投稿 by 宮井陸郎 シャンタン.
平井 まや このお金の幻想から目覚めます。
多分、「お金は幻想だった」と言う人は今多くなってきていると思う
ゴールドで額面の価値を保証する金本位制をやめてしまった現在
確かにごく物理的に考えても、お金というのは共同幻想だ
でもそういった知識が広がりつつある現在、
逆にわたしは「お金の価値」「お金の意味」を考えることが多くなった
五井野正氏=ウィッピーのところに入れあげていた昔、
この会では上記の様な「お金のカラクリ」が判った上で
「お金のがんじがらめの世界を抜けよう」という試みが為されていた
でもそれはヒッピー的なシェアリングの世界に行くのではなく、その逆を
行った。 つまり徹底して「金銭的な差別」を明瞭化していったのだ
毎月のようにあった「研修会」の参加費は飛行機の搭乗券を模して
以下の様にランク付けされていた
ファースト=40万円
ビジネス=20万円
エコノミー=10万円
ウェイティング=5万円
この参加費ランクや出席実績によって、浮世絵などの「お土産」なども
ランク付けされていた
私は別にこの「差別主義」は嫌いではなかった
自分自身は1~2回ほどビジネス参加をしたが
良くてエコノミー、苦しいとウェイティングが続いた
そして、研修会の後ろの席で大きな身体を縮こませて
五井野氏の話を聞いていた
沢山の理解出来ないブラックボックスを感じながらも
とにかく何か自分のセンサーに感じるものが有るならば
愚かな盲信だと言われても、その自分のセンサーに従った
それゆえに借金を膨らませつつも、なんとか10年ぐらいそういった
「研修会通い」を続けていった
そして40代の後半、やはり同じ判断基準...つまり自分自身の
センサーに従って五井野氏の世界から離れた
ウィッピーに通ったことも、離れたことも、両方後悔していない
五井野氏に「騙された」という被害者意識もない
なぜなら・・・・
私はこの後、ハイティーンの時に出会ったバグワンに再び
惹かれていったが、それは五井野氏の世界を体験してきたが故に
全く別の角度からOSHOが見えるようになったし、理解出来るようになった
・・・・だからだ
OSHOだけを単独で見つめ続けていっても、今のスピ系ブームを
クールに見るチカラは得られなかったと思う
確かにお金の世界は幻想だが、そんな事よりも、では・・・?
わたしたちはどれぐらい「リアル」が見えているというのだ?
「お金は幻想だ、幻想だ!」 ではそういう人に尋ねるが
いったい何が「リアル」だというのだ?
アレを信じてみて、「アレは幻想だった」
コレを信じてみて、「コレは幻想だった」
でもそれらは、時間、カネ、エネルギーを投じてみて初めて
血となり肉となる目覚めではないだろうか?
もちろん、世間に溢れる欺瞞に満ちた広告に片っ端から
騙されて回れという意味ではないのだが、・・・・・
でも私の今までの人生は
すべて「脱皮し続けるプロセス」であったような気がして成らない
「お金なんて幻想だ」と言いやすい世界につくづくなったなとは思うし
それは、ひとつの意識の高まりであるとは思うけれど、しかし
なんやかやいって、今この現在においても、人々は「ホンキ」に
価値を感じられるものしかお金は出さない・・・ ちがうだろうか?
「お金」とは何か?
いまだに「人命の次に大事なもの・・・」違うだろうか?
わたしはそうだ!
もしあなたが「人命」以外に「お金で買い取れないもの」を探し回るとしたら
かなり苦労するだろう・・・国によっては人命でさえはした金で奪うことが出来る
「お金」 つまり「数字に換算できる価値観」が、いまだに世界を覆っている
あなたが何かを欲しいと思ったら、その真剣な度数は誰にも目では見えない
でも、「お金」に換算することによって。「可視化」出来る!「触る」事が出来る
あなたの真剣さは、この世界では札束の重みによって客観化できるのだ
もちろん、それ以外のルート、表現方法が一切無いわけではない
あなたのある人への愛情の真剣さは、お金以外にも素晴らしい表現方法が
いくらでも有るかも知れないし、またそういう表現方法が豊かな人は
恋を成就できるだろう、大金持ちにもなり得るだろう
でも、表現手段がない人は? 思い当たらない人は?
そういう人は、やっぱりお金に頼るしかないのだ
そういう人に「お金は幻想だ」と宣言するのは残酷なことなのだ
また、お金に頼らない、自己表現が得意で豊かな人でも
コンビニに行けばお金で買い物をする
それは便利なことだし、スマートなことだ
オペラ歌手がコンビニのレジの前で数分間歌ってミニリサイタルをして
代金の代わりにする様な時代は決してこないだろう
愛情を込めて無農薬の野菜を生産する農家であっても同じだ
本屋に物々交換してもらうために野菜を持って行く必要は無い
市場で正当な評価で野菜を売り、お金に換えて、
そのお金で本を買えば良いじゃないか?
なにがしかの「価値の数字化」をしなければこんなばかげた
話しを検討しなければいけない
しかし、紙幣を印刷するかどうかはともかく
地域通貨かどうかはともかく
「価値の数字化」とは実際は価値のマネーポイント化であり
結局の所、現在とあまり変わり映えはしない
いま、ことさらに「お金は幻想だ、幻想だ」と言う人に私はちょっと危惧を感じる
ひょっとしてだが
かれらはお金を怨んでいるのではないだろうか?・・・・
それは単なる道具だ。 紙切れだ でも確かに「たかがかみ切れ」に
いままでコッテンパンに組み伏せられてきたのも確かだ
なぜだろうか?
それは「たかが共通の信念体系に過ぎない」が、
その「たかが・・・・」という侮(あなど)りのせいでは
なかったのじゃないだろうか?
「実は」 その共通の信念体系こそが
最大の価値だったのじゃないだろうか?
つまり、何がリアルなのか?何が幻想なのか?
日本という国、そしてその外交がある諸外国で
円はそれぞれの国なりに価値を認められている
その価値を認めた人々の間で、円は価値を持つ
一万円札を全く見たことも聞いたことも無い世界で、
それは単なる精密な印刷物に過ぎない
私たちのリアリティー(=手応え、価値観)とは、
その信念体系の共通する人々の間で浮き上がっている世界
・・・「浮き世」のことではないだろうか?