We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年10月

今朝、目が醒めたとき、唐突に学生の時に学んだ
漢文の授業の内容を思い出した

一つの国が飢饉に襲われたとき、飢餓の生死をさまよう
多くの難民が押し寄せてきたことをある歴史家A氏が書き記していた

有名な話しだと思うので、正確な出典を知る人も多いと思うが
私はうる覚えの記憶で書く・・・

その難民達を憐れに思った隣国の人達は炊き出しをもってして
その難民達を向かえた

A氏もその中の1人だったのだが、彼の前に1人のやせ衰えた
男がやってきた・・・その憐れな姿に、A氏は思わず

   「さあ、喰え」   っと粥を差し出した

ところがその男はその粥を口にしなかった

   「わたしは憐れな難民ではあるが、
    おまえに『喰え』と言われて無礼に突きつけられたものを
     喜んで喰う訳にはいかない・・・・」

  おとこはそのままA氏の前で力尽きて死んでしまったそうだ

A氏は涙ながらに後悔して書き残していた

 「ああ、私はあんな無礼なものの言い方をしていなければ
  あの気高い魂の男のいのちを救うことが出来たのに・・・」


このA氏のエピソードは私のこころの中にも深く突き刺さった

私の父は、一応エリートの部類ではあった
でも、人への思いやりというものがまるでなく、
冷酷で、残忍な性格だった

しかし、その冷酷さはあからさまに剥き出しにされることはなかった
そんなことは、エリートを自負していた父自身が嫌った
父の冷酷さというのは、言葉による冷笑、嘲笑、皮肉、噛んで含むような
知的な意地悪のゲームだった

同じく社長令嬢を気取っていたヒステリックな母と、
いつもどっこいどっこいの
皮肉合戦を年がら年中やっていた・・・

会社の同僚との父の会話を一度だけ聞いたことがあった
そのとき、父は母のことを

「ウチのワイフが・・・」っと紹介していて
その自宅で一度も聞いたこともない父の言葉に
わたしは仰天した記憶がある

夫婦げんかを
暴力に訴えたのは私もまだ小さい、両親もまだ若いときだけだった
弟が生まれ、妹が生まれ、それ以後にモノを壊したりというような
夫婦げんかは両親はまったくしなかった。

でもその分、如何に深く相手の精神をズタズタにするかに
双方がしのぎを削っていた

時代が米ソの冷戦であった時、我が家でも同じ事がずっと起きていた
心理戦、潜水艦同士の一騎打ちだった

父は、死の間際まで、わたしに
「本当は離婚したくてしかたがない」とこぼしていた

しかし元財閥系の、世間体を気にするガチガチの企業の一員として
退社後も近所の目があった私の両親は、離婚もままならなかった

古い体質の巨大企業においては、「離婚」という社員のプライベートに
おいても暗黙の介入(世間体の強力ヴァージョン)があった

   ---たぶん今でもあるだろう

母は、玄関に来客があると、私を汚物のように引っ込めたがった
「おまえは玄関に出てこないで!!」

家庭内の実体が「積み木崩し」でも
会社においては「サザエさん」でなければならなかった


そんな家庭環境て育った私は、腕力による暴力性以上に
精神的な冷酷さによる暴力の恐ろしさを刻みつけて成人していった

   ---そんな私だから思う。

        人の尊厳を踏みにじることは、
         時として殺人に勝る犯罪なのだと

肉体的な暴力も論外だ

しかし、  肉体的な暴力に勝る、人の尊厳を踏みにじる
       暴言による暴力は・・・・  絶対にあってはいけないことだ


現在の社会では、
相手の肉体や生命財産を損傷させた場合は法律が動く、警察が動く・・・
しかし、精神的な暴力に関しては、まだまだ人間の法律は、甘いのだ・・・
  それ(家庭内暴力など)は未知の領域とされている

それは、無法地帯のジャングルのままなのだ

それを良いことに、暴言を吐き続ける人種がいる

彼らを法律で裁くことはできないから、
彼らは思うがまま暴れ回っている・・・

  私は、そういう彼らが、単純に・・・・怖い

  わたしは身長187cmの大男だ。
   殴り合いの喧嘩だって普通の人以上にやっている

   そのわたしでも、人の尊厳を平気で踏みにじる暴言を吐く人間は

             怖くて堪らない

人を平気で威圧的に怒鳴る人間は、   ・・・怖い

           
そんな人間を、まだ規制出来ないでいる
          まだ野放しにしている
           精神的に未熟ないまの、この社会とは

              私にとっては野蛮な、未開の、
               弱肉強食のジャングルなのだ

   街でホームレスの人を見ると、心が痛む

    この中には、私の様にこころを踏みにじられて
             壊れてしまった人達がきっといる

        でもこのどうしようもなく遅れた社会では、
           ・・・その人達の惨たらしい心の傷は見えないのだ

美里 和希
あちきも

あちきも!


てか、それ
和尚を、知る前に
辿りついて

しまい。早い、、

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早いか遅いかなんぞ、どうでもいい話しだ
誰かとの競争の話しじゃないんだから・・・

まさしくこの
「自分自身への責任」こそは
「他人との競争ではない」ということと直結した話題だ

誰もが最終ランナーだ
私は最終ランナーだ
あなたも最終ランナー
あなたこそは最後の成仏者だ

なぜなら成仏したとき、もう他の全ての人は
とっくに成仏して私に微笑んでくれるからだ

表面意識がどれ程暴力的であろうと
表面意識がどれ程寝ぼけていようと

人はブッダとしての本性、悟性に突き動かされて生きている

だから、わたしがゴールして後ろを振り返っても
誰も居ない   [爆笑]

「エゴイスティックであって良いんだよ!」
「何よりも自分を尊重しなさい=天上天下唯我独尊」

「そのとき、あなたはこれが最後の“個人”としての生になる」

「なぜなら、その時からあなたは、一切の外部への責任転嫁が
不可能な人生を歩み始めるからだ」

・・・皮肉なことに、このことを完全に理解出来るのは、
          あなたがゴールした瞬間なのだけれどね・・・・



風間 夕夜ありのままの自分を「単に事実として認識する」ことと
「愛する」こととを、みぃ~んな混同してない???(笑)

Harue Shinbo:
風間さま、解説して頂きたく、いいね!(*^^*)
よろしくお願い致しますm(__)m

風間 夕夜「愛」という文字は「中心にこころが宿る受容性」と書くので、それが文字通りならば「機械的、無機的な受容性」ではなく、「真心の込った受容性」であること意味します

でも今回の話題は、「自分の醜い部分、未熟な部分を素直に認める」という話題なので、かならずしも「愛」である必要はないと思います・・・

「私は悟っていません」
「でも愛しています」

  即ち
     「私は愛とは何かを知っています!」

   ・・・・ん?それってまたヘンなところに転がり込んでませんかねえ???

   愛とは何か?
    完全に理解している人、完全に愛の中にある人とは
     もう即ち、「悟っている」と言えるのではないでしょうか?


ど ちらかと言えば、自分自身へのシャープで科学的な観察眼が必要で、「自分はまだ悟っていないゆえに嫉妬深い」ことは「ああ、確かにそうだ!」と事実として 受け止めつつも

     それを積極的に受け入れると言うことではない・・・

それは「だって悟ってないんだも~ん」という「自分の嫉妬深さ」への「自己正当化」へと繋がる


人は、嫉妬により殺人を犯すことも珍しくはない
「悟っていない人」にはそういう可能性すら未だ免れない凶暴性がある・・・その“凶暴性”を“積極的に愛しましょう”と宣言するべきでしょうか?

積極的に受容するのでも消極的に「ちぇ、しかたねえや!」と認めるのでもなく、...ただ、「ある・・・私には嫉妬がある」というありのままの自分への事実認識だけに留まるべきだと言いたいんです

じゃあ、そのままでいいの?っと成るわけですが

「どうにかしようとする」のではなく、・・・

「それもまた愛しましょう」とミソもクソも「愛です」「愛です」というのも・・・間違いじゃないでしょうか?

自分の嫉妬深さを見つけたなら、ただただ、その中に留まってみては如何でしょうか?、自分の嫉妬深い「般若のような面相」と、静かに、黙って、対峙してみてはどうでしょうか?

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その醜さ、その愚かさ、そのどん欲さ、その枯渇感・・・誰かに愛を奪われるのではないかという焦燥感・・・競争意識・・・それらを肯定することも、否定することもなく・・・・

ただただ、穴が空くほど・・・吐き気を催すほどに・・・自分の醜さ、自分の幼さ、自分の未熟さと、とことん、付き合ってみては如何でしょうか?

そこに・・・嫉妬への全面的な理解、全面的な離脱が初めて可能になるのではないでしょうか?

   何かを宣言するのはそのあとからでも、遅くはない

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私が何かを宣言したとする・・・

    ・・・それはその瞬間、真摯な告白かも知れないが、その時だけのものだ。

                        次の瞬間には、その宣言は過去のものだ


あなたが何かを言語化したとする・・・

     ・・・・それもまた次の瞬間には、もはや過去のものだ


だから何か、古びない宣言、錆びない言語化をするためには、
もう、言葉自体にいのちを吹き込むしかないのだ・・・・

「JOJOの奇妙な冒険」より
ジョルノジョヴァーナと、
彼の、
触れたものに生命を与えるスタンド(幽波紋)
ゴールデン・エクスペリメンツ

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私たちは「芸術家」というのを、
ある特殊な天才的な才能に恵まれた人の
特殊な職業のカテゴリーだと思い込んでいる

でも違う

女性が子供を産むののと同じように
アーティストとは生きている営み全てを芸術にする生き方のことだ
触れるもの全てが黄金となり、為す仕草そのものが生きた作品と成る

なので、その様な人のことをアーティストという職業のように形容するのは
ややおかしい・・・だから彼らを「アートマン」と呼ぶべきだ

だが、そう呼ばれたとしても、その当人達が往々にして自覚がない

なぜなら、私たち全てが、本当はアートマンだからだ!!!

私たちは皆、無自覚なアートマンだ

しかし、無自覚なアートマンは、自分の人生の瞬間瞬間が
ゴールデン・エクスペリメンツ=金色の体験であることを自覚出来ない

ではどうしたら私たちは、自らがアートマンであることを自覚出来るのだろう?


...それは、「表現されたものすべてはその瞬間から刻々と死んでいく」
                             ことを自覚することなのだ

「すべては刻々と死んでいく」
「瞬間瞬間は、表現されると同時にウソ(ブラフ、方便)となっていく」ことを
知るべきなのだ・・・・

つまり、言語化されたもの、文字に書かれたものは
ブラフ=方便、メタファー=比喩、パラドックス~逆説としてのみ、
真実として生き続けられる、指し示しうる、という理解が必要なのだ。

アルゴア

アルゴア

としちゃん

スーパーマンや北斗の拳やら・・・
JOJOやらドラゴンボールの悟空やら・・・・

こういった「闘うヒーロー達」に共通することがひとつある

例外は、「コブラ」だけである

ボクもいる


お判りいただけただろか?

・・・・つまり、コブラ以外は皆、眉間が詰まっている

そのコブラだって、サイコガンを打つ時は眉間に皺を寄せる

ボクもいる


何かに集中する時、敵と戦っている時、力む時、人は眉間に皺を寄せる

常に狩人(プレデター)の眉間、それが彼らの人相の共通点だ。

で、オトコというのは生まれついての狩人なので、
そんな顔をシブイ、カッコイイと感じ、憧れる。

宿六ライオン


コブラのモデルであろうジャン・ポール・ベルモントや、ディーン・マーチン、
スタローンの様なタレ目は、しまって見えない、デレッとしていて、弛んで見える・・・・

アルゴア
イスカンダル王星 マザータウンo0719040912813187343としちゃん

でも時々、こういったタレ目のヒーローが現れるのは
この“弛んだ”感じが“こころのゆとり”・・・つまり包容力と連動して見えるからだ

ちょっと軟派な、セクシーな魅力につながっている場合も多い


瞑想に関心の強い人の間では
「第三の目のある眉間を詰めない様にこころがける」のは常識なのだが、
そういった“常識”も、世代が移り変わっていく内に廃れていき、忘れ去られて
ゆくものなので、ここに書き留めておこうと思う


今朝、通勤途中でふわっと眉間が開いた感じがあって心地よかったので
そう思いたったのだ・・・・  この眉間というか、額がふわーっと開く感じというのは
とってもすばらしく、その際たる体験は日本ヴェーダンダ・ソサエティーの
内垣日進師のところで学んでいる時であった。


ひとは、ついつい自分を中心に世界を見てしまいがちである
それはちょうどコンパスが軸を定めてグルグルと円を描く様なのだが、
この「軸足」をポンと浮かした時に、まるでサイダーの栓をポンッと
抜いた様な精神状態になる

その精神状態とは、炭酸がサイダーの口からあふれ出す様な歓びである!!

    ・・・・「それこそが “ワンダフル” なんだよ!」


ナーラーヤン内垣


こう夢見心地に語ったナーラヤン内垣氏のテープを聴いた瞬間、わたしの額が
「ぱか~ん」と開いた感じがした!  まさしくその開いた額からワンダフルな
感覚があふれ出したのだ・・・・  それは文字通り「ワンダフル!!」な感覚だった!!

日本ヴェーダーンタ・ソサイティ:http://www.vedanta.or.jp/

あの時ほどの強烈なではなかったものの、
今朝はそれを彷彿とさせるミニ体験であった。

  そしてその感覚は、あるOSHOの言葉とも連動した・・・・

   「サマーディーとは究極のリラックスに他ならない・・・」
   (ちなみに内垣氏はOSHOに対しては否定的であったのだが・・・)


ふと思ったのは、全身の精神的な緊張というのは、最終的には眉間に
集まってくるのではないのか?という仮説だった

よく、眼精疲労は意外なぐらい全身の疲労と連動してるという

肉眼がそうであるなら、第三の目があると言われている眉間こそは
精神的な緊張感の「集積所」であるというのも、大いにあり得るのではないだろうか?


   「第三の目(心眼)を開くには全身のリラックスが必要???」となると
  つまりは心眼を開くと言うことは、なかなか難しいものだ・・・  ともいえる


 でも、同時に可逆的であるのなら、
「心眼を開ければ、全身の緊張を緩めることが可能!!???」ということかもしれない

OSHOは、こうも言っている

「とにかく瞑想してご覧!!---
『それで、どんな良いことがあるのか?』っと尋ねられるならば、
わたしは『すべてだ!全ていろいろなことがよくなるんだ!』と請け合えるよ!」

OSHOのこの熱烈な提案は、何を意味するのか?といえば、
「第三の目に働きかけることによって、素晴らしいリラックスを体得することが出来る」
                      ・・・・っという意なのではないだろうか?


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