We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年12月

明治維新の時、日本に本格的にキリスト教が入ってきた

その際に、日本人はいぶかったそうである

  「なんで南蛮人は人間の干物を拝んでやがるんだ???」


  で、教義が分かってくると、
  「全人類を背負って痛ましい姿になった救世主」なのだと分かる


  神は、「智恵の実を食べるな」と言った
      そしたら食べた

       ・・・それが「原罪」なのだと聖書は言う

          「え?神はそんな風に裁いたりしないズラよ?」

  それをファリサイ人は「いっちゃらめえええええええ」と遮って
彼を十字架に掛けた  ・・・・「彼が私たちみんなの罪を背負ってくれたんだよ」
っというグリコのおまけまで付けて・・・・

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彼は単純に「神は裁かない」「あなたは赦された」とはいったが
「オレが代わりに背負って上げたからね・・・ 」 などとは言ってない

むしろ、難病が治った人に対して「あなたの信仰心が治したのだ」
というひとだった

であれば、「オレが代わりに全人類のカルマ背負ったから任せろ」
などと言うわけはないし、たとえそういう言葉の証言が出てきても
私は信じない


 「他人の業を背負う」と言う発想・・・  それこそが
 あえていえば「原罪」なのかもしれない

 つまり、神が「言いつけを守らなかったアダムとイブ」を
 責めたのではなく、

  アダム  「おれ、この女にそそのかされたから」
  イブ    「あたし、このヘビ野郎にそそのかれたし~~~」

  ヘビ   「お、おまいら、・・・・・!?」

   この瞬間、アダムとイブは『外界』に責任の所在を求めた
          ・・・それこそが『失楽園』なのではないだろうか?


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  つまり、失楽園とは「神が追い出した」のではなく
       責任転嫁という分裂で自ら転落して
       いったのじゃないだろうか?      

  イスラムは『原罪説』を採用していないそうだ
       なぜかといえば、「先祖の罪を子孫が背負う必要は無い」
       という発想だからだ

       もしそうならば、私たちは責任転嫁というカルマを
       克服さえすれば、また天国に戻れるというわけだ

責任転嫁されたヘビ君、彼はその後もイルミナティーの中で
責任転嫁の誘惑者として人々をそそのかし続けましたとさ
・・・メデタシメデタシ



でもそれから世界宗教として成立していく上で、十字架は絶好の
シンボルと成った

それを見ることで人々はどう感じるのか?  ・・・罪悪感だ

「自分たちの罪を背負って下さった(背負わせてしまった)」という罪悪感
   ・・・・自己否定感

    しかし、その罪悪感こそが

     「もっとも『愛』とは正反対なのだ」
                    とバシャールも言う

     「その猛毒は、たった一滴で全人格を抹殺可能だ」
                    とバシャールは警告している


それゆえに人々は自立できなくなる

 他人に人生の重みをまるごと背負ってもらった人間が、
                  どうして自立できるだろうか?

  ・・・かれらクリスチャンは、いつも救世主イエスの再来を待ち続けてきた

    でも、かれらの存在自身が、・・・

       救世主の待望、期待、依存 それ自体が
       <ロンギヌスの槍>なのだと、未だに気が付かない



    十字架というのは常に人々を脅迫し続ける・・・・・
     「懺悔を促し続け、赦しを請い願わせ」続ける・・・・・

    オートマティックな「良心の呵責」発生装置なのだ





今年を振り返ってみると、テーマは“ゼロ=無”だった

それは、空間座標的に表現すれば“ニュートラリティー”だし

それは、運動力学的に表現すれば“旋回センタリング”だし

それは、論理学的に表現すれば“定義からの解放”だったし

生物学的に表現すれば“純粋意識”という名前だった

そして音響的に表現すれば“静寂”という名前だった


    「探しても見つからない」のではなく
       唯一
      「探したら見つからない」目的地であった・・・


    選択無き、「奥の細道」とは、
     不自由で、偏屈で、退屈で、心細い世界なのか?
               と思ったらそこがすでにオアシスだった


     瞬間瞬間が「有頂天」であるならば
     なぜ?瞬間瞬間に「死ななければ」ならないのか?
     それは「フレッシュ=新鮮」でありつづけることにだけ永遠があるからだ
             消滅なのか?と思ったらそれが無限の爆発だったのだ!



     これらを私は手塚治虫のマンガのタイトルに因んで
              「2014:私のワンダースリー」と呼びたい

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でもこのテーマは、今年急にぽっと出てきたわけではなく
今での人生の総決算で出てきたものだった

そして、“ゼロ”がテーマゆえに、今までの人生はずっと「ゼロ」という
G線上のアリアの上をよろめいてきた



このことに私はずっと苦しんできたし、自問自答してきた

「私がいつまでも“ゼロ”をさまよい続けるのは
  自尊心が足りないからじゃないか?
   自己否定があるからじゃないか?
    セルフイメージが貧相だからじゃないか?」


でもそうではなかった

わたしは“ゼロ”を究明したかったからこそ
わたしは“ゼロ”を凝視し続けていた・・・

   ただそれだけのことだった、自己否定感からではなかった・・・

でもいよいよ来年からは、長年の“ゼロ”へのこだわりも
緩めることが出来、楽しみな年明けになりそうだ

なぜなら「こだわらない=ボーン・フリー」

そのこと自体が
“ゼロ”の正体でもあるからだ





永遠の新鮮さの中に神聖は宿る
だから、神殿の前で露店を開く両替商を、イエスはたったひとりで
蹴散らしたのだ・・・


和尚ネオタロット:50.Compassion
   慈悲
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)






私が今朝思ったのは、あのエピソードは、イエスの生涯の中でもっとも
重要なメッセージなのかも知れないと言うことだ

日本のおおらかな神の世界では、鎮守のお祭りの晩、神社の前に
夜店が出るのはある種の「ほほえましさ」があり「賑々しさを添える」意味がある
日本の神はそういうのが大好きだ

なので、私たち日本人にはあのエピソードは分かりにくく、イエスが
狭量の様にも見える。

しかし、「両替」で儲けているユダヤと、「金魚すくい」や「綿菓子」の様な
罪のない、「真夏の夜の夢」とでは、全く意味が違ったのだ

「両替」、つまり、「取り引き」「駆け引き」というのは、ある意味で
悪魔の専売特許だ  これによって、悪魔は人間の魂を奪い取る

   ・・・・これは「イコールの法則」という悪魔的詐欺だった

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五井野 正
創栄出版
1995-12




  それゆえにイエスは怒り狂ったのだ

   「イエスの愛」「神の愛」はイコールに拘らない

    「チャラにする」「貸借関係の清算」に、愛は拘らない




    「おさなごの様に (純真無垢で) ありなさい」
                    と言っていた彼にとって・・・・・・・・

    「神の愛」に値札を付けること・・・イエスにとってそれ以上の
    「神への冒涜」は無かったのじゃないだろうか?

    それぐらいなら、まだ「無神論者」の方が清々しい・・・・

  結局の所、イエスがもっとも激しく直接的に「旧ユダヤ教」と
 衝突した事件が「これ」であったことを考えれば
 彼が「十字架に掛けられた」もっとも直接的な原因は
 まぎれもなく「これ」だったのじゃないだろうか?

  で、あるならば、「これ」がもっともイエスが「身体を張って残した」
     メッセージであるということも充分に考えられることの様に思う


      つまり、今のスピリチュアル商売やってる人間のほとんど・・・・

     神の前で代理人(神官)ズラしているニセ神官みたいな
    ヒーラーだの占い師だの天使代行業だの・・・  かれらはまさしく
   この「イエスがつまみ出した両替商」と同罪なのではないだろうか?

     その点で自分はなぜ、“ゼロ” へのこだわってきたのか・・・・・・?
  っと今さらながら「自分のこだわりの根底」が自覚できた様な気がしたのだ。

ある盲人Aは象の鼻を触って
「象とは丸太の様な大蛇みたいな生き物だ」っと、報告した

ある盲人Bは象の耳に触れて
「象とは海のエイの様に平べったい生き物だ」っと、報告した

ある盲人Cは象の腹を抱えて
「象とはまるで壁の様に大きい生き物だ」っと、報告した

ある盲人Dは象の尻尾を掴んで
「何を言う!象はヘビの様に細い生き物じゃ」っと、報告した

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どの報告も間違ってはいない

どの報告も正しい


  ガリレオ以前は天動説がキリスト教圏の世界観だったが
  それはいずれ地動説へと塗り替えられた

  ところが西欧占星術は、あいかわらず地上からみた天体の動きで
  占っている訳なので、「天動説」であり、火星や水星の逆行なども
  考慮する

  地球自身を含め、地球以外の惑星も太陽の周りを回っている。

  であるなら、「動いている」のは天ではなく、この地球であると
  考える方が合理的だ・・・  っというのが地動説だ


    もし???

 水星も太陽も、火星も、金星も・・・みんな地球を中心に回っていたならば?
 ひょっとしたらいまだに天動説だっただろうか???

赤道上での地球の自転速度はおよそ秒速500m/s、新幹線の最高速度の約6倍・・・
そして地球の公転速度は秒速=30km/s・・・
さらにはこの太陽系それ自体も自分たちが所属する銀河の中で
自転しながら2万5千年で公転している・・・

しかし私たちは、自分たちがそんなスピードで自転しているだなんて意識出来ない
なぜなら周囲の空間も私たちと一体化して動いているからだ


この莫大な宇宙空間の中で、より巨大な「系」のなかで小さな「系」は公転し、
自転していると考えるのが、「合理的、科学的」だと言うわけだが、
でもそれは、本当に「絶対的な尺度」と言い切れるのだろうか?

それは、在る一視点から見た「説明のしかた」に過ぎないのじゃないだろうか?

視界によって立体空間を観ることが出来るわたしたちは4人の盲人を
あざ笑うことが出来る・・・

しかし、かれらを「間違っている」と見下すことが出来るだろうか?

「視界のない世界」というのは、それはそれで、「別世界」なのじゃないだろうか?

さらに、ヘレンケラーの様に聴覚までもがなければ、これまたもっと私たちとは
かけ離れた感覚の世界だろう




もし盲人が、全く生まれた時からの全盲であったなら
「立体を一望できる世界」を全く知らない

でも聴覚があれば、言葉を覚えることは出来るし
言語が理解出来るなら「概念」を理解出来る

なので、たとえ全く視界というのを体験したことが無くっても
視界を持つ人達との生活の中で、当然、

「視覚世界というのがあるんだなぁ~」と言うことを
            概念的には理解出来るだろう

以前、生来の視覚障害者がテレビ番組の中で

   「他の人達が離れたところにある物体の存在を
    認識できるなんて、おれには超能力にしか思えないよ」

         っと話していたのが印象深かった

これに加えて聴覚までない場合、空間の中に有るものの存在を
確認できる方法は、手探りや臭い、舐めて味を確かめたりといった
方法しか残されない・・・  まさしく芋虫の様な精神状態に置かれる

               言語による概念的理解も非常に難しくなる

    ヘレンケラーがなぜ「奇跡の人」と呼ばれていたのか?
     半世紀も生きてきて、遅ればせながらやっと、
                   最近妙に身にしみてきた


「芋虫状態」をあざ笑うことは出来るだろう

でも、わたしには「次元の高い低い」ではなく、単純に「別世界」としか
思えない

  宇宙服を着て、月面に降りてみよう

   静かな音のない世界に・・・


    月は地球に振り回され、その地球は太陽に振り回され
     その太陽は、銀河に振り回され・・・  っと感じるだろうか?


  たぶんそんな風には、感じないだろう

 世界には、あたかも自分ひとりしか居ない様に感じるのではないだろうか?

 あなたは地球にいたときと同じく
  相変わらず「天動説」のなかに居るはずだ
            そしてむしろそれが素直な実感だろう


                

そして、だから

  ・・・この静まりかえったひとりだけの月面の世界が
     まるで宇宙の中心の様

   ・・・・感じられるのではないだろうか?


       ・・・そう感じたアストロノーツを、私たちは「非科学的だ」と
          笑い飛ばせるだろうか?

    いや、私は笑えない・・・  むしろそこにとてつもない深遠さを感じる  

   あなたは、自分が、
       他の誰かになりたかったと思ったことはあっただろうか?

       だれかと「人生を取り替えっこできれば良いのに」と本気で思ったことは?


    まあ、子供の頃は、だれでも
       いろいろなものに憧れ、いろいろな人物をヒーロー視する

   でも、もし成人したあとのあなたが、いま、だれとも人生を取り替えっこしたいと
     思いもしないというのなら、きっとあなたは自分の人生を愛しているのだろう。

      それは素晴らしいことで、幸福なことだと思う



   だれもが、「いまここ」こそが、最高の人生なのだと思う



  でも、「最高」というのは、何かとの比較を暗喩する言葉

 それゆえに「いまここ」が “ 最高 ” と言われても、ピンと来る人は少ない

  「最高」という意味は、コンテストで優勝できるという意味ではない

  でも「最高」という以上は、その比較する範囲が存在している

  もし、その範囲に「誰かとの・・・」比較が混入するならば
  途端にあなたは「最高」ということばを放棄せざるを得ないだろう

なぜならば、人々がいる以上、常に、何に関しても、よく探せば
「上には上が居る」ものだからだ・・・


だから、「どの範囲内で」最高という言葉が成立するのか????

これは極めて重要だ


   言わせて欲しい

あなたの、今この瞬間、瞬間は、常に「最高」だ

でもその「最高」という表現が有効なのは、「あなたという世界」の中だけでだ

「他者」との比較級、最上級をさがせば、いくらでもあなた以外の「最高」は
いるだろう・・・  でもそれは意味がないことなのだ




あなたは、いま、メクラかも知れないのだ・・・・

いま、あなたはゾウの鼻に触れているのかも知れない

いま、あなたはゾウの耳に触れているのかも知れない

いま、あなたはゾウの胴体に抱きついているのかも知れない

いま、あなたはゾウの尻尾を握っているのかも知れない


  そしてあなたは叫ぶ・・・   「ゾウとは〇〇だ!」


    それは間違っていない

     それは、あなたがいまゾウを感じている唯一のフィーリングだろう

                    人生にタッチしている唯一の感想だろう

   そこには何の間違いもない

  ただひとつ

 あなたがまだ知らない世界があり、あなたの感触とは違う「最高」を
 他の人は感じているのかも知れないと言うことに留意するべきだ

であるならば、「あなたの最高」も「他の人の最高」も、共に真実であると
尊重し会えるだろう

その時あなたは、「しずかの海」で、豊かな幸福を味わうだろう


数年前買ったエクトンのチャネリングを聞いたり
FBでアベケンと断食や
バガヴァンの組織運営について話題にしたり・・・、
そして、世間はクリスマス・・・・


今朝これらの話題が私の中で「ひとつのテーマ」に集約された・・・・


恋愛関係、友情関係、あるいはワンネス・ムーブメントの様な
組織活動の運営における、組織として、個人としての収支問題・・・

人と人との「関わり」と言った場合いろいろなゴタゴタはどうしても起きる

だから、最近自分の中にあるもう一つの大きなテーマ「静けさ」と
表面的には大いにぶつかってしまう

でも、OSHOは「ヒマラヤには逃げ込んではいけない」と叱責する

このあたりのことがテーマだった・・・  かなり、メッチャ難しい応用問題だ

今年の後半から、様々な人に「人ともっと関われば?」という
なかば強引な「お誘い」があった。それは「善意」からであったから余計
断りにくいものだった・・・・  でもそれはこの「パズル」がまだ解けて
いなかったからだ

「たとえエンライトしていても、まだしていない周囲の家族他などとの
人間関係で問題が絶えないということがある」という記事を先日
何気にさらっと見かけたが、確かにこれは大きなヒントだった

数年前、バガヴァンのビデオを見てから「あ、この人凄い」と思っていた
名前までOSHOの旧名ソックリ・・・・ でもその当時は、「ふ~~ん、
いろんな人が出てきたなあ~~」程度しか思えなかった

ところが、今年7月、シャンタン老師との縁がキッカケでバガヴァンの
ディクシャギバーとしての認可を受けるに至った

即、わたしはこのブログでギバーであることを棄権すると宣言した


シャンタンアゥエイクニング・コースを受けた直後から葛藤の嵐に
巻き込まれ、それがキッカケで、超古参のサニヤシン達大先輩に
すがるチャンスに恵まれた・・・わたしがピンときた素晴らしい古参の
サニヤシン達が、バガヴァンの元にはせ参じていることを知った

それとコントラストに、OSHO派であるからこそバガヴァンを批判する
サニヤシンやOSHOの読者とも縁があった・・・、
いや、バガヴァン自身を否定するのはなかなか難しいだろう
バガヴァンを直にと言うよりも、ディクシャ、ワンネス・ムーブメントに
反感を抱いている人達が多いことも確認出来た

この状態は、まさしく私のマインドの中で起きている葛藤がそのまま
ソックリ脳の外に飛び出したような状態だった

わたし自身がそうであるように、OSHOを慕う人達がディクシャを怪訝な
目で見る気持ちは痛いほど判る・・・・

その反面、なんだかバガヴァンは酷く誤解されているようにも思えて
成らなかった。

良かれ悪しかれ、OSHOよりもバガヴァンの方がシステマティックだ

そしてOSHOの方が「弟子とマスターとの恋愛関係」と言う、
より神秘的で、有機的(オーガニック)で、密度の濃い関係性の比重が高い

わたしはそれを
「OSHOは海王星的、バガヴァンは天王星的」とこのブログで表現した

このギャップとは、まさしく時代の変化の要請によるものじゃないか?
それは、シャンタン氏との話で余計に確信が深まった

「OSHOが死んで、もう弟子とマスターとの関係というのはある意味で終わった」

「これからの弟子とマスターというのは、“良き友人”なんだよ」

っと私のOSHOに感じる想いをシャンタン氏は支持してくれた

これはわたしが今年決定的になった
「キリスト教的な“羊飼い(救世主)と迷える子羊(信者)”」という
枠組みと紛らわしい「弟子とマスター」という関係性への決別志向とも一致する

「わたし自身だって、別にバガヴァンの“弟子(インサイダー)”という
アイデンティティーは無いよ・・・」と、老師は私に明言してくれた

そして今朝感じたのは

わたしは知らぬ間にバガヴァンと同調している要素があったということだ

先日、バガヴァンの古参の弟子のネット記事を見かけた・・・
「もともと彼は金取り主義じゃない。  『金取り主義になったら
ワンネス・ムーブメントは死ぬでしょう』とさえ言っている」

わたしは、
「金にもならない、大して多くの読者がいるわけでもない
こんなブログを書き続けるのは、むしろ自分がアローンネスの
静けさに入っていく邪魔でしかないんじゃないか?」と悩み続け
ながら書いてきた

でも、
瞑想で感じてきたことをマインドに書き溜めて、それをブログ化すると
いうのも、ある意味では楽しい作業ではあるし、読者の数が少なくても
シェアしておくことは、自分の得た感触の「外部記憶化」という点で
やはり、自分自身にこそメリットがある・・・


ただし、
「お金にならない」ということが単なる自慰行為でしかないのではないか?
という絶えざる自己不信に襲われた

それも、バガヴァンと彼の息子との組織運営に関する争いというのを
見せられることによって、わたしに勇気を与えてくれた

「バガヴァンでさえそうなのか?」

「たとえ光明を得ていても、やはりこのカネの世の矛盾や葛藤と
無関係ではいられないんだな?」

っということだった

それを「情けない」「カッコ悪い」「やっぱり彼はただの詐欺師さ」
っと石をぶつけることは出来る

でも、ディクシャギバーであることを棄権したわたしだからこそ
この件に関してはバガヴァンを擁護したい

OSHOにしたって、どうして私たちを残して去っていってしまったのか?

   ・・・ちょっと根本的なところから考えてみるべきだ

結局の所、利権である

  シーラの裏切り劇という獅子身中の虫にせよ、
  イルミナティーCIAの陰謀にせよ

   結局の所、「宗教的な教義の違い」でさえない、単なる利権が
   彼をタリウムで毒殺したのだし、その運命をOSHO自身、ソクラテスの様に
   うけいれたのだと思う


いま、この期に及んでも、

    まだカタストロフの危機は終わっていない

        まだ、「カネの世界」は終わっていない

         まだ、人類は生け贄を欲している自覚を持っていない


エンライトメントした人というのは

もはや岩の壁に向かい合っている人なのだ
ある意味では、もうこの世界を引退した人なのだ
                    卒業した人なのだ

ところが肉体は、まだ人々と共にある

つまり、ブッダ思想と如来思想は違う

     ブッダでありながら、人々と留まった時
      その存在自体に「不思議」が「見た目の矛盾」が生じる

       ブッダの周りには、いつも人々の羨望や葛藤、混乱が湧き上がる

  つまり、もう「あっち」に行っているハズなのに「こっち」に肉体がある

   ここに軋轢が生じる

    人々は神殿の前で商売をはじめたがるが
    ブッダやイエスのような人達は常にその露店をぶちこわす

     それはあたかも狂気の様だろう


      でも狂気とは、・・・・
         「神の商品化」のほうでしょ?っとわたしは言いたい

       しかし、誰もそうは見ない

       「お金を儲けて何が悪いんですか?」という村上ファンドみたいな
       訴えに、エコノミック・アニマルの日本人は誰も言い返せない

    わたしは今
        自分の意識がどれ程のステータスにいるのか?
        自分でも判らないし、多分、誰に問い正しても無駄だし愚かだろう

         だから何の反響もないこのブログを書き続けていることは
         壁に向かって頭を打ちつけている様なものだ・・・

         わたしが悟った達磨大師なのではないならば
         わたしは単に壁に向かって独り言を言っている
         狂人なのかもしれない

         でも、狂う自由こそ最大の自由だと言いたい

       どこからもエコーは帰ってこない、かもしれない・・・

      それは私の言葉が無意味な狂人のタワゴトだからかも知れない

     でもそのことを気に病むのはバカバカしいことに、今朝気が付いた

    そこには人々の称賛や理解や、投げ銭もないだろ

    だれも愛してはくれないだろうが・・・

    ま、いいじゃないか?

  わたしは、もうずっと、
  壁に向かってブログを書いているだけなのだから・・・・


最近見聞きしたいくつかのソースが、
「受け取ることが大事だ」と私にアドバイスしてきた
でもわたしは自分が「断じて受け取ることを拒否している」ことを自覚していた

それが、何故なのか?

自覚としては、金銭や称賛などを「受け取る」ことで発生する
「義務」「馴れ合い」が「嫌いだからなのさ」と自分自身に説明していた

でも、もっと単純に「ピューリタニズム」なのかもしれない

「お互い様」の世界も素晴らしいし、大して面倒を感じないなら
ことさらそれを避ける必要は無いと思う

その反面、
壁に向かっているわたしに
クリスマス・プレゼントが届かないのも当然だ

その為にはプレゼントを贈る相手が居ての話しなのだから

年賀状も同じ、

「送る」だから「送られる」

「送らない」だから「来ない」・・・当然だ

関わる自由があるなら、関わらない自由も許されるのが
今の時代だ  ・・・しがらみが多く、付き合いが強制される時代は終わった

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