We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年07月

今朝夢を見た。

「おまえのことが心配だ心配だ」
と私を追いかけ回していた母が最後の最後に私と対峙した。

「ああ、死ぬ前にまた会うことが出来て良かった!」

「私はあなたに謝りたかったの!」

「おまえのことを追いかけ回してばかりいて、悪かったわ」

そこで私は何も言わずに、母が大切にしていた茶碗を
ものも言わずに目の前でたたき割った

「何をするのおまえ!私の大切な茶碗を!!!」

うろたえる母


「おかあさん、正体を現しましたね」

「あなたはすべての構造在るものにしがみついているのです」

「別に私への愛情に目覚めたわけじゃない」

「我が子を見失って改心した鬼子母神にあなたは喰われてしまえばいい」


私は無慈悲に言い放った

私と、私の肉体の母との間で、世界のすべてが始まり、すべてが終わった
もう作らなくていい

------------------------

この三次元世界の役割は終わる。

あるひとの望みが、最終的には “構造在るもの” に
とどまるのであれば、それは釈迦の言う「一切皆苦」という
言葉の中に留まる。

  そのひとの本質は、究極的には乞食だ。



愚か者よ、イエスの弟子達よ

おまえらの「いつ?」と言う質問に回答するほど
わたしはイエスのように優しくはないぞ

タテになる綾波

立ち去れ、出直すが良い

タテになる綾波2

人に「いつ?」と尋ねる愚かさ、どん欲さを悟った者達とだけ
私はこの先を共に歩む

シンジと綾波


理由はカンタンだ

いまここで悟りなさい

すべての構造在るもの、羅ミエルは滅ぶ

永遠の構造体など、一切ありはしないのだ。

ラミエルに命中


しかし、法は滅びない

ありとあらゆる構造
幾何学的な法則の制約を受け、
その構造は破壊されうるが、
幾何学的な法則(十字架)は永遠なのだ

なぜなら幾何学的な法則、
それ自体は一切の構造を持たないからだ。

世界が泥に帰しても、そこから幾何学的構図はまた蘇るのだ。


それを悟る為に我々、光はこの三次元空間を創造した。

惑星が生まれ、
そしてその中を うごめく生命が生まれた

それは、環境による多少の違いはあれ、
最終的にはヒューマノイド・タイプの大脳へと進化して
さらに効率的な探求、進化、捕食活動を続けようとした。

だがその過程で、文明が芽生えるならば
その過程では必ず幾何学が見いだされるだろう。
つまり、ある程度以上の進化をした生命体種族なら
そこにはかならずピタゴラスやユークリッドが誕生するはずだ。

生命の個々単体は空間の子宮の水槽の中、うたかたの夢のように
浮かんでは消えていくが、しかしそれでも有限体であるが故に
必死に無限=不老不死に戻ろうと、試行錯誤してもがく

その死にものぐるいの過程の中で、
知的生命体は三次元世界とその中でのボディーの必然的有限性と、
しかし、それらの全ての背景を貫き、司る法則の永遠性を見いだし、悟る

諸行無常
一切皆苦
諸法無我
涅槃寂静

「ああ、わたしは もともと これであった」と悟る時、
あらゆる生命体は恍惚の中に構造のない世界=涅槃へと回帰消滅する

これこれ千回もこれ―禅のまさに真髄 (OEJ books)
和尚
和尚エンタープライズジャパン
1993-06


そこで、
“吾は法なり”という言葉と共に “ I am = すべて ” が目を醒ますのである

“無”が、

“無”、それ自身の正体を、
自ら作り出した世界のなかで明瞭な自覚を得た瞬間、

                    なのだとも言い換えられる。


永遠の明晰さがそこにある。



30
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この三次元の役割は終わった。
でも、だからといって今日で世界が消滅する理由も必要性もない

役目を果たしたからと言って、即消滅する必然性はない。

  余暇を楽しむ、  と言うことがあっても良いじゃないか?


ひとよ

世界を終わらせた私を大悪魔と罵るが良い、こころゆくまで・・・・

黙示録

でも、さんざん泣きはらした後、帰ってくるが良い

ボディーを持った、無限と永遠の自由な存在者として・・・・

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! リトル・ブッダ「悟り」


通勤電車に揉まれる、またいつもの日常に戻ればよい

一緒に食べよう

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覚者と物理学者の対話 「時間の終焉」




死後の世界に関して、いくつかは確実に言えそうなことを列挙しよう


・・・・まず、脳みそは腐っちゃう、喉も舌もなくなっちゃうから、
       言葉は使えなくなる。しゃべれなくなる

・・・・ごはん、食べれなくなりま~す

   消化器官も、箸を持つ手もなくなっちゃうし、必要なくなるから

・・・・歩けなくなる

   やっぱ、足はなくなるでしょ?

   よく、幽霊には足がないというけれど、やっぱそうでしょうね

   ってか歩く必要ないじゃん?


  ・・・・つまり肉体が無くなると言うこと
     それって、三次元での“膨らみ(体積)”がある世界と
     オサラバするってことだ


      もし、死後にも生命がなにがしかの“存在”として残ったとしても、だ。


    この三次元でのアイデンティティーの中に生きているわたしたちにとっては
    イメージし難い世界観だけれど、肉体を去ると言うことは、物体としての
    属性を失うと言うことなのだから、手足や頭、胴体(内臓器官)を失うことも
    当然だ。

    そのかわり、無限のエネルギー体である可能性はある

    あらゆる可能性に満ちた無限のエネルギー体であるのならば
    「記憶」のような情報系や、判断能力系は死後も
    存続する、あるいはずっと存続していたという可能性は存在する...
   
“肉眼で三次元的にキャッチ出来るハードウエアー”が無くなるだけで...

     そして無限のエネルギー体であるならば、死後も頑固に人間の
     形態を忘れられず、生前の肉体の形状を再現したエネルギー体
     として、人間のカタチにこだわり続けると言うことも有り得る

     ・・・・人呼んで、それを「幽霊(つ~か、亡霊、つ~か)」という


     まあ、そんな「三次元への執着を手放せない頑固者」は、この際、
     放っておくとして、(おまいらさっさと成仏しろよ!)三次元のフォームを
     離れても尚、なにがしかの「存在」で有り得るのだろうか?

     「太さのない線」や「広さ、大きさがない点」などというものは
     この三次元などにあり得ない、・・・・・  それは言い切れると思う。

     だってこれは
     「三次元上に実体がないモノは三次元に存在しない」

       つまり単なる同義語、言い換えに過ぎないからだ。


ではそれ(三次元)以外の世界は有り得るか?っと尋ねられれば
わたしたちが今、たとえ知覚できなくても、存在する可能性は限りなく高い。

私たちは日常で野別幕無しに思考して悩んでいるわけではない。

ぽやーっと何も考えずに、ただ何となく平和で、ただ何となくハッピーな時間が
結構沢山ある。

これは私たちの両親、そのまた両親・・・つまりご先祖様が汗まみれ血まみれで
頑張って、物質的に豊かで、平和で、そのことに煩わされる時間から解放してくれた
賜(たまもの)なのだ。 (どんな王侯貴族でも、昔はクーラーも、冷蔵庫も、洗濯機も
無い生活をしていたのだから・・・・)


「心頭滅却すれば火もまた涼し」
聖☆おにいさん03_001

いや、現代の私たちは
「クーラーのリモコン、ポチれば熱帯夜も涼し」でおkおk!!

実はこれって非常にニルヴァーナの状態に近いわけで、もっとも高次な
意識状態な分けだ。     ・・・あり?  これって“瞑想状態”ってやつ???

     ただし、この“恍惚の意識状態”って、残念ながら
     記憶中枢を通らないから自覚しにくいのだ。

     私たちが自分の肉体のアイデンティティーを噛みしめられるのは
     メインが“苦痛”とか“集中、思考”状態、〝自覚的努力”の状態なのだ。

     それなら記憶中枢を刺激するので、つまりは“思考が自分だ”という
     なんとも不幸で古くさく、ケッタイなアイデンティティーだけが残る。


日常では“リラックス”している意識状態は意外に凄く多い。

“忘我”の状態の方が断然多い。

ただその感覚は持ち帰れない

なぜなら“持ち帰る人”がそこにいないからだ。
“忘我”=つまり自我が解体してしまった状態なのだから・・・

そして、そういう状態であることに不安を抱いてしまうからだ。
そういう状態に“罪悪感”を抱いているからだ。

人生のJOYとは、そういう状態に罪悪感を持たないお金持ち、
いわゆるセレブ(祝福された者達)だけの特権(本当はそうではないけど)
になっている。

ただし、そういう人達が永続的にそうなのか?と言えば、
そんな保証はない。

ひとたび、何かの運命のイタズラでそういうシエスタ(うたたね)の
ゆりかごから転げ落ちたら、それでも自力で戻れるのはこういう
法則を会得している人だけだ。

世界とはもうひとりの自分の姿なのだと判っている人だけ・・・

恵まれた状況をただ当たり前だと思っている人達が、ひとたび
転げ落ちた時は、いわゆる貧しい人達の状態とは比べものに
ならない程、目に余る惨めな状態になり得る。

金魚鉢から放り出された金魚が戻れる確率の問題だ。

ただし、自分自身で金魚鉢を作っているという自覚がある金魚ちゃん
だけは、金魚鉢にワープしてすぐ戻れる。


忘我の状態こそが、本当の自分の状態なのだ。
その証拠に、記憶はハッキリしていなくても、

    そこに意識があったことぐらいは
    私たちは覚えている。

この思い出しの作業は「いまここ」の体験とは言えないかも知れないが
少なくとも今の生活と、それをもたらしてくれた・・・
ご先祖様に対する感謝と祈りの瞬間である、とは言えるだろう。

恍惚状態とは何かというなら、つまりはあらゆるDimension(定義)を
忘れている状態だ。  つまり、“無”へと意識が帰還している基底状態だ。

悩んだり慌てているときというのは、意識に極太ゴチック体で何か書いて
いる状態だとも例えることが出来る。

ところが、デフォルト状態こそが、わたしたちの“素(ス)”の状態なので
その状態は、(文字が書かれた、あるいは何も書かれていない)
ホワイトボードの状態だと言える。

   ・・・この“ホワイトボード”を目撃しえるか?

これが瞑想とは何かという問いへの解答へとつながる。
これがパーフェクトな死(=生)の状態なのだ。

じゃあ、たとえばいまこのブログを読んでいる瞬間などの
いわゆる“通常意識”といわれている意識状態にあって
この「ホワイトボードはどこに消え失せているの?」と
あなたが問うとしたら、それは「デインジャラス・ポイント」に
触れる質問で、実はどこにも消えてはいない。

単に「ホワイトボードの上に自分で書いた文字」に
アイデンティティーを置いているから見失って
しまっているだけだ。

そして、その「文字を書いている自分」さえ、メカニズムなのだ
これ(思考)を別段止めたり咎める必要は、微塵もない

ホワイトボード自体はどこに逃げも隠れもしないのだから

ホワイトボードの深い恍惚(光)意識は、ちゃんと同時並行して
常に私たちの表面意識を見守っていてくれている

もし「何かすべき」ことを言うならば、この光である
本当の自分自身の存在を信じ、委ね、信頼することだけだよ
っと言いたい。

なぜなら、この「2人の自分」という分裂を起こしている
壁とは「恐怖感」だからだ。  ・・・だからそれを薄めていけば
その壁も錯覚として消えてゆく、

逆にこの壁を無理矢理急いで突破しようとするときは、
全世界から置き去りにされるような凄まじい恐怖を
味わうことになる(私の体験だけどね)

この、恍惚状態の中にあっては、

時間も空間も、(目の前にあっても)意識していない
消失している  ・・・ってことは

つまり・・・・   なんだなぁ・・・

わたしたちは、時間と空間の前から存在していた

                    という分けだな(笑)

つーか、時空間というのもディメンジョンなのだから、
FFD(freedom from dimension)=“無”である
わたしたちが時空間のクリエーターな分けだ。

そんなに時間に追われていない時間とかに、たとえば道ばたを
テクテク歩いていたとしよう・・・

すこし、いつもより意識的にゆっくり、のんびり気楽に歩いてみて下さい。
するとだんだん、なんとなく時空間が高速シャッターで書き換えられている
ような感じを捉えられるかもしれません。

その時、死もなく生もないです

ただただ、すべてが、  在る  状態です

つまりこれは、このブログにおつき合い下さったあなたが
Dimensionの外に抜け出しかかっている証拠なのです。

ユダヤは黄金の牛を拝み、牛を屠って神に捧げる。

イエスは誰かの罪を背負ったのではなく、法に殉じて十字架を背負った。
十字架とは、イエスが宇宙法則の中に我が身を捧げた象徴だ。



 これは、キリスト教の自己犠牲精神として悪用され、
自己否定感、自己存在への罪悪感、原罪思想とつながってしまっている。
「おさな児の様で在りなさい」というイエスの言葉への最大の冒涜である。

イエスの有名な言葉で「右の頬を打たれたら左の頬を、」ってのがあるが

MJ_THISISIT
この言葉も自己犠牲精神と関連づけられた言葉だ。

イエスの言わんとすることは、「レジスタンス・イス・フータリティー」である。



当時のローマ軍とユダヤとの緊張関係は、映画「ベン・ハー」にも
描かれているので、それをふまえて新約聖書を読むと、当時の
ユダヤ人達のせっぱ詰まった精神状態(それゆえボンクラばっかり)
を察することが出来る。

だからイエスの言葉は、その語りかけたユダヤの人々の心境を
加味して聞かなければいけない。

「抵抗しても意味はない」という表現が、いかにガンジー的な
無抵抗主義に近いか?それで判ると思う。

彼はその点、結構政治的な状況を計算に入れて話をせざるを得なかった。
ローマの圧政に対して「おまいらもちつけ」と言ったのだ。
そういう相手(対告衆)ではなければ、(平和的な状況だったら)
そんなことに束縛されずに、人々に語りかけただろう。

だから、決して宗教的な教えとして、「相手のなすがままにしなさい」とは
言ってない可能性があるが、もともと洗脳の為にファリサイ人達の演出した
人工宗教なのだから、なおさら“自己犠牲精神”と関連づけられた発言に
なってしまう。

これは、貨幣経済を牛耳っているユダヤ(ファリサイ人)にとって都合が良い。
つまり、「価値のあるものにはそれなりの対価を払え」という意味だ。

  ・・・キリスト教は、だから植民地化の為の先兵、斥候隊だった。
     キリスト教というのは、西欧の植民地収奪合戦の歴史においては
       まさしく「スパイ」であり、それにつづくのは

          「ダースヴェイダー=死の教典」、十字軍だ。

       わが国の歴史に於いては、信長の太鼓持ちのような
       宣教師たちのカッパみたいな頭の連中が記録されている

          織田信長

       イエズス会、フランシスコ・ザビエルなんかもスパイとして有名


その点イスラムの、
「おまえら、不当に奪われたものは徹底的に抗戦して奪え返せよ」
というアッラーの教え“ジハード”の方が小気味良い。

よくイスラムが好戦的だ、強制的な布教だと言われてきたが
植民地主義のキリスト教を押し返す意味も大きかったのでは
ないだろうか?

「神の前に人は皆平等」と謳い、一国の首相も、平民も横に並んで神に祈る。
アイドル(偶像)崇拝を非常に警戒している“カルト化”防止措置なのだ。
ウサマ・ビン・ラディン氏が、自分の顔をポスターにして部屋に貼っている
イスラム教徒を見たら、怒り狂って破り捨てるだろうと、友人の日本人ムスリムは
言っていた。

「私が殺されても、第二、第三のウサマが現れるだろう」

「わたし自身は、平凡な男に過ぎない」


この偶像崇拝を忌むイスラムの精神は、
イエスの精神ととても合致していると思う。

だから自分の干からびた姿の十字架を拝んでいる人々を見たら

「おまいら、なにやってんだよ?」っと、神殿の前の両替商の屋台を
ひっくり返した時の勢いで、叱りつけたことであろう。

だからこそ
    イスラムでは、ナザレのイエスを聖人として認めている


イエスは逆らわなかった。自分の運命に対してゲッセネマで祈った。
彼だって死に際して全く怖くないわけでは無かったし、
クギで撃たれ、脇腹を刺し貫かれる死を望んだウルトラ・マゾヒストな
わけでもない。 

※ 死の恐怖も、痛みも感じないような
   鈍感な人間の十字架なんぞには
    犠牲的な価値はないだろう?

だが、最終的には
「たとえ相手が悪魔であろうとも、、逆らわず、望みを叶えて上げなさい」
             ということは宇宙法則としても語ったのだろうと思う。

つまり、
「剣を用いるものは剣にて滅ぶ」
(本人の為したことが本人に戻る)というブーメラン法則の
完全適用の為に、である。

(一般コミック) [武論尊×原哲夫] 北斗の拳 08巻_08_118

結局のところ、ファリサイ律法学者の企みを知りながらも、かれらの
望み通りにさせてやったのだ。

(一般コミック) [武論尊×原哲夫] 北斗の拳 08巻_08_119

そのオチはもうそろそろ着くだろう。
「その時ユダヤ人達は泣き叫び、それが私の復活なのだ」
と預言されたわけだ。

(一般コミック) [武論尊×原哲夫] 北斗の拳 08巻_08_120

“彼ら”もそれを知った上で、
あえてそれを挑戦状として聖書から削除しなかった。

まあ、2000年間の壮大な時間をかけたブーメランだ。

(一般コミック) [武論尊×原哲夫] 北斗の拳 08巻_08_121

かれらが改心するかどうかは、これから判るだろうが、それにしても
人類全体が払った代償は、ちょっとおおき過ぎやしないだろうかね?
イエスちゃん?

まあ、
確かにイエスは別に誰かの罪を背負って磔になったわけではない

                だから

人類全体が2千年間も【個々人のブーメラン=カルマ】によって苦しみ続けた
のかもしれないけれど、・・・・?

先日の土曜の夜に瞑想していたときに、この
「何かを得ようとすることに伴う犠牲、代償」という観念が、
私の眼球の奥の強烈なくさびとして突き刺さってるイメージがあった。

それはもう、自分としては抜き去ることが出来たと思う。
いまだこんな古くさいモノが自分に残っていたとは・・・・
文字通りの「目から鱗」であった。

なので今回の記事となったわけである。


私でさえ出来たのだから、私の様な観念がまだ残っている多くの人々が
これからどんどん解放されていくと確信している。

個人単位から、国単位まで、ユダヤ貨幣経済が押し付ける
「犠牲、代償」という観念の請求書を、もう、破り捨てることになるだろう。

それによって失うのは、“信用”なわけなのだが、

        “信用”とは、“信頼”の代用品である。

これらはだんだん必要性を失っていくだろう。



メーソン自身が、
NWOの為に、人々の破滅の為に布教してきた、
「自由・平等・博愛(友愛)」が、こんどはNWOを
破滅に導く。

つまり、人と人とが、信頼の絆を取り戻しはじめるだろう。

人々は
(物質的、社会的、制度的ではない)こころの自由を発見し、
(物質的、社会的、制度的ではない)こころの平等=FAIRを理解し
偽善とか教条とか犠牲精神の許ではない、
   ※真ん中に真心があるこころからの受容性=「愛」
自然発生的な博愛精神に結ばれていく。

だから・・・・


東京:日出処の都

有楽町:嬉し嬉し世界

新橋:新世界の架け橋

浜松町:無限世界(太平洋)との入出待、待ち(松)合所

田町:Dimension(区分け)、マトリックス


※ 現在新駅が検討されている


品川:三つのタテヨコ(三次元空間)と時間の流れ

大崎:三次元世界での進化の行き止まり(エッジ、ジャンプ台)

五反田:動きの軌道(反物)、静と動、windowsロゴ、ペンダーシステム

目黒:肉体的視界(顕在意識「俺の目の黒い内は・・・・」)

    目黒、五反田、白金の三つは
    「スタープラチナ」(霊的な動体視力とパワーの両立)を意味する

恵比寿:物質的な世界(貨幣経済)の飽和(繁栄)

    代官山:ピラミッド(権力構造)の管理人、神官、エスタブリッシュメント

    中目黒:第三の目、無限遠点

渋谷:温故知新(思い出横丁とハチ公、109)、複雑な味わい深いものの合流点

原宿:敗戦と復興、マスコミによる集団洗脳(NHK)、原爆投下

   明治神宮=アカシック・レコードの修復

代々木:DNA (遺伝子、家系、「千代に八千代に」)

新宿:NWO ニューワールド・オーダー:ツインタワーの都庁、中央線、総武線と合流

新大久保:ニセ日本人(歌舞伎町・芸能人)による頽廃(窪地)、凶悪犯罪の温床(大久保清)
 高みに登るものあれば、窪地に落ちるものもあり・・・
 差異、差別、奴隷制度、敗者復活戦

高田馬場:決戦、第三新東京・・・  生物の適者生存、ヒエラルキーの争奪戦
 (ラミエル=幾何学構造体 VS ポジトロンライフル=シンジと綾波の信頼関係)
  (高田馬場は高台で景勝地だった。
 またやぶさめ=人馬一体の狙撃の訓練所でもあった)

目白:瞑想(メーソン)、無意識的世界、生と死との超越

  鬼子母神を奉る法明寺:構造在るもの=羅見えるは、シンジと綾波のポジトロンライフルに
        敗北する。 信頼という見えない絆があらゆる構造体に勝利する
        人の子を喰らう母:無情の世界へのどん欲な執着=破壊の女神


池袋:水の溜まった袋~水の惑星、地球

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何人かの人々から、・・・・

「自殺ってイケナイんですよね?」

っという質問を何度か受けたことがある。

基本は
だいたい以下の様に答えてきた

「“しちゃダメ”と宗教で禁止されるから
しないんじゃなくて、この人生をカルマに
支配された“罰ゲーム”と考えるか?
どうか?だとおもうね」

「もし、今の人生を
  “辛い” “糞ゲー” と思っても
  こんなの“無理ゲー”、ログアウトしたい!

                と、泣き叫んでも、・・・」

「それが

   自分自身で仕掛けたゲーム、

   自分は肉体意識の時には苦しむだろうけれど
      是非それをひっくり返したいゲーム

なのだと自分自身でプログラムしたのだとしたら、
自主的な“リタイア”の後に、霊界で
『うわっ、しまった』と思うんじゃないかな・・・・   ?」



エイブラハム・ヒックス~『最高に意味ある質問』


虫にぶつかったぐらいで
吠えズラかいて
自殺したがってんじゃねえぞ
バーロー

「そよ風と私」を楽しみに来たんだろうが?

“しちゃダメ”という何かの信条で自分を縛り付けて

   だからボクは自殺しないんだ!
    だから私はしょうがないから生きてるんだ!

な~~んてホザくのは、

肉体を準備してくれた
この宇宙、この地球、この国、この国の自然、
この肉体の先祖、両親、
愛してくれた人達
見守ってくれた人達
長寿と繁栄を祈っている存在全てに
唾を吐きかける態度じゃないんだろうか?

だから、今はこんな解答も面白いかも知れない

「自殺したって別にいいかも知れないけれど・・・」

「でももし、自分で望んで自殺するなら、せめて

一切の罪悪感抜きで、(トータルに) タップリ

断末魔の苦痛を楽しんで 味わい抜いて、

自殺するべきじゃないかなあ?」

「だって、折角、自分自身の念願が叶うんだろ・・・?

だったら人生の最後のビッグイベントをタップリ楽しまなきゃ
損だよ?」


それぐらい、舌なめずりして
 ウキウキと楽しみたいぐらいじゃなきゃ
  自殺とか・・・  やめとけよ と思う。


OSHOは言ってた

「動物たちのセックスしている時の顔を見てご覧」
「凄く悲しそうな顔をしているよ」
「セックスを“楽しむ”のは人間だけなんだよ」

OSHOは「秘境の心理学」でこうも言ってる
「人間は自殺を自分自身で検討し
 選択肢にしうるほど進化した生物なんだ」

だから、
「生きるべきか死ぬべきか?」なんていう最大事な問題を
他人の意見に影響させてしまうだなんて!
一体、どういう了見なんだろう?

そんな質問自体が、
「私には死の準備がまだ出来ていません」
「私は怖いです。どうしましょう?」
とすがりついて泣き叫んでいるようなモノなのだ。 

死の瞬間とは、
どれ程優しい人が手を握ってくれても
三途の川の向こうまでは
同伴してくれないもんなのだよ?

死とは、間違いなく
マスターベーションよりも、
とてつもなくプライベートな恍惚の瞬間だ・・・

それは、人生のラストシーン
       人生のクライマックスシーンだ。



食欲とは生存欲の一種だ。

睡眠欲も、 性欲も・・・

でも、
次世代に席を譲る為に
本能によってやむをえず
追い立てられて、悲しげに
セックスし、
エサに食いつき、
排泄する犬の様である必要は無い・・・

  ではなく

性欲を、
食欲を、
あらゆる欲を、
必要性を、

ブラブラ散歩すること、買い物すること、働くこと・・・

     呼吸すること・・・
     一杯の茶をすすること・・・

すべての生の営みを
   より瞑想的な、官能的な
     楽しみへ、悦びへと・・・・

転換可能な、生き物なのだ。   ・・・わたしたち人間は。

Joy 喜び (海外文学)
OSHO
角川書店
2013-10-01


だったら折角だから、苦しみも大いに楽しんでは
如何だろうか?  (皮肉で言ってるのではない)

もちろん、普通の感覚だったら
歓びは引き寄せ、
苦しみ悲しみは遠ざけるものだ。

              私も断然そっちが好きだ。

でも、どうしても回避出来ない苦しみは
いっそのこと、楽しんじゃえばいいのではないだろうか?

雨が降れば傘をさせばいい。
傘を持ってなければ買えばいい
傘が売ってないなら喫茶店なんかで雨宿りしても良い

スケジュールはちょっと違ってしまうけど
雨宿りしながら、眺める街の光景も素敵だ。



でも、雨宿りさえ出来ないような
原っぱのまっただ中で雨に降られたなら・・・もうギブアップだ

たとえ、銃弾の雨の中で蜂の巣にされてしまうのだとしても
う~~ん、それならそれで、貴重な体験じゃないか?

いっそのこと、雨に唄えばいい

人生で持ち帰ることが可能なものって、
宇宙で唯一、あなただけが体験した思い出だけなのだし・・・



関連動画にこんなのがあった

「座頭市ダンス - 日本のタップダンス」


江戸を開国し、明治時代の到来を促したのは
アメリカだった。

そしてそれは太平洋戦争という血まみれの
闘いを日米間にもたらした。

しかし、この「雨に唄えば」を見て思った。

日本は確かに酷いメにあった。
米国の国民も沢山傷ついただろう

そこからユダヤ問題へと話を分岐していくのも良いだろう

だけど、ここでは言いたい。

私たちは、アメリカからタップダンスを学んじゃないか?
ジャズも学んだじゃないか?

土砂降りの雨を笑顔で受け止めることをアメリカから
学んだじゃないか?



もし、ホンモノの江戸時代のちゃきちゃきの江戸っ子が
このダンスやジャズを見たら気に入ってくれるだろうか?

きっと、
「おう!俺たちの子孫もなかなかやるじゃねえか?」
っと、褒めて貰えるような気がするのだ。

勝海舟は咸臨丸で渡米し、アメリカの議会の視察をした。

その時、白熱した議論を交わす議員同士が、
休憩所では談笑しているのを見かけて眼を剥いたそうである。

「日本の議論ではあり得ない光景だ」と、
「意見の違いで決闘沙汰になりかねない」と、 感想を述べ
日本人の“了見の狭さ”を嘆いている。

幕末に勝海舟が訴えていた日本人の、
この“了見の狭さ”は、未だ根強いとは思う。

しかし反面、何者にも屈しない、しなやかさも
日本人は強く持つ・・・・

    ・・・・311は人工地震だ。

ロックフェラーが首謀者であろうこの巨大地震では
あまりに多くの人が惨い死に方をした。

    ・・・・でも、それはそれ、だ。

瓦礫から救出された、元日本軍兵士の老人は
爽やかな笑顔でカメラに言った。

   「また、やり直せば良いんですよ!」

苦しみを乗り越える。
悲しみを歓びに転換しちゃうのは、人類のみに可能な
偉大な挑戦だ。  だから自殺だって!!

和尚ネオタロット:48.Challenge
   挑戦
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私がギリシャ神話で一番好きな神は、何と言っても
断然、虹の女神イリス

イリスはギリシャ神話の虹の女神です

いつも人々の心に虹の架け橋をかけ、争いをなくし、
人々の心に希望を齎す心優しき仲裁の女神です。

あらぬ噂を立てられ、それに激怒したヘラからなじられ責められても、
ただ黙って微笑み、そして最後にそっと涙をこぼした彼女の涙が
輝く虹のようにヘラの心をとらえたので、ヘラを怒らせた神々の中で
唯一ヘラに許されたというエピソードがあります。
なお、映画「タクシードライバー」で主人公トラビスが
売春宿から救出した少女“アイリス”(ジョディーフォスター)とは
この“イリス”の英語読みで、エジプト神話ではイシスだ。
トラビス(ロバート・デニーロ)が、彼女に執拗に名前を聞き出す。
彼女はウンザリした様に「アイリス」と名乗る。
「アイリス!  なんだ良い名前じゃないか!?」と
彼女の名前を称賛するトラビスの表情が印象的だった。

ドラマ「この世の果て」でも三上博演じる高村士郎が、嫌がる
マリア(鈴木保奈美)に名前を聞き出すシーンがあるが、
wikiによると実はイリス神は聖母マリアとも関連して考えられて
いるそうだ。

つまりこの
映画「タクシードライバー」のシーンへのオマージュ
なのかも知れない

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「んな馬鹿な!」とあなたは言うかも知れない

「自殺したいほど思い詰めている人をからかっているのか?」
ってね

でも、わたしは、死を楽しみに転換出来ない最大の理由は
やはり罪悪感にあるのではないか?と睨んでいる。

罪悪感は、恐怖感を何倍にも増幅する。
恐怖感は痛みを何倍にも増幅する。

そして、それ程までに増幅された、想像もしたくないような
痛み、苦しみは、こんどは恐怖感にフィードバックされ、
恐怖感は増幅する。

そして恐怖感はますます。罪悪感を増幅させる。

果てしない無限ループ、悪循環である。


これを味わいながら、自殺するだなんて
そうとう凄まじい体験だろう。

俺はノーサンキューだけど

でも

“自殺志願のアナタ” は、別にい~~んじゃない?
殺したいほど自分を憎んでるのならば・・・
むしろ、気分爽快じゃない? 
そんなにも憎たらしい「自分」が苦しむことは?

それとも、

自殺そのものも
だれかに、何かに責任転嫁したいのかな?

「アイツが悪いから、世間が冷たいから
俺は “本心では” 死にたくないのに、自殺せざるを
得なかったんだー!」  って?

だとしたら、つまり自殺とは
“自殺志願のアナタ” にとっては
究極の責任転換、抗議手段なのかな?


時として、身体の一部に過ぎないはずの頭脳は
自分が身体の所有者なのだと錯覚して暴走する
そしてそれを証明しようとして、肉体を傷つけてみせる

食べ過ぎたり、断食したり
狂った味覚で変なものを拾い食いして
胃腸に迷惑をかける

脳はバカ、腸はかしこい
藤田 紘一郎
三五館
2012-10-20


頭脳は生そのものを見落として、
あとから付け加えられた価値観や美学、
信念、信条、見栄、こだわり、対人関係性、
希望と絶望の為に、肉体を消滅させようと
企んだりする。

たとえ自殺ではないにしても、私たちの肉体には
神経が通っている以上は、死に際して
肉体を痛み付けられたり、切り刻まれたりすれば痛い。

肉体(本能)がそれを恐れるのは自然なこと
だ。

神の径(みち)=つまり神様の通信経路と書いて“しんけい”である。

だからもしあなたが神の声を聞きたければ
最も簡単で日常的にハッキリしたチャネリング方法は、
肉体をいたぶることなのだ。

すると神(ハイヤーセルフ)は即座にハッキリ返答してくれる。

「あ、痛ててて・・・・、コラ!酷いじゃないか!」

「私が与えた大切な三次元スーツだぞ!大事にしろよ」


そう、だから人は痛みを感じているとき“生”を実感出来るのだ。

それは恍惚~エクスタシーよりもカンタンに、素早く、間違いなく
持続的に、確かな手応えで、神の声を聞き出せる手段なのだ。

でもそれは、肉体の消耗、破損と、・・・・
罪悪感や自己否定感、不安感をも増幅させうる諸刃の刃なのだ。

そして、痛みは如何なる麻薬よりも、カンタンに手に入る
常習性のある合法ドラッグだ。

OSHO_1

だから、だんだんそれは恒常化し、エスカレートしていく
肉体の崩壊も、ある段階を越えたところで加速していき
落下からの脱出が急速に難しくなる。

自尊心も蝕まれやすくなる。
最終的には、
神経体は肉体から離れざるを得なくなる

だから、こういう、「セルフ・サドマゾ・ショー」による
病気や怪我で死んでいく人とは

見かけ上(社会的に)は自殺とは言われない、見なされないけれど、

広義には自殺者なのだ。






ここまでおつき合い下さった方にプレゼントがあります

それは、「アカシック・レコードはどこに存在するのか?」である。

アカシック・レコードとは、あなた自身のことだ。

そして、あなたの宿っている肉体とは、DNAとは、
物理的に表現されたアカシックレコードであり、
骨格は、外部アカシックレコードと通信する為の
アンテナなのだ。あるいは音叉と言っても良い。

私のこの文章を読んで下さっていると言うことは
あなたの肉体は地球で今も活動中な分けだが
それが活動を停止したとしても
地上にあなたの骨が存在する以上は
アカシックライブラリーとしての違いは
RAM(書き換え可能)か?
ROM(アーカイブ)なのか?
    ・・・・の違いに過ぎない。

骨格は、あなたの肉体が無くなってもなお、
あなたがこの地球に存在したことを“証す”
物証であり
仏性なのだ。

だから先祖供養とか、墓相とかいうものが、
意外に、科学的であり、重要なのだって、ピンときましたか?

なぜ、ロスチャイルドが日本を羨ましがってるのか?
ご理解頂けましたか?


どうですか?

あなた自身がどれほど途方もない存在か?
その片鱗だけでも感じて貰えたでしょうか?

自己受容、自己尊重が、どれ程重要なことなのか?

わたしたちは、いつも眉毛をつり上げて前方に向かって
人差し指を突き出して、何か(カネ、権力、趣味、自己実現etc)を
探し回っているけれど、

全宇宙を光の速度で何万年探査して回っても、
あなた自身は見つからない。
    見つかるわけがない。



自己探求とは、探求(捕食行動)終焉なのだ。

自分の内面に向かって、たったひとりで
後ろ向きに倒れればいいだけなのだ。

和尚ネオタロット:
46.Serching,Seeking,Questing
   探すこと、求めること、探究すること
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46miner1_wands08


天上天下唯我独尊
全世界で、自分をもっとも知っているのは自分だけ

・・・すると、(誰であっても)わたしという意識
   それ自体が全宇宙のライブラリーなのだという結論に達する
   それ以外、あり得ない、それがアルファーであり、オメガなのだ

それはそのまま、即、全ての存在に対する絶対的な尊重へと連鎖する。

それが、ネットワーク・データバンク=ユニバーサル・ネットである。


まったく最悪感のない自殺をイメージしてみて欲しい

それが、霊界への入り口なのだ。

 


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