孫悟空の「仏の手のひら」のエピソードは
私たちが想像している以上に
「自由の本質」を突いているのかも知れない


OSHOは「存在の詩」の冒頭でこういった
「それは体験なんていうモンじゃない」
「なぜなら、そこでは体験者が消えている(LOST)からだ」

この言葉はあまりにも美しすぎて
私はこの言葉に今日まで圧倒され続けた・・・

それゆえにこの言葉を乗り越えることが出来なかった

でも今夜、この言葉に私は異議を挟む

消えているのではない

はじめからいなかったのだ

私は空腹を覚えるかも知れない
肉体は何か食べたがっている
思考は今食べたいメニューを、
自分のいる現地、近い店、予算などをすべて把握して
夕飯をありつくのにふさわしい店を検索する

今夜は冷えるから、ジャンパーを着込む

鼻水が出たから 手ぬぐいで拭いた・・・

これらは、誰がやっている?

判らない・・・誰がやっているのか!

覚醒とは何か?

ぜ~んぶわかっちゃうスーパーマンになる事なのか?
いと高き天の雲の間から下界を見下ろす神のような
視界になる事なのか?

ならば私は覚醒から最も遠いところにいることになる


わたしは、自分が誰だか判らない

何故鼻水が出たのか?

寒いから?

そんなのは皮相的な説明に過ぎない

自分に起きている瞬間瞬間の事柄は何一つ判らずに走馬燈のように
通り過ぎていく

それらの体験者は・・・誰なのか?

さっぱり判らない

自分に何が起きているのか?

サッパリ判らない

すべては無意識だった

私に解ることは、
全てが無意識の許に起きている
   ・・・ただそれだけだ

私の視界は、まるでブラックホールのように深い
井戸の底に落下し続けていくようだ・・・

だって、わたしには何一つ見えない、判らないからだ

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でも、
<全てが無意識(=自動的)な営みの中に在ること>を
自覚すること・・・・
それこそが覚醒なのだとしたら???、わたしは覚醒の中にいる

あなたはわたしを
「何も判らないが故の」愚者であるとも
痴呆であるとも、
狂人であるとも、・・・

はたまた
「無知性を悟った知覚者」であるとも・・・・

          どれでも好きなように呼べばいい

私は、どう呼ばれようと構わないし、
さて、どう呼ばれるかだなんて重要なことではない
また、どう呼ばれるかだなんてわたし自身にもどうしようもないことだ・・・

  ただただ、わたしにはこれしか言えない

      「なんだこりゃ・・・?」

わたしのこの記述に、誰でもいくらかの同意ならしてくれるだろう

なぜなら、誰もが自分が全知全能でないことぐらいは自覚しているからだ

でも、
「自分は小さな存在だ」とまでは認められても
「自分は何も判ってなかった」とまでは認めたくはないだろう

未熟さは誰でも認めるが、
誰もが「自分は“無”だ」とまでは認められないし、認めたくはないし
またそうだと思うなら、それはあまりに耐えられないことだからだ

だれだって、大海の波間の間の小さな泡のように消えて飲まれていく
自分自身を想像したくなどないだろうから・・・  だから抵抗するだろう

 「自分は“無”ではないんだ!」

  「自分は小さい存在ではあるが、
   全く何も判っていないわけではないんだ!!」 

そうだ、確かにあなたは、社会人として今日まで生き延びてきた

立派にやってきた、苦労だって知っている
多少は専門的な知識や経験だって在るだろうし
それを生かしてプロフェッショナルとして
独立した仕事を持っているのかも知れない

そんなあなたに対して私如きが
「あなたは“無”だよ・・・」 などとは到底言い得ない・・・・

これはあくまでもわたしのプライベートな宣言だ

         「私はあまりにも何も知らない、
                    判っていない、
                     わたしは<無>だ」

でも、
「わたし」に比べれば確かに広大なこの社会、この世界であっても・・・
「わたし」に比べれば確かに誰もが私より優秀で、逞しく、知恵者であっても・・・

  違ったスケールから見れば、誰だって芥子粒とも変わらないだろう

「井の中の蛙(かわず)大海(たいかい)を知らず」
井戸の中のカエル


「されど天の高さ(天の深さ、空の青さ、海の深さ)を知る」
「されど天の高さ(天の深さ、空の青さ、海の深さ)を知る」080917e2


カエル曼荼羅


それほどまでに、この世界はクレージーなぐらい無限に広大なのだ・・・
torsionanimated

素粒子のようなとてつもないミクロから、
銀河や宇宙のようなとてつもないマクロの世界まで、
そのスケールの果ては、私たちには想像も付かないのだが、
でも、それさえも空想ではなく現実の話しなのだ・・・

私たちはあまりにも日常のスケールの中で埋没し
退屈しているから、そんな事を思い出しさえしないだろうが
でもそういう荒唐無稽な、多様なスケールの折り重なった宇宙に、
わたしたちが今日、いまこの瞬間も暮らしていることを考えるなら、・・・

  たかだか長くても百年の寿命の私たちが、
  この惑星に生活していて・・・
   ・・・そんな私たちに一体、何が「判っている」といえるのだろうか?