We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年04月

その2  映画「ジャッジ・ドレッド」と妙法蓮華鏡



天使のような悪魔、悪魔のような天使....

日月神示で語られ、
「デビルマン」で語られた黙示録のテーマだ。

黙示録

その、同じモチーフが新・ジャッジドレッドにも登場する。

メガシティー

核戦争で荒廃した近未来都市で、社会秩序を死守しようとする者達は
裁判制度を極限まで簡略化してしまう。

陪審員、判事、そして(犯行の現場での死刑を含めた)刑の執行、
これらは「ジャッジ」に委ねられた。

....この物語の主人公「 ドレッド 」は、この、あまりにも
    「重たい正義」を担うひとりの警察官であり...

ドレッドとママ

街を裏で牛耳る麻薬組織の女ボス、「ママ」との対決が迫っていた。

  彼女の商品は「スローモー」と呼ばれていた。
    この世界がゆっくりと官能的に美しく感じられる体験とは、
     まさしく “インスタント・変性意識” である。

 ほとんど地獄の鬼のような権限をもった正義の執行者、
  --- 兜をかぶって都を統率する兜率陀天(トゥシター、都率天)   と

 誰の魂をもとろけさせ、虜にしてしまうような天界的魅力を販売する悪魔。
  --- ヤクザたちを魔性の力で従える夜摩天(ヤーマー)        との闘い

       この物語には、 理知的な、FAIRの代弁者のような
                    ヘンリーフォンダの出番はない。

                 天使のような悪魔にせよ、
                  悪魔のような天使にせよ、

      双方が唯一相まみえる接点とは、「FEAR(=恐怖と暴力の応酬)」のみなのだ。


この、救いがどこにも見あたらない様な状況に、  ---第三の存在が登場する。

それが、「ジャッジ」として認められるか?認められないかの瀬戸際にいる新人、
アンダーソンだ。

アンダーソン

核戦争による放射能の影響なのか? 彼女の両親は癌で死亡、
彼女自身はテレパス=精神感応能力をもったミュータントとして生き延びた。

その特異能力ゆえ、僅かに及第点に達しないことを惜しみ、ジャッジのアカデミーは
ドレッドに、現場での彼女の最終適性テストを依頼する。



  物質には三態有る   ...個体、液体、気体

さしずめ例えるならば、
岩石のような信条で任務を遂行していくドレッドは「固体」であり、
犯罪の温床となっている「ピーチ・ツリー(桃源郷?)」という名の摩天楼の
高層階に陣取るママは「気体」の世界の住人なのだろう。

易経「天地否」のように、天はどこまでも高く、地はどこまでも重く、...

....単純な衝突と成るはずだったドレッドとママとの対決は
「液体」のようなアンダーソンの能力によって変容してくる。

  そもそも、天使と悪魔、だの 正義と悪、だの、 ....

   ...世界の実体も、人間の精神も
       そんなにキッパリとシロクロ分けられるモノではない。

だから、
  実を言うならば、ドレッドが勝ったにせよ、ママが勝ったにせよ
  この核汚染の泥沼の世界の中で喘いでいる人々に、本当の救済は来ないのだ。

                     ....どちらかのFEARが支配するだけのことだ。


アンダーソンは、ドレッドの監督指導の許に、凄惨な現場と直面し、こころを痛めながらも
ひとつずつ ドレッドとともに困難な状況をかいくぐりながら <彼女なりの> ジャッジ 
(っというか、ソリューション=打開策)を出していく。

「このカワイイ顔をした新人が、どこで音を上げるかな?」っと見下している感のあった
ドレッドの微妙な変化もこの映画の見所だ。   ....ドレッドも、見ているわたしたちも
彼女の美貌ゆえ、ついつい忘れてしまうのが、彼女は「こう言う場所で育ってきました」という
筋金入りのタフな精神の持ち主だということだ。



   ...彼女は放射能で汚染された「呪われた沼地」を
                むしろ、  養分として吸収し、成長してきた。

                 まるで『風の谷のナウシカ』の世界のように....

       核戦争の ...「大焦熱地獄の呪い」を原子転換し、
                  浄化する為に自然の妙が使わした
                     「可憐で逞しい蓮の華」  ...の様ではないか?



和尚ネオタロット:38.変容 
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)

38major_01


前記事「FAIR(公心)か? FEAR(恐れ)か? その1」では、
わたしは
「心眼、第三の目とは特異能力なのではない」っと書いたけれど
彼女のテレパシー能力というのも、単に “ミュータント(特異体質)” だから
備わった超能力、っと言う風には思いたくない。

そもそもテレパシー=精神感応というのは「他人の思考をカンニング出来るということではない」
っと、バシャールも言っていた。

「それは相手の気持ちに寄り添っていく事で起こる自然な共鳴現象だ」っというような
説明をバシャールはしていたと思う。  つまり原理的にはチャネリングとよく似ている。

これは法華経で言うところの「他化自在天」のことではないだろうか?

わたしも、こういったチャネリング能力や心眼開発に興味を持つ人とは沢山出会ってきた。

ところが、そのほとんどはそれを “超” 能力として憧れている為、
実際は、人一倍他人への理解や思いやりに欠けている人が多かった気がする。

              ...つまり、カンニングしたい人達、ズルをしたい人達なのだ。
                  選ばれた人間、特別な能力によって特別な人種になりたい人達...
                      しかも、   その自分の狡猾さに対する自覚がない人達...


 でも、実際に (わたしから見て)驚くべき、不思議な力を

              安定して発揮していた 「注目すべき人々」 と出会ってみると、
           まず思慮深く、根気強く、謙虚さと鋭い知性の持ち主であり、
           高潔さというか、「徳」というべき品性を感じた。
          そして他人に対する鋭い観察眼、感受性、思いやりを兼ね備えた人たちだった。

       そう、 結局は「12人の怒れる男」主人公とそっくりの地道さと謙虚さを強く持っていた。

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          アンダーソンという名前は「アンダースタンド=理解」という言葉を連想する。
            ※ そういえばマトリックスの主人公もアンダーソンだった!

   泥の中から出た蓮の開花だけに見とれて、憧れを持つ人達の気持ちも判らなくはないが、
   その花が、どれほどまで地下深く、広く、 ネットワークの根をはっているのか?
  その点をイメージすらせずに、べっちーチャンの言葉に飛びついても、
 はたしてモノになるのだろうか?

                             その辺の疑問は投げかけておきたいと思う

※ 以下、wikiより転載

その1、映画「12人の怒れる男(1957) 」

ニコニコでの紹介文より
既に法廷劇の代名詞となって久しい、アメリカ映画史に輝く傑作ドラマ。元々は高い評価を受けたTV作品で、その脚本・演出コンビによる映画版だが、そのい かにもTV向­きの密室劇を上手くスクリーンに転化させた手腕は見事の一言。17歳の少年が起こした殺人事件に関する陪審員の討論が始まったが、誰が見て も有罪と思えたその状況下で、ひとりの陪審員が無罪を主張した事から物語は動き始める……。

1/3 [洋画] 死刑求刑が無罪になったと聞いてうpしますた(1957字幕).

2/3 [洋画] 死刑求刑が無罪になったと聞いてうpしますた(1957字幕)

3/3 [洋画] 死刑求刑が無罪になったと聞いてうpしますた(1957字幕)

べっちーちゃん (苫米地英人氏・以後べっちーちゃんということでヨロシク) が
多用していらっしゃる心理学用語、「ストコーマ(盲点)を外す重要性」って、
この映画のことですね?解ります!(*・ω・)(*-ω-)うんうん

主人公のヘンリーフォンダが扮する建築家は、水瓶座的な役割。
ひとりの少年を裁く上で、ありとあらゆる可能性の見落としがないか?ストコーマが無いか?
  それを真剣に検討することが、わたしたち12人の使命ではないか?っと他の11人に反逆する。

それを受けて一人の老人が加勢する。 彼は魚座的な役割。
 そしてこの老人がこの映画の最後にも決め手となるストコーマを発見をする。

このふたりにあくまでも対立する(有罪)の立場でありながらも、主人公に匹敵するほど
冷静な態度で議論を身のあるものにしていくメガネの紳士は、たぶん山羊座的な役割

父親殺しの容疑被疑者の青年に対し、おのれの親子関係を投影して憎しみを募らせ
最後まで頑強に有罪を言い張る男は、まあ、獅子座さん(のお役目)と見て間違いなさそう。

   山本リンダじゃないけれど、「もうどおにもとまらない」んでしょうねえ・・・こう言う人って・・・


12という数字は、イエスの弟子の人数であり、占星術の12サインであり、時計の12でもある
そして法華経の12因縁論をも連想する。 

 12とは堂々巡り、カルマの数字。時間という迷宮。
原因と結果が自分の尻尾を咥えるウロボノスのヘビのようにぐるりと一周してしまう。

つまり、360度の全方位のFAIRな視点で見ると、結果はゼロになる。(360度=原点回帰)

人は人を、安易に裁くことは出来ない それが無知の知であり、人知の限界である。


もちろん短絡的な視点で限定的な価値判断に委ねるならば、白黒はさっさとつくだろう。

そうして、わたしたちは犯罪者(であろう)人々を縛り首にしてきた。 電気椅子で焼き殺してきた。
社会的正義の名の下で、  法と秩序の権威の元で・・・・

その隠れた本質はバビロニアのハムラビ法典「眼には眼を、歯には歯を」の精神。
つまり、イコールの精神だ。  でもこれを精神と呼べるのか?、  たんなる
「公式の復讐」である。  命のない機械的な、物理的な作用と反作用の法則を
人間の営みに当てはめてみたした~~というわけだ。


まあ、人間社会なんて、そう言う点ではまだまだ野蛮なのだ。 やむを得ないところもあるだろう。
被害者の家族の心情を思えば、・・・・  なるほどそうかもしれない。

ただ、ひとつだけ注文を付けるなら、
そんな「被害者の心情」や「復讐心」を真のひとの精神と呼んでいいのだろうか?
それは人間の心理作用とは呼べるが、本当に万物の霊長?に宿る宇宙的な「こころ」とよべるのか?

宇野正美氏から言わせれば、「そんな女々しい事を言って、世の中の“秩序”はどうなってしまうのだ?」
っと言うお叱りになるかも知れない。

へそ曲がりの不可知論者?  左翼的な人権主義者?  単なる弱腰?  無責任な優柔不断?

映画の中で主人公も、自分たちが本当に起きた事実に反する結果に辿り着いてしまうかも
知れない危険性を認めている。

「私たちは、ひょっとしたらひとりの犯罪者をみすみす野に放つことになるかも知れない・・・」


   でも、  決定的な証拠も無しに「疑わしきを罰する」社会を容認したならば・・・・?

   じゃあ、  有罪は確定であったとしても、その刑量は、本当に適切なのか?

悲しいことに、私たちのほとんどは心眼が開いていない。

オモテに現れたモノしか見えない。裁きの結果しか求めない。
原因を掘り下げていく忍耐強さも、相手の立場になって観察していく愛情深さも無いのだ。

   ※ 心眼(第三の眼)とは、超能力でも霊視能力でもない
      単に曇り無い目で、辛抱つよく、ひたむきに見つめていくことで、
       おのずと行間が見えてくる、背景が浮かんでくると言うことなのだ。

それゆえに、本当の原因の原因が何か見えず、ついにはそれを追求することさえ面倒くさくなり
ついつい、眼に見える “スカッとした結果” を追い求めてしまう。  それでぐっすり眠って忘れてしまう。



 「だれかこの女を石打にする罪なき者はいるか?」

マリアをかばってイエスは群集の中のひとりひとりに石を突きつけた。

これが13人目の男である。

13人目の男とは、群集から一線を引いた独立個人だ。
死に神を背中に背負った男だ。


群集は往々にして、暴徒であり、無責任だ。
でも、個人として責任を問われると逃げ出す。

かれらはモーゼの様な指導者は歓迎する。  紅海を分けるようなスペクタクルは大好きだ。

でも帰ったら、羊を数え、眠り、忘れる。

そして、個人であることを思い出させるようなイエスの様な男は、嫌いだ。
自分たちの罪をぜ~~んぶおっかぶせて、十字架に掛け、そして、
自分たちが安眠出来る為の宗教といういけにえの祭壇に彼を祭り上げ、安心する。

人々の覚醒を促そうとしたイエスは、皮肉なことにこの二千年間、
西欧社会の睡眠薬、罪悪感という魂の毒薬と、その痛み止めとして使われてきた。


    ああ、確かに私もいつかは死ぬ。でもイエス様が守ってくれれば
    それはきっと明日じゃないよ!  だから安心して眠ろう。


だから、今日も人々は法廷の傍聴席に座る。  知的好奇心で、......
「イエス様を信仰するわれらは、常に神と共に裁く側で~す!」....っというわけだ。



911のあと、

グラウンドゼロの前で、神と共にあるアメリカ人達はイスラムへの復讐を誓った。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」という言葉は、・・・まあどっかに置いておいて、

グラウンドゼロ、それは新しいパールハーバーだ。

実際、その地がなぜゼロと名付けられたかと言えば、
ここから無限に復讐してやるという意味だ。 

もしそこで失われた人命が問題ならば、その地はゼロではないはずだ。

つまり、倒壊したWTCという建物 (権威、富、繁栄の象徴) が無くなったことに対する
ゼロを意味する。    .......聖書の民であるはずなのに、.......

かれらはなぜあのタワーがバベルの塔だったと気がつかなかったのか?

   ・・・・これぞ、まさしく都合の悪いものが見えない、スコトーマだ。

貴様等こそ悪魔だ

もし、
ゼロが、  ニュートラルを意味するならば、
解決した   “チャラになった” ことを意味するならば、
日本人の犠牲者も含めた911の多くの犠牲者は成仏出来る。

本当の意味でのグラウンドゼロとは、全てが終わった場所であり、
そして新生の場所のハズだ。

そこには花々が咲き乱れ、そこから人々の笑いとダンスと歌が溢れてくるはずだ。

違う、彼らが名付けたグラウンドゼロとは、無限の復讐、無限の憎しみ。
罪なきイラク人を10万人以上血祭りに上げてなお、三歩歩けば、そんなことは忘れて、
まだ虚しい、血のあがないが欲しいと言う意味のゼロなのだ。



「12人の怒れる男 」
もう、この様な、公心を訴える映画を、アメリカが作ることはないのだろうか?

  変性意識とは何かと言えば、
いわゆる「逝っちゃってる状態」だと言えば通じるだろうか?

だから、死を目前に感じたときの
“人生が走馬燈のように駆け巡る” 状態もそうだし、
性的な絶頂のアタマが真っ白な状態もそうだと言える

もっとも深い変性意識とは「自我の消滅している状態」だとも言える

いわば究極の快楽だろう


そしてこれは深い深いリラックス状態だ



  では、「深いリラックス」はどうしたら得られるだろうか?

   それは「いまここに現在進行形でいることを自分自身に赦す」事で得られる。

        「いまここのなかに、完全に没入する」ことだと言える

つまりは  ☆ 深いリラックスを求める  こととは
       ☆ 深い瞑想状態の中に入る  のと、ほぼ同義だといえる。

ところが、ここでひとつのパラドックス(ジレンマ)とぶつかることになる。

つまり、「---を求める」  「---を探す」  という、
               まさしくそのこと自体が緊張をもたらすと言うことだ。

大概の物事、目的の達成は < 集中 > によって得られる

ところが、< リラックス > とは、 まさしく < 集中 > の反対だからだ。

たとえば何かの習得であるとか、その多くは、“自己の価値、能力を高める” 為の努力だ。

それは、「いまここの自分ではない」  「もっと価値のある自分」 へ辿り着く為の努力だ。


つまり、「いまここ」の否定こそが努力の正体なので、
あらゆる努力によって、この世で唯一得られないのが、

           ----リラックス----

                 っというパラドックス(皮肉)に誰もがぶつかる。

頑張ればガンバルほど、遠のく...   これがリラックスであり、変性意識だ。


 多くの人が、人生の価値とは何か?  自分の価値とは何か?  悩んだ経験があるだろう。

  でも、あらゆる欲望が望む最終目標は、快楽原則から言えば「変性意識」、
                                つまり「自我からの解放」である。


ところが、この件に関して言えば、わたしたち日本人は実に有利な立場にある。

なぜかと言えば、大和の国というのは変性意識の「ゆるやかさ」を大切にした国だからだ

古くは「ヤマト」とは「倭」と書いた。
これは、wikiによれば「桜」と書いたこともあるそうだ。

もうすっかり桜が散った頃ではあるが、
桜吹雪とはまさしく現世で肉眼で見られる変性意識の状態、そのままである。

そのピンク色とは、情熱の赤と、穢れ無き白との混合色であり、つまりは初恋の色だ。


シンイチ「さっきまで傍らにいた命が、ふと見たら死んでいた」
     「そんなときなんで、悲しくなるんだろう」

ミギー「それは人間がこころにゆとりがあるからさ」
    「でも、それは素晴らしいことじゃないか?」



      命を愛でる意識、それはある種の「ゆとり」が必要だ。

物質文明は、必ずしも自然破壊だけではなく、このゆとりをももたらしてくれた。
その点では、自然回帰だけが変性意識への鍵だとは言えない。


今この瞬間に辿り着くまでの、すべてのすべての営みが、重要なピースとなっている
ことを発見出来るならば、無駄なものは何一つ無いことを理解出来る。

そして、変性意識とはわたしたちが一度も体験したことのない未知の意識状態なのではない。
日常の中の底辺に常に流れている意識状態なのだ。

...特に日本の文化には、日本人には、その底流の「たゆやかな意識」は強い。


    変性意識は、  リラックスは、  「ゆとり」は、
                                 日常の中に有る。

単にそれに、気付き、 身をゆだねる...  それだけで、

           “すべてが実現した”  -矢的=ヤマト-の世界
                             時間を超越した世界が広がる。

エヘイエ・アシェル・エヘイエ

アイアム・ザッツ・アイアム

わたしはこのブログのはじめに、この言葉を
「フォーカスしたものがわたしである」と訳した。

でも、じゃあ、もしあなたの瞳が何もフォーカスしていなかったならば?

そもそも、フォーカス=焦点とは抽出である。
世界は無限に広がっているのにも関わらず、わたしやあなたは、常に何かを
抽出して生きている。

何か特定のものを選び、つまり価値付けしている。

もしこの「価値付け」の作業を、わたしたちの意識が止めたのならば、どうなるだろうか?

その時、意識は無限に向かって拡散する。

その意識状態のあなたやわたしは、「Who are You?」と尋ねられたら何と答えるだろうか?

たぶん、「I am....   that...  」  そのあと、何も答えられないだろう。

でも、  その“解答不能”な恍惚状態こそが、....正解(YES)なのではないだろうか?



オレが誰だか知ってるか?
誰が言ったか知らないが
oh. 誰に言ったか知らないが
俺の名はアンディさ
カウボーイのハートをもつ男

誰のことだか知らないが
oh. 誰に聞いたか忘れたが
気絶しそう その色気に
ビコーズそれは鏡の中の僕

眠れない夜もあるさ (ロンリーナイト)
ちょっと昼寝しすぎただけだけど (ロンリーデイ)
お前をネバー忘れやしない
ところでお前は誰。フーアーユー?

「キミの瞳の中に映る....  ボクに!乾杯!!」

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