We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年07月

とどのつまりが
自我が何を探索しても
発見出来るのは“自我(の投影)”だけだ。



  それは

    “有限アリンコ君”が理解(捕食)出来る対象“X”は
             すべて“有限”だということだ


それが
 “THE SEARCH=探す”ということの決定的本質だ





占星術やタロットを習得していけば自ずと解ってくる

     “夢”が見つけられるのは
     “夢”だけだ


ルパン三世(1st) ED stereo 投稿者 dm_5006737fd65a7



       水に映る月をどこまで探しても
       もちろん実物の月を得ることなど決して出来ない

         それで得られるのは、どこまでも“月の映像”だけだ

その堂々巡り、それ自体がとてつもない
苦痛と狂気の世界(桶)に、自らを閉じ込めることになった。



しかし、
   桶の底が抜けた瞬間・・・・

    「桶狭間の戦い」  はこれにて終結する



バシャールは、「桶に映る月探し」を

「永遠に遊んでいられる素晴らしいこと」
  っと表現したが、

 私に多くの気付きを与えてくれ
   自分自身への「素直さ、率直さ、正直さ」の大切さを
    教えてくれた宇宙存在に、
     今の時点、この点ではわたしは彼らに同意出来ない

  最後の最後、彼らとは求めるものが違っていたのかもしれない・・・

和尚ネオタロット:46.Serching,Seeking,Questing
    探すこと、求めること、探究すること
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)
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 バシャール達は

  「わたしたちは自分たちで作った夢と知って、夢見続けることを選んだ」

               っと、言っている。

    その点で彼らもまたエンライトメントした存在なのだろうけれど・・・

  でも、そもそも、

チャネリングというのも、占いというのも
スピリチュアリズム、ニューエイジも
弟子とマスターと言う関係、
あらゆる交流会、ワークショップも
輪廻転生とか、ハイヤーセルフというコンセプトも・・・

   「桶の水に映る月探し」であること、
   法華経で言う「化城」「方便」であることは、まず間違いないだろう

   わたしたち地球人は、少なくとも一度は、
   このヘヴィーな夢から醒めて、「荷を降ろ」さないと
   個々人の精神的にも、文明社会としても、持ちそうにないからだ

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特に、私たち日本人は、ALONENESSを受け入れられずに
発狂しかかっている要素が強い。

天皇という心のよりどころを敗戦によって
絶対視することが出来なくなり、・・・

皮を剥かれたサルのように、・・・

・・・アリンコの様に「澱んだ空気の底」で、
しがみつき合い、
うなずき合い、
拘束し合い、
イジメ合い、
自己を見つめるよりも、
テレビ、ネット、スマフォ・ゲーム、仕事、酒、煙草、ギャンブル・・・に
自ら率先して中毒になり、精神的な病理が進行した社会なのだ

http://discovermeditation.com/wp-content/uploads/2012/10/bliss-e1347993614938.jpg

  その狂気の中から脱出したい私は

安達千代野さんがALONENESSの威厳の許において
 溶解してしていった 「無」 の中に、・・・
   
     ・・・私も、彼女を追って消滅することを望む

  だからその点では、恩人、バシャールとは
   歩む道が違うのかも知れない。

ALONENESSの無限抱擁という狂気の中に堕ちていく
それ以外に、「外を探し続ける」という狂気を終わらせる
方法がないのだから・・・・

つまり、この世界の
 すべて は、  狂気サイケデリクス)だったのだ
no title
(※『ジョジョの奇妙な冒険』に登場する
  東方仗助のスタンド・クレイジーダイヤモンド

あらゆるドラマ、悲喜劇はすべて無限の一点(ワンネスの中)に集約されるのだ

Kubrick // One-Point Perspective from kogonada on Vimeo.




    残るのは、その狂気に無意識に流され続けるか?
                   意識して楽しみ続けるか?

      その二者択一しか残されていない  ・・・いなかったのだ

「愛と風 AETOCAZE」

 (新しく開いた画面が何も表示されないかも知れませんが、
 画面の真ん中を右クリック、そのサブメニューで“再生”を選んでください )

一昨日、都留晃一氏の交流会でとても素敵な古参のサニヤシン、
シャンタンさんのご縁を戴いた。

私にとってはとてもエキサイトメントな出会いだったので
あまり交流会ではしゃべらないように自重するつもり
だったのに、ちょっとハメを外しすぎてしまった(笑)

この交流会の終盤、「太陽ではなく月の時代がくる」といった
話題になったので、堪らずに「ボクは無水無月の千代野さんが
めっちゃ好きなんですよ」と打ち明けた。

(数週間前の雲間の月夜、渋谷の井の頭通りから東急文化村に向かった通りにて撮影)

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シャンタンさんは、
「だったら千代野さんが悟りを開いた
 『底脱の井戸』がある鎌倉の海蔵寺
  尋ねてご覧なさい」と勧めて下さった。



私にとっては、もともと縁がある鎌倉だったので、是非行って
みたいと思った。

さて帰宅して、

何気なしに以前このブログでも貼った「ボサノバ風ナウシカ」を
聞き返した。

      ↓     ↓     ↓


何度聴いても、胸を締め付けられるような切ない感覚を覚える
このアレンジを耳に染みこませて、・・・

やっぱりこの夜も、いや、なんだか今まで以上に
涙をポタポタ流して、ベッドに横たわった。

すると間もなくとんでもない考えが頭に浮かんだ。

   ナウシカの切なく愛に溢れた物語
   (さらには彼女の物語は「地球少女アルジュナ」へ)

   真実を求めて美しい顔を
   男女の判別できないまでに焼いた千代野と

   そして、
   ギリシャ神話の虹の神イリス・・・聖母マリア

     この3人の伝説が、私の中で重なったのだ。

和尚ネオタロット:5.Ultimate Accident
  究極の事故 
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)

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「イリス素材一覧」より
http://homepage3.nifty.com/CrystalDragon/gazou48.html

http://homepage3.nifty.com/CrystalDragon/image1225.jpg

イリスはギリシャ神話の虹の女神です

いつも人々の心に虹の架け橋をかけ、争いをなくし、
人々の心に希望を齎す心優しき仲裁の女神です。

あらぬ噂を立てられ、それに激怒したヘラからなじられ責められても、
ただ黙って微笑み、そして最後にそっと涙をこぼした彼女の涙が
輝く虹のようにヘラの心をとらえたので、ヘラを怒らせた神々の中で
唯一ヘラに許されたというエピソードがあります。

天と地を繋ぐ愛のメッセンジャー
*虹の女神イリスについて☆

http://ameblo.jp/coco-ciel-444/entry-10943605974.html
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また、イリスという言葉は、瞳を含む
「眼球の角膜と水晶体の間にある輪状の薄い膜」
すなわち虹彩のことを表わすんだそうです。


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ナウシカは言うまでもなく架空の物語だが、実在の女性が
モデルになっていることを知る人は多いだろう。

なぜなら私の世代では、古文の授業で
太政大臣藤原宗輔の娘がモデルとされている
堤中納言物語の中の「虫愛づる姫君」を習ったからである。

また、
学生時代からフォーク・シンガーのイルカさんの大ファンだった私。
彼女も「虫愛づる姫君」と重なるし、・・・・

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            ・・・彼女とどことなく雰囲気が
ソックリだった私のグル(導師)、マ・プレム・アニマ・・・

(それもそのはず、2人とも角宿だったんだけどね)

彼女の名前「アニマ」とは
動物の世界の母性愛を意味する「アニマル」の語源である。


彼女が私の過去世をチャネリングしてくれた時、彼女はこう告げた

  「あなたは神に自分を捧げる為に、何度も何度も身を投じた」

これを聴いた瞬間、感じたやるせなさは、まさしく「ボサノバ風ナウシカ」
を聴いた時に感じる胸を締め付ける感覚、そして千代野が自らの顔を
焼いたという物語から受ける感覚と、あまりにも同じだった。

わたし自身は、極めて男性的なオトコだと自認していたし、いまもそうだ。

だけど、それは「嘆き」でもあった。

イエスの代わりに十字架を免れて命拾いしたバラバという盗賊の
気持ちがとても判る気がするのだ。

      ・・・途方もなく身の置き所のない
          どうしようもない様な感覚

わたしにとって、「オトコ」であること、そして男性の性欲とは
「罪」、「暴力」の感覚であった。

それゆえに母への体内回帰願望も強かったが、

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ところがどっこい実際の肉体の母は、
そういう「あたたかさ」「包容力」をまるで
持ち合わせていない人だった。


わたしにとっては、ナウシカとは聖母のイメージだし、そういうイメージを
持つ人は多いと思う。  しかし、私にとっては上記の様な意味合いで、
「母を求めて(一念)三千里」みたいなところが子供の頃から強かった。
(平たく言えばマザコンって事かな・・・)
http://www.3000ri.co.jp/3000ri/sites/default/files/jinnan1_0.jpg


この強烈な慈母への憧れが、その夜、一気に自分自身へと逆流したのだ!

      「俺のハイヤーセルフって、
       千代野さんじゃね???」


とてつもない感覚だった。

なぜなら、自分のハイヤーセルフが女性という仮説によって、
結婚生活を含めた、いままでの女性との関係を思い出して見ると
あまりに納得できることが多すぎるのだ。

わたしの関わりのあった女性は、あまりに男性恐怖症が多いのだ。
わたしに好意を持ってくれた女性は、例え既婚者であっても、
どこかに夫との関係に違和感がある女性が多かった

考えてみれば、その代表がなんのことはない、
私の母だった。

私はそんな女性に対する恋愛感情と言うよりは、同情のような感覚が
非常に強かった・・・  オレ、極めて男っぽいオトコなのに、なんで
レズっぽい感覚持つのか?  何とも不思議だった。

考えてみれば7月25日のアメーバ大喜利のボケで
「性同一性障害」
という言葉が私の前をよぎっていた。

このキチガイじみた思いつきを、「悟りとは一種の狂気だ」と話していた
シャンタンさんに、昨夜、早速ぶつけてみた。

彼はこう答えてくれた

「エンライトメントした人というのはもう受肉しないというのが定説なのだが
今の地球はあまりにイレギュラーな宇宙的な一大事の中にある」

「だからそういうこと(私のハイヤーセルフが千代野)も有り得るかも知れない」


たしかに「おまえなんぞが」と人は笑うかも知れない

それでもいい、どうせエンライトメントとは狂うことだから・・・

どうせ狂気に落ちるなら、素敵な夢を見て狂いたいじゃないか?


           さて・・・・

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これは私だけに取り憑いた個人的な狂気なんでしょうか?

自分のハイヤーセルフ、
自分の“本体”が、異性だなんて・・・

でも、スピ系の人なら聞いたことがあるでしょう
「アンドロギュノス(両性具有体)」のことを・・・

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つまり、神的な生物(完成度の高い生物)は両性具有なのだ

映画「オーゴッド」でも、ワンネスは以下の様に証言しているジャマイカ?

女にも成れる



私たちの遠い祖先も、単細胞だった時には性別はなかった
しかし、一旦性別が生じて、「男女の出会い」という
とてつもないギャンブルによって子孫を増やすという暴挙を
一旦踏み出してから、わたしたちは“死”という限界も受け入れ
その代償として“多様性”を手に入れた。

それがまた再び、男女の統合(ある意味では“回帰”)が起きた時、
わたしたちは単細胞生物だった時と同じ様に、“不老不死”となる
のだろうか?   ・・・その可能性はある

なんて恍惚に満ちた仮説だろうか?

もし私たちのハイヤーセルフが、もっとも理想的な、恋い焦がれるような
異性だったとしたなら?

だとしたら、そんな永遠の恋愛の陶酔の中で、
死んでいるヒマなどないだろう

だとしたら、OSHOの
「理想や目的を外に求めてはいけない」という言葉が、
いままでとは、また違った意味で聞こえてくる。

だとした、どうして
男、あるいは女のあなたのマスターベーションに
罪悪感を抱く必要があるだろうか?

ハイヤーセルフが、あなたのオナニーを悦んで、共に楽しんで
くれていたとしたならば???

もしあなたが男性ならば、あなたの神は女性なのかも知れない
あなたの目(意識)の奥に、もう1人の女性のあなたがいて、
あなたの男性としてのペニスの感覚を、女性として共に酔い
しれていてくれていたとしたならば?

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  ありったけの愛情を込めて、あなたの両手をとり
  自分の乳房に寄せて微笑んでくれる、もうひとりの
  女性のあなたが目の前に立つのを想像してみて欲しい

もしあなたが女性ならば、あなたが自分の女性器を味わっている瞬間
もう1人の男性のあなたが優しく抱擁し、激しく雄々しく求めてくれている
のを想像してみて欲しい?

         ・・・・なんてすばらしい瞬間だと思いませんか?

神とはあなたの理想の父であり、母であり、友として誰よりも
あなたの悲しみ、孤独、痛みを深く理解していてくれ、

・・・そして恋人として
  最高のセックスフレンドでも在るのかもしれないなんですよ?

クリスチャンであれば、口から泡を吹いて私をなじるだろう

「神が理想のセックスフレンドだと?」

「神を冒涜する上でこれ以上のヨタ話があるだろうか?」

ってね

まあですから、あくまでもエロ狂人の仮説、ということで
この記事を終わらせておきましょう(笑)



宮井陸郎 シャンタンさんのフェイスブックより
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1515503075330489&id=100006124325234

無限を思う

この三次元世界に“無限”は具象化されることはない

なぜなら
ビッグバン説
「世界は無限に小さな一点から爆発して出来た」という
仮説を前提として受け入れるなら三次元自体、空間自体が
始まりがあり、(そして終わりがある)“容れ物”だからだ。

有限の中に無限は決して収まらない。
収まるならば、それ自体が“有限”を意味するからだ。

    ところが

それが“存在”している場所がある。

私たちのこころのなかだ

もちろん、具象としてではないが、人間の思考能力は
抽象概念を受け入れることが出来る。

(つまり思考をアイデンティティーとするなら、“わたしたち”にとって)
その中でも最大の難物が“無限”であろう。

思考能力それ自体は、「頭から尻尾まで」を確認できるものしか
〝はい!理解出来ました”と宣言する」ことは出来ないからだ。

大きさの単位には、長さ、面積、体積、質量などがあるが、
例えば「無限」を海上の水平線上に存在する長さ=線で考えてみた場合、
(私たちの視界から見た)その左右の両端は遙か水平線の彼方に
消失して見えない。

   が   私たちにはその両端は見えないだけであって、
        視界から消失したその先にも存在していることを
         概念としては理解している。

「見えないからワカンネ」、     これ即ち主観性である
「見えないけれど有り得る」、    これ、即ち客観性である


もし宇宙に中心というものがあり、もしそこには「宇宙をまとめる」
巨大な質量、つまり重力が存在しているのなら、宇宙空間自体が
丸い、ないしは以下の様なカタチになっているのだろう。

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ご覧になれば判るように、ひょっとしてこの
トーラスモデルが“森羅万象の基本モデル”であることが
正しいのならば、

「ビッグバンは今この瞬間にも起きていて、いや、
起き続けているのかも知れない」

ということに気が付くだろう。

地球は宇宙全体に比べれば芥子粒のように小さいが
私たちにとっては充分に巨大な球体だ。

その地表上に立つ私たちが水平線を見ると、両端は
見えない。そして、まっすぐに伸ばしているつもりの
その両端は、本当は地球の重力によってゆがみ
地球の反対側で一体化しているのだ。



つまり、宇宙には、もともと始まりも終わりもないのかも
知れない。

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その“外側?”に何か絶対存在があるとしたら、それは???

もし、科学者が言う様に、ビッグバンが

   遠い過去に(ホワイトホールから)ドカンと起きた

とするなら、それは

   遠い未来にブラックホールに飲み込まれて

ついには終わることを意味している。

私が言いたいのは、

(観測者によって)
定義された事物は始まりと終わり、生と死があるが

(観測者が存在していない)
定義されていない世界には生も死も、
                  始まりも終わりもない

と言うことだ。


そしてその“定義する観測者”とは、何のことはない、
私たち脳みそ諸君だ。

もし、無限の静かなニルヴァーナの海、それ自体が

「俺(or 私)ってなんなの?」と疑問に思ったとしたら
そこから、「what I  am ?」という探求が始まり
ビッグバンが起きたという事になるかも知れない。

自己忘却である恍惚の光はそこから、
明晰さ(Dijital=量子ビット化)を求める探求の光へと変化し、
波動性は粒子性を帯びる

そしてそれは万有斥力と万有引力、エネルギーと物質という
より具象化された分離をもたらし、 空間という基本的な

           3 Dimemsion が生じた

              あり?

     これって私たちの意識がやってること
     そのものもじゃね?
 
哺乳類、類人猿という結論まで辿り着いた私たちの祖先は
でも、つい最近まで「喰いものを探す、生産する、奪い合う」という
事をやってきた。 その間ではたとえ数学や幾何学が生まれたとしても
それは専門分野に閉じ込められ、その重大性を考えるヒマがあったなら
スーパーで今夜の晩飯の買い出しに行くほうが“有意義”だったのだ。

   しかしやっとここまできた。

無限を思惟し続けたとき、怪しげな事態に出喰わす。
それは、思惟する者と無限とは別々ではないのでは?
っというヤバイ仮説だ。

思考が辿り着き、捕食できるものはすべて有限だ。
新装 ぼくを探しに
シェル・シルヴァスタイン
講談社
1979-04-12


思考が“無限”にかぶりついたとき、
アリンコがゾウにかぶりついたような
トラブルに直面する。

ついには、アリンコはギブアップする

   Out of range


かぶり付いた口をゆっくりとゆるめて、そこで考えあぐねる

「私が究極的にずっと探していたのはどうやら“これ”であった」

「でも捕食できない、巣と、そこで待つ
なかまたちに収穫物として持ち帰り、
シェアするのはどおやら無理みたいだ」

「どうもこのばかデカイ獲物は、“捕食”によっては
我がものに出来ない、・・・・

・・・・ずっと探していたもののハズなのに
一体これはどういうことだ??」

(アリンコって、つまり勤勉な日本人の象徴ね-笑)

そこでアリンコは瞑想し、自らを脱皮したとき
アリンコはゾウと一体化する。いや、もともと
このアリンコ君達とは、ゾウの意識の小型探査船、
エンタープライズ号(幽霊船)だったのだ

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つまり、

「ゾウが無数のアリンコを派遣して、
彼らをWEBカメラの目のように使い
そのカメラを通してゾウ自体を探していた」

            と言うのがオチだったわけだな。

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そして、第三の人種は
人生を
(呪いから祝福へと転換する)
挑戦と受け止める戦士だ

カルロス・カスタネダ「ドン・ファンの教え」
呪術師と私―ドン・ファンの教え
カルロス・カスタネダ
二見書房
1974-09-20

(以下のポスターは2013年の内容ですのでお気を付け下さい)
   ↓     ↓     ↓
OSHO_どこにでも祝福を見る者

追記:病気で足を切断することになった男性。
ユーモアあふれる乗り越え方に称賛の嵐

http://omorrow.jp/curation/article/40296888238788572




わたしは・・・・

物心ついた時には、もう、死への恐怖に取り憑かれていた
孤独と不安に際悩まされ、母の話だと叫び声をよく上げて
いたそうである。

その時の苦しみはある程度記憶にある。

性への目覚めが起きる小学生の頃より、
性の営みは、私にとって神話だった。

ふたりが、例え瞬間であっても重なり合い、
この冷たい世界で、肉体を共有できる瞬間があるだなんて
なんて素晴らしいことだろうか?

そんな瞬間を神話的瞬間と言わないで、
それ以外に、何と言えば良いんだろう?


でも、実際に異性を意識するようになった時、
私は立ちすくんだ。

“神話的”と感じていたこと、それ自体が
わたしのカルマ?
   ・・・・一種の性に対するブレーキも暗示していた。

両親に対して、受け入れて貰えていないような不安を
抱いていた私は、異性に対してはなおさらの畏怖を
感じざるを得なかった。

   ・・・それは今思えば、母の性に対する敵対意識が
     そのまま私に乗り移っていたと言うことだと思う。

まあ、原因はなんであれ、その畏怖は相手への深い尊重へと
結びつくならば本来悪いものではないのだが、実際は
それは私自身の存在への罪悪感と結びついて
私を異性へと向かう気持ちに強烈なブレーキとなった。


輝きに満ちているはずの思春期の多くは、だから
私にとってはカビの生えた独房のような気の遠くなるような
陰湿な時間の連鎖だった。


ある日、それら
“シリアス”なわたしの人生観は
“セクシャル”な笑いへと180度、大転換した。


その翌日、私は結婚する女性と出会った。

意識の変化が、如何に人生に劇的な変化をもたらすかを
身をもって体験した、途方もない奇跡の瞬間だった。



そしてその時を20年以上経過した今振り返って思う。

・・・わたしがもし子供を授かるならば、
   性の素晴らしさを真剣に子供に伝えて上げたいと

性を祈りにしたいと願った私の幼少時の、少なくとも
その次のステップから、わたしの子供には歩ませて上げたい。

シリアスである時、人は決してセクシャルではあり得ない
そして、セクシャルであることを自らに赦した時、
そこにはシリアスさが落とす陰湿な影は消えている。

http://www.officiallyjd.com/wp-content/uploads/2013/07/20130710_oyama_12.jpg


祈りは真剣なものではあっても、
それは深刻なものとは全く違う。

愛と笑いと恍惚が輝いている時、それが本当の祈りとなる。

そこには全面的な吾と汝との存在の同時肯定がある。


性に憧憬し、それを祈りとしたいと願った子供の頃の私は
“理論”としては半分正しかったが、実践に際しては、あまりに
(ガキのクセに、かわいげが無く)頭でっかちだった。

そこに気がつくのには長く苦しくストイックな煩悶の時間と
素晴らしい女性達、そしてOSHOとの出逢い、そして思索が必要だった。

キリスト教の宣教師(エヴァンジェリスト)だった2代前の前世において
蓄えられた“頭でっかちさ”が、今生における、まずは第一のハードルだった。

現在の私は、キリスト教にさまざまな矛盾や邪悪さを感じるが、
中でもその一番のタチの悪いドグマは、マリアの処女懐妊という点だと思う。

この背景には、性への攻撃、性を汚らわしいものと見なす邪悪さがある

なぜ、イエスが、ヨセフとマリアとの健全な性の営みによる光の誕生と
見なしてはいけないのか?

OSHOは、愛の錬金術に於いて、この処女懐妊説を
一種のメタファー(例え)として読み解いている。  ・・・・つまり

マリアが肉体的に性の経験があるとか無いとか言う前に
とても清らかな、無垢な心の持ち主だったのだろうとOSHOは言う。

http://www2.nkansai.ne.jp/sch/kayo-net/image/mustardseed-j.jpg
バグワン・シュリ・ラジニーシ
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性の経験によって、もし、女性が汚されると言うのなら
じゃあ、神だけがその特別な例外だというのだろうか?

  ある種の貞操観念は自然なものだと思うが、男性が非処女の
  女性を指さし、「中古女」と表現しているのを見かけるといたたまれない。

  あなたが男性で、もし愛する女性が他の男性を愛した経験があるならば
  なぜ、そのことに敬意を持てない?  ・・・「汚された」と感じるのか?

  ある女性と出会い、恋に落ちる時に、
  その女性の履歴書が必要なのだろうか?
  その女性の過去にした選択をなぜ尊重できない?

  あなたが愛する女性が選んだ男性なのならば、
  その彼もきっと素晴らしい男性だったに違いない。

  なぜ、性の体験で女性が穢れるのか?
  世の中で、あなただけが神であり清純な男性で、
  他全ての男性は穢れているとでもいうのだろうか?

  あなたも例外でないならば、つまりは女性を汚す
  男性とは全て、病原体と言うことになる

  意に反した強姦は例外だとしても、
  性によって汚されたと感じる女性もまた同じだ。

  もちろん真実の愛を問題視するのではなく
  「家系に穢らわしい女を加えたくない」という考えはあるだろう

  でもそうであるなら、完全に無菌室のような中で生活してきた
  女性の中から探すしかないだろう。

  外界の男性という病原が一切存在しない世界の女性の中から

  つまりは近親相姦だらけの純血種の世界な分けだが
  それはそれで、奇形や知恵遅れの温床になるだろう

  男と女の出会いには、確かに大きなリスクが伴う
  それゆえ慎重であることに異議はない

  しかし、そのリスクを回避しようとしても、その結果は
  種としての弱体化という、より確実な危険が待っている。

  出会いと性のシステムは、大きなチャレンジ、アドベンチャーを
  私たちに突きつけるが、それゆえに神聖であり、それは新生なのだ

  性をけがわらしいと見なす者達とは
  つまり、自分自身も含め、性によって誕生した
  全ての生命を穢れた存在と見なしていることになる

  つまり性の恍惚を神聖なものと見ず、
  全生命の存在を否定し、罪悪視することが
  聖母の処女懐妊ファンタジーの根幹なのだ


この観念も「天の父」がばらまいた害毒なのだろうか?

神にとってマリアとヨゼフは愛すべき子供達であるはずだ。
そのふたりが愛し合って、イエスが生まれる・・・

      それを神自らが “割って入った” =間男したというのか?

   だとすれば、神自らとマリアの両方が、律法を犯したことになる。

    すべてのクリスチャンに私はまじめに真剣に、問いただしたい。

    「本当の、本当に、おまえらはイエスが水の上を歩いただとか
     処女から生まれただとか、心の底から信じ切っているのか?」っと

    「本当に、一ミリの疑いもないのか?」  っと

          ああ、もっと簡単な問い正し方があるね

                      「あ~んちゅー くれいじー!???」


聖☆おにいさん03_007
聖☆おにいさん03_008



もし、神が人間に律法を授けたというならば、
その規範となるべきなのは、神自らであるべきじゃないだろうか?

この性への罪悪感と精神倒錯とで、
キリスト教社会は二千年間苦しんだのではないだろうか?
私の子供時代のように???

確かにイエスは神を「天の父」と呼んだのかも知れないが、
であれば、「地の父」ヨセフの立場はどうなる? 
神(パパ)に妻を寝取られた男は
どんな人生を送らなければいけないのだろうか?

さぞかし、マリアはいいオンナであっただろう。
(わたしには若き日の吉永小百合のようなイメージがある。)

そして彼ヨセフは、せっかくそんな白百合のような女性の
夫でありながら、「神のお手つき」となってしまった自分の妻と、
一体どう一緒に暮らしていけばいいのだ?

可哀想なヨセフ!

毎晩、目の前の可憐な妻をおかずにオナニーしながら、
自分を静め、賢者タイムになったら間男パパに祈りを捧げた
のだろうか?

こんな性的倒錯こそが、キリスト教の全ての狂気、倒錯、精神病理の
根底ではないだろうか?

ドラマ「華麗なる一族」とは、まさしくこのあたりが
テーマであったような気がする


きっと純粋なマリアほどの女性が嫁いだ男なのだからと思うと、わたしは
「十二人の怒れる男」の建築家である主人公、ヘンリーフォンダの姿と
大工のヨセフが重なって見える。

イエスほどの男が、そんな性的に不健全な夫婦の間に育った人物とは
到底思えない。  きっと父親ヨセフは公心のある勇敢な男であっただろう。
そして、息子に対しても愛情深い男であったに違いない。

そうでなくて、どうして全人類を愛せる男が育つだろうか?


そう、
確かにイエスは小さな家族の枠組みを超えた
無限大の愛を人々に示したかも知れないが、
それだってその根底(ルーツ)に、まずは両親の
愛情深さあってこそ、ではないだろうか?

聖☆おにいさん05_121
聖☆おにいさん05_122


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