風間 夕夜ありのままの自分を「単に事実として認識する」ことと
「愛する」こととを、みぃ~んな混同してない???(笑)

Harue Shinbo:
風間さま、解説して頂きたく、いいね!(*^^*)
よろしくお願い致しますm(__)m

風間 夕夜「愛」という文字は「中心にこころが宿る受容性」と書くので、それが文字通りならば「機械的、無機的な受容性」ではなく、「真心の込った受容性」であること意味します

でも今回の話題は、「自分の醜い部分、未熟な部分を素直に認める」という話題なので、かならずしも「愛」である必要はないと思います・・・

「私は悟っていません」
「でも愛しています」

  即ち
     「私は愛とは何かを知っています!」

   ・・・・ん?それってまたヘンなところに転がり込んでませんかねえ???

   愛とは何か?
    完全に理解している人、完全に愛の中にある人とは
     もう即ち、「悟っている」と言えるのではないでしょうか?


ど ちらかと言えば、自分自身へのシャープで科学的な観察眼が必要で、「自分はまだ悟っていないゆえに嫉妬深い」ことは「ああ、確かにそうだ!」と事実として 受け止めつつも

     それを積極的に受け入れると言うことではない・・・

それは「だって悟ってないんだも~ん」という「自分の嫉妬深さ」への「自己正当化」へと繋がる


人は、嫉妬により殺人を犯すことも珍しくはない
「悟っていない人」にはそういう可能性すら未だ免れない凶暴性がある・・・その“凶暴性”を“積極的に愛しましょう”と宣言するべきでしょうか?

積極的に受容するのでも消極的に「ちぇ、しかたねえや!」と認めるのでもなく、...ただ、「ある・・・私には嫉妬がある」というありのままの自分への事実認識だけに留まるべきだと言いたいんです

じゃあ、そのままでいいの?っと成るわけですが

「どうにかしようとする」のではなく、・・・

「それもまた愛しましょう」とミソもクソも「愛です」「愛です」というのも・・・間違いじゃないでしょうか?

自分の嫉妬深さを見つけたなら、ただただ、その中に留まってみては如何でしょうか?、自分の嫉妬深い「般若のような面相」と、静かに、黙って、対峙してみてはどうでしょうか?

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その醜さ、その愚かさ、そのどん欲さ、その枯渇感・・・誰かに愛を奪われるのではないかという焦燥感・・・競争意識・・・それらを肯定することも、否定することもなく・・・・

ただただ、穴が空くほど・・・吐き気を催すほどに・・・自分の醜さ、自分の幼さ、自分の未熟さと、とことん、付き合ってみては如何でしょうか?

そこに・・・嫉妬への全面的な理解、全面的な離脱が初めて可能になるのではないでしょうか?

   何かを宣言するのはそのあとからでも、遅くはない

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