We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2014年01月

男は求める。

男は探求する

男は嗅ぎ回る、追求する、要求する、突入してくる


女はそんな焦った、困惑した、・・・男を笑う

そして男の両頬をその両手でふわりと手で覆い、
           男の顔をそっと寄せて、キスをする

女は歓喜をもって、その男の欲求を向かい入れる。  ・・・沈黙の中に包み込む




 そこに、飛び込む覚悟は要らない、決心もいらない、

    努力も、あがきも、憂鬱さも、焦燥も、悲壮さも、深刻さも、正当化も  ・・・・不要だ。

      そして忍耐も、痛みも、孤独や悲しみも抱擁の温もりに包まれ、
                         歓喜へと変換される   溶けてゆく



そこには、泳ぐ努力も要らない

「冬月先生、・・・・ありがとう」





・・・それは、「何もしていないとき」なのかもしれない

なぜならば、〝何もしていない〟状態とは、もっともニュートラルな状態だからだ
それは見方によっては、ゼロ、の状態だ。

そして、ひとは〝ゼロ〟には価値を感じない
見向きもしない

しかし、それは全宇宙的なバランスの中心だということだ


わたしは、物心ついたときから自分自身の無価値さに苦しんできた。

そして、家族もまた、そんな私をせき立て続けた
「一家の恥」と罵った

そして、その叱責を私自身も受け入れてしまっていた。

まだ、ニートという言葉が世間に流行る前の時分ではあったが
そういう意味では、わたしはニートの先駆け(笑)だったかも知れない


ただ、いまの若い、いわゆるニートの諸君と違うのは
そんな無為な自分自身を責めていたことだった


「自分自身を責め立てている」ということは、端で見ていても
〝何もしていない〟様に見えるが、実は〝自己否定〟という
最大の愚行を犯している。

・・・それは、本当の意味での無為でも、ニュートラルでもない


だが、人々は、眼に見えるもの、見えるアクション、手に取れる価値以外は
無価値・・・っとみなす。

それが、ヒト、というものなのだ

そしていま、この瞬間にも、多くの人々が、自分自身の無価値観に
おののき、恐れ、怯え、むせび泣いているだろう

そして、その反動として、
過剰な快楽や、うさばらし、 虐待、 加害者や被害者のループの中に
終わらないダンスを踊らされているのだろう

一生使い切れない程の大金が欲しい・・・・、
誰をも屈服させられる権力が欲しい・・・・・、
誰もが称賛するような名誉が欲しい・・・・・・。


もし、あなたが精神分裂を起こしたいならば、錯乱状態になりたければ
自分自身の価値を問えばいい


だから問おう、そこで問おう。

そんなにも、積極性、能動的であることだけが、〝ポジティブ〟なのか?

男性の姓衝動は単純で、能動的だが、破壊的だ

それに対して、女性の受容性、包容力とはなんとすばらしいことだろう?

愛の本質とは、「与えること」ではなく、「受け入れること」・・・受容性にこそ
見いだせる


ひとり、静かにただただ、いまここにあること・・・

それは、とても繊細で、デリケートで、女性的な状態だ

しかし、ここにこそ、存在性は最も機能しているのではないか?
輝いているのではないか?


それこそが、もっとも、宇宙に奉仕している瞬間、花開いている瞬間なのではないか?

泉谷しげる 紅白に「ありがとなNHK」! “手拍子してるんじゃねえ”発言の真意とは?

敗戦後の昭和とは...

    「季節のない(無表情な、無機的な)街」だった。
      ---- そしてこれは、NHKの体質そのものでもある。

    そして「風のない(本質的な変化-レボリューション-の起きない)丘」であった
      ---- そしてこれが、渋谷の街を見下ろすNHKの基本的スタンスだ。


 


そして、夢のない家...  愛のない人々...

   これが、泉谷しげるの「春夏秋冬」に
     嬉々として手拍子した・・・ 

    〝付和雷合〟しか、してこなかった
      核家族(核分裂)化していった...
       三島由紀夫のいう〝空虚で豊かな〟日本人の....

         成れの果てだ。

だから、この紅白は、泉谷氏の名曲「春夏秋冬」の〝約束の地〟であったように思える。

愛のない人々の、白々しい手拍子に向かって
「愛のない、人に会う」と歌った泉谷しげる...
「くそっ! しゃれになんねえや!!」っと、彼は思ったのじゃないだろうか?

つまり、これが〝戦後の虚構としての〟日本が浮き彫りにされた瞬間だったのではないか?


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私はかなりの重度のアスペルガーである

だから、自分に正直なことだけが、最大で、絶対的な価値であり
その為に他人を傷つけてしまうことが多々ある。

こうやって、ブログに「わたしはアスペで...」っと公表してしまうこと自体が
アスペのなんたるかだろう

甘えかも知れない、そんなことをいきなり告白して、読む人を困らせてしまうことを
しかし赦して欲しい!

わたしの星の中には「ヌーディズムに心理的解放を見いだす抑圧された女」という
サビアン・シンボルが存在するが、まさしく、これは一種の露出狂なのだろう。


でも、肉体が若く美しい女性ならば、そんな町中を全裸で歩くことも、男性達の
眼の保養になり、その実は楽しんで貰えることだろう。

残念ながら、わたしは男の肉体に生まれてしまったので、その様なかたちで
男性達を楽しませることさえ出来ない。

しかし、わたしの〝ヌーディズム〟が、何らかのかたちで、ひとびとを楽しませる可能性だって
あるかもしれない


OSHOは、「おおいなるイエスマンになりなさい」と言った

それは、あらゆる過去、現在、未来の、瞬間、瞬間に対して

    「未完成なものはひとつもない」

っという宣言なのだとも、言えるのではないか?

わたしのヌーディズムも、単なる狂気、異常性、倒錯なのかも知れないが、
それすらもまた、この「イエス」によって赦されることを願う。


アスペルガーである私にとって、自分自身に「イエス」と言うことは、気が遠くなるほどの
ハードル、恐怖、だ。   それは冒頭に述べたこととまったく矛盾すると思うが....

自己受容とアスペとは、ひょっとしたら原因と結果、目的と手段なのかも知れない

アスペとはうぬぼれ(自己愛への耽溺)とは全く違う

「他者と比較して」どうこうというより、自分の精神世界の中に「他者が存在しない」のだ

ただ、自分の痛みから他者の傷みを必死に〝連想〟するしかない。

しかし、「アスペではない」人達というのは、「連想するまでもなく解る」らしいということが
おぼろげな恐怖とともになんとなく理解出来る


人のこころがどこにあるのか?、それに自分は気がつかず、全く見えず、あっちでぶつかり、こっちでよろめき

   ....それでも、そんな自分を肯定出来るのか?一体、許されるのだろうか?

   そう考えると、気が遠くなる様な目眩を感じるのだ

   ....それでも、....

           
〝それでも〟ということが、アスペルガーというこころの盲目に生まれた者の
              最後の試練なのかも知れない

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