We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年01月




40kgの体重の人体では40兆
60kgの体重の人体だと60兆もの細胞で構成されていると言われている

もちろん、単細胞であればこうは成っていない

細胞の一つ一つが全部〝I am〟であり、これらが一糸乱れず
助け合って私たちという人間の1個1個の個体の意識を
構成している

死の恐怖とは何か?と言えば

     「わたし、というこの意識は
     ある種の〝現象に過ぎない〟のではないだろうか?」

                               という恐怖だと思う

もし、「物理現象」に過ぎないのであれば、肉体の壊滅と共に
私と言う意識は消滅する

私たちは無意識状態というものを毎日体験している...睡眠によって

夢を見ている状態であれば、私たちは意識はあるにはあるが
かなりの混濁状態だ  ・・・・そこにはマインドが存在するから
かろうじて記憶がぼんやりとは残っているが、そのストーリーは
もはや自我によって自由にはコントロールできない

そしてさらにくつろいだ状態になると、もはやマインドも消滅する
別の言い方をするのなら、マインドとは緊張の一種なのだ

それは当然そうだろう

私たち生命がサバイバルの為に自ら構成していった、そしていまでも
アップデートし続けているプログラムこそが「マインド」なのだから・・・・

完全に何の悩みも心配も無い状態では、マインドは停止する
いや、・・・・それは消滅ではなく、単純に出番がなくなる

自意識を持つ必要も無い

完全に守るべき自分というのを意識する必要が無いのなら
私たちは、周囲と違った「ジブン」という城壁を忘れてしまうだろう

しかし睡眠において、完全に無防備な、このノンレム睡眠において
私たちは完全な記憶の空白を〝体験〟する・・・・

・・・いわば〝体験者無き体験〟だ

私たちはアイデンティティーという依り代を失ってしまうと
気絶してしまうのだ・・・それは完全な無意識状態、ブラックアウト!!!


これこそが「死」のイメージではないだろうか????

完全なるくつろぎ、気絶してしまうほどの安らぎ、完全なる〝無〟!!

・・・・・では、「無」とは、本当に「ナッシング:不在」なのだろうか!?


   この問いの中に、
  わたしたちが「宗教」「聖なるもの、聖なる世界」「究極」「超越」
   という言葉に対して〝アンタッチャブル性〟〝深刻なイメージ〟
 〝リラックスへの究極的恐怖〟を感じる理由の根底があるのではないだろうか?

    もし?、究極の無条件さにおいて
    わたしたちが溶解して霧散してしまうのでないならば

    いやむしろ、

    それこそが、本当の自覚であるならば
    私たちは恐れる必要など無かったのだ!

    「悟り=究極のリラックス」ならば、
    それはすでにここにあるということになる!
    私たちは毎晩、気絶しながら体験していることになる
    その間私たちは「帰郷」していたのかもしれない
    「無限の世界」に・・・・

  そして、その記憶を留めずに、今日も「覚醒のゲーム」をしているのかもしれない




これから運命に立ち向かおうとする、ある女性への返信として・・・
宇宙が提供してくれるものは、瞬間瞬間、
常にパーフェクトなタイミングで、ベストなものさ!!

その信頼があると
もっとも、そのプレゼントが上手にリラックスして受け取れる
よ!

人生にイエスと言ってご覧

OSHOネオタロット
31.Acceptance











ニコニコのアカウント無い人、
ダウンロードしたい人は以下のリンクで


Krishnamurti Who am I

字幕 By zowgen



呼吸の奇跡が起きてから一日目に書いた亀に学ぶ万歳の生き方では、
かれらの長息と長生き、リラックスについて触れた

そして彼らが、まるで、ヴィパサナ瞑想のマスターであるかのような
象徴的種族だと書いた


奇跡から4日目、今日も相変わらず呼吸は楽だ
そして今朝気が付いたのは、吸う時間や吐く時間よりも単純に無呼吸状態の時間が
長くなっていることだ。

でも、これは瞑想に比較的深く入っている時の現象そのままだった

そもそも瞑想に「深く入っている時」とはどんな状態なのか?というと
自分自身への肯定感がより、深い時だと言える

・・・・だんだん呼吸が浅くなり  ・・・ハッとすると自分は息をしていない

OSHOの言葉にもあるように
リラックス状態というのは、実は複雑だ



あなたはさらにこう言っている。


「先日、あなたがくつろぐことは
最も複雑な現象のひとつだとおっしゃられたとき、
私には次のようなことがひらめいたのです――

それはリラクセーションの糸やレットゴー(手放し)の糸、
信頼の糸などが複雑にからみあい、そこに愛の糸が織り込まれ、 さらに受容、流れること、溶け合い、歓喜の糸なども加わった、 重厚なつづれ織りのようなものではないか、と」


そのとおり、リラクセーションは最も複雑な現象のひとつだ

―― とても重厚であり、多次元的だ。
     これらすべてのものがその一部になっている――

   レットゴー、信頼、明け渡し、愛、受容、
   流れること、存在との溶け合い、無我、歓喜。

これらすべてがその一部としてあって、リラックスすることを学んだなら、

これらすべてのことが起こりはじめる。

それらは複雑な様々な要素が混じり合いつつ、ぴたりと一つの
「究極点」に集約される

  それを日本語では()と呼び「合意のサイン」とした


この「ガッテン」に留まった時、
そのガッテンがシャープに研ぎ澄まされた地球ゴマの軸の静止になる時
それが深いリラックスになり、体内時計を静止させる、振り子が止まるのだ

これが自分自身を深く受け入れた瞬間であり、
この時、体内の酸素消費量が限りなく小さくなる

「もういいかげん呼吸しないとヤバイかな?」と心配になって初めて
呼吸を再開するぐらいだ

   「自分自身の深い受容」・・・・・

亀という生き物は他の生物にはないもう一つ大きな特徴を持っている

つまり前足後ろ足、尻尾頭を甲羅の中に収納できると言うことだ

これこそが「瞑想状態」を見事に視覚化した姿だと思う

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