We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年11月


「いまここに生きる」「瞬間瞬間を生きる」・・・・これを具体的に体現しているのは
「かれら」なのかもしれない・・・




1
00:00:12,712 --> 00:00:15,315
あのねプー太郎はね~

2
00:00:15,315 --> 00:00:17,217
ニートのプー太郎はね!

3
00:00:17,217 --> 00:00:21,654
仕事を週三日しかしないんだよ

4
00:00:21,654 --> 00:00:23,156
P PP PPP

5
00:00:23,156 --> 00:00:25,258
プー太郎はね!

6
00:00:25,258 --> 00:00:29,295
ニートなんだ~
 ニートなんだ~
  ニートなんだ~けれど

7
00:00:45,745 --> 00:00:47,847
あのね~プー太郎はね

8
00:00:47,847 --> 00:00:49,983
ニートのプー太郎はね

9
00:00:49,983 --> 00:00:52,52
バイト先で叱られると

10
00:00:54,220 --> 00:00:55,955
P PP PPP

11
00:00:55,955 --> 00:00:57,824
プー太郎はね!

12
00:00:57,824 --> 00:01:01,895
ヒキニートなんだ~
 ネトゲ廃人なんだ~
  マザコンなんだ~けれど

13
00:01:22,682 --> 00:01:24,718
あのねプー太郎はね~

14
00:01:24,718 --> 00:01:26,953
ニートのプー太郎はね!

15
00:01:26,953 --> 00:01:31,157
ネットの世界では飛べるんだよ

16
00:01:31,157 --> 00:01:32,892
P PP PPP

17
00:01:32,892 --> 00:01:34,894
プー太郎はね!

18
00:01:34,894 --> 00:01:38,932
大化けするんだ
 いつかはやるんだ
  明日から本気出すんだ けれど

19
00:01:38,932 --> 00:01:43,36
淡泊なんだ
生きることにかけては・・・

20
00:01:43,36 --> 00:01:47,607
いつも
寝ぼけちゃって いるんだよ

21
00:01:47,607 --> 00:01:54,914
だけど、これからの
希望の星なんだってさ~~~!

人間というのは、私たち自身で思い込んでいるほどには
理解し合っていない、その理解の接点は、とても小さいと思う

kiseiju-08-198a


ほんのちょっとの言葉のニュアンスの違いでも、すぐに
敵意を感じてしまうトラウマがあり、臆病さがあるし、
ワン公同士のように、すぐにキバを向き合う
人間はちょっぴりワン公より「お上品」にやってるだけだ

でも基本的には、
「味方が欲しい」「理解者が欲しい」とも切望しているから、
ちょっとしたキッカケですぐに打ち解け合えたりもする

-昨日の敵が、今日の友- 見たいにね・・・

ところがそれじゃあ、女同士の、・・・
たとえば奥様同士の冗長な立ち話が、そんなに仲がよい証拠なのか?

・・・・と言えば実際には、ご存知のように
   陰湿なイジメ合い、中傷合戦の凄まじさは、
   我ら男性諸君には想像を遙かに超えた世界だ・・・・


「みんな一緒だね」「みんなお友達だね」と気軽に言えるほど
残念ながら人間は単純ではない

人は皆、黙っていても
とてつもない孤独を抱えているモノだし、深い深い悲しみを抱えている・・・

では、人間同士というのがそんなに遠く離れているモノなのか?と言えば
別にそんな事はない・・・・ 人間なぞ “良かれ悪しかれ” 所詮は
似たもの同士だ・・・

もしニュースで、通り魔殺人事件を見たならば、あなたは全く別の人間が
しでかした、犯人の心理なぞ理解しようがない、「圏外」の人種の起こした
事件だと思うだろう・・・・  「なんて酷い奴だ!」「考えられん」っと

でもそんな風に、切断して考えることこそが私たちの犯罪なのだ・・・

人間誰もが持つエゴの構造から
あなたやわたしは、「完全に脱皮」していないのならば
私たちに大した違いはない

   「似たり寄ったりの心理構造」を抱え込んでいる以上
   私たちと「通り魔」とは
   「実行したか?しないか?」だけの違いしかない・・・
            という点で、人類全体が「有罪」なのだ

街を歩いていて、突然人混みのなかから

「ざけんじゃねえ!バカ野郎!!」

         っと罵声が聞こえたとしよう・・・

人々は一斉に立ち止まり、何事か?と思う

でもその声は一回きりで、静まりかえったならば、
きっと誰かの瞬間的な激情に過ぎないんだなと安心し、また歩き出すだろう

でもそこで立ち止まった人々は、

  皆、 不安を感じたはずだ
      イヤな気分を感じたはずだ・・・

そこで10人の人がその怒鳴り声に立ち会ったとしたならば
実を言えば・・・・

その10人の誰がその罵声を上げたとしても  実は同じだ!

  皆、 不安を感じたはずだ
      イヤな気分を感じたはずだ・・・

つまり、その現場に立ち会わされた人達が共有した事象だったのだ!

    でも、 それでも人は、

  「自分は無関係だ」と思う
   「自分には何の責任もない」と考えるまでもなく、そう思う

 ・・・でも、例えばトンネルの崩落事故にせよ
   その事故に巻き込まれた人には、みな運命的な共通点がある

    ハタ目には、「偶然居合わせた」様に見えてもだ・・・・


ある空間を共有する、ある情報を共有する・・・

   知ってしまうということとは、
   「立ち会った」ことであり、もはや当事者なのだ


もちろん
立ち会った個々人の視点によって見え方、捉え方は違うだろうけれど・・・

  知ってしまう、立ち会ってしまうと言うことは 強制的に責任が生じることなのだ

kiseiju-08-198b


  「冗談じゃない! あいつはキチガイだ!ありえん奴だ
   俺の住む世界とは無関係な奴だ!
    あんな奴さっさと抹殺してしまうべきなんだ!!」

あなたにも、そう思える相手は何人もいるかも知れない
kiseiju-08-234
『両脚羊(食用人間)』

「オレとあいつとは全く別物だ!」と、あなたは主張するかも知れない

じゃあそれでは、
あなたは【他の誰とも違う魂】なのだとして、
今の肉体から離れたとしよう・・・

手もない、足もない、脳もない・・・

今までの肉体の記憶も全部忘れて
その「ありえん奴」と完全に同じ素質、同じ体験、同じ経過を辿ったとする
その時あなたは、その「ありえん奴」と全く別の判断が可能だろうか?

・・・たぶん無理だろう

  あなたの魂は、その「ありえん奴」の魂と分離不可能なぐらい
  融合してしまっているはずだ


  あなたは、胸を張って「オレは他の誰とも違う」と、言うかも知れない
  でもそんな違いとは、

        所詮“容れ物の違い”に過ぎないのじゃないだろうか?

   私たち人間、
     いや 生命現象の違いなぞ、 所詮は

          所詮“容れ物の違い”に過ぎないのじゃないだろうか?
    


私のホロスコープには海王星が絡んだ強烈な
「無気力さ」「はかなさ」という特徴が刻まれていて、
果たして実際の所、これは私の人生をずっと苦しめてきた

・・・でも今の自分にとってはこの青春を蝕んできた
  苦しみも、その原因の根幹を解明するのには
  さして難しい事ではない・・・・

 そして、私と同じような苦しみは、決して私と同じようなホロスコープの
      特徴を持ってはいなくても、大なり小なり現代人の多くが
       抱えていることであろうと察するので、ここに記述したい


さてまず、無気力さの「原因」なのだけれど
これは、“病気” でも “精神異常” でもないと、喝破したい

  わたしはたまたま、この問題を解明することに向いている
  個性を持って生まれてきたというのに過ぎないのだ

  わたしの産土神社が「海神=わたつみさま」
   (総本宮「志賀海神社(しかうみじんじゃ))であったのも
          その使命を指し示しているのかも知れない


   無気力さの根幹とは
   無為自然(あらゆることをしつつも何もしない)」っということであった!

   だから、逆を言えば私の世代の親たちの方が
        むしろ精神的に病んだ人達だった
        と言うことが、この話しのオチでもある

xxxxxxxxx

    高度経済成長の世代・・・

   敗戦後の日本はひたすら物質的豊かさ、
   インフラの整備から、様々なシステムの開発、改善に
   血道を上げていた

   “受験戦争” という歪んだ歴史もこの頃からであるし、
   自然破壊、環境汚染・・・つまり今の中国が桁違いで
   やっている地球破壊という害悪=工業化に日本が
   手を染めていた時代も、まさしくこの時だった

   「工業化」が国を挙げての「国教」になってしまっていた
   時代である

   敗戦後の経緯から見てやむを得なかったとはいえ、
   でもそれゆえの、健康面、精神衛生面での歪み、
   しわ寄せは免れようがなかった・・・・

財閥系企業のプラント研究室長でもあった父もまた、そういう時代の
先兵であったことは言うまでもない

最近見た実話を元にした映画に-Into The Wild- (2007米)と言うのが
あったが、NASAの研究員という時代の先兵ではあるが、即物的な
愛情表現しかできなかった父親に、主人公が反抗して荒野を求めて
いく姿はわたしの青春時代とダブる



 この記事を読んでいる人の中にも、たぶん共感出来る人は多いだろう
この世代の人達で、高度経済成長時代の「精神的に貧困な」両親に育ち、

      「まったく精神的な虚脱感、疲労感をもっていない」

人なんているのだろうか?

それゆえに青春時代に出会ってからと言うもの、私にとっては現代の老子、
OSHOの言葉は救済でありつづけたのだ・・・・

森田療法というのをご存知だろうか?

結果的に言えば、ひたすら何もしないというシンプルなメソッドだ

わたしもOSHOの言葉を我が血肉に染みこませるために若い時代に
自然と森田療法を自らに施していたのだ・・・

八王子の無人の寺に、一週間以上断食して籠もったりとか・・・

      「無為」のなかに、
      わたしは「ワイルド」を見つけることが出来た

・・・とはいっても、今この時代と社会だって、大きな歪みがあり
  人々を行動へと、目的へと、生産性へと駆り立てることを
  終わらせたわけではない・・・・



   わたしもまた、気が付けば自分の中の自然を見失うことは多い

   そして今、この瞬間にも 
   自分の中の「ワイルド」を死に物狂いで求めている人は
   きっと多いだろう

   なので、自分自身への覚え書きと
   わたしの様な苦しみとの奮闘を続ける多くの人の一助となれば
   と思い、ここに書き記した。




【呼吸法で思考を切り離す】
2014年11月23日

  魚住 心
 <当初、シェアしてもらったことを大喜び
  この記事を読んだら血相を変えて削除を要求
  拒否したら、私をブロックした模様

【思考のノイズとさよならしたら】
2014年11月21日 8:27
  さとう まさみ

OSHOが「存在の詩」で、バグワン・シュリ・ラジニーシという旧名で
日本にも紹介されてからではないだろうか? マインドという言葉が
瞑想状態に対する「邪魔」な存在のように使われはじめたのは?

ほぼ同時期に米国から渡ってきたナポレオン・ヒルを元祖?とする
ニューソート、成功哲学、願望実現、「思考は実現する」という発想と
ある種の対極に、OSHOの言葉があった

私なりにまとめるなら

  願望、目的、理想の達成を目指す自己実現とは男性原理

    であり

   くつろぎ、ノーマインド、自己受容で起きる意識変容とは女性原理

             と言うことなのだと思う


しかし強調したいのは、OSHOの発言に、
「マインドを切り離せ」などといった表現を見かけたことはないということだ

ところが、サニヤシン達の共通する台詞、いわゆるサニヤシン用語というのがあり
それは「マインドを切り離せ」である

そういう点が、
わたしがサニヤシン達と関わっていて最も違和感を感じたところだ・・・

「バグワンはそんな事一言もいっておらんだろうが?」
わたしは思うのだが、でも、なぜか?サニヤシンが誰かの発言を
否定するときの定番の台詞は、

  「そんなのはマインドに過ぎない・・・」である

日本には昔から「無念無想」・・・眠狂四郎「円月殺法」~~みたいなカッチョイイ
ことばがあるので、多分、そういうのと「まじゃっちょる」のではないか?と思う



瞬間瞬間を生きるというのは、シリアスに考えると難しい事だが
でもそれは、人間以外の生き物は全部やっていることなのだ

動物たちの目が皆澄んで美しいのはそれゆえだ
過去や未来、希望や願望や不安に汚染されていない目なのだ

人間は考える葦である

思考能力というのも人間に自然に備わった最強の生存能力なのだから
それを「切り離す」と言う発想は極めて不自然で、不健全ではないだろうか?

OSHOはその「便利なツール」に
「便利さ故に自己同一化(巻き込まれ)ない様に・・・」 観照しなさいと
言ってるのであって、それは「切り離せ」という作意を持てと言っている
のではないと思う



「私はよく “醒めていなさい” というが、それは努力や集中ではない」
ともOSHO自ら言っている

  やはり、OSHOの語り口の美しさに「酔って」「張り切って」しまう人が
  多いと言うことじゃないだろうか?

  「覚醒」という言葉の対義は「睡眠」なのだろうけれど
  実際は睡眠中は、サブコンシャス、つまり潜在意識が「目覚めている」と
  言ってもいいかも知れない

  で、あれば
  フォーチュンベルのミサ先生がアカシック・リーディングしたところの
  「エンライトメントの定義」が
       「顕在意識と潜在意識との統合である」という
          シンプルな解答は、実に正鵠を得ているのではないだろうか?


  よく、入眠時や出眠時は非常に深い瞑想状態と脳波が似ているから
  啓示を得やすい重要な瞬間だという

  つまり顕在意識と潜在意識との入れ替わるトワイライト・ゾーンは
  エンライトメントの状態と極めて近いからだと考えれば納得出来る

  私たちが「醒める」という言葉を使う場合と
  OSHOが「醒める」という言葉を使いのとでは
  どおやら意味合いが違うというわけだ

私たちは顕在意識が最もハッキリ機能している状態のことを
「醒める」と一般的には考える・・・・

   ・・・・朝起きたら、珈琲を飲み、熱いシャワーを浴びて

   ・・・・「目を醒ます」

しかし、OSHOが言うところの「醒める」とは、・・・・?

つまり、瞑想的な意味の「醒める」とは、
顕在意識と潜在意識との混じり合ったような状態ではないだろうか?

これは、
むしろ深いリラックスであり、ならば「醒めるというのは努力じゃないよ」
というOSHOの言葉が納得出来る

   そして、「マインドを追い払う」のでも「切り離す」のでも
         「厄介者扱い」するのでも「敵視」するのでもなく・・・

     ・・・・・う~~ん、あ、あんな考えが漂ってる
          お~~、オレって今こんな風に考えているのかあ~~

みたいな意識状態じゃないだろうか?

むしろ私たちの日常用語で言えば「朦朧としている」ほうに、
むしろ近いかも知れない

高熱を出して朦朧としているときに体験したことがないだろうか?
何かを考えようとしている・・・  でも、体力が足りなくって
思考が巧く働かない!!

     あなたは、カンカンに怒っている瞬間に
     自分の中でクスクス笑い転げているもうひとりの自分に
     はっと気が付いたことはないだろうか?

      怒りで我を忘れている!   ・・・・ハズだ!

      ところが、同じ瞬間に、冷静に事の状況を分析し、
      次にどの様に対処するべきか?瞬間のウチに
      めまぐるしく思索している自分を意識したことはないか?

        本気で暴力沙汰になりそうな空気の時に
        こう言う経験をした人は多いと思う


  入眠前の、非常にリラックスした瞬間のみ成らず
  イッパツ触発の、緊急事態でもある種の覚醒体験をするということがあるのだ

   わたしも車に跳ね上げられて、空中を一回転した瞬間に、
   全てがスローモーションのように見えた・・・といった体験が二度ほど有る

    ほんのコンマ数秒の間に、どの様に落下すれば一番安全か?
    落下の体勢を超高速で演算している自分がそこにいた

    ・・・・これだってマインドだと言えばマインドである


  「マインドが邪魔だ」と言う人は、思考速度がむしろトロいのではないだろうか?
  思考の鋭角さが、むしろ足りないのではないだろうか?

  そして、なにかに耽溺している人が多い気がする

  たとえば上記のさとうまさみさんという人は、ずいぶんと男性に対して
  被害者意識を持っているようだ

  だから、男性を徹底的に「容赦なく」再教育するべきだ、
  女に優しい社会を作るべきだと気炎を上げている・・・ 


で、・・・

両性の法則を手に入れたらクリアできます」と言っているのだが、・・・
彼女のいう“両性”とは、「徹底的に容赦なく再教育を施した男性と」
「不当に虐げられた私たち女性」とのことを言っている

こんな人が
「マツ科の植物」のなんちゃらをスプーンでガシガシ食べて・・ぇぇぇ・・・
思考能力を失ったら   ・・・いったいどうなることやら???

(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

まあ、確かにリラックス出来ると言うことも大事なことだ
特に魚住氏の薦めるヴィパサナ瞑想法は、あらゆる瞑想法の
原点とも言える重要な手法で、私も薦める

でも、「思考を切り離そうとする意図」は、どうか?と思うのだ

わたしにとっては「覚醒」の対義語は
「マインド」それ自体ではなく
「睡眠」「朦朧」でもない

耽溺、思い込み、トラウマ、劣等感、強迫観念、選民意識、被害者意識・・・
比較への執着・・・・

  偏執的な嗜好、宗教的、道徳的観念の盲信、依存、
   神経症的潔癖(完璧)主義・・・

  そして「マインドを切り離さなければ!」という
     自己コントロールへの野心、目的意識、理想、探求、奮闘・・・

            っといったところじゃないだろうか?

ある男が、マインドの止め方を尋ねる為にひとりの聖者の
元を訪れた

すると、聖者はその男にひとつのメソッドを授けた

「毎日、猿について考えないように集中してご覧!」

「え?  猿について考えない?」

「そうだ、それを数日試してから、また来なさい」


そして、数日後その男は憔悴しきって、また聖者の元を
訪れるやいなや、こう懇願した

「もうマインドを止めようとは思いません!!」

「お願いですからこのアタマの中にごった返すサル共を
何とかして下さい!!!」 

「存在の詩」より


エイブラハム・ヒックス動画
「雑念(モンキーマインド)を止めるにはどうしたら良いですか?」




「流れに逆らって思考に振り回されている時には瞑想が有効です」

「立ち止まって、向きを変え無理のない大いなる全体性への
流れに乗るために・・・」

「でももし
『(思考を切り離して)毎日何時間でも瞑想するぞ!』という人がいたら
彼は
自分の思考を方向付けすることを諦めましたと宣言しているんです」

「でもあなたは立ち止まる(ポーズ)為に生まれて来たのではありません」

「あなたはクリエイターとして生まれてきたんですよ!」

OSHOの「サクシン」瞑想センターの元センターリーダーが言っていた

  「瞑想というのは、ここで死んでも良いと思えるぐらい
   トータルにコミットメントしてやるべきだよ」

全くその通りだと思う

脇で誰かが聞いていたら、「まるでオウムだな」と思われかねない
会話だがやむを得ないだろう・・・  こういうことはいつも常識とは
折り合いが良くない・・・  社会は変革よりも安定を求めるからだ

  社会が求める「瞑想」とは、ダイエットとか精神安定のための
  カルチャースクールで教えている飼い慣らされたものだ


「いまここ」に踏みとどまりたいのならば、
「いまここ」で全てが終わってもいい、望むところだと思うことだ

  ---その時、あなたの周りで死臭がするだろう
            あなたの傍らに死に神の気配がするだろう

  でも死に神とは、ハイヤーセルフのバリエーションのひとつに過ぎない
   あなたの中での最も深い同意があってこそ、彼はあなたを連れ去る

    彼は死刑執行人と言うよりも、最高の救済者なのだ


いままでわたしは、瞑想によって何かを持ち帰り、
このブログにその体験を書き留めていたが、
これを続けている以上、「いまここ」の中に溺れ死ぬことが出来ない

本当に「いまここ」の中に死にたいのならば
もう何も持ち帰ろうとはしないことだ

   ---それはかなり前から判っていた


私たちとは何なのか?

いま、誰もが感じているとおり、この肉体をよりしろとして
「見て」「感じて」いることが全てなのか?

それとも、
映画「マトリックス」のように、わたしは「2014年の日本という国に
生活している男性」という夢を見ているだけで、本当の肉体
(ハイヤーセルフ)はどこかに飼育されているのか?

はたまた、未来の実験室の水槽の中に浮かんでいる脳みそなのか?

それとも映画「トータル・リコール」のように200年後のサラリーマンが
バケーションで2014年の日本人男性にトリップしているだけなのだろうか?

  わたし自身「まさか、そんなねえ~~」と思ってはいるが、
  もしそうだとしても、確かめるすべがないというところがミソである


「本当の自分探し」をはじめて、玉葱の皮を剥くように自分の自己欺瞞を
はぎ取っていっても、最後には何も残らない

最終的には神の探求とか、人生の究極目的の探求とかと同じで
「確かめるすべがない」というのが・・・実は最終回答なのだ

つまり、真実を
「確かめよう」「見定めよう」と野心をぎらつかせている本人こそが
もっとも怪しい奴(爆)だからなのだ

「いまここ」の傍らで大鎌をいつも研いでいる死に神君は、この
怪しい奴-を、実は狙っている






「宗教」の「宗」と言う文字はイエカンムリに示すと書く
これは戦前までの日本人にとっては、そのまま「お家」であり「お国」であった

だから、日本の兵士は勇敢で、恍惚として戦死していった

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しかし、敗戦と昭和天皇陛下の「人間宣言」以後、
「家」はどんどん崩壊していった

その崩壊を食い止めるべく若い世代を叱りつけた人達は
もはや時代遅れの陳腐化した存在になっていた・・・・

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日本人はアイデンティティーを失い、
社会への帰属意識を失い、
若者は労働意欲を失い
「さまよえるオランダ人」となりはてた

「家を失った日本人=在日」は、
自分たちで「(宗)家」「ふるさと」をでっち上げようと
苦闘したが、・・・  その努力自体が、シュプレッヒ・コール自体が
「~イズム」が、「ムーブメント」が、インチキ性、不自然さを暴露していた・・・・

  もう、核家族(お揃いのT シャツを着たニューファミリー)でも、
  新興宗教でも、まともに「家」としては機能しない事は
  明白だと宣言しても差し支えないだろう

「七次元」を持ってきても「UFO」を持ってきても
「神聖図形」「マカバ」を持ってきて、新居への旗印にしようとしても
無駄だろう・・・・  「国」も「家」も建ちはしない・・・・


この絶体絶命の時代にまで、

子孫を、代表選手を、
つまり私たちを各家系は送り込んできたところで、
「遺伝子の役割」はひとつの区切りなのかも知れない

“宗”という文字が指し示そうとした「家」とは、いままでの歴史は単純に
「家系」であったが、この地球文明のどん詰まりのこの最終章において、

「家」とは、
「いまここ=Home Position」なのではなかろうか?

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