We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年03月

page_071
page_072

 


「選択の自由と、無選択の自由と、
       あなただったらどちらを選ぶ???」



  ・・・・こんな質問を投げかけられたら、あなたはどう答えるだろうか?

   こんな質問は、ナンセンスだ!

     なぜなら質問それ自体が矛盾している!!

       なんであれ、この質問に回答したら、それ自体が “選択した” ことに
       なってしまうからだ!!!


しかしこのセロニアス・モンクのピアノのような
 不条理な質問は、わたしたちの人生が始まってから、即座に...

   ...毎秒、  ....毎瞬、   投げかけられている質問なのだ!!


    もし、  「OK!  わたしは“選択の自由”を生きる」  と、回答したならば、
           あなたは、 その選択した義務、  選択した責任を永遠に負わされる。

    もし、  「いや、わたしはあらゆる選択を放棄する」っと、回答したならば、
           あるいは、 沈黙を持って その質問に回答する、
           あるいは  その質問自体を無視するなら、

          それ自体があなたの - 選択 -  と見なされる だろう!


それは、あらゆる自由意思の放棄と見なされ、あなたは身ぐるみ剥がされるか?
      あるいは命さえ危ういかも知れない。


     つまり、人生とは、根本の部分で、  選択の自由なんて存在しない  ことになる!!

     別の言い方をするなら、  人生とは強制参加のゲーム  っと言えるかも知れない。

 これが、  “生きる”  っと言うことに関する、 根幹にまとわりついた疲労感だ。



わたしの母は、 とてもハングリーな、  ベガーな 人だった。

だから常にわたしを競争に駆り立てようとした。  わたしを誰か他所の同年配の子供と比較し、
わたしにふり向いて、溜息をつき、悪態、不満を並べ立てていた....

  だからわたしは、この 「人生の根幹にまとわりつく疲労感」 を人一倍感じる幼年期を過ごした。

   だからわたしは、本質的にはニートなのだ。

page_073
page_074
page_075
page_076
page_077
page_078

中略...

page_089


出典:ライブマシーン (1)&(2) ダウンロード購入サイト



 原作:狩撫 麻礼   2000-07


「オレも、この世の呪縛から、己を解き放つ方法を
                 探しあぐねてきた....」


この 解 放 こそが、 エンライトメント のことである....


  さあ!  いますぐ、問いただせ!!  --- ASK ME NOW !

                  あなたとは一体、何なのだ?


  デカルトは、答えた。  「吾思う、故に我在り...」

                   では?

「自問自答し続ける」 ---思考があなたなのか?  

                    それとも

                    思考のバックグラウンドの

     “沈黙”した意識(ウォッチャー)が  ・・・本当のあなたなのではないか?



選択の自由....   
     自由意思によって、わたしたちの、手足も動いているかのように見える。

       だから、この肉体を “自分” なのだと、誰もが思い込んでいる。

        でもそれは、本当に  “自由な”  意思なのか?

          あなたの意思とは、その背景に本当に何もないのか?

           -あなたという意思- が自由に肉体をコントロールしているのか?

             本当は、その

             -あなたという意思- というのも、肉体の “現象”の
                               ホンの一部に過ぎないのではないか?


  こう問い詰めたとき、ひとりの女性は腹を立て始めた。  「不愉快だ」と・・・


自分の自由意思こそが、自分の根底なのでなかったら、 
それさえも疑うのだとしたら・・・・

 そこにはぽっかりと底なし沼が、奈落の底が開くだろう。

               ・・・あなたは途方に暮れてしまうのかも知れない。

それはあまりにも、虚しい...

       自分の基本的人権が侵された様に (参照:怒りの根底) 感じたのかも知れない。

つまり、瞬間瞬間の、選択の自由こそが、 「アイアム...」であり、絶対的存在の根底なのだと....

運命を信じるか?

では、尋ねよう。

緊張している自分と、弛緩した自分と、  どちらが  本当に「自分らしい」と感じますか?

思考している自分と、 沈黙の中に漂う自分と、 どちらが本当の自分の実在性を表現しているのか?

「選べる有能な」 自分と  「何も選んでいない無能な」 自分と、  一体、どちらが、自分なのか?

   意思する 自分と、 意識している 自分と、 どちらが 根底なのか?

      何かのアイデンティティーにある (誰かである) 自分と、 
        何のアイデンティティーも持たない (誰でもない) 自分と...  どちらが?  ?  ?

                   “有” たる自分と  、“無” たる自分と...  どちらが?  ?  ?


※  ある日、偶然聞いたラジオ「子供電話相談室」の質問

「先生!  夜空の星と、星の間の闇夜 (スターバックス) と、
                       どちらの方が遠く(彼方)にあるの?



34・Anger   怒り

34 miner2_cups_01




禅の学生が盤珪(ばんけい)のところに来て言った。

「マスター、私には自分ではどうしようもない怒りがあります。
どうしたらそれを鎮めることができるでしょうか?」

「その怒りを私に見せてごらん」と盤珪は言った。
「おもしろそうではないか」

「いまはそれはありません」と学生は言った。
「ですから、お見せできません」

「そうであれば」 と髄珪は言った。
「それがあるときに私のところにもって来るがいい」

「ですが、たまたまそれがあるときに、それをもって来るわけには
ゆかないのです」と学生は抗議した。
「予期せぬときにそれは湧いてきます。
そして、それをあなたのところにもって来る前に、
私はまちがいなくそれを失ってしまうでしょう」


「そういうことであれば」と盤珪は言った。
「それはあなたの本性の一部ではありえない。」

「もしあなたの本性の一部であれば、
あなたはいつであれ、それを私に見せることができたはずだ。」

「生まれたとき、あなたはそれをもっていなかった--
--だから、それは外側からあなたのところに来たにちがいない。」

「提案しよう、いつであれ、それがあなたのなかに入って来たときは、
その怒りが耐えきれなくなって逃げ出すまで、自分を棒で打つがいい」



 今度あなたが怒りを感じたら、家のまわりを七回走り回り、
その後で樹の下に坐って、その怒りがどこに行ったのかを見守るがいい。

あなたはそれを抑圧しなかった。
あなたはそれを操らなかった。

あなたはそれをほかの誰かに投げつけなかったのだ……。


 怒りは精神的な嘔吐にすぎない……。
それを誰かに投げつける必要はまるでない……

 ジョギングを少しするか、枕を取って、
 その枕をあなたの手と歯がリラックスするまで叩くがいい。

 変容のなかでは、あなたはけっして操らない

                  あなたはもっと醒めるだけだ。

怒りが起こっている、
----すばらしい現象だ。
       それはちょうど雲のなかの電気のようだ‥・‥・。

 怒りが起こっているさなかでも、
もしあなたが突然意識するようになったら、それは落ちる。
それを試してごらん!自分が熱くなっていて、人を殺したい---

        ---そのさなかに- 突然醒める!!

すると、あなたはなにかが変わったのを感じる。
内側のギア、そのカチッという音をあなたは
感じることができる。
なにかが変わったのだ。あなたの内なる存在がリラックスした。
あなたの外側の層がリラックスするには時間がかかるだろう。
だが、内側の層はすでにリラックスしている。

協力が壊された…・‥もうあなたは同化してはいない。

肉体が冷めるには少し時間がかかる。
だが、中心深くでは、あらゆることがクールだ……。
 クールなとき、あなたは全世界を楽しむことができる。
 ホットなとき、あなたは失われている。---同化している。

あなたはそのなかでどうしようもなく混乱している。
どうしてそれを楽しむことができるだろう?

 これは矛盾して聞こえるかもしれない。

 だが、私はあなたに言おう、

      この世界を楽しむのは覚者だけだ。



          AND THE FLOWERS SHOWERED,PP.50-72


わたしはすべてのすべての根底の根底は、“無底”だと言った!

だから、怒りもまた、その根底は“根無し草”だ。

わたしたちは、じゃあなぜ?「腹を立てる」のだろうか?

その理由は、かならず“有る”

  ---怒り、には“根底”が無いのにも関わらず、“根拠”は必ずある!!

その“根拠”とは、わたしが....」である。

           わたしにとっては」である。


        つまり、 “マイン” ちゃんこそ、怒りの根底なのだ!!



わたしの大事なもの、大事なこと、大切にしている信念、宝もの、信条、絶対に守りたいもの.....

これらが犯されたと思ったとき、踏みにじられたと思ったとき、不当に扱われたと感じたとき...

....人は怒りを爆発させる。

DEVILMAN_05_177DEVILMAN_05_176

DEVILMAN_05_179DEVILMAN_05_178


世の不正や、不公平や、理不尽さとは、
たしかに見過ごせないことである

でも、だからといって、
もしそこに

“わたしの利害” や、
  “わたしの不満”が
        存在しなければ、

何を“腹を立てる”必要があるだろうか?
       そこに“感情”は必要だろうか?

 ...そういった不正や、不公平や、理不尽さに対して、
         単に、指摘し、是正を求めればいいだけのことである

「諸法無我」

とは、まさしくそのことではないだろうか?



だから、
人は、ひとの怒りを、いや、自分自身が怒りに我を忘れてしまうことを、とても恐れている。

わたしたちが最も恐れているもののひとつは...(自他の)怒りだ。


じゃあ、なぜそれほどまでに恐れているのだろうか?、(自他の)怒りを.....


....それは、(自他の)アイデンティティーに接触(コンタクト)する瞬間だからだ!!

アイデンティティー(自己同一化)とは、エヴァンゲリオンでいうところの“ATフィールド”と不可分だろう。

A(アブザリュート=絶対的)T(テリング=恐怖)フィールド=領域、縄張り

...つまり、続に言う「その人の地雷(トラウマ?)」というわけだ...

たとえば、集団的な“地雷”といえば宗教などが、もっともわかりやすい例だろう。
キリスト教にとっての聖書であるとか、イスラム教にとってもクル・アラーン、預言者ムハンマド、...
ユダヤ教にとってのナチズム、アウシュビッツへの絶対的な被害者意識、被差別意識など...

それらはまるで、本人自身ではないように見えて、
実は本人への罵倒や嘲笑以上に、
“怒り”の原因であったりする。

         なぜならそれはやはり“本人”の
           延長された、拡張された、あるいは投影された、
                          自己同一化だからなのだ。

むろん、個人レベルの精神と肉体においては、よりハッキリした“地雷”がある。
複雑な家族関係とか、根深い劣等感とか....、
「足を踏んだ」とか、「頬を殴った」とかも同じだ。

  <やられた>と思った相手は、さぞかし、大いに怒るだろう....


   <踏んづけた><叩いた><侮辱した><犯した><傷つけた>...

     たとえば...本人の肉体を、財産を、恋人を、家族を、友人を、...

   <踏んづけた><叩いた><侮辱した><犯した><傷つけた>...

     たとえば...自由を、権利を、名誉を...信義、信念、信条を、理想を...

          わたしの、   わたしの、   わたしの.....
              僕の、   自分の、   俺の、   ワタクシの....

                     “わたしのXX”、“わたしの〇〇”、
                        そこを根拠に、爆心地にして、ひとは怒り出す....

                          では?

    それらに対して、<侵犯した>どころか、
               <根底から否定した>  ならば、
                        一体、全体、どうなってしまうのやら?

  
     「もし、あなたの “怒り” とやらを、
         いまここで見せてみる事も、
          持ってくる事も出来ないならば
           それは、あなたの本性ではないんじゃないか?」

  こんなことを、浮気がばれた夫が、妻の前で涼しげに言ったら
  もはや命はないだろう

これは、限りない信頼関係にある、弟子と和尚(マスター)との間だけで赦される、
極めてきわどい会話なのだと、これで解るのではないだろうか?

04miner3_swords_02
15miner3_swords_03




  「そんなもの、あなたの“根底”でも“本性”でもないんじゃないか?」

  「 “あなた” がアイデンティティーを感じているものは、実はすべて“無底”なのではないか?」

2


 こんな疑いを投げかけられたとき、....
   この様な種類の、...問いかけの、...真意が、もし理解出来たとしたなら...????


          それは、とても恐るべき瞬間、きわどい瞬間である。

    「怒り、とは“わたし=自己同一化”を根拠として
                        わき出してくるもの」

    「もしも、それ
等=自己同一化すべて“無底”であるなら?」

     「つまり、“わたし” の
             正体こそは、

                    根底こそは、   “無”である」


                                 ...っと言うことになってしまう!!!


それがばれないように、いや、それを自覚しないように、....

わたしたちは、(自他の)怒りという現象をいつも恐れ、いつも逃げ出してしまうのではないだろうか?

1

「退屈すること」「焦ること」「孤独を感じること」・・・・

これらは同じ精神状態を違った角度から見た“面相”にすぎない。
本質的には、同じく・・・

「いまここを見逃していること」

「いまここにいたたまれないこと」

が原因で起きている精神状態だ。

・・・じゃあ、なんで私たちは「いまここ」にいられないのか?
「いまここ」以外の人生なんて有りはしないことぐらい、知っているはずなのに・・・

だからこの疑問は、三つに分解出来る。

「なぜ退屈するのか?」
「なぜ焦るのか?」
「なぜ孤独を感じるのか?」

つまりこれらの解答はみな「いまここにいられないこと」への解答と共通なのだ。




「それは体験なんて言うことは出来ない・・・
     なぜならそこに“体験者”は失われているからだ」

                           OSHO「存在の詩」冒頭

“体験者”とは何なのか?

それは
“体験を分別(ふんべつ)している誰かさん”
“体験を価値付け、ランク付けしている誰かさん”

“人生の瞬間瞬間を
「よし、これは重要だな! 貴重な体験だぞ!」
「う~ん、これは大した価値はないなあ、
きっと、もっと価値あるエキサイティングな体験が待っているに違いない!」

                       っと比較している誰かさん”

のことだ。

   “体験者”とOSHOが、ここで呼んでいるのは、この“誰かさん”のことなのだ。


  さて、このことが明確化すると、もうあなたは一つの明晰な事実を発見出来るだろう。

つまり、人生の瞬間瞬間に
起きていること、体験していることを・・・・

・・・・比較するということは、
   ・・・・価値付けするのは

   恐ろしい自己分裂を生み出しているのだと言うことを!!!!!


あなたがもし、成功法則や、自己実現の法則を体得したい。
ビジネスパーソンとしてのスキルをアップしたいと願っているとしたら、
この事実は非常にあなたを困惑させることだろう!!!

  なぜなら、ビジネスマンとして、社会人として成功を得る上で、
マズ何よりも、いの一番に大事なレッスンは、
あらゆることにプライオリティー = 価値判断の
順位づけをすること、比較することだからだ。

「何を切り捨て、何を優先するか?」

その訓練の成果こそが、あなたを価値ある、実りある人生に導くと
誰しもが言う・・・

蝶や花に見とれることよりも、
踊ること、呼吸することに注意深くあることよりも・・・

  「おまえはバカか?とうぜん億万長者になることの方が価値がある!」とみんな言う


だがOSHOはきっぱり言っている

「自己実現は必要不可欠だ、絶対必要不可欠だ!」

「だがしかし、
 それはあなたがお金や権力を得て
  社会的な成功者になることが必要不可欠だという意味ではない」

「自己実現とは本来エンライトメントのことだからだ」

もし、マーフィーの法則本や、斉藤一人の本と、OSHOとを比較しながら両方の読者だという人が
いたとしたならば・・・・  このOSHOの言葉は、実に残酷かも知れない(笑)

別にOSHOが、あなたがビジネスマンとして成功することに反対しているわけではない。

ただし、まったく別の要素が、正反対の要素が、そこにはあると言わざるを得ない。


     「地球か・・・  何もかも、皆懐かしい」

O4S22DzzWnhMcej_RlJ7h_46375




納谷五郎氏が亡くなったことが発表される一週間ほど前、
私に虫が知らせたのか?
私の胸に、突如彼が吹き込んだ沖田艦長の名台詞がこみ上げてきた。


ここでまたこのセリフを皆さんと味わいたい

  ---あれや、これや---  ではなく、

  ---何もかも---  というところを・・・・

  よく、人は死に際して走馬燈のように人生の全てを見るという。

わたしは一昨日、上記のような気付きを得た時、これによく似た体験をした。

つまり、

「人生の瞬間瞬間は、どれ一つとして相互に比較し得るものではなく、
皆等価なのだ、いや、等価とまでは言えなくても、少なくとも大小を付けることなど出来ない」

・・・そう、しみじみ感じた時、突如、人生の今までの体験が、ひとつひとつのシーンが
並列に並びはじめ、そして脳細胞のニューロンのように相互が自動的に結びついてきた

              ・・・そのような感覚に襲われたのだった。

「走馬燈のように」という特急列車のような表現は、だから私にとっては正確な表現ではなく
すべての人生の体験は、

   ・・・むしろじっくりと、ゆったりと、
    ・・・“なにもかも”、並列に、
        今この瞬間瞬間の中に存在している。

      そして、絶え間なく相互に交信している・・・・

           そんなイメージの方が、わたしの感覚にはしっくり来る。




こんな感覚の中にあって、気がつくのは「体験者など、いない」ということだ。

もし、人生全ての瞬間瞬間が“等価”で、“今この瞬間”に存在するならば、・・・

一体何で、焦る必要があるだろう?

一体何で、退屈を感じることが出来るだろう?

一体何で、自分というのが孤立した孤独な“体験者”だなんて意識出来るだろう?


すべての光景はスローモーションのように、ゆったりと、ゆっくりと流れはじめる。

まるで死刑台のエレベーターのように・・・

すべては、終わるのだ

<わたし>は、終わるのだ



人生とは、オアシスとオアシスとの間を渡り歩き、流離う砂漠なのでは決してない

オアシスという瞬間の安らぎ、くつろぎ、恍惚・・・
そこへと旅し、  やっとの思いで辿り着いた、そのオアシスが
蜃気楼のように枯れたら、また別のオアシスを目指し、
長く、苦難の、乾いた旅・・・・

点から点へと旅する、気の遠くなるような時間という“線”の旅

  それが人生なのではない
  それがあなたや、わたしの人生では、   ・・・なかったのだ


オアシスとは、いま、生きているこの瞬間、瞬間なのだ。

もし、あなたがそれを疑うのならば、一分間呼吸を止めてみればいい
一分後、この瞬間瞬間がオアシスだと言うことを、すぐに実感出来るだろう

さらに三分後にはチアノーゼを起こして天国にたどり着ける(笑)

DEVILMAN_05_005

聖なる者は、
完全に静止している。

彼には、欠落感も、欠乏感もない。
彼には、劣等感も、優越感もない。
彼には、卑屈さも、特権意識もない。

だから

彼には、突き動かす動機がない。目的が無い。
彼には、達成すべき理想はない。 ...希望も絶望も、渇望も失望もない。

だから彼には、  待つべき時も、往くべき場所もない。

DEVILMAN_03_232

そんな彼に、吉方位だの凶方位だの、運命だの、運勢だのも
                  .....あろうはずがない。

そんな彼に、ドラマだの、ストーリーだの、シナリオだの、エピソードだのが
                  .....あろうはずがない。

DEVILMAN_05_181

まあ、見ている回りから見れば、奇跡の道を歩む男かも知れないが....
でも、本人にはそんな浮き沈みも、聖も邪も、善し悪しも、明も、暗も、勝ち負けにも....

               .....何の意味も、   .....ありはしない。

DEVILMAN_05_204


ただそこにあるものが、そこにあるだけ

ただそこにあるものが、そこにあるだけ


DEVILMAN_05_211DEVILMAN_05_210


この“不動明の永劫の安らぎ”のシーンを見るごとに
ラフマニロフの甘美で幻想的な交響曲が、
なぜか脳裏によぎる・・・・

修羅の道の果ての終幕だというのに・・・・

え? あなた不幸なんすか?  え?  どん底ッスか!? 

そりゃあ良かったぁぁぁ~~~!!

いやぁ~~他人の不幸は蜜の味ですなぁぁ!!

なんでかって?


だって、その人は泥の底に触れようとしているからさなのさ!!

泥の中というのは、ハスの赤ちゃんのゆりかごだから....

だから、底が深ければ深いほど、その人は素晴らしい大輪の蓮華を咲かせるに違いないから!!



その人の不幸が、その人の狂気が、底の底まで辿り着いたとき!!

爆発が起きるのだ!!

素晴らしい!!...   だから、人の不幸があったら、さあお祝いだ!

そのシリアスな仏頂面にかんぱ~~い!!

その泣きっ面にシャンパンをぶっかけよう!!

この人の魂の解放は近い!!
この人はきっと、立派なブッダになるぞ!!!



39.Creativity   創造性

39 miner3_swords_10

 これは仏陀の物語だ。
 ほとんど狂っている人がいた。狂っている殺人者だ。
彼は千人の人びとを殺すという誓いをたてていた。
社会が彼をひどく扱ったから、それ以下ではだめだった。
千人の人びとを殺すことで、彼は復讐するつもりだった。
そして彼は、殺した人一人ひとりから指を一本取って、
自分の首にかけるロザリオを作っていた

-- 千本の指のロザリオ。この誓いがもとで、彼の名前は
アングリマーラ、『指のロザリオをかけている人』になった。

 彼は999人の人びとを殺した。アングリマーラが近くにいることを
知ると、人びとは誰もその方角には行かなかった。人の往来が止まって
しまうのだ。そのために、最後の人間を見つけるのが彼にはとても難しく
なっていた。自分の誓いを成就するには、あとひとりだけでよかったのだ。

 仏陀は森に向かっていた。
すると、村から人びとが彼のところに来て言った。

「行ってはいけません! あそこにはアングリマーラが、あの狂った
 人殺しがいます! 彼は思い直したりはしません、あっさりと殺して
 しまうのです。彼はあなたが仏陀だという事実を考えたりはしない
 でしょう。向こうには行かないでください! 別の道があります……


 だが仏陀は言った。

「もし私が行かなかったら、誰が行く?……彼は人間だ。彼には
 私が必要だ。私は危険を冒さなければならない。彼が私を殺すか、
 それとも私が彼を殺すかだ」


 仏陀は行った。最後の最後まで彼といっしょにいると言っていた
 もっとも近い弟子たちでさえ、あとずさりし始めた。
 これは危なかった!

 だから、アングリマーラが岩の上に坐っている、その丘に
仏陀が近づいたときには、彼の後ろには誰もいなかった。
彼は独りだった。弟子たちは消えていた。

 アングリマーラは、この無垢で、子どものような人を見た。
あまりにも美しかったので、殺人者である彼ですらその人に
慈悲を感じた。彼は考えた。

 「この人は私がここにいることにまったく気づいていないようだ。
  そうでなければ誰もこの道を通っては来ない」。


さらに彼は考えた。

 「この人を殺すのは良くない。彼を行かせることにしよう。
  誰かほかの人を見つければいい」


彼は仏陀に向かって叫んだ。

 「戻れ! いまそこで止まって戻るんだ!それ以上足を
  踏み出してはだめだ!私はアングリマーラだ。それに、
  見ろ、ここには999本の指がある。あと一本の指が必要なんだ。
  たとえ私の母が来ようとも、私は彼女を殺して自分の誓いを
  成就させる!だから近づいてはいけない。私は危険だ!それに、
  私は宗教など信じていない……お前は非常に善良な僧、偉大な
  聖者かもしれないが、私はかまわないぞ。お前の指でも
  誰の指でもかまわないんだ。一歩も先へ進むな、
  さもないとお前を殺す。止まれ!」


だが仏陀は進みつづけた。
 そこでアングリマーラは考えた。

  「こいつは耳が聞こえないが、狂っているかだ」。


もう一度彼は叫んだ。

  「止まれ! 動くな!」


 仏陀は言った。

 「私はずっと前に止まった。私は動いていない。アングリマーラ、
  お前は動いている。私にはゴールはない……それに、動機が
  なければ、どうして動きが起こりえよう? おまえが動いて
  いるのだ。 そして、私はお前に言おう、お前こそ止まるのだ!」


アングリマーラは笑い出して言った。

 「お前はほんとうにばかか、狂っているかだ。
  お前がどんな礼儀を心得ているのか私にはわからない!」


仏陀は近づいて言った。

 「お前にはもう一本の指が必要だと私は聞いた。この身体に
  関するかぎり、私のゴールは達成されている。この身体は
  役に立たない。お前がそれを使うがいい。お前の誓いは
  満たされるだろう--私の指を切り落とし、私の頭を切り
  落とすがいい。私は目的があって来た。これが、私の身体が
  なんらかの意味で使われる最期の機会だからだ」


アングリマーラは言った。

 「私はこのあたりでは自分だけが気違いだと思っていた。が、
  賢そうなふりをするのはやめておけ。それでも私はお前を
  殺すことができるんだぞ」


仏陀は言った。

 「私を殺す前に、ひとつのことをやってほしい--死んでゆく
  者の願いにすぎないがー この枝を切ってほしい」。

アングリマーラが剣を樹に振りおろすと、大きな枝が落ちた。
仏陀は言った。


 「もうひとつだけ- それをもう一度、樹につけてほしい」


 アングリマーラは言った。

 「お前が完全に狂っていることがこれでわかった。
  私は切ることはできるが、つなぐことはできない」


すると仏陀は笑いだし言った。

 「壊すだけで創ることができない‥‥‥
  お前は壊すべきではない。破壊は子どもでもできる。
  それには少しも勇ましいところはない。この枝は子どもでも切れる。
  だが、それをつなぐにはマスターが必要だ。それに、もしお前に、
  枝を樹につなぎ戻すことができないのなら、人間の頭だとどうなる?
  お前はそのことを一度でも考えたことがあるのか?」


アングリマーラは目を閉じて言った。

        「その道に私を導いてください」

    そして、その一瞬のうちに、彼は光明を得たと言われている。




    気違いになるエネルギーをもっている人は、
       光明を得るエネルギーももっている
     --それは同じエネルギーだ。向きが変わっただけだ。

   あなたが創造的になれなかったら、エネルギーは破壊的になる。




                THE MUSTARD SEED,pp.137-142
         邦訳「愛の錬金術」上・下巻 めるくま-る杜刊


このページのトップヘ