「選択の自由と、無選択の自由と、
あなただったらどちらを選ぶ???」
・・・・こんな質問を投げかけられたら、あなたはどう答えるだろうか?
こんな質問は、ナンセンスだ!
なぜなら質問それ自体が矛盾している!!
なんであれ、この質問に回答したら、それ自体が “選択した” ことに
なってしまうからだ!!!
しかしこのセロニアス・モンクのピアノのような
不条理な質問は、わたしたちの人生が始まってから、即座に...
...毎秒、 ....毎瞬、 投げかけられている質問なのだ!!
もし、 「OK! わたしは“選択の自由”を生きる」 と、回答したならば、
あなたは、 その選択した義務、 選択した責任を永遠に負わされる。
もし、 「いや、わたしはあらゆる選択を放棄する」っと、回答したならば、
あるいは、 沈黙を持って その質問に回答する、
あるいは その質問自体を無視するなら、
それ自体があなたの - 選択 - と見なされる だろう!
それは、あらゆる自由意思の放棄と見なされ、あなたは身ぐるみ剥がされるか?
あるいは命さえ危ういかも知れない。
つまり、人生とは、根本の部分で、 選択の自由なんて存在しない ことになる!!
別の言い方をするなら、 人生とは強制参加のゲーム っと言えるかも知れない。
これが、 “生きる” っと言うことに関する、 根幹にまとわりついた疲労感だ。
わたしの母は、 とてもハングリーな、 ベガーな 人だった。
だから常にわたしを競争に駆り立てようとした。 わたしを誰か他所の同年配の子供と比較し、
わたしにふり向いて、溜息をつき、悪態、不満を並べ立てていた....
だからわたしは、この 「人生の根幹にまとわりつく疲労感」 を人一倍感じる幼年期を過ごした。
だからわたしは、本質的にはニートなのだ。
中略...
出典:ライブマシーン (1)&(2) ダウンロード購入サイト
原作:狩撫 麻礼 2000-07
「オレも、この世の呪縛から、己を解き放つ方法を
探しあぐねてきた....」
この 解 放 こそが、 エンライトメント のことである....
さあ! いますぐ、問いただせ!! --- ASK ME NOW !
あなたとは一体、何なのだ?
デカルトは、答えた。 「吾思う、故に我在り...」
では?
「自問自答し続ける」 ---思考があなたなのか?
それとも
思考のバックグラウンドの
“沈黙”した意識(ウォッチャー)が ・・・本当のあなたなのではないか?
選択の自由....
自由意思によって、わたしたちの、手足も動いているかのように見える。
だから、この肉体を “自分” なのだと、誰もが思い込んでいる。
でもそれは、本当に “自由な” 意思なのか?
あなたの意思とは、その背景に本当に何もないのか?
-あなたという意思- が自由に肉体をコントロールしているのか?
本当は、その
-あなたという意思- というのも、肉体の “現象”の
ホンの一部に過ぎないのではないか?
こう問い詰めたとき、ひとりの女性は腹を立て始めた。 「不愉快だ」と・・・
自分の自由意思こそが、自分の根底なのでなかったら、
それさえも疑うのだとしたら・・・・
そこにはぽっかりと底なし沼が、奈落の底が開くだろう。
・・・あなたは途方に暮れてしまうのかも知れない。
それはあまりにも、虚しい...
自分の基本的人権が侵された様に (参照:怒りの根底) 感じたのかも知れない。
つまり、瞬間瞬間の、選択の自由こそが、 「アイアム...」であり、絶対的存在の根底なのだと....
では、尋ねよう。
緊張している自分と、弛緩した自分と、 どちらが 本当に「自分らしい」と感じますか?
思考している自分と、 沈黙の中に漂う自分と、 どちらが本当の自分の実在性を表現しているのか?
「選べる有能な」 自分と 「何も選んでいない無能な」 自分と、 一体、どちらが、自分なのか?
意思する 自分と、 意識している 自分と、 どちらが 根底なのか?
何かのアイデンティティーにある (誰かである) 自分と、
何のアイデンティティーも持たない (誰でもない) 自分と... どちらが? ? ?
“有” たる自分と 、“無” たる自分と... どちらが? ? ?
※ ある日、偶然聞いたラジオ「子供電話相談室」の質問
「先生! 夜空の星と、星の間の闇夜 (スターバックス) と、
どちらの方が遠く(彼方)にあるの?」