質問に対してこう答えている

「そうだ、リラックスというのは、じつに複雑な現象なのだ・・・」

これは、瞑想に興味を持つ誰もが意外に感じるかも知れない
なぜなら、ノーマインド(思考のない)状態とは、
とてもシンプルな状態に思えるからだ

でもこのブログでしつこく書いてきたことだけれど
ノーマインドというのと、「マインドを排除する」のとは
結果的には同じようでありながら、大きく違う

「思考停止」することが瞑想状態ですよね?と尋ねられれば
これは「否」ではないだろうか?

思考というストリームは流れ続ける・・・  ただそのストリームに
アイデンティティーを持って行かれず、その雲の隙間に覗く青空こそが
「汝それなり」ということなのだ

   ・・・雲も浮かんでいる、それら大空のすべてが・・・「それなり」



それらは実に様々な、複雑な要素を含みながらも、
対立して存在しているのではなく、相互に解け合っているのだ

   ここに「良いモノ」も「悪いモノ」もなく、
        排除すべきモノが何も無いときだけ
          私たちは、「くつろぐ」事が可能だ

だって、「排除すべきモノ」があったのでは、奮闘が続くことに成るじゃないか?



「シンプルになろうとする・・・」

なろうとする・・・っというのはつま思い込みの実現」であり
                          それは信者の道

何かの信念体系に埋もれてしまえば、
ひとはいつもインスタントな回答の中にいられる

何かあれば、何か起これば、回答はシンプルに出る
なぜなら機械的に反応できるからだ

牡牛座 21度:開かれた書物の一文を示している指

・・・・たとえば、ホメイニは、コーラン以外の書物を読まず、
       ボキャブラリは200しかないと噂されている。

信者にも、教祖にも、ボキャブラリーは200もあれば充分だ
複雑さは必要ない

  ・・・それでもあなたは
      ホメイニのような指導的なパワーも得られるかも知れない

シンプルな方がむしろ、説得力があり、信者獲得には有利だろう

ところが、「STAND ALONE=ただひとりある」という状態もまたシンプルだ
            ・・・そこではボキャブラリーはゼロでもいい、言葉は要らない

しかし、ゼロ=「無」であると言うことは、同時に「無限」でもある

 そこには底なしの無限性を受け入れたが故の沈黙がある

  その沈黙ゆえに    ・・・・シンプルさは自然に醸し出される

法華経には「無料義経」というのがあるが、
「〝無〟は〝無限〟の義で語ることが出来る」からだ

マトリックス 弾丸2


だから、「STAND ALONE」であることとは、信者とは正反対の在り方なのだ

人は知れば知る程、「自分は何も知らない」というところに追い込まれる
信者は、自分の仲間を増やして、その信念をより盤石にしようとするが
「STAND ALONE」であると、より沈黙に襲われ、静寂に飲み込まれてしまう

だから、そんなひとは政治には行かない
語るべき事は無くなってしまっているからだ
STAND ALONEの人には、信者も理解者も支持者も後援者も無用なのだ

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