We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年06月

“無”の定義というのは実に難題だった。

しかし、もし今回の私の仮説が正しいのだとしたら
これで一気に“神秘”と呼ばれている “コト” のほとんどが
説明可能になる・・・・


 無(ム)とは、....

英語のナッシング「何もない」、のではなく

     『全ての定義から解放された状態の名称』

である。




    まだ、誰も見ていないところで、誰も見たことのない花が
    今日もきっと地球のどこかでひっそりと咲いている

    それは、“無”の花・・・・  それこそが、最大の神秘じゃないだろうか?

  「すべての定義から解放された状態・・・それが 無 の定義」

        だとしたなら、パラドックスを使うことによってのみ
                  「無」とはやっと定義できるのだ。


 ・・・ こう見てみると、たしかに純粋に数学的な意味での数字の
    “ゼロ” とは、 “無” と非常に似ている。

d544a106.jpg



















OSHOは私が知る限り、二回、無の定義について
以下の様に返答している。

「無、とは“ナッシング(何も存在しない)”じゃない、
          “ノーシング(事物ではない)”だよ」

現代のドイツ人禅師、エックハルト・トールも
(彼がOSHO読者なのかどうかは知らないが)
全く同じ返答をしているのを見かけた。

人類史上、この“無”という言葉は
体積や質量などがナッシングであるという解釈を受けてきた。

メートル単位で距離を表現するX軸を想定してみよう

1m~2m~3m~....

これを延長してゆくのではなく、逆にゆっくりと原点に近づけていってみよう

たとえば分数を用いて

1/2m( =50cm)~ 1/3m(33.3cm)~ 1/4m(25cm)~~

こうして分母をどんどん大きくしていけばどんどんゼロに近づく
さてそしてそれが1/∞mとなった場合....

とうぜんそれは限りなく限りなく“小さく”なる

それは≒ゼロ(メートルの原点)となる。

だからゼロとはその延長線上にあり、
だから私たちはその極微なるものが、遂には消滅した状態をゼロなのだと考えてきた。

「無」というのも、それに同じく「何もない」状態だと思ってきたのは当然だった。

ところが、ゼロというのは、例えば1と3との間が「2」である様な、単純な通過点
ではない。

   どれ程、微小であっても、
        超・極微量であろうとも、
           「有」と「無」とでは、
      「量的(物量的)」には無視し得るものであれ、
      「質的(エネルギー的)」には決定的な違いがある。

そこでは極性が変化する・・・・プラスからマイナス、マイナスからプラスへと・・・

たとえばリンゴの個数であれば、3個、2個、1個と減らしていく

そして0個となったあと、じゃあ次の-1個、-2個とは何か?といえば
自然界では“不足”を意味する。  ・・・つまり“借りとくね”というわけだ。

お金だともっと分かりやすい、つまり借金だ。

つまり、0個とは貸し借りないニュートラルな状態を意味する。

もし、1個、10個、百個、・・・と余剰な状態であれば、

「これ、リンゴ余ってるんだけれどミンナで食べて下さい」っとお裾分けしたり

市場で売ってお金に換えるとかするかもしれない。

どこかに腐らない様にストックするのかも知れない。

ジャムにしたりとか・・・


とにかく、「余分」であるということは、なにがしかのアクションを意味する
      「不足」であることも、なにがしかの困窮を意味する。

つまり、ゼロ=ニュートラルとは、単に何もないのではなく
「リンゴに関して何も問題が(過不足が)ない」という意味なのだ。

「リンゴ」にかんして「話題にする必要もなく、議論の対象でもない状態」
それがゼロ、ニュートラルの意味するところだ。


リンゴをカウントする為の軸線上とは、当然「リンゴを問題とした世界」だが
ゼロという特異点においては、それが消失しているのだ

その軸線上であるにもかかわらず・・・・


a242ff04.jpg
















     バシッ!・・・まっくろくろすけ死亡(TωT)



これは、ありとあらゆるパラメーターにも共通する。

それが何かの果物の個数であれ、長さや面積や重量の単位であれ

そのカウントの原点=ゼロにおいては「それが話題にも問題にもなっていない」
状態を意味する

ゼロとは、あらゆる単位(定義)が消失した点なのだ。

わたしたち日本人にとって、水や空気や平和は“無”に等しい。

でもそれは“何もない”という事ではなく、“意識しないで済んでいる”と言う意味だ。

中国の大気汚染やら、尖閣騒ぎによって、はっとする

当たり前の健康的な環境や平和のありがたさを・・・

「意識せずに済む」ということは、ありがたいことなのだ
それは「あって当たり前」であり、それは「無限の信頼」を意味する。

金魚たちの金魚鉢の環境に対する、「無限の依存」を意味する



逆の見方をすれば、ゼロとはありとあらゆるパラメーターに顔を出すことが出来る。

ゼロとは
あらゆる定義の“排除”なのではなく、
あらゆる定義の根底であり、基底であり
それでいて、
あらゆる定義からの自由であり、
あらゆる定義の解放である。


中空を飛ぶコマ・・・・  それは完全バランスの象徴だ!


あるときはリンゴの個数であり、
あるときは長さの単位であり、 
またあるときはエネルギーの単位である。


ここで見渡してもらいたい

あれを、これを、それを・・・・

すべてのものは、いろいろな角度、視点、価値観から定義することで
千差万別の様相を持っている・・・・

     ・・・・そう、

       「無」とは“何か”の不在なのではなく
      存在事物、森羅万象全てのバックボーンなのだ



     ・・・・そう、

        もう気がついたと思うけれど
        「無」とは「無限」なのだ。

  たとえば、「円(or 球)の中心から円周に向かって引ける半径を表す
         直線は何本引けるか?」

  答えは、「無数にある」となる。


  つまり、この場合の“無”とは、
        「一本もない」と言う意味ではなく
        「定義不能」を意味する。
        円周は点によって分割不能なので
        円の中心から無限に直線が引ける。

        「カウントは不能だ」という意味で「無数」なのだ。 

          点、線、面、体積・・・  次元の違うもの同士で
           比較したり、分割したりというのは「不能」だ

            だから単に「無い」のではなく「無理性」に、無の本質がある。
torsionanimated

追記:  OSHOの「存在の詩」の中に
         「“無”から与える」という言葉がある。

      また、同じく「存在の詩」の中に
         「本当の恋人同士とは“無”と“無”との出会いだ」というのもある。

      どちらも、素敵な言葉だと思う

      そしてふと思うのは、イエスが5千人分のパンを出したという逸話だけれど
      なぜイエスほどの人が、そんな馬鹿げた手品まがいのことをしたのか?
      疑問だったけれど、これもまた“無”から与えることのメタファーかもしれない

      つまり、「人はパンのみにでなく、神の言葉で生きる」という言葉と
      強く連携したエピソードとして考えれば、
      「神の言葉=“無”=“無限(の滋養)”」を暗喩しているのかも知れない

      「水の上を歩いた」みたいな奇跡話も、“無”の静寂性、絶妙なバランス性
      のメタファーとしてとらえれば、イエスが俗悪な手品師ではなかった
      と言うことになる






「天の父よ、この者達をお許し下さい」

「彼らは自分が今何をしようとしているのか?その自覚がないのです」



殺されること、命を差し出すことを同意したものがいて

その同意通り殺すものがいたとしたならば・・・・??


双方の同意に基づいた殺人を、殺人事件と呼べるだろうか?

たとえば強盗殺人とかであれば、私たちの目に見える動機は
“奪い取る”という、明瞭なエゴによるものだから、これは
「何て酷い殺人だ! 極悪非道な、エゴの暴走だ!」

っといって裁くことが出来る。

じゃあたとえば、安楽死とそれをサポートしたものとは?

限りなく、自殺と他殺との境界線が曖昧な事例である。


「殺してくれ」っと癌の末期に苦しみもがく男に、その家族が
見るに見かねてモルヒネを打ち続け、もし癌ではなく、その
モルヒネのショックにより死に至った場合は????

これは自殺?他殺?


自殺と他殺との境界線が明瞭に見える例も山ほど有るだろう

戦場で出会った敵同士の兵。

双方が相手に銃を構えたとき、瞬間、相手がたとえば
まだあどけない青年だったとか?

銃口の向こうのおっさんが、自分の恩師とソックリの優しそうな
男であったら?

・・・・瞬間躊躇った方の兵士が、相手が発する銃弾に、脳天を
   ぶち抜かれるかも知れない・・・・

   でも、かすれゆく意識の中で、彼はこう思うかも知れない

    「ああ、良かった、あんな人を殺さずに済んだ!」



これほどまでに、命のやり取りというものは荘厳なものなのである。

ここにおいて、善とか悪とか、加害者とか被害者という言葉は色を失う。


そう、  命のやり取りにおいて、
      私たちは一体何が分かっているというのだろうか?

だから、  イエスは言った。  「この者達は分かっていないのです」


この世界のありとあらゆるゲームにおいて
実際のところ起きているのは何か?  ・・・実は誰も知らない

                        ・・・・だから誰も何も裁けない


イエスの脇腹を刺したロンギヌスは、その返り血によって目を癒されたという。

それは、全人類に向かってイエスが「誰も罪人ではない」と言っているのだ

「この者達は何をやっているのか?自覚がないのです」

この言葉は、すべての人々に、いつか覚醒が訪れることへの預言だ

それは無限の信頼であり、それは信頼に基づく永遠の沈黙だ。



で、


じゃあ、わたしたちは、「やったぜ!俺たち無罪!!」と喜んでいていいのか??

「イエス様が全人類の罪を背負って下さったのだ!!!」

  そうくるんかい??ちゃうやろ?

わたしが裁判官だったら、せっかちだからいっちゃうけれど

John de Lancie starring as Q in Star Trek: The Next Generation in 1987. De Lancie is best known for his portrayal of the iconic, all-powerful Q, a recurring character on Star Trek: The Next Generation. Q is one of few characters appearing in multiple shows of the Star Trek franchise.

あんたね・・・  誰にも裁かれないって、スゲー怖いことなんよ?

罪を咎められないって言うことはね
あなたが「金魚鉢の中の夢見る金魚ちゃん」だからなのよ!?


一般的な社会は、あなたが殺人を犯したら単純に裁く

社会は機械的にしかものが見えない。
起きたことに対して何か制裁しないと、社会は気が済まないからね


もしあなたが、無理心中しようとして一家を皆殺しにして
自分だけが生き残ったのなら・・・   親切にも、社会は
あなたを死刑にしてくれるだろう。

そのときあなたが死刑になったとしても、そんなことは
小さな小さな、ささやかな社会からの復讐に過ぎない。

人々の家族制度に対する愛着を傷つけたことに対する
ささやかな制裁だ。

実際に、あなたや、家族に、そこでどんなドラマが展開したのか?
知るものは居ないだろう。

でも社会は物知り顔で裁く。

でも本質的な裁きは誰にも出来ない。

本当に、起きたことは何なのか?
あなた本人さえ知らない、いや、知らされない

そういう意味では、その時あなたはイエスの代わりに無罪放免になった
バラバのような立場になる。

罪を犯した自覚があるのに、無罪放免になったバラバ。

放逐され、磔を逃れた彼は、一体どうしたらいい?

自分自身の罪を自分で背負えなかったバラバは、
自分という存在のとてつもない“軽さ”をどうすればいいのだ?


自殺したいと思うほどの、存在の“重さ”。

何をしでかしても、
罪の重さを知る事も背負うことも出来ない、存在の“軽さ”。


どちらも、  人間の脳を持たされた金魚鉢の中の憐れな金魚が
        電極を埋め込まれて見せられる悪夢なのだ。


               汝それなり


そしてこんな可哀想な実験を、ゲームを始めた残酷な奴が居る  ・・・・
        白衣のにやけた科学者

                汝それなり


その双方が消失するポイント・・・・   それがエンライトメントだ

いま、私が自殺とは何か?と尋ねられたら

「殺人の一種ですね」とまず解答するだろう

だから、自殺に自己犠牲的なイメージを投影しているお馬鹿がいたならば

「じゃあんた、自分の家族も、愛するペットも皆殺しにしてから自殺しなさいよ」と
そそのかすかも知れない


キリスト教というのは、ファリサイ人たちの着ぐるみ宗教なので
罪悪感(自己否定感)と自己犠牲的な聖人のイメージをばらまいた。

これらの観念に拘束された人々を支配するのは実に容易いからだ


しかし、かれらは人々を支配するのが目的なので
これらの自己否定感と自己犠牲意識に取り憑かれた人達が
自殺へと殺到してもらっては困るのだ。

・・・・支配すべき人達が、みんな自殺して、居なくなってしまうから

支配の要諦は「活かさず、殺さず」である。


自己否定感とは、もっとも愛に反するものであるとバシャヤンは喝破したが
自己否定感、自己犠牲感という狂気の美学に十字架の元で酔いしれる人々は、
同時に生き地獄を味わうことになる。

それゆえにキリスト教では生き地獄からの逃亡である自殺を強く戒めた。

「活かさず、殺さず」である。


もし、ひとりの父親が、その自意識の重みに耐えきれずに
私の言うとおり、家族を殺しはじめたとしよう

妻や子供達は「お父さん、何をするの!やめて!」と泣き叫びながら
血だまりの中で息を引き取っていくだろう

でも、もし、  本当にその家族達が潜在意識的に、パパに殺されることを
同意していなければ、そのパパの凶刃から逃れることが出来ただろう。


この世で起きていることは深いレベルではすべて、
当事者同士の同意で起きていることだからだ


ペットの動物たちは、何時も準備が出来ている

なぜなら彼らは腹をむき出しにして飼い主に愛撫を求めるからだ。

彼らは知ってしまったのだ。

動物にとって腹を差し出すというのは、「どうぞ殺して下さって結構です」
という服従の印だが、ペットの動物たちは、自分たちの生存本能よりも
あるじに命を差し出すことの快感を、知ってしまったのだ。


これら、家族もペットも皆殺しにしてみて、パパは初めて気がつくだろう

これらの命は、みな差し出されたものであることを

命を差し出すと言うことは、実は気持ちの良いものなのだ

なぜなら、それは自殺ではないからだ

もう、バトンタッチされた命は、「託された」ものだ。

自我を託すというチャンスは全生涯においてなかなか無いものである。



家族全員の命を引き受けることが、ある意味ではパパの責任なのだから
その意味ではもれなく皆殺しにするべきである

殺すこと、  という本質とは、命を引き受けることなのだ。


そして、もし無事にもれなく家族を皆殺しにしたら
いよいよ、残虐のクライマックス、パパの自殺である


自殺というのは、
「いつ、どこで、どんな風に死ぬのか自分で決めたい」
ということである

つまりは、エゴによるコントロールの極限である。

だから、自殺によって唯一死なないものがある

それはエゴだ。  それは確実なのだ。

この世で唯一、エゴだけは自殺が出来ないのだ

自分のボディーは殺せる

自分のボディーさえ、ある意味では借り物だからだ。

でも、実はエゴはそれをよく知っている。

「自分の肉体さえ、自分の運命さえ、自分はコントロール出来ない」

それは、エゴにとって最大の恐怖だ。屈辱だ。


だから、殺す。

この肉体を殺す。運命をコントロールする。


始めから終わりまで


このドラマはエゴで始まり、エゴで終わる

すべてはエゴだった。

自己犠牲も、自己否定も、  それはエゴの否定の様でいながら
自他のコントロールも、社会の改善もそれは最大のエゴのトリップだ。


血の海の中、もし最後にそれに気がつくならば
パパは泣き叫び、自殺を止めるだろう

家族の分まで生きる為に
捧げられた全ての命の為に



この世界には自己を持った人などいない

私自身をひっくるめて、人間という種族がこの地球を席巻しているだけだ

シャーリーマクレーンは、自ら主演した映画
「アウト・オン・ア・リム」で、海に向かって叫んだ。

   『 アイ ・ アム ・ ゴッド !! 』



宇野正美氏は講演で言っていた。

『中東紛争を解決し、ヨーロッパを統一した人物が言うだろう・・・
  -- アイ ・ アム ・ ゴッド !!-- っと』

『そう叫んだ人物こそが666の獣だと黙示録では語られている』


  だから、 シャーリーマクレーンが映画の中でとはいえ
  こんな発言をすることが如何に勇気が必要だったのか? 想像を絶する。



          --- わたしたちは、 間違える。  ・・・選択をミスる。


そして縮こまる・・・・  「ああ、私は何て限界だらけなんだろうか?」っと

だから日々確信を募らせる・・・・  「吾が神だなんて・・・ とんでもない」

でもわたしは敢えて言いたい。


   「それで(限界だらけ、欠陥だらけで)、いいのだ!!」



多くの人が、ニルヴァーナ(絶対的な安らぎ)を目指している。

でも、わたしたちはそこから旅立ったのだ。自分たちの希望によって・・・・

だから、この旅は未知へのジャーニー(流離い)ではなく、
涅槃への帰郷の旅なのだ。

そこにおいて、我らは惑う、間違える、手探りする・・・

   ・・・・それで、いいのだ!!

      “無限”であることを忘却して、“無”となり、そして“有”となることを
      自ら望み、無限者であることを思い出す帰郷への旅を
      私たちは何億年も苦しみ~~楽しんできたのだから・・・・

ありとあらゆることが“舞台装置”であった。

   ・・・・・・「エグザイル」が「マチガエル」為の、・・・・・

旧約聖書は警告した

「おまいらは、ミンナ罪の子だっちゃ!」

「ユメ夢、 おまいらちっぽけな人間共よ
   - I am GOD -とかほざくんじゃねえぞ!」

「そんな奴はエンガチョだかんな!!」

「なお、聖書をぜってー疑うなよ!預言とか当たりまくりだからさ!!」

「この聖書の言葉であるヤハヴェこそわたしこそが唯一の神だかんな!」

「疑う奴ら、みんな死刑な!!」

  ・・・・なんともはや、ガチガチのプロテクトをかけたものじゃないか?

      ・・・・ これもまた、  敢えて目覚めにくくする為に
          私たちが生まれてくる際に仕組んだ“舞台装置”である。

   絶対にあり得ない可能性・・・・  そこにゴールがある。


 この「超ハードモード」の覚醒の旅を解く鍵こそが

    「アイン(無)=0」と「アイン・ソフ(無限)=00」とが
                      一体であると言うことだ。

無知、無力、無能と、全知全能とが、まさかコインのウラオモテだなんて
五井野正くんもビックリではないか?


「小我と大我」という“比較級”で「わたしと神(ハイヤーセルフ)」とを捉えようとすると
気の遠くなる様な長く苦しい巡礼の旅しかあり得ない。


 自意識の愚かさ、我が身の小ささに恐れおののいていたのでは
 この無限につづく苦行の旅以外には、選択肢がない

   “比較級”には救済などあり得ないのだ!!


わたしたちは、日々間違える。
  わたしたちは、日常の一挙手一投足が
   躓き、よろめき、うろたえながら、正解を手探りする盲人だ。

でも、そのことで自己卑下したり、 自己憐憫に陥ったり、 絶望したり・・・・

・・・・それは一見謙虚な様でいて、実は宇宙大の傲慢なのだ!!

    だって、  「わたしとすべてのすべて」とを比較するだなんて!!!!!

                 でしょ?  宇宙大のフーリッシュ・シングスだ(爆)


「小我」なんていじくり回さないことだ・・・・  もっと徹しなさい!

                「無我」へ   ・・・・と


   比較してご覧?  あなたと、芋虫やみみずとを・・・・
       人間のあなたに見つかって逃げ惑うゴキブリと、あなた自身とを・・・・

         「比較出来ない!」と気がついて、爆笑がこみ上げてきたならば
         あなたはエンライトメントしちゃったのだ!!


「己の小ささ」も、「エゴが犯す間違い」も、それによる「いじけ根性」や「絶望」も

    「痛み」も、「悲しみ、別離」も、 「貧困」も、 「自己卑下」も、
    「正しさ」「正当性」、「罪悪感」、「優越感、劣等感」への偏執も、

 すべてはロールプレイング「ドラゴンクエスト」の為の自己プログラムだったとすると?

  ・・・え?  「そうじゃないかもしれないじゃん?」  って?

    いや、 「その可能性、その疑いがある」  だけで、実は充分なのだ!!!

    なぜなら  「それ以外の可能性」とは、
           無限につづくゴルゴダの丘への受難の道しかないからだ

 いま、地球には「キリスト教の道」か? 「それ以外の道」か?
     究極的にはその二者択一しかないのだ。

     どちらを選んでも、それはあなたの自由だ。

     無限の苦役か?  今この瞬間の救済か?

  現在の地球にはどんな宗教、どんな思想の中にも
      キリスト教的な「自己否定」「原罪思想」が混入している
       一見キリスト教と全く無関係な思想体系においてすら、っだ


    それさえ選択しなければ
      それ以外の道は、すべて

         「自己責任による選択のバリエーション」

                       に、過ぎない


   で、あれば、わたしたちは
       自分自身の無知・無力・無能・お馬鹿さを、笑える、。

     ・・・・失敗を、限界を、おおいに楽しめる!

       まったくキリスト教的な深刻さを持ち込まずに人生をエンジョイ出来る。


   で、あれば、あなたが「アイアム・ゴッド」を自覚するのに、
                           もうそんなに時間はかからない


実は「わたし」なんて、どこにもなかったのだ!!

ぜーーーーーんぶ、プログラムじゃないか?  あぁ~~ん?



あなたのくしゃみさえ・・・・  勘違いさえ、  空腹さえ、  スケベ心さえ・・・

           見てご覧?   そうでしょ???

深刻さなんて、一体どこに必要あるかい_?

もはや、「小我と大我」のパラダイムも、「羊と羊飼い」のパラダイムも、




   そのとき、あなたは  “無”  を自覚する

   するとすぐさま、    “無限”  を感じる


   そして、全知全能者が、 無知無能にも成れる
                          と言うことに驚いたとき

   あなたは  アイン・ソフ・アウル=000 “無限光” とは何かを知るだろう


このページのトップヘ