「男女の情愛」を考えたとき、世の中の多くが主客転倒したままに思える

男性の女性へのアプローチが、

「つり上げるまでは豪華なエサを釣り針に付けるが
釣り上げた魚にもうエサはやらない・・・・」  というのが殆どで

しかも女性までそれを願望している

それが結婚したあとの悲惨な生活になる

男と女は、もっとクールに互いを観察し合うべきだ
おべっかだの、大げさなアプローチだの、アニメみたいな
化粧だのは不要だ



ダマし合い、化(ば)かし合いで、
男と女が誠実な関係を築けるとでも?

だから、ミュージシャンなんかをみても業界内の結婚というのが
結構上手く長続きしているのだ・・・・

同じ職場で、  ・・・つまり同じ戦場で、同じ釜のメシを食う戦友には
おべっかなんか言ってられない  戦場とは最も人間性が剥き出しに
なるところだ。

だからこそ、その「戦友同士の結婚」は上手くいきやすい

結局の所、異性が化かし合うこととは何かと言えば・・・

  男はカネや女の欲望を刺激して、ベッドに連れ込むという快楽の追求

  女は性をエサにお姫様扱いしてもらい、未来を保証して欲しいという安楽の追求

        だからなのだ



昨日、久しぶりに伊丹十三の「タンポポ」を観た
懐かしの印象的な場面が一杯だけど、
昨夜じーんと来たのが ラスト近くの「母ちゃんが死にかけた家」のエピソードだ

 
とうちゃんが慌てて家に帰ってきた

母ちゃんが倒れ、医者が来ている
 もう危篤状態

 「かあちゃんしっかりしろ!」 「しっかりしろ!」
 「オレ達を置いて逝かないでくれ!!」

 「そうだ!かあちゃん、メシだ、晩飯を支度しろ!」

 その言葉に急に反応した母ちゃん
貞子の様によろよろと起き上がり 晩飯を作る

たんぽぽ 「母ちゃんメシだ」1

  出来上がったチャーハンを 「うまいうまい!」といって
  一斉に食べる 父ちゃんと三人の小さな子供

「母ちゃん、うまいぞ!」 っという言葉を聞いて
微笑んで倒れる母親

たんぽぽ 「母ちゃんメシだ」2

医者の「ご臨終です」という言葉を聞いて
子供達は泣き出しながらも、父と子は
母親の作った最後のチャーハンを手から離さずに
ガツガツと食べ続ける

とうちゃんは小さな子供達に号令する
「母ちゃんが作ってくれた最後のメシだ!」
「残したら承知しないぞ!」
「暖かいうちに、食うんだ!!」

たんぽぽ 「母ちゃんメシだ」3



このエピソードを彷彿とさせるのが
アニメの「美味しんぼ」にもあった

死にかけた妻に海原雄山が茶を所望するシーン



息子(主人公:山岡) は「あいつは鬼」と言って罵るが
それを母親はひっぱたく

 「お前には人の気持ちって言うのが判らないの?」

キョトンとする息子

美味しんぼ 第112話 「ほうじ茶の心」


最近この二つのエピソードがやたらとに胸に去来する
岩井俊二の「食事」をテーマにしたショート作品群も
皆秀逸だ


食事の光景と、生の情愛とは切っても切れない

食べ物も生きている

たしかに私は人間よりも体温の高い生き物を食べることには
反対だし、(人体内で凝固したり腐敗してしまう細胞だから)
それは、とりあえず置いておいて、「食べる~食べられる」
それは一方の身体、もう一方の肉体が溶解していく儀式であり、
愛の営みという風にも見える。

倹約や簡略化などでカップ麺ばかり食べていると

「あ~、生きてるものを食べたいなあ」っと思う

カップ麺は、例え素材が野菜や肉でも、加工過程が
工業的製造である・・・  本当に餓えている地域や
災害時、登山時などの非常食でならありがたいものだが
やはり、常食とする様なものではない

それが、「贅沢なことを言うな」と叱られたりしない様な
毎日であると言うことは、幸福なことである

「不食」と言うのは、たぶんこれからの人類にとっては
大きなテーマではあるが、・・・・



その前提として、こういったテーマをどう『消化』するか?ということがあると思う

互いに『錯覚を与え合う』ことで幸福になれるという思い込み・・・

「食べる」とは何か?そこには何が起こっているのか?


   こういったテーマにメスを入れないで、・・・・

     私たちは「誠実で暖かい関係性」を築けるのだろうか?

     『餓え』を越えた新しい生き方を見つけられるのだろうか?