We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年01月

記事「フリー」では女性の本質的な「娼婦」体質について述べた

   誰か特定のパートナーだけに操を立てれば女性は「貞淑」と呼ばれて
   社会は称賛してきた

   女性が己の性に関して自由奔放に振る舞うと、それは「淫売」と呼ばれて
   社会は非難した




    男性はともかく、特に「いわゆる貞淑な」女性にとっては、
    他の女性達の性の自由奔放さは糾弾の対象だ

    なぜか?

    理由はカンタンで、これは嫉妬だ

    もし、自分が女としての魅力を信じており
    また夫と共に老いていって女性としての若いときの様な華々しさを
    失っても、夫との絆に強い確信があれば、周囲が性的に幾ら乱れていても
    「若い人達は不衛生ねえ・・・」「本当の絆を見つけられないと大変ね」
    ・・・・と溜息をつき、それ以上の危惧は感じないだろう

   女としての自信が無い(セルフイメージが低い)女性が、
   「早期の売り抜け」で結婚を焦ることはもはや社会常識だ


   他人の自由奔放さへの強い憎悪を伴う攻撃性は
   「性」だけに限らず、すべてにおいてそれは嫉妬だと言えるだろう

   ゴーダマ・シッダルータが求めた「生老病死の原因」
   への解答はここにある

   つまり、他人への「嫉妬」「羨望」とは
   「世界を自分の満たされない欲望、劣等感、被害者意識を映し出す
   投影スクリーンにする」行為であり

   それが

   「天上天下唯我独尊」の永遠の自由の楽園から
   私たちが転げ落ちた原因だからなのだ

   若者に嫉妬するブッダをあなたは想像できるだろうか?

   でも若者とディスコで楽しく踊る釈迦やイエスなら
   私は大いに有り得ると思う

   

   永遠の「若さ」を見いだした覚者は、決して若者達の
   自由奔放な姿を咎めて嫉妬したりはしないのだ

   わたしが彼らを「救世主」という依存の対象ではなく
   「アニキ」と呼ぶのはそこなのだ


   かれらが踊る姿は、何よりも美しくカッコよく、生き生きとして居るだろう



     彼らの様な人達は嫉妬するのではなく、
          老人達に嫉妬されて、殺される運命にあった

   世界一美しいダンサー達を、老人は殺さざるを得ない

   そして世界一醜い人々とは、
   ダイエットだのアンチエイジングだの不老不死を求めて
   高価な化粧水や健康食品を消費する女達なのだ!!


この嫉妬による老化の現象とは、社会(=人々の集団幻想)が
「一夫一妻制」に抱くノスタルジーを根底にしている

私たちが本当に渇望しているのは
「自分の中にあるありったけのエネルギーをリリース出来る・・・」
  完全燃焼の人生だ

その「ありったけのエネルギー」とはクンダリーニのことである


そして・・・・
   「それ以外のエネルギーは私たちは持っていない BY OSHO」

通常のセックスにおいて、「中」というのは女性の膣内であるが

  しかし、
   私たちは純粋意識としては皆「男」であり
   私たちは肉体存在としては皆「女」である

   「可視の魂が肉体であり、不可視の肉体が魂である  BY OSHO」

なので、「中出し」とは女性の膣内と言うことではなく
私たちのそれぞれの内奥なのだ

性のダンスにおいて
   男性原理にとってはそれは「おわり=死」であり
   女性原理にとってはそれは「はじまり=誕生」だ

    「放出する」というのは通常「外」を意味するが、それが「内向き」である時
     この「おわりとはじまり」のリングが閉じる、それが「中出し」である

      この瞬間に私たちは「永遠」を感じる
      それは次の世代の妊娠と出産の為にクンダリーニが向かうのではなく
      ひとりの人間の中での男性原理と女性原理の結婚だ

      この時、ひとりの人間の中に「円周率=パイ」(直径=ペニス 円周=膣)
      が無限の速度で光速を超えて回転しはじめる


私たちは自分の問題を内側で熟成させ、見つめることなく
外界に投げつけていたのでは、いつまでたっても「妊娠」しない・・・


わたしたちはみなひとりになることで自己妊娠できる
ワンネスを孕み、ワンネスをこの三次元に出産することが出来る

この一年、私はみなんさんに異なる答えを与えてきました。

しかし、今、私は、その時が本当に近づいていると言うことができます。

神が本当に、あなた方に物理的になるのです。



そして私たちは
 瞬間の中に死に、
 瞬間の中に新生する存在となる

  それが「マン・カインド」という種族の特権だ

「性」それは原始においては占星術十二星座で言うところの
雄牛座の世界、第二ハウス「物理的獲得、所有、支配」の世界だった

まだ人が猿と同等であった時、
現在の猿やライオンのファミリーと同じく、
力の強いボスザルが多くのメス達を独占し、
また、それが
「強く生き残れる遺伝子を受け継いだ子供」を出産する為に、
メスにとっても好都合だった

そしてその「腕力の強さ」は外敵からの防衛に、何より有利だった

ボスザルはハーレムの中で権威を振るっていたが
その代償として、強い肉食獣の乱入や、若くて強い雄の猿の挑戦に
立ち向かわなければいけなかった

この「闘争」こそがメス達を独占する権力の代償であり
それが十二星座「おひつじ」、全十二ハウス中の「第一ハウス:生への衝動」が
象徴するものだ

つまり、筋肉隆々の若くて強い磯野波平をイメージして欲しい

そこには当然牧歌的なサザエさんのホームドラマとはかけ離れた
家族の風景があっただろう



マスオさんもまた筋肉隆々のチャレンジャーであり、波平が力に勝る時には
マスオさんはフルボッコなって敗退するか、あるいは殺されただろう

第二、第三のマスオさんが襲来する毎に、群れは騒然とし、メスと子供達は
怯えながらその新旧の闘いの経緯を見守っていたに違いない

しかし、老いてきた波平ザルはいつかはチャンピオンの座を奪われ、ひとり
群れを去り、孤独に死んでいった



この時代にオスとして生まれることは、メス、つまり母親を独占できるのは
幼児期だけであり、父の座を奪えない以上、それは死か?あるいは群れから
放逐されることを意味していた

ここにネオテニーという、唐突な進化の法則の原因があるのかも知れない
つまり未熟、奇形のまま放逐された子供が生き残ったのだ

この時代、メス達は強いボスザルの独占物であり、そこで可能な限りの
安心を得て、子育てに専念できた

しかし、この下克上はだんだん変化してきただろう

森の楽園を父から追放された若い猿たちは、多くは平地の肉食獣に
喰い殺されながらもいつしか腹違いの兄弟のオス同士の集団を
形成していったに違いない

  ※わたしたちが時々見る「落下する悪夢」は、この時代の記憶かも知れない
    猿にとって、木からの落下とは、死を意味する

それは一極支配ではなく、チームワークによる生き残りを形成していっただろう

彼らは死の草原に追いやられた。肉食獣に怯え、逃げ延びながらも
狩りをし、相互に警備し合っていくウチにボスザルの一極支配とは違った
別の楽園を集団行動の中で形成していった

オスの若者達は知恵を付け、見事なチームワークによって
ボスザルの一極支配の群れからメス達を器用な陽動作戦で
次々強奪していったのではないだろうか?

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メス達は生活環境の激変が何をもたらすのか? 大きな不安を感じつつも
その一方で、強さと安定の為だけに一匹のボスザルにセックスを捧げ続ける日々に
ウンザリする気持ちもあったかも知れない

そして、クレバーで鮮やかな恋ドロボウ達の「お手並み」をみて、いままでの
「強さ」とは違った、未知の「強さ」を直感的に感じ、何かワクワクした興奮を
感じたのではないだろうか?


強奪された花嫁達を待っていたのはボスザルに身の安全の為だけに
性を差し出した日々とは違う、まったく別の初夜の体験だったのではなかろうか

オス達は強奪してきたメス達を仲良く分け合った

「おまえはその娘だな?よし!おれはこの娘がいいな!」っといった具合に・・・・

もう腕力による王座の奪い合いがバカバカしくなったオス・・・いや男達の集団は
この時、生まれて初めて自分専用の妻というのを持ったのだ


 ここから猿と人間とは急速に枝分かれしていったのではないだろうか?

力の勝利を得て「木の上」という優位な地位に居残った猿たちは
そのまま現代の猿になり、危険な地上で猿としての生活を失ないつつ
必死に生き残ったグループが・・・・私たちなのではないだろうか?

・・・・だんだん二本足で立ち、遠くまで見渡して索敵していくウチに、
両手が使えるようになり、前足が道具を使える「手」へと変化してきた
その器用さは脳へのフィードバックを活発にし、さらに頭を支える直立は、
木の上で暮らす尻尾を無用にして大脳の肥大化を促進させた

集団行動はだんだん複雑な発声を必要とし、そして言葉という相互通信手段を
発達させた、これが双子座、第三ハウス「学習・コミュニケーション」の世界だ

この進化の過程で、生存競争の大きな革命は確定的になっただろう
つまり、筋力的な強さから、知力的な強さへと、「強さの尺度」が飛躍ししたのだ


チカラで奪い合うことから卒業した彼らは互いのカップルを尊重することになった
これが「一夫一妻」のはじまりとその理由ではないだろうか?

   ※かに座=第四ハウス

・・・それはボスザルのハーレムからのリバティーを意味していた
「一夫一妻」カップルの相互尊重の中に、最初の「民主主義」が萌芽したの
かもしれない  ・・・ここに「血筋」「血統」さらには「家系」という概念の始原がある


  ただし、「花嫁強奪劇」には、微妙な歪みもあった

それは、家族形成のスタートラインに「奪った者」と「奪われた者」との関係性が
刻まれていることだ

女性達には、
人生を「強奪され」「捧げさせられた」という被害者の言い分と特権があった
さらには子供は女達の胸にあった・・・女性達は、無論子供がカワイイというのも
あっただろうが、この原始の時代から自分の子供が夫に対して「人質」に使える
という邪悪な思いつきを密かに得ることになった

それゆえに夫達は皆、自分たちが強奪してきたはずの妻達の尻にひかれ
愛情を表現し続けると言うことが「義務」として課せられた




男達がこの状況において、「名誉挽回」出来るのは、「他の部族からの侵略」に
立ち向かう時だった  ・・・この時、命がけで妻や子を守る勇気をふるった時
男は「立った」

この「男を立てる文化」こそが日本文化だ


  ※しし座(支配性:太陽) 第五ハウス

妻や子供、そして老いた両親、祖父、祖母達・・・

これらは家族を構成するメンバー・・・つまり
「家」とは何か?といえば、家屋とはあくまでもハードウエアーに過ぎず
その柱は「雄々しく凜々しい父、夫、長男」の姿
「外に待ち構える七人の敵と戦い続ける男の誇り」であり、
それは家紋を背負うことであった

「家紋とは何か?」ここには日本の男系文化=ソフトウエアーの意味の全てが
凝縮されている

これをわからなければ、日本とは?、ハラキリの文化とは何か?は理解出来ない
これがわかれば、それらは自動的に理解出来る

「家紋」とは戦場に咲く華なのだ!!
「この家紋にかけて、私は正々堂々と闘う」という誓いの印なのだ

つまりもっと端的に言えば、戦(いくさ)とは単純な動物同士の生存競争、
縄張り争いなのではなく、人と人との名誉をかけた命のやり取りだと・・・・

                    ・・・「家紋」はそれを語っているのだ


    日本文化というのは公家のオモチャなのではなく、
    血で綴られた「人間としての覚悟の歴史」であった
    「お家の価値」とは、この上に建てられたものだったのだ


    男にとって妻とのまぐわいとは、「命のバトンタッチ」そのものであった
    女性、妻にとってはそれは大切な宝であった

     今の女性達に聞けば「壁どん」してもらいたい男性とは?
     っとたずねれば、「イケメンならオッケーよ」という自分の好み
     気まぐれな曖昧な答えが返ってくる・・・これが如何に不幸なことなのか?

  現代、女性達は「イケメン」を漁っている

  それ程までに生まれてこの方、本物の男を見たことが無いからだ

   では、この国に男が居なくなったからなのか?
   ・・・いやそれはとんでもないことだ

    おとこたちは、いまでも愛する者達に命を捧げる場所を血眼になって
    探していて、それゆえのネトウヨであったり、それが見つからない
    虚しさ故の、ニート。ヒキコモリなのに過ぎない


    いまでも

    日本人の男性の遺伝子は、
    「死ぬべき価値=大義ある戦場」が見つかれば
    今この瞬間だって爽やかな笑顔で颯爽と駆けだして行くであろう

  ※奉仕と献身の「おとめ座」、第六ハウス

    しかし、化粧の巧いだけのアニメのようなデカ目の女達に
    そういう価値を感じないだけだ

http://i.ytimg.com/vi/d85trGdaG9g/hqdefault.jpg


    それ故の「草食系男子」「悟り系男子」なのだ


    「男子の本懐」を遂げる場所がない現代
    いま、男達はそのさらに上の次元を目指す

       ・・・・・それが自分自身からの脱皮 「エンライトメント」 だ


   ※てんびん座:「内面の日の出」、第七ハウス

映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」に以下の様な
台詞のやり取りがある



  「フリー(砂糖抜き)のコーラもらうよ」

  「フリー(無料)だと?そんなものねえよ」


主人公のマクフライが言っていたフリーとは解放である
つまり、白砂糖とは依存性があって身体を束縛するわけだ・・・

白砂糖は体内のカルシウムを溶かして、骨をスカスカにしてしまう!!
文字通り「骨抜き」にされるのが白砂糖だ・・・




この名作映画の出演のあと、マイケル・J・フォックスが
ペプシの飲み過ぎでパーキンソン病にかかってしまった
のは
因縁めいた話だ

  いま、
アメリカという国家自体も、重い病にかかっている

かつて日本が通ったバブルの熱狂がおわり
マイケルムーアが彼の映画作品で何度も取り上げた、彼の故郷
フリントの様な荒れ果てた大恐慌状態が、今アメリカを蝕んでいる



それゆえに今、アメリカの人達が思うのは
この〝病〟とは何か?その〝治癒とはどうすべきなのだろうか?〟という
模索だろう

  その処方箋とは「FREE」ではないか?
  ・・・アメリカの人達はそう気が付き始めたのじゃないだろうか?

     その模索の結論が以下の動画に表現されている様に思える




これらの記事を見て、何人かのFBの女性達が目を回した

  「全裸だなんて信じられない!しかも女性の賛同者までいるのがショック!」

  「金ももらわないで、タダで自分の裸を見せるなんて冗談じゃない・・・」


そしてまたある女性はこんな事を今朝メッセしてきた

  「結局フリーセックスって男目線の理想の押しつけではないか?」


これらの女性達の声を考える上で連想したのが、上記の
「フリー(無料の)ドリンクなんかウチにはおいてねえよ!」という
台詞だった


  わたし自身、「フリー」という言葉に対しては警戒心は持っている

バシャールや都留晃一さん、その他スピ系の人達がキラキラした天使っぽい
絵を提示しながら高らかに言うのが「無条件の愛」というやつである

  この台詞を見ると私はキターーーー!っと思いつつ叫ぶ

        「無条件の愛とかきれい事言うのは
         全財産を慈善団体に寄付してから言いなよ!」

ところがわたしは
実際に「無条件の愛」の中に生きている人々を美しいと思う・・・
        ・・・・・・究極的なまで、絶対的なまでに美しいと思う


そしてそんな人達が、生き生きと己の生き方が
如何に歓びに満ちあふれているかを夢中になって人々に語るのも
素晴らしいと思う

でもその生き方を、「教え」とすることには私は反対だ
なぜならそれは誤解を招き、多くの人から拒絶反応を引き起こすことになるからだ

  わたしたちは「自由」を本性として生まれてきた・・・動物たちも、
   わたしたち人間も、


自由の本質は「無邪気さ」にあるとおもう

自然に振る舞うと言うことは、
生き物にとってとても大切なことなんだ

             BY スナフキン名言集


無邪気さというのは言葉で教え諭すものではない
もどかしくても、自分自身の生き様で自然に伝えて行く以外の
方法は無いのではないか?とおもう

「無条件の愛」なんてあるもんか!と言いたいんじゃない・・・・

ただし、それは、存在銘々の中心、ハートの中に
     ひっそりと宿るものだと思う

その純白の光が外にこぼれ出たとき、それは「無邪気さ」「純真無垢さ」として
周囲を明るく照らす・・・それだけのことだと思う

そしてその純白の光は、ありとあらゆる形で表現される

笑顔でも、言葉でも、仕草でも  ・・・・そしてもちろんセックスの中でも!!

フリーセックスというのは、あるいはヌーディズムというのは
不特定多数と「する」とか「しない」とか
「お金を取る」とか「取らない」とか言った問題とは全くかけ離れている

それは純然たる歓びであって、何かへの期待じゃない

あらゆる意味での身構えじゃない、何かの「方針」でもない
  「身構え」そのものが「邪気」であり「穢れ」なのだ




あらゆる「身構え」あらゆる「思い込み」あらゆる「決めつけ」からの自由

それこそがフリーセックスという言葉の真意であり、
それを「乱交」と決めつけること自体が「卑猥さ」「邪(よこしま)な思い」「奴隷化」なのだ



本当のフリーセックスとは、たとえ夫婦だからと言って
セックスに応じなければいけないという義務からの解放も意味する

男=夫にとっても、女=妻にとっても、結婚という社会制度、家という密室が
性のあらゆる種類の拘束、約束、虐待、暴行、強制の温床であってはならない・・・
っということ・・・それもまたフリーセックスという言葉の意味するものだし
・・・誰とも性交渉を持ちたくない、拒絶したい、というのが本人にとっての
自由な意思なら、それが最大限に尊重されるのもまたフリーセックスの
意図するものだとおもう


自由というのは本質的に危険を感じるものだ

なぜなら、ここから先は莫大な未知が広がるからだ

でもだからこそ、このありったけの、無限の未知が開かれていること・・・
可能性が広がっていると言うこと・・・

  一体それ以外に「愛」が可能だろうか?

          「自由」抜きの「愛」は可能だろうか?

           「愛」が無くて「自由」に何か意味があるだろうか?


ちょっとついでだけど・・・・

  いま、日本の女性達の多くは「従軍慰安婦」の様な被害妄想に
  囚われてはいないだろうか?

  もし、そうなら
  韓国からグチグチ言ってくる「従軍慰安婦問題」というのは
  日本の女性達の陰湿な被害妄想が呼び寄せているんではないか?

  ふとそういう思いがかすめた

女性達は「性」を、「出産、子育て」を、「愛情」を、
自分の「販売商品」にしてはいないだろうか?

そしての代金として「妻の権利、立場」を欲しているのではないだろうか?

  つまりそれが「従軍慰安婦」


そんな彼女たちにとって、「フリーセックス」という言葉は
「商売敵」「所場(ショバ)あらし」にきこえるのではないだろうか?

つまりは夜鷹の縄張り争いと大して変わらない

図書館が出来ることをプラカードを持って反対デモする
本屋さん達の様なものではないだろうか?

もちろん、こんな「ゲスの勘ぐり」が当たっていないことを心から祈る
しかし、少なからず、そういう風にしか解釈できない女性達の発言を
私は聞いてきた ・・・私としては、とても寂しく、残念なことではあるが
「貞淑な妻」というスタイルにさえも商品プレミアムとして「値札」をつけている
「(本当の意味で)ふしだらな」日本の女性達は、今、少なくない様に思うのだ



以下に人間関係の段階を私なりに生命の樹によって整理してみた
今後また修正が必要かも知れない

生命の樹

欲界においては、まず単純に肉体的な必要性によって
人はいろいろな活動を開始する


  食欲、睡眠欲・・・その他の生存欲

  そして社会的な向上欲、
        知識欲、探究心、好奇心・・・自己拡大欲だ

  それから子孫を残したい、自分をコピーバックアップしたい
       自分がDNAに記憶した様々な記憶を後世に伝えたいという
       性欲だ

これらの欲求が最初の動機になって
次の「情」の世界では、様々なカルマ的(因果律的)な引き合い、出会いが起きる

目の前にある様々な選択肢、様々な存在の中から、わたしたちは、
特定の「何か?」 特定の「誰か?」を「意識的」あるいは「無意識的」に
選択し、そして引き寄せる

   私たちが日常的な意味で言うところの「恋」というのは
   広義では男女関係に限らず、この「(相互)選択」と「引き寄せ」だ


次の「望」の世界では、「欲界」の「いまここ」性から遊離していく

  冷血動物たちは、目の前に飛び込んできたものをパクリと捕食するだけの
  「欲界」だけであり、温血動物は   「(自分の子供であるとかいった)
  特定のえこひいき」  つまり 「情」 の世界までで生きているが、彼らはいずれも
  「生存本能」という<宇宙生命意思からの自動操縦>だけで生きている為に
  脳の機能も単純だ

       ※ でもそれゆえに私たちが彼らを
         「下等動物」と蔑むのは如何なものだろうか?

我々人間だけが、「明日を煩う」というマインドの機能を得た

 道具を使い、複雑な発声と、その複雑化したサイン伝達=言語を
 得ることによって、物事の関連性=概念のネットワーク化、因果律の思惟を
 するようになった・・・・この時多分すぐに「神」の概念も思いついただろう

我々人類は相互の固有の体験を言葉によって共有し、ネットワーク化していった

タチコマ

わたしたちは「いまここ」にあるものだけに満足できないようになり
「いつかどこか?」を考えるようになった

目の前にある食べ物の味と滋養、愛情を込めて料理してくれた
目の前の人の笑顔が見えなくなった
それが私たち自身の関係性を地獄へと変化させたのだ

私たちは占いや予言にしがみつき依存するようになり
そして御利益宗教」が生まれていった


   「愛」つまりハートの次元においては、私たちは自分自身に立ち返る
すべての他者との関係性で盲目になってしまったマインドの言い訳、トリックから
私たちは脱出する

この次元では、もはや私たちは、「いま、ここに幸あり」と宣言できる

もはや自分の不幸を誰に、何に投げつけることもしない
幸福を求めて「外」をうろつき回る乞食をやめる

「内面」が開花したのだ!
「中心とは何か?」「私とは誰か?」「いまこことはどこなのか?」

  明瞭に判る、・・・そこで「愛」する人などいなくなる
             ただ「愛」がここにあるのだ

もはや、このメンタル界においては、人は

「汝の欲するところを為しても、それはエゴからではない」

「全ては愛そうと作意することなく愛の行為となる」


わたしたちはマインドを使いつつも、マインドの奴隷ではなく
わたしたちはマインドのあるじになるのだ

わたしたちがいままで「時間の無駄」と思い込んでいた
「ぼんやり」の状態=DMN(デフォルト・モード・ネットワーク=瞑想状態?)
は脳内における「自己知」の状態であることが解明されはじめてきた



・・・この先も続編を書くと思います、たぶん(笑)

私の様な、もてない君男子にとって永遠の謎は
女性の「壁どんシチュ願望」だ



つまり、「強奪されたい」「私を奪って」っていう願望だ

これは、女性に「理想の男性像」を訊いたときに
多くの答えが「優しい人がいい」というのと真っ向から
対立している

「優しいひと」は「相手の意思を無視して強奪」しにきたりはしない・・・

女性にとって「相手の自由意思を尊重しない」男性が「優しい」のだろうか?
これは私たち男性から見れば大いに矛盾だ

ただし、一つ可能な推論がある

女性が言うところの「優しさ」とは「わたしを守って欲しい」という
願望を満たしてくれることではないだろうか?

「強奪」というのは相手の意思の尊重ではなく、相手の意思を圧倒すること
相手の自由より「おまえが欲しい」という男性自らの欲求の優先である




男性のその熱情の強さはそのままペニスの硬さへと伝わる

つまり、女性は男性に刺し貫かれることで、相手の自分に対する欲求を
確かめ、感じ取るのだ

「貪り食われる歓び」「求められる歓び」が
女性のオーガスムスの基底なのではないだろうか?

男を「勃起(た)たせてこそ」の女性の魅力で、
男性を「その気にさせ・・・」なければ、お話しは始まらないのだ




男性は「主(しゅ:主人、夫、旦那、スワミ)」
女性は「従(じゅう:家内、妻、細君、マ)」

  基本的にはこういった主従関係が、
  夫婦の間で現代まで営々と続いてきた

   男性が「主」と呼ばれることにはいろいろな意味があると思うが
   「壁ドン」で奪われた女性のハート・・・ その女性の今後の幸、不幸は
    「奪って」「自らの欲求に従わせた」男性に責任がある・・・

その、男性の「責任感」「主体意思」こそが、女性が求める「愛情=優しさ」と
言うことなのではないだろうか?

   ・・・こう解釈、というか、解読するならば、
     女性の「壁ドン」への憧れは説明できる


女性は「従う」ということの快楽を知っている

つまりそれは
「奪われ」「求められる」ということの快楽でもある

ところが相手が誰でも良いのかと言えばとんでもないわけで
女性に恋する男性の「勇気」は必ずしも報われるわけではないところが
男性にとっては大きなリスクとなる

女性は「雄々しく求められる」ことを望みながらも
「お呼びじゃない」男性が来れば金切り声を上げるか?ストーカー扱いにするか?

つまり女性達は十重二十重の城壁をあえて作り、男性の略奪を待っているのだ
これが女性という生き物の本能なのかも知れない

この「インビテーション=誘惑」という女性の受け身的テクニックには
恐ろしい代償がある

   ・・・・つまり「求められなかった」「選ばれなかった」際の惨めさだ

    その時は女性は妄想の世界に逃げ込んでも
    自分にドラマを起こそうとする

       痴漢冤罪 - Wikipedia

現在は「肉食系女子」なんていう言葉を聞く様になって、もう久しい

いまどき、
「数々の艱難辛苦、十重二十重の防衛ライン、リスクを突破してでも
奪いに来てくれるルパン三世のような男性」      を待っていても、

               ・・・・・・・・・もはや完全に埒が明かないだろう

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いま、男性にとって、性風俗は充実し、多様化し、ポルノは安価だし、
料理洗濯みたいな家事一般は、かなり電気製品の充実やアウトソーシングに
置き換わってきている・・・  性の面からも、家事労働の面からも
「妻」の必要性はかなり低くなってしまっている

ましてや、女性が「アタシのこと幸せにしてくれる?」
しなだれかかっていっても、「まかせろ」と胸を張れる男性は
昨今、絶滅の一途を辿っているのではないだろうか?

いや、オトコノコがそう元気に宣言するのは大変結構だが、
実際のところ可能なのか?
どんな保証が可能なのか?

いや、現実問題として、そんな昭和の青春ドラマ的な
ノーテンキなガンバリズムと豊かさが比例した高度成長時代はとっくに終わっている


そしてふと思えば、この状況は宗教とも酷似している

つまり、誰か・・・教祖様とか救世主様とか生き神さまに従っていって、・・・・
あるいは何か学歴、資格、トロフィー、ゴール、栄光にすがっていって・・・・・

     ・・・・「ハッピーになれます!」と言う程、人生は単純ではない


         「幸せにして下さい」と神頼みならば、人は不幸に墜ちていく

         「自由を、平等を、愛を下さい」と天を仰げば
          社会に渇望すれば
          不自由が、不平等が、愛の枯渇が待ち受けるだろう

        それが、宇宙の基本法則だ


現代におけるまで、延々と続いた「性別による役割分担への期待」の時代は
もう終わろうとしているのだ

そして夫婦と家族制度の老朽化が、ここに来てもう限界に達している様に思う

夫や生活ぶりには何一つ不満はないのに、何か寂しい、満たされない妻達が
スピ系に走ったり、不倫したり、思いあまって離婚したりする・・・・

彼女たちの貞操観念を責めたいのではない・・・今結婚という制度自身が
大きく見直されつつある過渡期であるが故の現象なのだと思う

しかし、無意識に続けられてきた女性の
「誰かわたしを未知の世界にさらって!そして幸せにして!」という
願望それ自体が、
今、女性達自身を真綿で首を絞める様に苦しめてはいないだろうか?


花嫁強奪、略奪愛という「ロマンティズム」は、いま終わろうとしているのだ

砂浜LOVEとか壁ドンとか


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