完全な“納得”がいくまで、あくまでも食い下がれ・・・妥協するな!!
  それがえられるまでは、限りなく真剣であれ!シャープであれ!
  馴れ合うな!じゃれあうな!!

 
いや、おまえになにが判るというのだ?

人間には自ずと限界がある
そして考えて納得出来ることというのは牛のクソだ!!

マインドの「納得」を超越した「信頼」の世界に飛び立つのだ

全く矛盾するようだが、上記二つは両方真実だ

つまり「人事を尽くして天命を知れ」ということなのだ。

そういう意味では「覚醒のための努力」は必要だろうと思う


それは、「覚醒してしまうと、それは牛のクソだった」となるが
それまでは「牛のエサ」なのだ


七年ぶりで再会した神聖図形:岸先生との再会は、
おおむね予測したとおりの結論になりそうだ

このなぞなぞは五井野正で20年間学んできたことの応用編で
あろう事は七年前にも判っていたことだった

つまり、五井野正のスーパロジック法華経にせよ
     岸先生の神聖図形にせよ
     守城佐恵子のマカバにせよ・・・

  ある程度の所までは行けるし、神秘的な体験も出来る
   そして、ともすれば「デヴァイン(まあ分業する神=天使ってところか)」と
    しての体験、実感にまでタッチ可能なのかも知れない

そういう絶対的とも言える体験を味わった人とは、ある種のカリスマ性を帯びる
アローンネスもそこそこ確立する。

 (そういう人間だけが堂々と人々の前で自分の世界観を話すことが出来る)


しかし彼らを見させて戴いて、いわゆる「カミサマになっちゃった人達」というのは
皆、ある種の凄まじいコンプレックスが土台になっているために、なまじそういう
「絶対的な体験」をしてしまうと「その自分の体験の記憶に対する亡者」になりがちで
これは私が過去世で繰り返した失敗ともダブる

彼らを観察するために「一応は信者」ということで、下から見上げて来たことは
正解だったと、今は振り返って思う

結局の所、彼らは皆面白い論理や、言動をするし、天才的なひらめきを
言葉にもしてくる・・・・

しかし、それは常に「上から目線」であり、如何に謙虚な装いを見せても
結局は「私は神、おまえら人間はみんなバカ」へと辿り着く

そういう点で、彼らのようなミニ教祖になってくすぶるよりも
サニヤシン達の方が遙かにスッキリしていると言うことになる

まあ、サニヤシンと言っても私の様な単なる読者に毛が生えた程度も
居るので一概には言えないが・・・

「絶対性に触れ」さえすればいいというモノではないんだな・・・
なぜならば、その時には非常に今までの「御霊磨き」がホンバンで試される

この最後の体験は、いわば卒業論文に過ぎない
かならずしもそれで「卒業」できるのではなく
「俺、神、 おまえら、バカ」という夜魔天に落ちる危険は非常に高い

かれらは、自分自身のコンプレックスという「内面に抱えるド演歌」に
気が付くこともなく、「納得」を探し回っていたのだろう。何世も前から・・・

そして、「有頂天」を向かえたとき、まあ言葉はキツイがある意味で
「発狂して」しまう・・・  ところがその種類の「発狂」は少人数からは
崇拝されてしまうのだからタチが悪い・・・・


自分の「納得」は、所詮は自分の「投影」だ。

天空の月光を探すつもりで、実際は自分のキャパシティーの範囲
つまり、「桶」に映る月を見て、「われ、月を捕まえたる者なり!!」
っと、狂喜乱舞してしまうのだ。

05

なので最後には「無知の知」が守護天使になる
本物の「謙虚さ」(自分なんか、という自己嫌悪や自己卑下ではなく)が
そこで試される・・・

   ・・・増長慢の狂気へイカロスのように落下するか?
    ・・・正気を保てるか??

すべてはそこにかかっている

どおやら宇宙のダルマは、一つの貨幣制度で成り立っているようだ

 それは「エゴという貨幣」である

   一つの宇宙法則を身につけたならば、その分の「エゴ」を
   宇宙に支払わなければならない

    でないと、エゴが持ち得るはずのないパワーを
          持ってしまうことになる

ニュートラリティー:この世界の中心軸に近づけば近づくほど
そのパワーは桁違いになるのだから・・・

AboutEQ_03

「体験」を求めてきた者は、そのパワーに驚喜する

「体験者の消滅点」を探してきた人は、  そこで・・・・・

                ・・・より「無(ム)のひと」へと近づく


和尚ネオタロット:9.Greatest Miracle
  最も偉大な奇蹟
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てきすと