映画「マトリックス」はエポック・メイキングな作品ではあったが・・・・

マトリックス 弾丸2

その①においては、不満な要素が、私的にはひとつあった

それは②と③ (リロ-デッド と レボリューション) において
キチンと補正されていた


  その①においては、「漠然と現実感に疑問を感じていた男」が
 「おれは救世主だったのか!」と覚醒していく物語だった

  周囲の登場人物は「ヒー・イズ・ワン!(彼こそ選ばれし者だ!)」と
  大喜び、ネオはスーパーマンの様に空に飛び上がるところで
  第一話は終わった

  アメリカ人が見たならば、アメリカのクリスチャンが見たならば、
  さぞかし感涙したシーンであっただろう・・・

  でも、大部分がクリスチャンではない、我々日本人から見れば
  ちゃんちゃらおかしい「ド演歌」の世界なのだ

  ②と③では、ネオは自らを「おれは救世主じゃなかった、スマン」
  とモーフィアスや、(クリスチャンの)観客達を絶望のどん底に落としてしまう

そのシーンを見て、わたしは「おっしゃー!」と喜んだ


 「救世主であることというのは、恋をする様なものよ」っと素敵なクッキーおばさんは
 預言した。

 ある意味、これも含蓄深い台詞である  ・・・そしてアローンネスに触れる言葉だ

  「恋をする・・・」のぼせた様な状況だ・・・でも、コトは個人的な恋愛どころではなく
  全人類の運命がかかっている様なことだ・・・

   一種の「フィーバー」が、「ある一線」を超える瞬間がある

マトリックス「道を知る事と歩むことと」

  凍り付いた様な「現実」 シビアな「世の中」・・・

    そして、退屈な「日常」・・・・   これを“乗り越える瞬間”  

       それは、  “ヒロイズム” へのフィーバーかもしれない


  でもそのアイス・クラッシュまでの瞬間は、孤独で、恐ろしいものだ

   「ボクが世界の運命を担うだなんて・・・」


    でもこれは、「望む、望まない」に関わらず、すでに “事実” であると
     知ってしまったなら、もはや後戻りは不可能になる

   それこそが、「唯ひとつの革命」なのだ

1/2 「唯一つの革命」バグワン・シュリ・ラジニーシ(和尚)   

 part1= sm6757238     part2= sm6757880



ここまでが、「マトリックス①」である

人々は「お前、気でも狂ったのか?」と諫めてくるかも知れない
この時、つまり、自分に課せられた自分自身への責任を、尊重を
守り抜こう、信じ抜こうとするときに、「真実に目覚めた」個人は
とてつもない反逆を余儀なくされる

   「ただひとり、群衆を離れて」  ・・・独善的だと人々から
  石つぶてを投げつけられる覚悟を持たざるを得ない

52


でもそんな時に、勇気を与えてくれるのが「情熱」だった
「モーフィアスを見殺しにしたくない」という想いだ

それが、彼自身を「救世主」として自覚させるトリガーとなった。

マトリックス「ハンギング」



しかし、リローデッドにおいて、メインフレームでこの世界の「神」、
つまりアーキテクトと対面したことにより、自分は「希望という妄想」
つまり、「救世主」という予定のひとつに過ぎなかったことを
思い知らされ、・・・

マトリックス・希望は人間の典型的な妄想


ネオは「絶望」をモーフィアスや私たち観客に告げざるを得なくなる

  「おれはそんなんじゃなかった・・・」




しかし彼はそのあとも、
ただただその瞬間瞬間の「想い」に突き動かされていく

仮想空間「マトリックス」とは、「想いがそのままパワーになる」世界だからだ

結局その「想い」がメインフレームの外の「現実世界」をも変えていく


  「救世主」というフレームを無くしたあと、なぜ、結局の所、
  彼が「世界を救った」のか?

  いや、むしろ
  そのフレーム(定義)を脱ぎ捨てなければ、彼は世界を救えなかっただろうと思う

    なぜなら、「マトリックスというゲームの中でのヒーロー」は
    どれ程、超人的であってもマトリックスを出ることが出来ないからだ

マトリックス「対極」

    彼の宿敵「エージェントスミス」も、単なるプログラムでありながら
    その「執念」それ自体は結局の所ホンモノであったが故に、彼は
    「外の世界に実体化」してきたのだ

マトリックス「実体化」

    ある意味、それはネオにとっても “扉” であったわけだ


    定義を超えたとき、アーキテクトの想定の範疇を
    ネオは超える存在になった



マトリックス「救世主の力」

マトリックス「あの男には何も見えない」


ネオは、最初は「救世主」という肩書きの前に戸惑いながらも
「仲間を助けたい」という情熱が、彼を「ある種のステージ」へと
持ち上げた

しかし、②~③では、自分が「何ものでもない」というクールダウン
つまり、冷静さ、謙虚さによって「救世主」という不自然な称号を
返上する

預言者はネオとの対話で以下の様に言っている

「わたしの動機は、ネオ、あなたと同じで戦争を終わらせること」

「エージェント・スミスは、
世界を救いたいというあなたの情熱のシャドウなの

もうひとりのあなた・・・

あいつはこの世界を消滅させるだけは終わらずに
すべてを破壊し尽くすわ・・・」

そう言い残した彼女は、ある種のネオへの信頼を抱いて
抵抗することも逃げることもなく、スミスに吸収されていく

ネオはスミスとの最後の死闘において、スミスがデジャブ(概視感)に
襲われている様な言葉からその「吸収された預言者」を見いだす

「始まりがあるものには
終わりがある ネオ」

それでネオは、どうするべきなのかが理解出来る
自分自身のシャドウであるエージェント・スミスと、
むしろ今度は統合、一体化することによって
「すべてを終わらせた」のだ



ネオが無数に増殖したエージェントスミスに
最後に伝えた「光のプログラム」とは何だろうか?

  ・・・それは、「私は何ものでもない」である



 その時、「この世界は私のものだ!」と叫んだスミスの執念は
 中和されたのだ

  無限に、ゼロが掛け合わされた瞬間である

  冷静と情熱のあいだに、すべてが解け合った瞬間である

冷静と情熱のあいだ(通常版) [DVD]
竹野内豊
ポニーキャニオン
2002-06-19


①が、未来の世界でコンピューターに取り込まれ、
    飼育されている人類の中で、「救世主あらわる」で終わり

②③は、「統合によってすべての分離が」終わり、平和が訪れる



「救世主」の定義を超えた存在とは何か?

わたしはそれを誰でもない人(nobody)=「アニキ」と呼びたい

f0077373_18341335

20141124_1230939

ナザレのイエスだって、ナザレ村の「アニキ」に過ぎなかった



  ファリサイ律法学者と、ユダヤの人々の期待とが、彼を
  「イエス・キリスト」と呼んだときから
  かれは十字架に掛けられるべき男であることが
  確定してしまったのだ



「アニキ」とは過去の蓄積(HDDの中身)で勝負するのではない
「アニキ」とはCPU、つまり瞬間瞬間を中心軸に解答していくのだ


aniki



「真に自立した(アローンネスの)」ひと・・・・

それが私の「アニキ~兄貴」「アネキ~姉貴」の定義だ


かれらは皆、
自分の根(ファイナル)に立っている
自分の中心(いまここ)に立っている

彼らが決して「間違えない」わけじゃない
彼らだって間違えることはあるし、彼ら、彼女らは、決して
「超人」=救世主、神の子、っという訳ではない

でも、自分自身に根っこを持っているアニキ、アネキ達は
「失敗」も「成功」も、借り物ではない
すべて、自分自身の「失敗」「成功」として受け止める

けっして責任転嫁したりしない


  彼ら、彼女らが、もし己の定義に拘ってしまったら
  そのこだわり自身に足を取られてしまうだろう

   本当に、自分自身に根っこを持っている者こそ「自由人」だ
        そして矛盾して聞こえるだろうが
        (過去の)自分自身から自由な人間こそ、「自由人」だ

  ※ つまり、ここでいう「根っこ」とは「資格」だとか「経験」「実績」だとかが
         メインではない

    そして、「完全なる自由」を持っている人間にのみ
    為すべきタイミング、為すべきところで、為すべき事が出来る
    為すべき事が「分かる」人達なのだ。