We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年12月

友人への私信

あなたの今回の決心には
たぶんいろいろ想うところあるでしょうね

でも今のあなたは、ひたすら身軽になって自分自身の本音に
集中するべき時ですからね

私は誰に対してもよりエゴイスティックになることを支持します

つまり人が周囲の意見を気にしたり体裁を気にしたり気遣ったりした結果
自分自身の思いを犠牲にすることが美徳だった時代は終わったと思う

それは「天皇陛下バンザイ」といって敵艦に突っ込んでいったカミカゼで
終わりにするべきだよ

彼ら(私たちの祖父の世代)にはとても感謝しているし、
彼らが見せてくれた日本人の怖さ
最後に本気にさせたときの日本人の覚悟というのは、
平和ボケしている様な今でも実はちゃんと受け継がれていると思う

でも日本の敗戦は、人類全体の「進化のステージ」を、もっと『個』を
尊重する方にシフトしたんだと思う

それが「天皇陛下の人間宣言」だったとオレは思う

この宣言によって、日本人は自分自身を尊重できるための成長を
余儀なくされた・・・・  旧世代の人達には「単なる我が儘」なのだろうが
敵艦に飛び込むという以上の勇気を今の若者は必要としているのだと思う


このことをブログに書いたらあなたの理解のお陰もあり
その記事を読んでくれた人は私のブログの記事としては飛び抜けて多く、
28も「いいね」が来た

ご存知の様に「いいね」をなるべく気にしない様に書いては来たけれど
これには驚いた

でもそれは「ウレシイ」というよりも「複雑な気持ち」だったんだ

おれは日本の神道と天皇陛下に敬意を払い続けたい人間だから
部分的であれ「天皇陛下の役目はある意味終わった(のでは?)」という
仮説を出したときは、我ながら正直、傲慢ではないのかと思った

(最初にこの考えが出てきたのは2012年)

日本は天皇の祈りに守られている
松浦 光修
致知出版社
2013-08-10



でも最近
その考えを後押しする様な記事も出てきて
(皆神山の話=つまり『みんなが神だ』ということ)、
「やっぱそうか」っとおもった

たぶん天皇陛下ご本人の想いとも、きっと一致しているだろうと
意を決して書いたことなんだよ



たぶん、多くの個々人がこれから、
オレと同じような不安と闘い、戸惑いながらも

「天上天下唯我独尊」というのを
万人ひとりひとりのための言葉であると理解していくだろう
そして多くの人が勇気を持って選び取って行くだろうと思う・・・

この宣言は
ゴーダマ・シッダルータ個人のエピソードとしてではなく
誰にとってもエンライトメントへの道なんじゃないかとおもう

    ・・・・遅い早いはあるだろうけれどね

この宣言が如何に怖いことなのか?

おれもそこを通ったからよく判る

でも誰もが通らざるを得ない

このまま付和雷合、金魚のウンコみたいな日本人じゃダメだ
ひとりひとりで決定し、生きるリスクを追っていける自立した日本人
じゃなきゃ責任追及の堂々巡りで、もう時間切れだと思う

医療の問題でもそうだ

利権とその為の権威漬けの医者では、生かされても殺されても浮かばれない

でもそれは医師が悪いのじゃなく、医療制度が悪いのでもなく

医者に言われるままにありがたがって、すがって医者のなすがままに
実験体にされてきた国民ひとりひとりの責任 (無責任) なのだと思う

まあだからもう過去の責任追及はあまり意味がない

夫婦関係にせよ、他の関係にせよ、協力し合えるところは協力しつつ
相互に依存しつつでもいいが、それらの運命の「継続か?改善か?破棄か?」
という選択は、個々人の瞬間瞬間の意識的な自己責任だってことだ


自分自身を徹底的に尊重できたとき、初めて自己責任という言葉に
意味が出て来る

そしてそういう人間だけしか、他者を本当に尊重し合った時代と社会は
作れないというのが単純な真理だと思う




リサ ランドールの 世界 : 5次元宇宙 : ワープする宇宙... 投稿者 desler-basileus


リサ・ランドール博士の5次元理論は素粒子があらわれたり消えたりという
現象に対して、とても妥当な説明をしていると思う

でも、私が思うにもう一つの説明のしかたがある様に思う

それは、

素粒子が突如消えるのは・・・・

  「我々の科学的測定の検知外にまで、微細に分解している」

    あるいは
      「エネルギー化した」という説明だ

  そしてまたその素粒子が姿を現すのは・・・

   「微細に分解た素粒子が、
      また我々の科学的測定の検知可能な範囲にまで再構成された」

   あるいは
     「エネルギー化していた素粒子が、粒子に戻った」という説明だ


 私たちの日常の感覚では
   たとえば人体が細胞レベルまで崩壊してしまったら
        死んでしまい、また、元の人体には戻らない

でも、素粒子の世界はそうではないかも知れない

 エントロピーの法則に従うなら、物体は全て、
  「より粗雑化(崩壊)していってしまい、不可逆である」という

しかし、実は例外がある・・・それは我々、生命体の身体だ

確かに細胞レベルでバラバラの木っ端みじんに分解されてしまうと
しんでしまい、もはや「死体」であるが、でも例えば刃物で怪我をした場合
エントロピーの法則に逆らって、細胞は傷口を塞ぎ、秩序を取り戻そうとする

  ・・・これが、玄米正食で言う「無双原理での“陽”の作用=求心力」である

もちろん、
「引き締め」作用だけでは生体は成り立たない
「緩和」、つまり“陰”の遠心力作用とのバランスによって生命体は成立する

  そもそも、「生命」の定義が、自分たち炭素型の地球上の生命を
   中心になされているものであって、そんな人間の勝手に考えた
    「生命の定義」に、この宇宙は構ってくれるのだろうか・・・・?

私たち人間が想像も付かないぐらいの
             素粒子の様な小さなスケール・・・・

   あるいは惑星とか銀河系とかの巨大なスケールでも
    「意思」や「知性」  ・・・・いやそれどころか人知を遙かに超える
                    英知を持っているかも知れないではないか?


OSHOの「秘境の心理学」の中ではケテル=サハスラーラ・チャクラの世界観を
「ブッディー」とよび「ニルヴァーナの境地」という。

秘教の心理学
和尚
めるくまーる
1995-02



tree_of_life七つの身体


球心性によって素粒子は凝縮され、この世界に姿を現す
遠心性によって素粒子は拡散され、この世界から忽然と姿を消す
torsionanimated
それを
「何処か別の時空間、パラレルワールドに一時的に
逃げていったのではないか?」というのがリサ博士の仮説だ


まあ、実際には「同じ事の角度を変えた説明」に過ぎないかもしれない

実際、七つの身体論では、「上位身体とはより“微細体”のことだ」という
表現はいくつもの文献で言われている

肉体、細胞、高分子、原子、素粒子・・・っといった感じに・・・・



  いまさらながら、言うまでもないがこう言う物理の世界観は
   「たわごと」ではなく「物理学的事実」だということで
    別に神秘主義でも、オカルトでも、妄想でもない

     単に、日常感覚では「ピンと来ない」だけの話しだ

      現前とした事実だ

すると如何に私たちは
「アリスの(フラクタルな)ワンダーランド」に生きているのか?慄然とする



  悪夢ではないのだ

   これは一種の「予想」だけれど
   もう少し量子力学が発達したなら、この想像を絶する小さな世界の
   素粒子達ひとつひとつが、私たち人間に負けない程の

   「個性:ユニークネス」と
   「知性:インテリジェンス」「独自性:インディビディアリティー」を
   備えていることを発見できるのではないだろうか?


       いや、 私たち自身が  「それ」  なのかもしれない


     で、あれば「わたしたち」とは実在なのか?それとも非在なのか?
       ちょっと断言しがたくなってくる

    ハードディスクはいまや「テラ」の単位だけれど
    これら莫大な情報容量のなかに収まっている
    「情報の世界」とは「実在」なのか?「非在」なのか?

  そろばんと原理は同じだ

  ぱちぱちと駒をはじくが、「ご破算で願いましては・・・」と声がかかった瞬間
  ジャジャジャ、っと振ってしまうと一瞬で今までのデーターは消える

   一瞬で「なかったこと」に出来てしまうのがデーターの世界だ

        だから「非在」なのか?


私たちの日常感覚では、
「恒久的なもの」を「堅い現実」とみなし、ベッドの中で見る夢や
脳裏をよぎるヴィジョン、想いは非存在のシャボン玉であると判断している

だから悪夢にうなされても、汗だくでバッと飛び起きて
「あ~~夢で良かった~~」と言うことは多々あるが
確かにこの「安定した、一貫性のある世界」というのは救いではある

でもだからといって、
『朝の寝床』が「リアル」で『瞬間的なひらめき、想い』は「アンリアル」なのか?

      その基準はどうも疑わしい


「小さいもの」が「アンリアル」  「フィジカルでないもの」が「アンリアル」とは
到底思えない

単に、「スケールのデカイもの」は生成、変遷、消滅までの反応時間の
タイムスケールが緩慢なだけだ

  ・・・その「緩慢な基準」を元に
         わたしたちは「リアル」と認識しているだけの様に思う

           しかしそれは、科学的ではない事は確かだ


また、物体ではないエネルギー現象だって、
ちゃんと「リアル」と認められて居るではないか?


で、あるならば、  なにかが「存在する」「存在しない」という、
            一見シンプルな、すぐに決着が着きそうな「問い」
           でさえもが、たそがれの夕焼けの様な
          曖昧で解答し難い究極の「問い」なんじゃないだろうか?



『死』は明日来ない
今この瞬間に死ねるかどうかだ・・・

いままで、人は死に神に追いかけられてきた
でも、死に神を追い回す(笑)時代が来たのだ

major_13


 人は変わるものだ

  刻々と生まれ変わるものだ

   そういうものなんだ


 「そんな事知ってるよ!」
       とお叱りを受けるかも知れない

  ま、スピ系の常識ですね


   じゃあ、「分かっている」あなたに訊くけれど

   あなたは、人の心変わりを、   ・・・・許せますか?

   昨日言ったことと、今日言っていることとが正反対だとして
   その人の矛盾を許せますか?

    もちろん、金銭が絡んだ様な契約だとかで、
    甚だしい矛盾をされてしまっては誰でも困る

     社会秩序に混乱をきたす様な支離滅裂は困るけれど
     でもそれでさえ、そうしている本人の自己責任だとしか言えない

      もちろんそういう人物はそれなりの制裁を受けるだろうし
     信用を失うだろう。

     ヘタすれば、詐欺罪で有罪だろうし、個人レベルでも
     人間関係は破綻するだろうし、最悪は刑務所か精神病院だ


      それを本人が覚悟の上ならば、致し方がない・・・・


  そういった社会的、道義的責任追及は別として
   人とは気分、気まぐれの生き物だし、自己矛盾した生き物だし、
         自分勝手なものなのだ・・・・   それを許せるだろうか?

私は斉藤ひとりさんの言葉に多くのヒントをもらったけれど
「(自分や他人を)許します」という言葉の推奨にだけは引っかかりを感じる

なぜなら、
もともと許す、許さないという許可があって
世界や人々が存在している訳ではないからだ



だから、「許します」だとか「どなたさまですか?」だ・・・・
言葉で宣言する必要は無いと思う
ただ、微笑んでいればいい



   ・・・・それでどんな「良いこと」が有るのかと言えば、
       (斉藤ひとり風の口調で) 「奇跡が起きます!!」


    ・・・・・どんな奇跡なのか?っといえば、
         「自分自身から、自由になれます」




自分の過去、
「自分自身は〇×である」という鎧、型、つじつまから
自分自身を解き放つことが出来ます・・・・


   ・・・・わたしは、人間にとって大切なのは
          「生まれ変わり続ける自由」
          「過去の自分を脱皮し続ける自由」だと思う

   人は、「自由」と聞けば大抵は、「選択の自由」しか思い浮かばない

       なぜならそれしか思い浮かばない様に
      マークシート方式で洗脳されきっているからだ

     消費者としての自由しか、日常生活には見当たらないからだ

      チョコレートはロッテか?明治か?

      カレーはハウスか?SBか?

    そして、なぜそんな退屈な、腐った日常に嵌っているのかと言えば
   「自由とは、欲望の充足」なのだとしか思っていないからなのだ

でもそれらは、みんなマトリックスのプログラムだ

   自由の本質とは、
    「自己矛盾を恐れない=(大げさに言えば)狂う自由」
                     にあるのだと思う


人生の瞬間瞬間をフレッシュに出来る可能性はここにしかない


    「わたしは在る」  っと言ったとき、世界はスパークする

           激しい閃光(フラッシュ) が一瞬で世界を産む

    「わたしはない」  っと言ったとき、世界は漆黒の闇に覆われる

            安らぎに満ちた「静かさ」だけが無限に広がる


        この「銀河鉄道の夜」の中で目撃している
               永遠にリフレッシュされ続けている
                 幻灯三次元立体映像が、私たちの知覚世界だ


         わたしとは・・・・  明日死ぬのではない

          そもそも「死すべきわたし」とは?

           「在る」ともいえるし「ない」とも言えるのだ









33.Rebirth/Moment-to-Moment   再誕生/瞬間から瞬間へ

あなた自身の感じていることが完全に正しいとされていて
--しかもあなたが、自分はまったく正しい! と感じている--
そのような状況においてすら、それでもなお、これまでにあなたが
知ってきたあらゆることを超えているなにかの可能性に対して
開いていましょう。過去の体験から飛び出して、まったく新しい
次元に飛び込むことです。


 仏陀が光明を得て、最初にしたことは、
自分の家族のもとに帰ることだった。
そうすることで、なにが起こったかを
彼らが知ることができるように……。

そして、以前自分が愛していたそれらすべての人びとを
彼が思いだしたというのは、自然なことだ。



 だが彼の妻、ヤショーダラは、非常に怒っていた。
それもまた自然で、人間的だ。

ある夜、この男は、行くということを告げることすらせずに、
突然逃げ出した……。その傷は深かった。

そして、あなたは驚くだろうが、
その傷は、ゴータマ・シッダルタが彼女を
置き去りにしたからではなかった

       --それは問題ではなかった。

彼女はこの男を途方もなく愛していたので、
もし彼が自分の内的な探究のために森に行くことを
望んでいたのなら、彼女はそれを許していただろう。


  傷は、彼が彼女になにも言わなかったことだった。

彼が彼女を信頼していなかったことだった

       --それが傷だったのだ。


そのちがいを見てごらん!彼女は普通の女ではない。
これが彼女を痛めていたことだったのだ。



--「なぜ彼は私を信じることができなかったのだろう?」……。

そして、彼が着いたとき、突然、彼女は怒っていた。
彼女の怒りは爆発した。彼女は言った。

  「なぜ、あなたは私に言わなかったの? 
   私はあなたを妨げはしなかったでしょう。
   それに、あなたは私を知っているではありませんか
   --ほんとうによく知っているのに。


   私たちは何年もいっしょに暮らしたのよ。
   私が一度でも、なにかのことであなたの邪魔を
   したことがあったでしょうか?

   私はあなたをとても深く、とても広く愛していました。
   ……私があなたの探究の妨げになることはなかったでしょう。

   なぜ、あなたは私に言ってくださらなかったのですか?」


彼女は何度も何度も彼にたずねた。それから怒って、息子を呼んだ。

仏陀が去ったとき、その子は生後一ケ月にすぎなかった。
いまでは彼は十二歳で、絶えずこうたずねていた。

  「私の父はどこにいるのですか?私の父は誰なのですか?」

彼女はその少年を呼んで言った。

  「ラーフラ、この人があなたの父親です。
   彼は臆病者のように逃げたのです。
   この人があなたに生を与えたのです。
   さあ、財産を譲ってもらいなさい!」

彼女はあざけって挑発していた。
仏陀はいまや乞食だったからだ--

どんな財産を? 彼はいったいなにを得たのだろう?



そして、仏陀はどうしたか、わかるかね?
 彼はその子をサニヤスにイニシエートした。
 彼は、その子に自分の乞食用の鉢を与えて言った。


  「私はほんとうはこのために来たのだよ。

   私は見い出した。

   そして、私の息子にも見い出してほしい。

   そしてヤショーダラ、
   この怒りはもう終わりにしなさい。
   いまではもう意味がない。
   お前が怒っているその男はもういないからだ。
   私は死んで、再び生まれている。
   私はお前の激しい怒りを理解することはできるが、
   あの夜にお前を置き去りにしたその男はもういない。

   もう一度私をみてごらん!」

目は涙でいっぱいになっていたが、彼女は見た……そして認めた。
彼女の怒りはすべて消えた。彼女は仏陀の足もとにひれ伏した。
イニシエーションを求め、彼のサニヤシンになった。




          THE PERFECT MASTER,Vol.2,PP.208-210
       THE B00K OF THE SECRETS,Vol.5,pP197-200





「男女の情愛」を考えたとき、世の中の多くが主客転倒したままに思える

男性の女性へのアプローチが、

「つり上げるまでは豪華なエサを釣り針に付けるが
釣り上げた魚にもうエサはやらない・・・・」  というのが殆どで

しかも女性までそれを願望している

それが結婚したあとの悲惨な生活になる

男と女は、もっとクールに互いを観察し合うべきだ
おべっかだの、大げさなアプローチだの、アニメみたいな
化粧だのは不要だ



ダマし合い、化(ば)かし合いで、
男と女が誠実な関係を築けるとでも?

だから、ミュージシャンなんかをみても業界内の結婚というのが
結構上手く長続きしているのだ・・・・

同じ職場で、  ・・・つまり同じ戦場で、同じ釜のメシを食う戦友には
おべっかなんか言ってられない  戦場とは最も人間性が剥き出しに
なるところだ。

だからこそ、その「戦友同士の結婚」は上手くいきやすい

結局の所、異性が化かし合うこととは何かと言えば・・・

  男はカネや女の欲望を刺激して、ベッドに連れ込むという快楽の追求

  女は性をエサにお姫様扱いしてもらい、未来を保証して欲しいという安楽の追求

        だからなのだ



昨日、久しぶりに伊丹十三の「タンポポ」を観た
懐かしの印象的な場面が一杯だけど、
昨夜じーんと来たのが ラスト近くの「母ちゃんが死にかけた家」のエピソードだ

 
とうちゃんが慌てて家に帰ってきた

母ちゃんが倒れ、医者が来ている
 もう危篤状態

 「かあちゃんしっかりしろ!」 「しっかりしろ!」
 「オレ達を置いて逝かないでくれ!!」

 「そうだ!かあちゃん、メシだ、晩飯を支度しろ!」

 その言葉に急に反応した母ちゃん
貞子の様によろよろと起き上がり 晩飯を作る

たんぽぽ 「母ちゃんメシだ」1

  出来上がったチャーハンを 「うまいうまい!」といって
  一斉に食べる 父ちゃんと三人の小さな子供

「母ちゃん、うまいぞ!」 っという言葉を聞いて
微笑んで倒れる母親

たんぽぽ 「母ちゃんメシだ」2

医者の「ご臨終です」という言葉を聞いて
子供達は泣き出しながらも、父と子は
母親の作った最後のチャーハンを手から離さずに
ガツガツと食べ続ける

とうちゃんは小さな子供達に号令する
「母ちゃんが作ってくれた最後のメシだ!」
「残したら承知しないぞ!」
「暖かいうちに、食うんだ!!」

たんぽぽ 「母ちゃんメシだ」3



このエピソードを彷彿とさせるのが
アニメの「美味しんぼ」にもあった

死にかけた妻に海原雄山が茶を所望するシーン



息子(主人公:山岡) は「あいつは鬼」と言って罵るが
それを母親はひっぱたく

 「お前には人の気持ちって言うのが判らないの?」

キョトンとする息子

美味しんぼ 第112話 「ほうじ茶の心」


最近この二つのエピソードがやたらとに胸に去来する
岩井俊二の「食事」をテーマにしたショート作品群も
皆秀逸だ


食事の光景と、生の情愛とは切っても切れない

食べ物も生きている

たしかに私は人間よりも体温の高い生き物を食べることには
反対だし、(人体内で凝固したり腐敗してしまう細胞だから)
それは、とりあえず置いておいて、「食べる~食べられる」
それは一方の身体、もう一方の肉体が溶解していく儀式であり、
愛の営みという風にも見える。

倹約や簡略化などでカップ麺ばかり食べていると

「あ~、生きてるものを食べたいなあ」っと思う

カップ麺は、例え素材が野菜や肉でも、加工過程が
工業的製造である・・・  本当に餓えている地域や
災害時、登山時などの非常食でならありがたいものだが
やはり、常食とする様なものではない

それが、「贅沢なことを言うな」と叱られたりしない様な
毎日であると言うことは、幸福なことである

「不食」と言うのは、たぶんこれからの人類にとっては
大きなテーマではあるが、・・・・



その前提として、こういったテーマをどう『消化』するか?ということがあると思う

互いに『錯覚を与え合う』ことで幸福になれるという思い込み・・・

「食べる」とは何か?そこには何が起こっているのか?


   こういったテーマにメスを入れないで、・・・・

     私たちは「誠実で暖かい関係性」を築けるのだろうか?

     『餓え』を越えた新しい生き方を見つけられるのだろうか?



これが、生物としての進化の最終段階の話しだと思う

爬虫類はタマゴで生まれ、はじめから自分自身のためだけに
生き、肉体は生命が存続する限り、巨大化していく

hqdefault

哺乳類はそうではない

ある種のルール、ある種の暗黙の節度が支配している

哺乳類には「他者との協力、他種との共存、尊重」が芽生えはじめる


でもその尊重はあくまでも意識的なモノではなく半ば本能的な
プログラムからだ・・・つまり、これら「協力、共存、群れ化」は
あくまでも個体と種のサバイバルの為に芽生えた本能的な判断だ

そして、道具を使う「サル」の段階まで達したとき、
ケンカが強いボスザルという統率者を男系の柱とした社会、村が
いよいよ誕生しはじめる

きっと人間の先祖もこの中にいた

恐竜の時代程ではないにせよ
長い長い

「ケンカの強いボスザルが統率し、
その周りにメスと子供が取り囲む群れ社会」

             が続いただことだろう

  現代の人間社会であっても、ある程度この名残がある


しかし、
「強さ」の尺度は、
     単純な筋力、身体能力から
      テクニカルな能力へ
      そして文明的な弱肉強食から
      ハイセンスな民度、「誠実、責任感、公共意識」へ

        さらにそれはだんだんと
       文化的な「繊細な気遣い」へと洗練されていき
       それがあらたな「人間的強さの尺度」へと変わって来た

そのひな形は「天皇制」に始まっている
つまり、
「権力」とは機能分離し、そのバックアップに徹した
「象徴的な権威者」、純白の王=すめらぎの登場である

それゆえに天皇制とは「天と地を結ぶ柱」の象徴であり神主でもある
これが男系男子の意味だ

ボスザルの腕力が支配していた時代には、メスには選択権はなかった
他の哺乳類と同じように、まだ周囲は弱肉強食であり、自然の猛威と
気まぐれに翻弄され、そこから逃れるためのビルディングはなかった

つまり、「ケンカ=生命力が強い」という単純な基準で
メスはオスを受け入れるしかなかった

つい最近まで、農村社会において労働力にならない様な男子は
放逐され、のたれ死ぬか?、仏門に入るか?丁稚に入るか?といった
生家から切断された生き方を余儀なくされた

それのもっと徹底した光景が、ボスザルが支配する大昔にあったことだろう

つまり、統率者がメスを独占していた世界では、
その他のオスというのは全部、群れには居る場所がなかった

猿たちの天国である森から、かれらは出て行くことになっただろう
農村で、家督を継がない者が出て行ったのと大して変わらない光景だ

ただし、サルの時代はもっと絶望的な運命が「余り物のオス達」を
待ち構えていた

    ・・・・森を追われたオス達、かれらは二足歩行を余儀なくされた

    そうだ!!、
      われわれ人間という種族は、
      もともと「カモメのジョナサン」の様な
             「はぐれ者」から進化したのだ!!!!

f4291457

  ボスザルと、メス達と、ボスの子供達・・・  かれらはどうしたのか?
   かれらは   ・・・・今も森に住んでいる

  多くの若いオスの猿たちが孤独と絶望に涙を流しながら夕陽を
  見たことだろう・・・  翌朝までに、かれらは草原の肉食獣に殺された

  それでもかろうじて生き延びた雄の猿たちが、だんだん団結し
  集団で狩りをして、食料を手に入れ、ボスザルの集団から
  花嫁を強奪したことだろう

  (これが単調なボスザルの一極支配から略奪して欲しい
   そして何処か未知の世界に連れて行って欲しい、  と
    女が憧れる「壁ドン」の原型だ)



   きっとそれが
   草原を二本足で疾走する人間の若者達の姿へと
   変化していったのだと思う

    反逆の集団こそが、人間に進化し、新しい村落を作り
    自由な恋をし、男同士で互いのカップルを尊重し合う
    結婚制度が、形成されてきたに違いない

      ボスザルが全てを仕切るハーレムには
       結婚などと言う制度は必要なかったのだ

はぐれ者達の間から選ばれた新たな王は、
まず優しさ、寛容性が買われたに違いない

つまり、古代の王とは、優しく賢い村長(むらおさ)が進化したものなのだ
シャーマンをかねたそういう村長が、神話を語り、それが語り継がれた

ここまで進化して、
  初めて人類はサバイバルから離れた
   自由な恋が出来る様になっただろう

          『詩』が生まれた、『踊り』が生まれた

             豊かな個性が可能になった


恋人達の中心には、常に優しく微笑む、賢い村長がいて
各家庭には、尊敬され、手厚く待遇された老いた両親が居た

それは、
ボスザルの威嚇と監視と、血の粛清とは全く違った
情愛で結束した人間社会の営みが広がっていっただろう

そこで、
猿社会では決して得られなかった最大の開花とは
個性の尊重であり、個の生存権だった


わたしたちには、でもいまだ「サル的」な要素が残っており
こういった、個性の尊重というのは現代においてもいまだ
未完成ではある・・・・・

・・・・・これが完成されたとき、
この地球での生物進化の歴史は頂点を向かえる

それはもう、
     サバイバルからも、 腕力からも・・・

 そして   結婚制度という
     「愛の無期限保証契約」すらからも・・・・   解き放たれた

    ・・・・「全くの男女の自由意思による恋」   と

       「 『個』 の究極的な開花=光明(エンライトメント)」 である

このページのトップヘ