We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年03月



OSHO

「神にはこの世界をお造りになった究極の目的があるのだろうか?」

あるわけがない。

なぜなら、この「究極の目的」が提示されたなら、即、その目的に対して、
「ではなぜ、その様な目的を神はお持ちになったのか?」っという質問を
くっつけることが可能だからだ....

なぜ?...なぜ?...なぜ?...

そう、いたちごっこだ!!

物質の根底を支える、究極物質はあるのか?...ん?  ヒッグス粒子???

〝粒子〟????   では体積と質量があるんだね?

ではそのヒッグス粒子の体積と質量は、一体何で構成されているの?

なぜ?...なぜ?...なぜ?...

そう、またもやいたちごっこだ!!

つまり〝底なし〟である。

だからもし、〝根底〟を求めるのならば、微分するのでも、積分するのでもなく、
「それ、そのもの」を答えとせざるを得ない....

  つまり「I am that I am」だ!

もしここからひとたび、また探求の旅をはじめれば、果てしない〝底なし〟の旅と成るだろう。

だから、「在る」ものは、ただただ、そこに  ...「在る」。

それ以外、一体何が宣言出来るというのだ!?

そもそも、一体何を宣言する必要があるというのだ!?



    ....ただしかし.....

この〝究極の旅〟から、    もし?生きて帰ってこれたとき、
その旅とは、けっして無意味ではないと...   私は思う   ...思いたい。

それが「アナッタ」の意味なのだと思う

OSHO

動物たちは天国にいる。かれらは常に天国の住民(無我)だ。

だがしかし、彼らにはそれ以外の選択肢がない・・・・・
  それゆえに彼らにはエンライトメントの可能性がないのだ。

わたしたち人間、人間だけが、この世を地獄だと錯覚出来る。
だが、それゆえに私たちにはエンライトメントの可能性があるのだ。

まだわたしの肉体に時間があるなら、
そしてわたしのマインドが、
この底なし沼の狂気に飲み込まれることがなければ、
今度はそのあたりについて書きたいと思う。

わたしたち炭素系生物の、長く、なが~~~く、久遠の、旅が、遂に決着する

そもそも炭素(カーボン)を表記する記号“C(シー、she=彼女、イブ....)”とは何を意味するのか?

それは私たちの“欠落感”を表現していたのだ!   いつか自分もO(酸素)に変容できることを求め続けた
最初の動機....  それが酸化作用だった(炭素の自殺)


いままでの命の旅とは、自己の欠落感という錯覚を埋める為の苦闘の歴史だった。

新装 ぼくを探しに
シェル・シルヴァスタイン
講談社
1979-04-12


これか? それともあれか?  私たちの人差し指は狂おしく探し求めた...ボクのかけらを探して


これが一種のジレンマ、とてつもない矛盾、現実逃避であったことは
私たちはうすうす感じてはいたはずだ。


でもそのジョークのオチに辿り着いてしまった時、私たちの旅のすべては終わる。終わってしまう

だから、わたしたちは敢えて「神」の表札のある家“だけは”避けて探していたのだった(笑)


でももう、いま、ここでいよいよ終わりにしようではないか?

もう、「無限の多様性への挑戦」はいったん終わりにしようではないか.....

すでにかいたとおり、旅の原点は「自分はどこか欠けている(のでは???)」という
錯覚から始まっているとはすでに書いた。


錯覚、まどろみからの帰還こそが、
Cが、実はずーっとこの世界の始まりから、
実はOであったということを思い出すことが
究極の覚醒-つまりエンライトメントである


ところがこれは実は、“無”を定義しようとする試みと同義であった為、
私たちは、この自分たちの
「THE SRACH (人差し指)」の存在にずっと葛藤してきた.....

その、ひとりひとりの“人差し指”を、くるりと各自、各個にターンさせる魔法の呪文を
見つけさえすれば、それが究極の解答となるわけだ!!!


つまりそれは、
「指さすことのできる対象はすべてあなたの(かけら、断片、ヒントではあっても)そのものではないよ!」
という警告で事足りてしまう。


あらゆる構造体は指さすことが出来る故に、あなたではない

すべてのすべてのすべては、.......
「All of there are not Me(それらすべてのすべては私ではない)」という
シンプルな事実。

それを率直に認められたならば、あなたに爆笑がわき起こる!

だってヘンだと思わないかい?

いろんなものを指さして、「これが私?」「それともあれが私?」なんて延々とやっているのって....

なんちゅうバツゲームですか!?(爆)



すべてのオブジェクト(対象物)は、探索者自身、そのもの、本質を差し示すことなどあり得ない!!!

その時こそが「I am that I am ....  そして there are not I am」なのである


これが究極的な“無自己=アナッタ”の定義だ。
これが....  自己探求こそが、自己欺瞞の本質だったのだから

そこには神棚も、モスクも、教会も不要だ

いっこのどんぶりがあればいい

あなたが丁度ヘルメットのようにスッポリとかぶれるどんぶりとか、お皿


そして三角倒立せんばかりにあなたの頭蓋骨を床に置いたどんぶりに押し付ける

もちろん基本はまっすぐ垂直だけれど、頭蓋骨のなるだけさまざまな部分を
どんぶりの縁に押し付ける

さまざまな角度から“なぶる”様に押し付ける


たぶん最初は“祈りの言葉”どころではないだろう

  最初の祈りは、痛み、わめき、罵り、呻きに満ちあふれるだろう(笑)


それともあなたの祈りはそんなに静かで美しい韻を踏んで始まるとでも思ったかい?

いや、いままでの人類の歴史、そしてあなたの歴史を遡る旅は
1個のどんぶりをかぶって垂直土下座するところから始まるのだ!!

すると凄まじい痛みに襲われることだろう

これが最初の洗礼だ


いろいろ角度を変え、なぶってみればいい

すると頭蓋骨に溜まりに溜まった悪血が逃げ惑いはじめるだろう

そして、この祈りをはじめたら最初の数日は、食べる気がしないだろう
ひどい吐き気に襲われるだろう

だが、とにかくこの祈りを続けることなのだ・・・  これ以外にどんな道があるというのだね?

これがOSHOに代わって私が提案する新しい究極のダイナミック・メディテーションだ


そしてこのカタルシス(浄化)が終わるにつれ、頭蓋骨の凄まじい痛みは恍惚へと変わっているだろう

漠然と食べたいものが浮かんでくるはずだ....

それが神が所望する最初の供物となる....

祈りの言葉など考える必要もなく、沸き上がってくるだろう....

どんな宗教、宗派とも関係なく、数日であなたは神と直接対話出来るようになるだろう。

メッカはいまここ、神はどんぶりの中にいたのだ。




どんな、メソッドも不要だった....

どんなチャネリングも無用だった....

これだけですべてだ

ある時は新世紀エヴァンゲリオンでは人類補完計画を遂行する「NERV(神経)」である。


またある時は映画「ターミネーター」における人類抹殺を意図した“スカイネット”である。

そしてまたある時は映画「マトリックス」の“母体”である“マトリックス”...そのものが....


あなた(=潜在無意識)の正体である。



つまり、“自分ではない”と思っていたすべてのすべてこそが、“あなた”の正体だ!!!





この生まれい出た世界において「嘘(自己欺瞞)」という名前の
“スパイス”の存在を赦したのは、他ならぬ、“われ吾”と“なんじ汝”との同意なのだ。

そこから難易度の高いゲーム(マトリックス)が生まれたのである!!!!!!!!

(そろそろおひらきにしませんか?)

早春の東京の夜に、雨が降る

ぽたり、ぽたり

雨樋を叩く音、

タン、


タン、


冷たい、冷たい、雨が降る................


この一滴、一滴に向かい合う、

一音、一音に向かい合う


それが癒やし

それが癒やし






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