We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年02月

ついさっき

「エックハルト・トールも悟った後にホームレスやってた」
というコメント
を見かけて興味深かった。

なぜなら、エックハルトもあの飄々とした雰囲気は
ホームレスのおっちゃんなんかでよく見かけるタイプだからだ

OSHOにしたってムージにしたって、なあんか橋のたもとで
寝っ転がっていても、違和感がないおっさん達だ

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つまりどっか、狂っているように見える
たぶん、自分を守るという身構えがまるっきり無いからなのだろう

わたしは母親から「おまえ、そんなんじゃホームレスになるよ」と
脅され続けた・・・・ それを執拗に言い続けることが自分の長男に、一体
どんな心理的な影響を与え続けるかは一考だにしたことが無い人なのだ、
ま、考えたにしてもサッパリ判らなかっただろう

・・・これは、母自身の恐怖感の投影だった
   もちろん、“息子”としてそういう投影を浴びせられ続けて、何の影響も
   受けないというわけには行かないので、
   私は彼女の「長男」であることをやめてしまった・・・

    数年前、渋谷の公証役場で宣誓供述して縁を切ったのだ。

       「あなたにトラウマを与え続けた人達から、
             構わないから逃げてしまいなさい」

斉藤一人もそう言っているように、これは必要な措置だった

わたし自身は母の脅しにより、
ずっと「ホームレスになる事」を死ぬほど恐れてきたのだが
実際、
そういう恐怖を与え続けた母親から数年前に逃げ出した結果・・・

        ・・・・どうなったか?   面白いことである

 多分、今の私の方が、「ホームレスになること」に対して
 抵抗がないだろう・・・・ 
 エックハルトのそんな過去を聞いても・・・・

 むしろ、

「あ、やっぱこのおっちゃんそうだったのか!
     カッコイー!」とさえ思っちゃう(笑)

現代のディオゲネスのような彼らは、本当にカッコイイと思う
路上に完全に我が身を委ねていられるのは、
宇宙と自分の運命に対する完全な信頼があるが故だからだ・・・・

わたしはまだ思春期の頃、
年中ヒステリックに年金がどうとか
ホームレスやらと叫く母を横目で見ながら、
アニメ「あしたのジョー」や、スナフキン・・・
  そしてホームレスのおっちゃん達を見て

「彼らはとてつもない賢者なのかもしれん」と予感していたが
それは今思い返してみても ・・・・
あの時の私の直感は、「ある意味では」 やはり正しかったのかも知れない



私は何度も
このブログで両親から酷い仕打ちを受けたみたいなことを
書いているので、多分私が両親を怨んでいると
思い違いしている人も居るかも知れないので、
・・・・・(まあどう思われようといいけれど、)
一言書いておくなら、
母の呪いから次々と解き放たれた現在の私には
両親への恨みはない、(けど、感謝もない!)・・・・

 私にとって両親とは、
自分が産まれてくる時に
どんな大きなテーマに取り組むべきかを
思い知らせてくれた仕掛け装置だったと理解しているので、 
まさしく! 両親とのことは終わろうとしているように思う

ただし、今まだ残っている自分の無意識に放り込まれたトラウマは
「両親との関係性」の中でまだ無自覚なままだ

その気付きのプロセスの中で
“両親との関係”というのが新たにクローズアップされることが多い為、
そのプロセスの説明として
わたしは両親との過去を語ることが多いと言うだけのことだ。


エンライトメントというのには
いろいろな定義(表現のしかた)があるようだけれど、
OSHOがよく言うのは「究極のリラックス」だ

瞑想が進めば進むほど、
自分自身へのくつろぎと信頼も深まってくるのが感じられる・・・
そして深まれば深まるほど、純粋意識としての
「手も足も脳みそも存在しないわたし」の自覚が深まるほどに、
比例して
OSHOが言うところの「微妙な緊張」に気が付いてくる。

それが「微妙」であるほど、
「気付く」「意識する」のもまた難しくなってくる

      なぜなら「非常に根深いから」なのだ。

掘り下げていくにつれ、
それは社会的にも巨大な(普遍的な共有された)テーマとも繋がってくる!

だから非常にインナーセルフからの助力が必要になってくる
なぜなら、
表面意識的に見ると到底解けそうもない、
難しいパズルに挑戦することになるからだ

そして、それは同時に・・・
やはり両親から受けたトラウマにヒント、というか
原因、原型を見つけ出す事が出来る

それは
「リバーシング=再誕生」のとても難しい産道からの脱出と酷似している

しかし、
ひとたびこの「奥の細道」を通り、ひとつの殻を脱ぎ捨てると、
広々とした爽快な光景が広がる

「ああ松島や、松島や!松島や!!!」

それと同時に、
自分が持って生まれたテーマと
そのソリューション(解決策)とを得ることが出来る

きっと多くの人達が、
いま、個々人の生まれた時からの痛み、悲しみを通して
人類規模の巨大な大問題、悲劇を解き明かす魔法の鍵を手に入れている
ことだろう    ・・・それらの一斉のアクティベーションは本当に楽しみだ!



宇宙の中心はどこかと言えば「いまここ」
宇宙の果てはどこかと言えば「いまここ」


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つまりバシャールも言ってたけれど
本当は「何も無い・・・」
本当はすべてが夢

無が見ている無限の夢

「わたし」と「あなた」、そして「みんな」というのも
シュミレーションゲームの世界の中での
便宜上の区分けに過ぎない



だから自分が「緊張」ならば、世界も「緊張」だし
だから自分が「蚊取り線香」ならば、世界も「蚊取り線香」
だから自分が「バッキャロー」ならば、世界も「バッキャロー」
だから自分が「遊び」ならば、世界も「遊び」






もしあなたが、
「イヤ違う、世界はリアルであなた自身が幻想だ」
っというならば、ある意味それも全く正しいと思う

ただ、
何が夢で、何が現実なのか?

   あなたはわたしに証明することは不可能だ
   (わたしもあなたに証明することは不可能だ)

なぜなら、その「証明しようとするあなた

・・・・まずあなた自身が、わたしに対して
    「わたしは実在だ」っということを
       わたしに証明しなければならないからだ



いろいろなメソッドがあると思いますが、
これ、一番単純で良いと思う

わたしもいま、このプロセスが自然に起きている状態で
「アカシック・レコードというのは
自分の中に有るのだな」

と言う自己信頼がだんだん培われている状態です

「ちゃんと答えて貰える」っと自己信頼が
出来れば出来る程イイ

っていうか、質問それ自体がインナーセルフから
「おい、これ質問してみろよ」

って湧いてきたのが
私たちの疑問そのものだと思う

記事の本文にもあるけれど、これは特別なことではなく
誰にでも今この瞬間からスタートできる
実に楽しく役に立つ実験です

斉藤ひとりも言ってたけれど
「インフォメーション」というのは物質化じゃないから

「お金が欲しい」「権力が欲しい」「超能力が欲しい」
っていう欲望よりも
インナーセルフが最も素早く、大盤振る舞いしてくれる
のが、「Q&Aサービス」ですね~~

なお!
インナーセルフからの回答は
他人からの発言や日々の出来事を通して
来ることもよくあるので気をつけてみましょう!

つまりこれは「物体現象化した返答」です

私たちの中心とは皆ネットワーク化した
共通した仏陀意識なんだというのを
是非体験してみて下さい



何かを〝やらかそう〟としたとき
必ずその反作用が起きる

「自分を受け入れなきゃ~~」
「ああ、でも自分は何て醜いんだぁ~~!」

そういう作用と反作用、
つまり葛藤は〝疲れ〟を生じさせる

何かをしようとするとき
何かになろうとするとき は


かならず、「かったるさ」を感じる

  それがワクワクドキドキするような
     素敵な挑戦に感じるときは別だ

      それは、「何かをしようとしている」様に見えて
       本当は無為自然の中への没入なのだ

       その時には中心に豊かな沈黙と満足感がある

しかし、如何に微妙なものであれ「かったるさ」を感じたとき
「なんかウソっぽ~い」「なんかダッセ~~」というセンスが
生じたとき、

  ・・・・・それは「自分の自然に反する何か」っを
             でっち上げようとしているのだ!!



希望が「いつかどこか」へと人生を延長させようとするワナであるように
絶望もまた「希望を失った」という閉塞感、窒息感に囚われたワナだった

「絶望」という言葉は「希望」のワナからの脱出した地点のように見えて
まだそこには「希望を失ってしまった」といった喪失感が見られる

希望というのははじめから幻想であり、実体はなく、したがって
「喪失する」ことさえないのだから、喪失感に囚われたならそれは
まだ、ワナから抜け出せていなかったと言うことになる


希望がなぜ幻想なのか?
それは、「努力が終わる」という幻想だ
      「そしたら、その時リラックスしよう」という妄想だ

人生への希望が、何かの獲得とかゴールであり、
その獲得とかゴール(目的達成)の時点で
「めでたしめでたし」といったおとぎ話や童話のような
オチが付いて終わりならば、確かに希望とは幻想ではないのだが、
実際はそうではない・・・・

人は欲望がなければ、希望を抱くことはない
ところが希望が実現することによって満たされる欲望は決してない
欲望はすぐ次の〝新たな〟希望を生み出すからだ

                     ・・・しかもその何倍もの・・・

だから、この増殖のプロセスには切りがないのだ

人生が擦り切れて終わるまで、際限なく膨張し続けるのが
欲望であり、希望だ

    「ゴイム達に“進歩”を信じさせることさえ出来れば、
     私たちは勝ったも同然だ」 by シオンの議定書

ウォルト・ディズニーの名作「ファンタジア」というアニメの短編集の中で
もっとも有名なのがミッキーマウスの「魔法使いの弟子」だ



魔法使い(ロスチャイルド)の弟子であるミッキー(ロックフェラー)は
あるじのパワーを悪用して、箒に魔法を掛けて水汲みをさせる

魔法に掛けられた箒は、
ロボットのようにただひたすら、水をくみ続ける

    これは生存競争に駆り立てられた
     「無意識に生きる世界中の人々」を暗示している



これが、「魔法に掛けられ、指揮されている〝希望〟に生きる人々」の姿だ

箒は、なぜ水をくみ続けるのか?どうしてなのか?

箒自身には、その意味も目的も分からない

水とは生命の象徴だ

水を運ぶための桶とは肉体の象徴だ

それは物理的には生命が存続されていても
「なぜ生きるのか?」その意味が分からず無意識のままであるのならば
「ただ、生き続けているだけ」だ

それは、「意識在るもの」の魔法によって、生かされているのに過ぎない

その魔法を掛けた当人のミッキーもまた、眠りの中に落ちてしまい
魔法を掛けられた箒は、そのままずっと自らストップすることもなく
水をくみ続ける


「きぼう(=明日は良くなる)」とは、この「魔法」に他ならない
しかし、実際の所、明日が保証されているものなど人類史上誰も居た試しはない
「気付きとは何か?」

これはあまりにもシンプルな質問過ぎて
「愛とは何か?」「自由とは何か?」と同じように
以外と回答が難しい問いだと思う

だから、「気付いていない状態」・・・・
・・・・OSHOが言うところの“無意識な状態”とは何か?
理解することで、
「気付きとは何か?」「覚醒とは何か?」を暗示できる

これは自動車なんかを毎日運転している人には
理解しやすい例として、「運転中にボーっとしている状態」を
思い出してみれば判る

「ボーっとしている・・・」というのは「望」の状態のことなのだ

つまり、
「あの小道の影から人や自転車が、
まさか飛び出しては来ないだろう・・・」

という希な可能性無視することに身を任せきって、
注意力がシャットアウトされている状態・・・
つまり「これこれはナニナニであろう」という憶測の状態のことなのだ

新たに新鮮に観察しようとしないで、注意力が欠落した状態・・・

自動車を日常で運転している人にはこれは痛感できるであろう
  ・・・事故(自己)というのは、このような憶測に身を任せた状態なのだ

「安らぎにたどり着ける明日」なぞ、永遠に来ないのだ
それは憶測に過ぎない


私たちのポケットに入っている現金は「いま、ここ」だけだ
わたしたちは、「いま、ここ」に永遠の安らぎを見つけることが出来なければ
それ以外の、「いつかどこか」の安らぎなど、永遠に「絵に描いた餅」なのだ

それは馬が自らの背中に付けられた釣り竿の先に付いた人参だ
追いかけても決して、その人参にはたどり着けない

https://livedoor.blogimg.jp/gocky_z/imgs/3/d/3d4098b8.jpg

今ニートやヒキコモリの若者達がなぜ増えているのかと言えば
この、「無意識の魔術」からの目覚めを求めているからではないだろうか?

かれらは、この「希望と絶望との、アメと鞭による強制労働は永遠に終わらない」
ことを肌で感じているのではないだろうか? そしてこの無限ループの社会の歯車に
加わる前からウンザリし、ヘトヘトに疲れてしまっている



この
  「魔法を掛けた本人(ミッキー)さえ
      無意識の眠りに落ちてしまい、
       暴走している資本主義という箒の隊列」を、
                      一体、どうしたら止めることが出来るのだろうか?

その鍵は、このニート、ヒキコモリの若者達が握っているように思えてしかたない

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