We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年01月


平井 まや このお金の幻想から目覚めます。

多分、「お金は幻想だった」と言う人は今多くなってきていると思う

ゴールドで額面の価値を保証する金本位制をやめてしまった現在
確かにごく物理的に考えても、お金というのは共同幻想だ


でもそういった知識が広がりつつある現在、
逆にわたしは「お金の価値」「お金の意味」を考えることが多くなった


五井野正氏=ウィッピーのところに入れあげていた昔、
この会では上記の様な「お金のカラクリ」が判った上で
「お金のがんじがらめの世界を抜けよう」という試みが為されていた

でもそれはヒッピー的なシェアリングの世界に行くのではなく、その逆を
行った。  つまり徹底して「金銭的な差別」を明瞭化していったのだ

毎月のようにあった「研修会」の参加費は飛行機の搭乗券を模して
以下の様にランク付けされていた

ファースト=40万円
ビジネス=20万円
エコノミー=10万円
ウェイティング=5万円

この参加費ランクや出席実績によって、浮世絵などの「お土産」なども
ランク付けされていた

私は別にこの「差別主義」は嫌いではなかった
自分自身は1~2回ほどビジネス参加をしたが
良くてエコノミー、苦しいとウェイティングが続いた

そして、研修会の後ろの席で大きな身体を縮こませて
五井野氏の話を聞いていた


  沢山の理解出来ないブラックボックスを感じながらも
  とにかく何か自分のセンサーに感じるものが有るならば
  愚かな盲信だと言われても、その自分のセンサーに従った

  それゆえに借金を膨らませつつも、なんとか10年ぐらいそういった
  「研修会通い」を続けていった

   そして40代の後半、やはり同じ判断基準...つまり自分自身の
   センサーに従って五井野氏の世界から離れた

    ウィッピーに通ったことも、離れたことも、両方後悔していない
    五井野氏に「騙された」という被害者意識もない

なぜなら・・・・

   私はこの後、ハイティーンの時に出会ったバグワンに再び
   惹かれていったが、それは五井野氏の世界を体験してきたが故に
   全く別の角度からOSHOが見えるようになったし、理解出来るようになった

・・・・だからだ

OSHOだけを単独で見つめ続けていっても、今のスピ系ブームを
クールに見るチカラは得られなかったと思う

確かにお金の世界は幻想だが、そんな事よりも、では・・・?
わたしたちはどれぐらい「リアル」が見えているというのだ?

「お金は幻想だ、幻想だ!」  ではそういう人に尋ねるが
いったい何が「リアル」だというのだ?

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アレを信じてみて、「アレは幻想だった」

コレを信じてみて、「コレは幻想だった」

でもそれらは、時間、カネ、エネルギーを投じてみて初めて
血となり肉となる目覚めではないだろうか?

もちろん、世間に溢れる欺瞞に満ちた広告に片っ端から
騙されて回れという意味ではないのだが、・・・・・

でも私の今までの人生は
すべて「脱皮し続けるプロセス」であったような気がして成らない


「お金なんて幻想だ」と言いやすい世界につくづくなったなとは思うし
それは、ひとつの意識の高まりであるとは思うけれど、しかし
なんやかやいって、今この現在においても、人々は「ホンキ」に
価値を感じられるものしかお金は出さない・・・  ちがうだろうか?

「お金」とは何か?

いまだに「人命の次に大事なもの・・・」違うだろうか?

  わたしはそうだ!

 もしあなたが「人命」以外に「お金で買い取れないもの」を探し回るとしたら
かなり苦労するだろう・・・国によっては人命でさえはした金で奪うことが出来る

「お金」 つまり「数字に換算できる価値観」が、いまだに世界を覆っている

あなたが何かを欲しいと思ったら、その真剣な度数は誰にも目では見えない
でも、「お金」に換算することによって。「可視化」出来る!「触る」事が出来る

あなたの真剣さは、この世界では札束の重みによって客観化できるのだ

もちろん、それ以外のルート、表現方法が一切無いわけではない
あなたのある人への愛情の真剣さは、お金以外にも素晴らしい表現方法が
いくらでも有るかも知れないし、またそういう表現方法が豊かな人は
恋を成就できるだろう、大金持ちにもなり得るだろう

でも、表現手段がない人は? 思い当たらない人は?

そういう人は、やっぱりお金に頼るしかないのだ

そういう人に「お金は幻想だ」と宣言するのは残酷なことなのだ

また、お金に頼らない、自己表現が得意で豊かな人でも
コンビニに行けばお金で買い物をする

それは便利なことだし、スマートなことだ

オペラ歌手がコンビニのレジの前で数分間歌ってミニリサイタルをして
代金の代わりにする様な時代は決してこないだろう


愛情を込めて無農薬の野菜を生産する農家であっても同じだ
本屋に物々交換してもらうために野菜を持って行く必要は無い

市場で正当な評価で野菜を売り、お金に換えて、
そのお金で本を買えば良いじゃないか?

  なにがしかの「価値の数字化」をしなければこんなばかげた
 話しを検討しなければいけない

   しかし、紙幣を印刷するかどうかはともかく
        地域通貨かどうかはともかく
        「価値の数字化」とは実際は価値のマネーポイント化であり
        結局の所、現在とあまり変わり映えはしない



いま、ことさらに「お金は幻想だ、幻想だ」と言う人に私はちょっと危惧を感じる

ひょっとしてだが
かれらはお金を怨んでいるのではないだろうか?・・・・

それは単なる道具だ。  紙切れだ でも確かに「たかがかみ切れ」に
いままでコッテンパンに組み伏せられてきたのも確かだ


なぜだろうか?

それは「たかが共通の信念体系過ぎない」が、
その「たかが・・・・」という侮(あなど)りのせいでは
                   なかったのじゃないだろうか?

「実は」  その共通の信念体系こそが
      最

 
つまり、何がリアルなのか?何が幻想なのか?

日本という国、そしてその外交がある諸外国で
円はそれぞれの国なりに価値を認められている

その価値を認めた人々の間で、円は価値を持つ

一万円札を全く見たことも聞いたことも無い世界で、
それは単なる精密な印刷物に過ぎない

私たちのリアリティー(=手応え、価値観)とは、
その信念体系の共通する人々の間で浮き上がっている世界

              ・・・「浮き世」のことではないだろうか?


13.Dropping Knowledge
   知歳を落とす
 あなたは偽りを落として、借りものの知識を落として、
自分の知恵のなかに、自分の理解のなかに入ってゆく用意ができています。 -


 ナロバは偉大な学者、偉大な神学者だった--
この物語は彼が光明をえる前に起こった。彼は一流の大学の副学長で、
彼自身の弟子が一万人いたと言われている。ある日、彼は自分の弟子たちに
囲まれて坐っていた。まわりじゅうに、非常に古い、めったに見られない
何千もの教典がばらまかれていた。

 突然彼は眠りに落ち、ヴィジョンを見た。それはあまりにも意味が深かっ
たので、夢と呼ぶにはふさわしくなかった--それはヴィジョンだった。

 彼は非常に年取った、醜い、見るからに恐ろしい女性、鬼婆を見た。
彼女の醜さがあまりにもすさまじかったので、彼は夢の中で震え始めた……。


彼女はたずねた。「ナロバ、お前はなにをやっている?」
 彼は言った。「私は学んでいるのだ」

 「なにを学んでいる?」その年老いた女性はたずねた。
 彼は言った。「哲学、宗教、認識論、言語学、論理学……」

 老婆はたずねた。「それがわかるのか?」
 ナロバは言った。「……そうだ、私はわかる」

 その女性はもう一度たずねた。「お前はことばがわかるのか、それとも
意味がわかるのか?」彼女の眼は非常に深く見入る力をもっていたので、
嘘をつくのは不可能だった……彼女の眼を前にして、ナロバは自分が
完全に裸なのを、見透かされているのを感じた。


 彼は言った。「私はことばを理解します」


 その女性は踊りだし、笑い始めた・・・ と、彼女の醜さは変容された。
微妙な美しさが彼女の存在から出て来始めた。

 ナロバは考えた。「私は彼女をあれほど嬉しがらせたのだ。もう少し
幸せにしてあげてもよいのではないか?」。

そこで彼は青い添えた。「そう、私は意味も理解します」

 その女性は笑うのをやめた。踊るのをやめた。彼女はすすり泣き、
泣き叫び始めた。すると、彼女の醜さがすべて戻っていた---
            ---何千倍にもなって。

 ナロバはたずねた。「なぜなのです?」
 その女性は言った。「お前のような偉大な学者が嘘をつかなかったので
   私はうれしかった。だがいま、お前が私に嘘をついたので、
   私は泣いている。お前が意味を理解していないのを私は知っているし、
   お前も知っている」
   
 ヴィジョンは消えた--そしてナロバは変容された。彼は大学を去った。
 生涯二度と再び彼は教典に触れなかった。

彼は理解した……。

 知恵の人、理解の人には新鮮さがある。神学者、知識人とは
 まったく違った香りを放つ生がある。意味を理解する人は美しくなる。
 ことばだけを理解する人は醜くなる。そしてその女性は、知識を通して
 醜くなったナロバの内なる部分、彼自身の存在が映し出されたものに
 すぎなかった。

 ナロバは探究に入った。もう教典は役に立たない。
 いまや生きたマスターが必要だ。


  YOGA:THE ALPHA AND THE OMEGA,Vol.5,pp.51-53




この記事は以下のFB投稿に対するコメントとして記述

私たち哺乳類は、家族、社会を形成することによって進化繁栄してきた


マインド:Mindという言葉は、本当の字源は知らないが
私には「マイン=私は」「ド=~であったという過去形」で構成されて
いるのでは無いか?と思う

つまり、
「私は過去の行動や発言をちゃんと覚えてますよ、責任を持ちますよ」
っと言う意味だ

だからマインドとエゴ(他者との関係性における自意識)とには
密接な繋がりがあるに違いない

  (※しかし、あくまでも同一ではない!!、エゴ無しのマインドは有り得る)

  (この〝違い〟を無視してノーマインドに〝成ろう〟とするマインド
   スピの人は多すぎる・・・これでは無限ループに陥り、錯乱するだろう)

   (彼らはきっと自分の中の堂々巡りに嫌気が差してノーマインドという
    至福を逃避の為のゴールにしているのだろう)



つまり、社会の中、人間関係の中で、〝いわゆる〟正気と呼ばれるのは
このマインドによる「終始一貫性」のことであろう


何事であれ、「欲」には野生が関与しているが
セックスもまた人間が残した強力な野生なのかも知れない

だから、ある意味社会形成の上で子孫繁栄のために
目をつぶってきたのが性欲なのだと思う

その他の様々な生存のための肉体的欲求ならば
ある程度エゴと共存できる

しかし、性のオーガスムスにおけるきらめきの体験は
「私たちがどこから来たのか?」ということを思い起こさせる
<素晴らしくも恐怖でもある体験>であり、性行為とは自分たちで
希望して臨んだ行為のハズなのに

       <何かに取り憑かれた様な>

     ・・・・・狂気が自分たちを支配しているのを感じるのだ


わたしたちは皆、両親のこの神秘な結合体験によって恍惚という光から
やってきた

私たちの肉体を幾ら解剖しても、私たちの意識は「部品」としては
出てきはしない

私たちの60兆の細胞や、腸内細菌、皮膚で共存する微生物たち・・・

これら全部が「生命」であり、ネットワークを組んで私たちという意識を
形作っている(呼び寄せている?チャネリングしている?)のだ


  マインドで説明し得る「原因と結果」という因果律を凌駕するのが
  「誕生と死」=(生まれる前と死んだあと)であり、それが

           「純粋意識(恍惚の光)の世界」だ

   それは無限に広がる無数の個性を含有しつつも
      一つの巨大なネットワークを形成した
            一つの統一意思を持っている

           その統一意識体の指人形=端末が個々の生命だ

私たちは
人間という種族の「ひとりの男」であり「ひとりの女」でありという
アイデンティティー(分離意識)にしがみついている間は、様々な
指人形同士のドタバタ劇を繰り広げているが、ひとたび「出会い」の中で
「違い」を忘却し、「結合の恍惚」という狂気の光の渦に飛び込んだ時、
場合にとっては「結合によって呼び寄せた第三の新しい私」つまり
子供を授かる場合もある

ところがこの恍惚というのは永遠でありながら永続ではない

男と女はまたすぐにその分離の世界に戻ってしまう
しかし、それが「何かの錯覚」ではない証拠が妊娠、出産というかたちで
物質化する

戻ってきたのが二人であれ、ひとり増えて三人であれ、要は分離している
つまりまたドタバタ劇が始まる

結婚のパートナーに最大の尊重が必要なのと同じく、子供が
「新しいわたし」であっても、やはり最大限の尊重が必要だ

ここで私たちはまた「正気」つまり「他者がいる世界」に
早々、帰ってこなければいけない

すべての「あなた」は、「わたし」の鏡でありバリエーションに過ぎないと言えるが
では何故「わたし」であるのにも関わらず「尊重」が必要なのだろうか?

つまり、
「わたし」も「私の肉体」も「あなた」も、全てには最大限の尊重が必要なのだ

これらは、この「すべてが分離して見える世界」の便宜上の分類、役割分担に
過ぎないのであるが、これらで、あなたの奴隷は何一つ無いということ
草木一本、塵一つに至るまで、あなたが所有できるものなど何も無い
・・・・ということなのだ

だから、自分の肉体でさえ、日常で自分の思い通りに機能しているからと言って
別にあなたの奴隷なのではない。・・・・このことを証明するのは実にカンタンで
あなたの不注意で、あなたの肉体が事故や病気で機能不全に陥ってみれば
自分の肉体でさえ、あなたへの愛によって機能していた尊重すべき無言の
友人達、恋人達であったことを、あなたは病院のベッドで思い知るだろう

あなたやわたしは、正気でなければこれら「もうひとりの自分」・・・・
あなたと一心同体の友人達、恋人達への敬意を払うことは出来ない

大なるものも無ければ小なるものも無い・・・・
「全ての存在に最大限の敬意を払う」というのが〝正気〟
ということだ

その反面、

あなたやわたしは、恍惚の狂気を受け入れなければ、
これら「個性溢れる個々の存在達」が「もうひとりの自分」なのだということを・・・・
あなたと一心同体の友人達、兄弟姉妹達なのだということを・・・・
永遠に自覚出来ない

種族の壁さえ透過して愛するのが〝聖なる狂気〟ということだ


   正気とは、分離感と尊重、そして恩寵である

   狂気とは、一体感と、そして至福である

この両者の違いは単なるバイブレーションの周波数帯の違い
そのフォーカスポイントと、チューニングスケールの違いに過ぎない

だからあなたやわたしは、ブロードバンドであるべきだ!

  正気でなければならない

         そして

      狂気でなければならないのだ!

誕生と死、そしてセックス

これが占星術における三大エポックである
つまり、私たちが生まれてくる前と死んだ後

「わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか?」
その世界を垣間見ることが出来るのがセックスだ

この「ふる里へののぞき窓」から、光の記憶を呼び戻した時
円は完結する

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サイモン シネック: 優れたリーダーはどうやって行動を促すか
日本語字幕のテキスト起こし



これは何事にも応用可能な、考えてみれば当たり前な話しだ

例えば良くある話しに・・・、

田舎のジジババがテレビを見ている
するとジャパネットたかたでコンピューターのフルセットを
バナナのたたき売りの様な名調子で薦めてくる

「ばあさん、ワシらも若い者に乗り遅れない様に
パソコンに挑戦してみるかね?」

  ・・・・っというわけでローンを組んでドーンとフルセットが来る

  サポートも万全なはず・・・だったのだが
  そもそも何から質問して良いのかが分からない

  いつしかパソコンは埃を被って物置へ・・・

   てな具合である

「なぜ?パソコンが必要なのか?」が明確でないと
こうなるのは目に見えている

語学学習にしてもそうだ。

漠然と「英語でも勉強してみるか?」ではまず身には付かない

もっとも身に良く付く、早く付くのは、「必要に迫られて」である
たとえば英語がネイティブの彼女が出来たとか・・・

  人にはベクトルがあって初めて、確かなアクションが可能になるのだ

人は死を目前に控えたとき、死を嘆くことよりも
「自分の人生の意義とは何だったのだろう?」と考えることが多いそうだ

  それもまた、同じ事なのだと思う

   ただ、漠然と生きている時間が「人生」なのではなく
   生き生きとした意義を感じられてこそ・・・「なぜか?」を実感できたときこそ
   「生きている」と感じられるのだ・・・

    生きるとは、その継続時間のことを単に指しているのではないのだ


2・Commune
   コミューン
 コミューンとはもうひとつの社会を意味します……

世間という砂漠の

あなたがそこに始めたばかりの人々を見る場所、
あなたがそこに始めたばかりの人よりは
          もう少し先に行っている人びとを見る場所、

   そして、
そこに自分たちの旅のほぼ中間にまで行き着いている人びとを、
さらにその中間を超えている人びとを、

   そして
まさにゴールに行き着こうとしている人びとを、

   そして
行き着いているマスターを少なくともひとり、そこに見る場所。



それはあなたがスピリチュアルな段階の範囲を
                     すべて見ることのできる場所だ。
                     旅の全行程を見ることのできる場所だ。

それは勇気を与える。

あなたは、自分は息詰まってはいないのだと、
暗闇のなかを動き回ってはいないのだと、
なんらかの幻想に、幻覚に入り込んではいないのだと、
自分の努力は結果をもたらすのだということがわかる。


                      THE SECRET p.156-161



 そしてこの実験全体は、世界に或るひとつの
         プッダフツドをもたらすためのものだ。

 このコミューンは普通のコミューンではない。
         これは神を呼び起こす実験だ……。


 私は神がもっともっと降りてこられるようなスペースを
                  創ろうとしている。

このコミューンは接点になるだろう。
        世界はその接点を失った。
         神はもう現実ではない。

この世紀に関するかぎり、ニーチェは正しい。
神は死んだ。接点が壊れている……。


 このコミューンは橋を創る実験だ。
 もっともっと調和しなさい。
 あなた方のエネルギーをプールにしなさい。
 そして覚えておくがいい、小さな流れは海に行き着けない。
 どこかで失われてしまうだろう。海は非常に遠い。
 どこか砂漠の地で、どこか荒れ地で、それは失われてしまう。


だが、多くの小さな流れがひとつにプールされたら、
それらはガンジス河になる。

そうなったら、それは海に行き着くことができる……。



   SUFIS:THE PEOPLE OF THE PATH Vol.2p.318-322


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