We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年10月

暖かい布団の中で目は醒めたが、起き上がるのは嫌だった

時計をチラリと見て、いつものようにカフェイン入りドリンクを
2本、お湯で割ってのみ、またベッドに慌てて戻り
カフェインが体内をど突き回すのを待つ・・・・

私が、自分の意思で目を醒ましたように見える
私が、自分の意思でドリンクを飲み
私が、自分の意思でフトンをはね除けたように見える

でもちがう

肉体と思考が、いろいろな都合と時間割と、損得勘定を計算し、
天秤に掛けた結果、「ここでこうしよう」「ここでああしよう」と
彼らなりの算定結果で決定しただけなのだ・・・・


OSHOはこういった

「人生にイエスと言ってご覧!
   そしたら人生も
  あなたにイエスと微笑み帰すだろう」

でも彼が目の前にいたら、私は混ぜっ返して言うだろう

  「『イエスと言え』ですって?」

   「確かに私には『イエス』だの、『ノー』だの、
     あれこれ選択の余地があるように見えます」

  「でもそんな<選択の余地>は仏の手のひらの広さの範囲だけの
  ハナシじゃありませんか?」

   「確かに仏の手のひらは限りなく広いけれど・・・・限界無く広いけれど」

   「でも、手のひらの中であることには、変わらないじゃないですかぁ~!?」  

    「そんな、『選択の自由』なんざ、
     尾崎豊が『卒業』で唄った『仕組まれた自由』に過ぎませんぜ!」




その貴婦人は、クリシュナムルティーを女性にした様な顔立ちだった

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私は彼女の召使いか、弟子の様な立場だった

その女主人の邸宅は、小高い丘の上にすらりと細長く
まるで小さなバベルの塔の様に螺旋階段が複雑に入り組んだ
白壁の立派なものだった

一階の車庫の様なスペースに
その螺旋階段への入り口があり、その入り口と邸宅の壁との間に
僅かな隙間があった

わたしはそこに、女主人に隠してとても小さな野良猫の赤ちゃんを
かくまっていた

なので、女主人にバレはしないかとソワソワしていた

その女主人と一緒に、向かい合ってわたしは邸宅のバルコニーで
昼食をとっていた

っと、そのとき、一階の隠していた子猫が空腹を訴える様に
「にゃあ~~~~ん」と、なが~く伸ばした鳴き声を何度もたてた

「あ、まずい」と私は内心思って動揺した

女主人は、何も驚きもせず、食べかけの食事をおき
そっと自分の口をナプキンでぬぐい、しずしずと一階を見に降りていった

わたしもそそくさと一緒に降りていった


子猫をみつけた女主人は、わたしの勝手な隠し事であることを
すぐに見抜いていた

でも彼女は激することもなく、でも威厳を持って私に言った

  「この子にはこの子の運命というものがあるのよ」

   「さあ、このこを解放してきなさい」

この女主人の静かな言葉に、私は圧倒され、しょんぼりと子猫を
外に連れ出した

邸宅の外は、少し離れれば田園風景も空き地もふんだんにあったが
すぐ手前は、自動車もそこそこ通る車道であった

こんな小さな子をこんな所に放つことは出来ない

あまり別れを惜しむ時間はなかったが、その短い時間の中で
わたしは精一杯のことをして上げたかった

「別れる前に、おまえにせめて名前をつけてあげようね」

「お前の名前は『アサ』がいい!!」

周りを見渡すと、道路にプラスティックの白いハートが落ちていた
その白いハートに「名前はアサ」と念を刻み込み、ヒモだけの
簡単な首輪に、そのハートをくくりつけ、それをその子への餞別にした

いつかどこかで、この子とかならず元気で再会出来る!と信じて・・・・

そして天に向かって、その子を高々と差し上げた

   「すてきなアサだよ!」

   「かわいいアサだよ!」

   「神様、この子を!、この子の運命をお守り下さい!!」

そう祈りを捧げた

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

気が付いたら、51才の日本人のおっさんとして目が醒めた

でも、あまりにも生々しい夢で、夢であったと言うことを私の中の感覚は
強く拒否していた

わたしは、声を上げてベッドで泣いた

あの夢の続きには、戻る必要は無い
夢の中のわたしがそのあとどんな行動をとったのか?
そしてどんなに引き裂かれる様な思いで、その子を置き去りにしていったのか?

小さな身体で、自分よりも背の高い雑草をかいくぐりながら
自分の運命を探し求めて歩いて行く子猫が見える様だった

手に取る様にわかる

気が付いてみれば、その子猫の性別はおろか、
夢の中の自分の性別さえ不明だった

夢の舞台の国や時代さえも、わからなかった

ただ、わたし自身がかなり小さかった気がする

でも、  不思議なことに、今の自分とまったく違和感がない


いまの私は、便利な文明の利器に囲まれ、夢の中の女主人以上に
ある意味で豊かな生活をしているが、でも、不思議なぐらい
夢の中の私と、全然変わらない様な気もした

いや、  置き去りにしていった子猫とも、私はなにもかわらない

この世界は
広大で、巨大だが、

運命の力はそれ以上に
広大で巨大なのだと思う

そう信じていたから、わたしは女主人の言葉に素直に従ったのだ

そう、

女主人自身が、それを信じていたのだ!

だから、その女主人の言葉を、わたしは「正しい!」と直感出来たし
冷たいとも、厳しすぎるとも、感じなかったのだと思う

だからこそ、
その子猫を運命の大海原へ、素直に解き放つことが出来たのだ

私たち人間だって、
今この瞬間も、誰もが例外なく、
運命の大海原に漕ぎ出した小舟なのだ

あの、解き放たれた子猫こそは、わたし自身でもあったのだ

広大な世界n



エルサレム(エル・シャラーム=平安京)に入ることが出来るのは
平安の境地に達した者だけ

いや、本当は、そんな物理的な地域への入国許可みたいな話なのではなく
もともと、「境地」の問題なのだ・・・

「平安の境地」こそがエルサレムなのだ

イスラエル(水晶の国)建国にしてもそうだ
これはもともと地域紛争を起こすべき話ではなく
人の心の境地の問題だ

もしそれを
「場所の問題なのだ」という神がいるならば
あらゆる仮説を拒否しない私ではあるが、

「そんな神はどれ程正しい預言をしようが、
神ではない、言っても“邪神”に過ぎないだろう」

というのが
わたしのもっとも有力視する仮説となる

なのでわたしは宇野正美氏に「ノー」なのだ

多くの人が殺し合うことに間違いないアイディアを吹き込む神など
本当の神ではない

中東の三大宗教が奪い合っている特定の聖地というのは
象徴的メモリアルな場所だというのに過ぎない

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孤独や葛藤、焦り、快感、(薬物的な刺激と意味での)覚醒という、
「経験の強烈な味付け」追求に未練がある人は
それが未練が無くなるまで味わい尽くしてしまえばいい

それ以前ではダメだ

なぜなら、そういった未練がある人の平安の境地というのは
ニセモノだからだ

選民的な意味で「ダメだ」ではなく、ニセの平安ブリッ子をしていても
本人が辛いだけだからだ。

本人の望みの問題で、・・・
多くの人は、・・・

キリスト教的な奇跡のスーパーマン的な
救世主を望んでいたり・・・

あるいは

釈尊の様な達観と平安の境地を望みつつも、同時に
「そんなのは退屈だ」という分裂した願望をもっている

世界三大宗教の中では、個人崇拝を戒めたイスラム教がもっとも
健全なのではないだろうか?


昨日も岸先生と話してたんだけれど
結局の所、人生においてイニシエーション(=入道)とは
シンクロニスティーの発見に始まり
シンクロニスティーへの信頼で実る様に思う

シンクロニスティーの真意とは宇宙的な意図(仏性)の
手のひらの温もりのことであり・・・

その温もりの信頼さえ出来れば、
自分を単なる肉体だけのロボット的存在だなんて
思えないし、死なんてあり得ない。
そして、孤独も退屈も焦りも無意味になる
ドラッグも酒も煙草もギャンブルも癒やしも
気休めも気晴らしも・・・

必需品ではなくなる

孫悟空の「仏の手のひら」のエピソードは
私たちが想像している以上に
「自由の本質」を突いているのかも知れない


OSHOは「存在の詩」の冒頭でこういった
「それは体験なんていうモンじゃない」
「なぜなら、そこでは体験者が消えている(LOST)からだ」

この言葉はあまりにも美しすぎて
私はこの言葉に今日まで圧倒され続けた・・・

それゆえにこの言葉を乗り越えることが出来なかった

でも今夜、この言葉に私は異議を挟む

消えているのではない

はじめからいなかったのだ

私は空腹を覚えるかも知れない
肉体は何か食べたがっている
思考は今食べたいメニューを、
自分のいる現地、近い店、予算などをすべて把握して
夕飯をありつくのにふさわしい店を検索する

今夜は冷えるから、ジャンパーを着込む

鼻水が出たから 手ぬぐいで拭いた・・・

これらは、誰がやっている?

判らない・・・誰がやっているのか!

覚醒とは何か?

ぜ~んぶわかっちゃうスーパーマンになる事なのか?
いと高き天の雲の間から下界を見下ろす神のような
視界になる事なのか?

ならば私は覚醒から最も遠いところにいることになる


わたしは、自分が誰だか判らない

何故鼻水が出たのか?

寒いから?

そんなのは皮相的な説明に過ぎない

自分に起きている瞬間瞬間の事柄は何一つ判らずに走馬燈のように
通り過ぎていく

それらの体験者は・・・誰なのか?

さっぱり判らない

自分に何が起きているのか?

サッパリ判らない

すべては無意識だった

私に解ることは、
全てが無意識の許に起きている
   ・・・ただそれだけだ

私の視界は、まるでブラックホールのように深い
井戸の底に落下し続けていくようだ・・・

だって、わたしには何一つ見えない、判らないからだ

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でも、
<全てが無意識(=自動的)な営みの中に在ること>を
自覚すること・・・・
それこそが覚醒なのだとしたら???、わたしは覚醒の中にいる

あなたはわたしを
「何も判らないが故の」愚者であるとも
痴呆であるとも、
狂人であるとも、・・・

はたまた
「無知性を悟った知覚者」であるとも・・・・

          どれでも好きなように呼べばいい

私は、どう呼ばれようと構わないし、
さて、どう呼ばれるかだなんて重要なことではない
また、どう呼ばれるかだなんてわたし自身にもどうしようもないことだ・・・

  ただただ、わたしにはこれしか言えない

      「なんだこりゃ・・・?」

わたしのこの記述に、誰でもいくらかの同意ならしてくれるだろう

なぜなら、誰もが自分が全知全能でないことぐらいは自覚しているからだ

でも、
「自分は小さな存在だ」とまでは認められても
「自分は何も判ってなかった」とまでは認めたくはないだろう

未熟さは誰でも認めるが、
誰もが「自分は“無”だ」とまでは認められないし、認めたくはないし
またそうだと思うなら、それはあまりに耐えられないことだからだ

だれだって、大海の波間の間の小さな泡のように消えて飲まれていく
自分自身を想像したくなどないだろうから・・・  だから抵抗するだろう

 「自分は“無”ではないんだ!」

  「自分は小さい存在ではあるが、
   全く何も判っていないわけではないんだ!!」 

そうだ、確かにあなたは、社会人として今日まで生き延びてきた

立派にやってきた、苦労だって知っている
多少は専門的な知識や経験だって在るだろうし
それを生かしてプロフェッショナルとして
独立した仕事を持っているのかも知れない

そんなあなたに対して私如きが
「あなたは“無”だよ・・・」 などとは到底言い得ない・・・・

これはあくまでもわたしのプライベートな宣言だ

         「私はあまりにも何も知らない、
                    判っていない、
                     わたしは<無>だ」

でも、
「わたし」に比べれば確かに広大なこの社会、この世界であっても・・・
「わたし」に比べれば確かに誰もが私より優秀で、逞しく、知恵者であっても・・・

  違ったスケールから見れば、誰だって芥子粒とも変わらないだろう

「井の中の蛙(かわず)大海(たいかい)を知らず」
井戸の中のカエル


「されど天の高さ(天の深さ、空の青さ、海の深さ)を知る」
「されど天の高さ(天の深さ、空の青さ、海の深さ)を知る」080917e2


カエル曼荼羅


それほどまでに、この世界はクレージーなぐらい無限に広大なのだ・・・
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素粒子のようなとてつもないミクロから、
銀河や宇宙のようなとてつもないマクロの世界まで、
そのスケールの果ては、私たちには想像も付かないのだが、
でも、それさえも空想ではなく現実の話しなのだ・・・

私たちはあまりにも日常のスケールの中で埋没し
退屈しているから、そんな事を思い出しさえしないだろうが
でもそういう荒唐無稽な、多様なスケールの折り重なった宇宙に、
わたしたちが今日、いまこの瞬間も暮らしていることを考えるなら、・・・

  たかだか長くても百年の寿命の私たちが、
  この惑星に生活していて・・・
   ・・・そんな私たちに一体、何が「判っている」といえるのだろうか?

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