We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年12月



 『わかった』という思いはとても大きな喜びです。

あなたの内側からわき起こる喜びの波動は、
この地球のバイブレーションを引き上げるでしょう。

きっとあなたのまわりを悦びの渦に巻き込む事でしょう。

そんな至福感に水を差すような事になっては困るのですが、
これもこの次元でのゲームであるということに
どうか気づいていてください。

悟りのゲームの途中であることに気付きつつ、
そんなゲームを楽しんでください。

 この喜びを現実と勘違いして、
その喜びの渦に巻き込まれたままでいると、
あなたの成長はそこで止まります。

『自分はもうわかった』という考えが、あなたの落とし穴です。

このゲームの考案者であるあなたは、
かつて肉体を持つ前は天才でした。

ゲームを複雑に難解にしようと、
いろいろなところに落とし穴を用意しました。


さあ、自分のゲームに挑戦してください。

さんざん喜んだあげく
『自分はもうわかった』という考えもそっと手放しましょう。

 今気付いたあなたの悟りは、
この現実のほんの一部分しか反映していません。

な~~んて、書かれてしまうと、言いにくいのですが
はい!皆さんもう分かりましたね?

私たちのハイヤーセルフは、か~なり、病的なマニアックな存在です(笑)

なんでこんな、むっちゃくちゃな制限だらけの悲劇の惑星に
私たちという分身を派遣したのか?

すっげースリルを楽しみたかったからです
すっげー絶望を、恐怖を、ワクワクを楽しみたかったからです

をいをい!こんなんアリかよ!!???

という無茶苦茶を、この私たちの肉体の中で
ボケ倒すことで味わいたかったのです!!!!

だから、バシャールが「ワクワクの方に向かえ」っていうのは
そ~いうことな訳だったんです


たとえば、
殺人は絶対悪いこと!

そんなことは、あなたは普段、夢にも思わないこと!


  世の中には「人殺し」などというトンデモない現象があるけれど
  この平和なニッポンで、のんびり暮らしているならまずそんな
  「人殺し」なんて滅多に出会わないし、
  さらに、ましてやまさか?
  善良な自分が??
  「人を殺してしまう」なんて絶対にあり得ない!

   ・・・でも、  もしふいに、自分に魔が差したら?

      その「絶対拒絶」の強迫観念は、むしろ「殺人への興味」に
      あなたを突っ走らせるかも知れません・・・

       ・・・・そんな万が一の「魔が差した」人のために
          常識や道徳や法律、警察といった何段階にも渡る
          セーフティーロックが
わたしたちの人間社会には
          備わっている


でももし、これらのすべてが外された場合、そこに人間の常識も良識も
道徳も法律も、届かないピュアーな空間に私たちが置き去りにされた時
わたしや、あなたは、どうするでしょうか?


たとえば、苦しい介護の日々、・・・

愛する妻と2人きりの生活・・・

お金が尽き、食料が底を尽き、妻はあなたを見つめる

   「あなた・・・私を殺して」

  そんな状況であなたが夫ならどうしますか?

幸福の王子 DVD-BOX
本木雅弘
VAP,INC(VAP)(D)
2003-12-21


  その2人だけ、全世界から取り残された様な、息詰まる小さな密室で
  あなたは妻の懇願をどう受け止めますか?

  もはや何も失う者がない2人

  救いも同情もない2人だけの世界で・・・

  もし?あなたが女性で、妻の立場だったら・・・
  ひたすら介護を続ける夫に介護させ続けますか?

    かといって、夫に人殺しをさせたくもないでしょうが・・・・

                     でもどうしたらいいでしょうか?


      北朝鮮から、いわゆる脱北してきた親子が、道中、
      父親が遂に動けないとなった時、その父親は
      「自分が死んだら、自分の身体を食べて生き延びてくれ」と
       子供達に言い残したといった実例もあったそうです

二千年の恋(1) [DVD]
中山美穂
フジテレビジョン
2001-02-07



良きにつけ、悪しきにつけ、この地球上には様々なドラマが
きっと今この瞬間にも展開しています

ユーモラスなもの、心温まるものもあるだろうし
悲しいもの、悲惨きわまりない残酷な物語りもあるでしょう

ありとあらゆることが・・・・   有り得るのです・・・
この制限世界で展開する世界には・・・

私は何度かこのブログで書きましたが
「無限の世界=霊界」でひとつだけ、どうしても無いものがあります

   それは  「壁」 です  「制限」  です


そしてこれがあることによって、私たちの住む、
この三次元の制限世界では、神さえも想像も付かない様な
様々な光景、様々なドラマが・・・  展開しています

   つまりそれが、この不自由で、あまりにもヴァリエーション豊かな
   悲喜劇に満ちあふれているという

           まさしくそのことが・・・・!!

            この世界に住むこと、
             この世界を生きる意味です!!

わたしたちのハイヤーセルフと言うものがあるならば、わたしは保証できる

こいつは・・・
紛れもなく、サイコなぐらい・・・  マニアックな奴です

この「サイコ野郎」をいつまでも楽しませて、私たちをオモチャにさせない為には?
(まあ悪意はないんですがね・・・)

そうです!

  「彼」が作った、この覚醒ゲームに、さっさとゴールしてしまうこと

          
 このマトリックス・ゲームを見破ってしまうことなんです!


昔、当時の(偶然・・・?)自宅近所であった上尾市のヴェーダンダ・ソサエティー東京支部で
ナーラヤン内垣氏の話を聞きに行った時は、衝撃だった・・・

    (これは上記で引用している都留晃一氏に対しても
            以下の様な全く同じ感覚の衝撃を受けた・・・)

「オレが脳内で探求していたことを先に生まれてすでに実践していた人物が
目の前にいる!!!」


その後、だからミサ先生に「このひと2600年前のあなたのお父さんよ」て言われても
「やっぱり」と思った

その当時の私たち父子は、「時報官」の任務を負っていた

わたしは見習いの後継者として鐘を鳴らす・・・
でも、当時の父であった内垣さんは、私の音色に不満だったそうだ

「バカモン、かしてみい」

そうして打ち鳴らす父の鐘の音は、全く違っていたそうだ


  (マスネ)組曲「絵のような風景」より 「アンジェラスの鐘」、



今生の内垣氏の講義録の中に「響き人間」というのがあるのも
私の中での密かな内輪ウケのジョークだ

もちろん親子というのは反目し合う要素もある

内垣氏は半生をアメリカで過ごした
彼は金光教(神道系)の家の出身だったので、
もう、ニッポン主義は充分だったのだろう

内垣氏は日本神道の空気やインドのヴェーダンダを吸収しつつ
それを種としてアメリカの「ピュアーさ」に東洋の種を受け取れる
土壌を見いだして、渡米していった


でも、わたしは逆にアメリカの合理主義的西洋占星術の世界から
バグワンや天皇陛下、日本の神道に魅せられていった・・・・

  (バグワン自身も、その当時はオレゴンに向かったのだけれど)


まるで、ボロディンの名曲「中央アジアの草原にて」のように
内垣氏と私、バグワンとわたしは、
東洋から西洋へ、そして西洋から東洋へと歩いて言った

そして、小高い見晴らしの良い中央アジアの丘の上で
近づき、交わり、そして何事もなかったかのように離れていった



今生のわたしの実父も思春期に敗戦を体験し
日本の「天皇陛下バンザイ」というカミカゼ精神が
アメリカの物量の前に屈した空気を肌で体験した世代だった

父は母ほど
アメリカの勝戦国としての煌びやかさに目を奪われた、
いわゆるミーハーではなかったが、でもやはり、
唯物的な集中(フォーカス)を自らに課した魂だった

 ・・・もしわたしが父と同じ境遇であれば
    たぶん私は、父とソックリの人生体験であっただろう


でも、息子である「この」私は、彼ではない

   唯物主義に呪縛された科学から、霊的な神秘をも
   統合した量子力学の萌芽の時期に生を受け
   父から見るなら「うさんくさい」占いの知識を吸収し
   そしてOSHOやクリシュナムルティーに
   自分が生まれてきた時に求めていたであろう
   ヒントを感じている


しかし、占星術やその他オカルティズムの科学性を
    アタマから否定していた父・・・

    いまもう自分がその当時の父よりもトシを喰ってみれば
    今感じられるのは、「父とは、先人、先輩であった」ということだ

    わたしにとって父とは、「先を歩いてくれたもうひとりの私だった」と
    痛感する

    だから、感謝と尊敬に耐えない

    もちろん、すべてがわかり合えたわけではない
    多くの考え方の違いを残したまま、父は去っていった

    内垣氏の時と同じだ
    交点はホンの一瞬だった

    でも、そんなものなのかもしれない・・・・

     もし、50才を超えたわたしにも、まだ恋の出会いがあり
        妻を娶るような奇跡があったとしても・・・

        その、「妻」 その「子」と、夫として、父として
        交差できる点は、交流できる時間は、ホンの僅かかも知れない


         それも、そんなものなのかもしれない・・・・


にもかかわらず、「理解しえるポイント」 「和解できる要素」が僅かであっても
その「分からず屋同士」のお互いの向こう側に・・・
「もうひとりの自分」を見いだすことが出来るならば、
それは全(まった)き光に包まれた関係なのだと  ・・・・きっと思える


わたしからみれば、父とは「ちょっと可哀想なジブン」である

父と比べれば、ひもじい思いもせず、ハングリーな勉強を自分に強制することもなく
また、唯物主義に囚われることから免れ、大嫌いな組織の中で窒息しかかる気持ちに
耐える必要もなかった・・・・その点では、父には感謝に堪えない

でも、その反面、父は自分自身に誇りを持っている男だった
雄羊座らしい負けん気も強い男であった

だから、単純に私とは比較できない、
     迂闊に同情するのも見当違いかも知れない・・・
            いろいろな資質の違い、境遇の違いもあった


誰もが皆、自分自身の「いまここ」に、深い所ではちゃんと同意しているように
今の私には、思えるのだ


そしてその、「自分自身への深い同意」・・・・その「自分」とは
この世界に、ひとりしかいない・・・・   それが「わたし=セルフ」なのかもしれない。


最近の犬と猫の関係はイジョーだよね

犬猫

オレが子供の頃は、大型犬が子猫を無残にかみ殺すシーンも
珍しくはなかった

塀の上に猫がいるのを見ただけで、犬はうなり声を上げたものだ

犬と猫とは人間にとって最も身近な動物なので
アカシックレコードには、犬や猫のモノまであるそうだ

逆に言えばその他の動物たちのアカシックレコードは存在しない
と言うことになる

アカシックレコードの話しはこの目で確かめてきた「直面した事実」
ではないので、あくまでも「仮説以下」のファンタジーであるが
でも、それを前提に考えてもちょっと面白い話だ

もし、野生動物のアカシックレコードが、存在しないのだとしたら
つまり、アカシックレコードというのは、あくまでも人間の意識の
歴史を中心に記録されたものじゃないか?っと想像できる

であるならば、人目に触れていない野生動物たちにも様々な
ドラマ、営みはあってもそれはアカシックには記録されていない

でも、考えてみれば、「魂の記録=プロセス」を気に掛けるだなんて
考えてみれば・・・人間だけ・・・だよね?

つまり、動物たちはもともとプロブレムがないと言うことを
意味しているのではないだろうか?

「わたしは無垢な者が苦しむのを見たことがない」

というOSHOの言葉は、この辺とリンクしているような気がする

OSHOがいう「苦しみ、葛藤」というのは、物理的な痛みのことではなく
心理的なことを意味している気がする

逆を言うならば、私たちの「苦しみ」というのもすべて心理的なものだ
っというわけだ

天衣無縫、無為自然に生きている動物たちは、肉体的な苦痛、
餓え、渇き、草食動物が肉食獣に身体を引き裂かれるときの
痛み、恐怖はあっても・・・そこに「プロブレム」はない、
っということなのか?  ・・・・そういうことなのかもしれない

それゆえに
「苦しむべきエゴを持たない動物たちの」「記録は不要」
というのが、この宇宙のシステムなのかも知れない

かれらにはかれらの物語が、実際あるだろう
でも、それらのすべてはこの宇宙で忘れ去られらているのだろうか?

でも、「何かが起き続けている」のは確かである

突如ハンティングをやめる雌ライオン・・・

天敵同士の関係、捕食し合うはずの関係の動物種同士がじゃれ合いはじめている

これは、
「透明な意識」である彼らが、わたしたち人間の集合意識を「反映させている」
のかもしれない


犬と猫の奇妙な関係写真いろいろ : カラパイア
http://karapaia.livedoor.biz/archives/51479575.html


【夫に心からの愛と激励と励ましを】
   ↑     ↑     ↑
上記投稿へのコメントとして

男性の私から見て、完全に真理です!!!!
BUT ところが・・・・  大事な、肝心な点が抜けています

つまり、この文章を男性が見た時点で
「楽屋裏」を女性達は見られてしまったのです

男性は
「乗せられているのかよ?俺は?」っと思われるのが
だいっきらいなんですよ

しょうがないですよね~~
幼稚ですよね~~~  男性は・・・

自分でもそう思いますよ
でもこれは真実です

パピイmakaroni3_069

だけど、男性は「イキに感じる」か?どうか?
        己の生命さえ投げ出す生き物ですので、
     その辺がウルサイのは許して上げてください・・・

「男性の立て方」というのは、実を言えば
メッチャむずかしいんです・・・

  ・・・ここに宇宙開闢以来営まれてきた遺伝子の存亡がかかっている

このカリキュラムを持っているのが
日本の「男系家制度」「天皇制」で
各家の「秘伝」「口伝」の世界の様です
 
「~の様です」と私が言っているのは、
我が家にもこれがなかったので
私も知らないんです

千年以上続く家系の女性から聞いた話です

だから

我が家はもうすぐ絶えるでしょう
日本の家系はこれからどんどん消えていく

  「男性の立て方」

   エヴァンゲリオンでゼーレが
     「人類補完計画」発動の時に言っていた
    「中心(男系)の義の復活」がもう出来ないからです

     それができる女性達がもういないからです

「家」とは「嫁」と「子供の躾(しつけ)」次第なんです

つまりまともな「嫁」が得られないことを
(男子を産めないこともひっくるめて)
江戸時代までは「お家断絶」と呼んでいた
 

現在は最終段階まで来ている
もう、ニートとヒキコモリだらけになり
カネ任せの介護老人だらけになり
カネも身寄りもなくなった老人達から
順々に孤独死、餓死していくでしょうし
わたしもその運命を免れそうもない・・・

でも、もしそれを食い止められるならば
「女房や子供、老いた父母のために・・・(つまり「お家」の為に・・・)」

敵艦に突っ込んで笑って死んでくれる
勇敢な日本男子「カミカゼ」が復活します

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世の女性たちへ
【夫に心からの愛と激励と励ましを】
   ↑     ↑     ↑
これは、素晴らしい真実の投稿ですが
男性の私たちに見られては、マズイんです[爆]

ウソだと思うなら、正直な意見を期待出来る周囲の男性に
この文章を読んで見てもらってください(笑)


私が敬愛する物理学者に、「万有引力の法則」発見者
アイザック・ニュートンがいる

アイザック・ニュートン

わたしが小学生の時に読んだ彼の伝記の中で紹介されていた言葉を、
うろ覚えで書き出してみよう

かれは『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』という数学の大著を書いているが
同時に錬金術や占星術も研究していた

・・・つまり、オカルティストでもあったのだが
  同時に純粋に理論的な数学者、物理学者でも
  敬虔なクリスチャンでもあった

  なので、この点に突っ込んでくる数学者の知人もいたそうで、
遙か遠方にある天体が、人間の運命と関連しているという発想を
「非科学的だ」と学会で罵しられたことがあった。

  その人物に、ニュートンは質問した

「あなたは占星学を研究したことがありますか?」

  糾弾者
「あるわけないだろう?あんな非科学的なもの」

  ニュートン
「であれば、あなたとの議論は無意味です」

「“触れたことがない”者と、“触れたことがある”者とでは
 話しの接点が持ちよう無いからね・・・・」


これらを読んだときには、私は全く占星術に興味を持っていなかった

  ・・・にもかかわらず、まるで未来の自分を予感しているかの様に
    小学生だったわたしはこの言葉に魅せられていた
    今思えば不思議である


のちにタロットや石川源晃氏の占星学と出会った私は
やはり前世、数学者であった父の占星学への懐疑に対して
このニュートンの言葉をぶつけていたものだった

p1

たぶん、「出世と権威付けのための武器として」前世において
数学者であった父にとっては、「怪しげなもの」に手を出している
息子に黙っていられなかったのだろう・・・・
「子供達が浜辺で貝殻を拾っている・・・」

「・・・それは色とりどりで美しいかも知れないが
  深海(神界)には、もっと巨大で信じられない様な美しい色や形の
   貝殻が眠っているに違いない・・・」

「私たち人間の知的探求というのは、この子供達の浜辺の姿の様なものだ」




「未知への扉」を、これから開こうとしていた小学生の私にとっては
何ともワクワクする描写であった

・・・実際、51才にもなってこんな記事ばかりをブログに書いている
  いまの私は、いまだにこのニュートンの「未知への誘(いざな)い」
  の延長線上に生きているのかも知れない

いま、ニュートンに関してWikiを開いてみると
以下の様なニュートンの言葉も知る事が出来た

ニュートンはフックとは先取権や著作権がらみで喧嘩が絶えなかったが、
そんな時はニュートンは「巨人の肩に乗る」という表現を借用して、
「自分の考えの優れた点は結局、先人のおかげ」(あなたはどうなんですか?)といったようなことをほのめかすことで、自己正当化していたらしい。

かなり美談ばかりが先行して、虚像が語られることも多かった様だが
この「先人のおかげ」という言葉には、本質的にはやはりとても謙虚な
要素があった人の様に思える

・・・逆にそれゆえに、むしろ「人間の傲慢」には人一倍敏感で
  論敵を徹底的にやっつけた人だという記述もWikiに見られる

  それゆえに「偏屈で狭量な人物」という風にも見える側面は多かった

    「徹底的な謙虚さ」と「偏屈で狭量」とは、どうみても正反対なのだが
   それは、「どっちを見ているか?」の違いなのだと、私は思う




中国の有名な故事にこんなのがある

「師よ、“知る”という本質は、何でしょうか?」

師、答えて曰く
「知っていること(既知)と、知らないこと(未知)とを
 明確に自覚すると言うこと・・・

  ・・・・・・それが “知る” ということの本質だよ」


「瞑想」と言うことを考えた場合・・・

少なくとも私にとってはこの言葉がいつも去来する
だから私にとって「マインドを切り離す」ことが
瞑想の目的として、まずありき・・・・ではないのだ。

  ・・・わたしはただそれを「思考停止志望のバカ野郎」と呼びたい

石川源晃先生は、現代の占星学の状況を

  「アカデミックな権威を気取る“科学者”たちに糾弾され
   本来味方であるはずの占星術氏達からも
   頑迷で迷信的なセオリーの固持を叫ばれ
   その両者の喧騒の間をよろよろと進まなければいけない」

っと嘆いていたが、これは瞑想の分野でもあまり状況は変わらない気がする

むしろ、占星学以上にフレームのない、グニャグニャした世界なのだから
なにかちょっと論理的に考えようとすると「叱られて」しまう・・・
その反面、よろけた反対側からは、いわゆる良識的、常識的な人達から
「ロジックも何も無いカルトの世界だ」という罵声を浴びせられる

私たちは、一体何をまず「知っているか?」
それに集中してみよう

絶対に、確実に「分かっている」ハズの事って?????

  たとえば、私たちは
  「顎を動かして、食べ物を咀嚼する」と言うことを
  知っている・・・・


  ん?

  ホント?????


   あなた本当に「知っている」???

   あなたが「食べたいな」と思うやいなや
   口の中に運んだ食べ物をもぐもぐやってるんじゃない?

    それが、“実体”なんじゃないだろうか?


   このことに集中してみよう

  わたしたちは、「自分の身体の動かし方ぐらい知っている」っと思っている・・・・

  ・・・そして、事実、私たちはある程度は思い通りに自分の肉体を
      ドライブ=運転している

     でも、それは「知っている」といえるだろうか?

      ・・・・実は知らない

       私たちは、単なるユーザー
        私たちは、単なるドライバーにすぎない
もし、あなたのマスターが、
「私は知っている」と言ったならば
それは確実に「知らない」ということを
意味している

なぜならば、「知っている」ということは
すべて過去のことだからだ

by J・クリシュナムルティー

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  たとえば、あなたが今見ているパソコンの画面、スマフォの画面・・・・

   あなたは、「操作は知っている」
   そしてある程度、OSやメカニズムについても詳しい人はいるだろう

    でも、「詳しい人」でも、普段、それほど意識せずにこういった
     「日常の便利さ」の中に浸って生きている

   これで、果たして「知覚している」と言えるのだろうか?

   私は別にそれを、「糾弾して」いるわけではない
              「究明せよ」と言いたいわけでもない

    なぜなら、どこまで奥深く究明してもキリがないであろう事は
    目に見えているからだ

 私が注意を喚起したいのは、その「無知、未知」を「既知」と勘違いして、ぼんやりと現実と接していることだ・・・

  その「無自覚性」に言及したいのだ



わたしたちは、「既知」を「突っ込んで」いくとすぐに
         「未知の大海」に突き当たる・・・・

わたしたちはみな
   分からないことだらけ・・・  の中で泳ぐ金魚ちゃんに過ぎない

それをいちいち自覚するのは、結構ハードなことだ

  そして「怖いこと」だ・・・

私たちは
「退屈な日常の」金魚鉢の中で
ぼんやりと泳ぐ金魚から・・・途端に、

  ・・・自分自身が「未知の深海(神界)」に泳ぐ
     得体の知れない、奇っ怪な “深海魚” であることを思い出しはじめる

わたしにとっては、
その「恐怖と脅威の未知の世界」を自覚し続けることこそが瞑想のことだ。

その「脅威の世界」はいままでも、実はそうだったし、
今も、これからも変わらない「絶えざる新鮮な」状況なのだ。

    退屈なんかしていられない、アメージングの世界なのだ

それは「既知」という鎧を脱ぐとすぐに始まる、
「目の前の真実との直面」の世界だ
Xファイル truth out there
 
  だから

    瞑想というのは、充分に醒めてしているのであれば
    とてもスリリングな「お楽しみ」でもある!

人間の永遠の探求―パラマハンサ・ヨガナンダ講話集
パラマハンサ ヨガナンダ
森北出版
1998-02-01



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マルコムX20090224_785811




    でも、
     「あ~~~、何も考えない、何も考えない・・・・」

見ざる、言わざる、聞かざる、猿

     ってやってる人にとって瞑想とは、
     死ぬ程、退屈な「五億年ボタン」に過ぎないだろう
                そして最後には、本当に死んでしまう

     ものを感じることも、考えることも出来ない

          生きたゾンビ
     肉体の限界が来る前から成ってしまうのだ

   これが「只管打坐」の真意が干からびてしまった・・・
   現在の日本の仏教界の現実でもある

    それが結局は日本人のスピリチュアル・ブームの連中にも
     「遺伝」しているわけである

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