8月17日、シャンタン氏にディクシャギバー(与える者)にしていただいた
バガヴァン師はOSHOからバトンタッチした人だと言うことだ
かなり前にyoutubeでバガヴァン師のビデオを見てすっかり惚れ込んでいた私は
シャンタン氏のその話には抵抗はない
しかし、このイニシエーションが終わった帰り道の新宿線車中から、
精神的には地獄が始まった
「みんなとハグしなさい」という、なかば強制的なサジェスチョン
ギバー(与える者)という言葉、
・・・シャンタンさんからは、「自分が与えるというエゴからではない」と
ちゃんと説明されたのだが、それでも“ギバー”という言葉には「やり手」
であることを強く感じる
ワンネス・リーグという言葉、
・・・う~ん“リーグ(競技団体)”ですかぁ・・・・これもかなり抵抗がある言葉です。
・・・OSHOの口からでは絶対に出てきそうにない言葉です。
まなじぃさんという、やはり尊敬すべき大先輩サニヤシンからも
「OSHOのサニヤシン達からはバガヴァンのディクシャグループは
強く反発されている」っときいて、ああなるほどねと思った
かといって、OSHOの“引き継ぎ手”であるサニヤシン達に対しても
昔から致命的な“違和感”があるので、どちらか一方の立場になりきる
気にならない
サニヤシンの中ではもっともオープンなまなじぃさんの無償の愛により
オーシャンさんを紹介していただき、そのあたりの違和感をぶつけてみた
ところ、かなり明快な回答を得られた
「バガヴァンのグループでも、何も判っていない人が多いよ」
「あなたが感じたハグの欺瞞性と心の痛みは正しい」
「要は、チェンバーで得られる答えにせよ
『自分自身こそがデヴァインなのだ』ってことなんだよ・・・」
うっわー、さすがまなじぃさんからも「型破りなギバー」と
聞いていただけあって、超特急な卒業式になった
ほんの数日で、バガヴァンのグループも、ある意味で駆け抜けてしまった
感がある。
瞑想とは何かと言えば、いろいろ表現出来ると思うが、
それは「内面とは何か?」という問いの解答とほぼ同じだと思う
“内面”とは“場所”ではないと言うことなのだ
“内面”とは確かに“原点”、“グラウンド・ゼロ”なのだが、
三次元空間上のどこかの座標ではない
“そこ”を指さすことはあったにせよ、
それは方便、象徴、比喩に過ぎない
だから、
“外面(がいめん)”とは?、
・・・私たち日本人にとってはなじみがある仏教用語である
“外道(げどう)”とは、じつはこの三次元空間上の「すべて」を意味する
つまり、じぶんというのを、あるいは自らの肉体のどこかのチャクラに
フォーカスして、一点の座標を特定したとしても、それは“消滅”してしまう。
なぜなら、そこには“有(特定の個体)”は存在しないからだ
そこには“間(ま)”がある
矛盾したような表現なのだが、“無”だけが“有る”
そして、この全宇宙空間「すべてのすべて」さえも突き抜けて、探求の指先は
その外側へまでも爆発してしまう。
OSHOの講話の中に、イエスがピラト提督に「真実とは何か?」と
問われるシーンを引用した話がある
ピラトはイエスの回答を待つまでもなくその場を去ったそうだ
それは、「そんなものあるわけないだろ?」ということだ
イエスは沈黙で答えた
OSHOの解説では、この沈黙とは
「解答すべき対象がばかでかすぎて返答不能だったから」だそうだ
つまり、私が以前書いた
「真実なんて無いよ」ではなく
「真実とは“無”である」ということと対応していると思う
これらは、「ギバー」とか「リーグ」という言葉には到底収まりきらない
じゃあ、「たとえOSHOが地球に帰って来たとして
何が出来るのか?」っと言うことになる
ここにオーシャンさんの“型破りさ”あがある
OSHOはそもそも、「私はあらゆる宗教組織を否定する」と宣言した人である
しかし、開きメクラがほとんどの、この地球の住人達には、
ローレックスの時計や
11台のロールスロイス、
シーラの裏切り劇しか見えない
OSHOとはその肉体存在それ自身が一種の“公案”なのだ
だから、ほとんどのサニヤシンも、OSHOの読者もそこを突破出来ない
だから、もしバガヴァンが本当にOSHOの引き継ぎ手なのならば、
OSHOのとてつもない究極のジョークも引き継いでいるだろう。
それをオーシャン氏は、あっさり言語化してしまったわけだ
「あなたが、デヴァインだよ(爆)」っと・・・
実はこれは、わたしの“密かな”解答と完全に一致している
だから、わたしは「自分がスターになっても良いけど?」っとなる
でも(可能な限り誤解を回避する為に言えば)
このスターというのは、特定の「選ばれし者」では無い
本当は誰もがそうなのだが、引き受けられる者がいないだけだ
本物の友情が可能なのは、
矛盾するように聞こえるだろうけれど
絶対的な孤独を引き受けられる者達だけだ
スターというのは、
十字架に掛けられる前から、十字架に掛けられた存在なのだ
スターというのは、
チャップマンに射殺される前から、
もう誰か熱烈なファンに射殺されることが決まってしまっている存在なのだ
ガンジーしかり、マルコムX、キング牧師、然り・・・
だからわたしも、手を震わせ、脂汗をかいて、「なってもいい」と宣言した
迷える子羊たちとは、いつも羊飼いを捜しているが
本当は羊の皮を被った狼なのだ
血に餓えた暴徒なのだ。
いつだって、次の生け贄を探している
その唯一の例外が天皇陛下と日本国民の関係なのだが
今後はどうなるのかわからない
ただし、もし誰もがスターになったのなら、この禍々しい十字架から・・・
スターは、王将は、免除されるし、この時代ならば、その奇跡は有り得る
ただ、そもそも何で
「羊の皮を被ったずる賢く無責任な、血に餓えた暴徒」どもに、
カワイイ自分の命を危険にさらしてまで舞台の上に立つ必要があるだろうか?
学ぶ気がないヤツなど放っておけばいい
56億7千万年を何回だって繰り返してりゃあいいじゃないか?
・・・それが望みなんだろ?
逆に真摯に学ぶ気がある人は、どんどん勝手に先に進むだろう
わたしなぞ無用だ
もし、そうではない、どうしても私だけが持っている鍵があるのだとしたら
取りに来ればいい
なんでオレがチンドン屋に頼んで広告費を払って呼ぶ必要がある?
せいぜいこのブログぐらいで充分だ
気が向けばフェイスブックのシャンタンさんのところで暴れればいい(笑)
っということで、お昼寝の時間だ
バガヴァン師はOSHOからバトンタッチした人だと言うことだ
かなり前にyoutubeでバガヴァン師のビデオを見てすっかり惚れ込んでいた私は
シャンタン氏のその話には抵抗はない
しかし、このイニシエーションが終わった帰り道の新宿線車中から、
精神的には地獄が始まった
「みんなとハグしなさい」という、なかば強制的なサジェスチョン
ギバー(与える者)という言葉、
・・・シャンタンさんからは、「自分が与えるというエゴからではない」と
ちゃんと説明されたのだが、それでも“ギバー”という言葉には「やり手」
であることを強く感じる
ワンネス・リーグという言葉、
・・・う~ん“リーグ(競技団体)”ですかぁ・・・・これもかなり抵抗がある言葉です。
・・・OSHOの口からでは絶対に出てきそうにない言葉です。
まなじぃさんという、やはり尊敬すべき大先輩サニヤシンからも
「OSHOのサニヤシン達からはバガヴァンのディクシャグループは
強く反発されている」っときいて、ああなるほどねと思った
かといって、OSHOの“引き継ぎ手”であるサニヤシン達に対しても
昔から致命的な“違和感”があるので、どちらか一方の立場になりきる
気にならない
サニヤシンの中ではもっともオープンなまなじぃさんの無償の愛により
オーシャンさんを紹介していただき、そのあたりの違和感をぶつけてみた
ところ、かなり明快な回答を得られた
「バガヴァンのグループでも、何も判っていない人が多いよ」
「あなたが感じたハグの欺瞞性と心の痛みは正しい」
「要は、チェンバーで得られる答えにせよ
『自分自身こそがデヴァインなのだ』ってことなんだよ・・・」
うっわー、さすがまなじぃさんからも「型破りなギバー」と
聞いていただけあって、超特急な卒業式になった
ほんの数日で、バガヴァンのグループも、ある意味で駆け抜けてしまった
感がある。
瞑想とは何かと言えば、いろいろ表現出来ると思うが、
それは「内面とは何か?」という問いの解答とほぼ同じだと思う
“内面”とは“場所”ではないと言うことなのだ
“内面”とは確かに“原点”、“グラウンド・ゼロ”なのだが、
三次元空間上のどこかの座標ではない
“そこ”を指さすことはあったにせよ、
それは方便、象徴、比喩に過ぎない
だから、
“外面(がいめん)”とは?、
・・・私たち日本人にとってはなじみがある仏教用語である
“外道(げどう)”とは、じつはこの三次元空間上の「すべて」を意味する
つまり、じぶんというのを、あるいは自らの肉体のどこかのチャクラに
フォーカスして、一点の座標を特定したとしても、それは“消滅”してしまう。
なぜなら、そこには“有(特定の個体)”は存在しないからだ
そこには“間(ま)”がある
矛盾したような表現なのだが、“無”だけが“有る”
そして、この全宇宙空間「すべてのすべて」さえも突き抜けて、探求の指先は
その外側へまでも爆発してしまう。
OSHOの講話の中に、イエスがピラト提督に「真実とは何か?」と
問われるシーンを引用した話がある
ピラトはイエスの回答を待つまでもなくその場を去ったそうだ
それは、「そんなものあるわけないだろ?」ということだ
イエスは沈黙で答えた
OSHOの解説では、この沈黙とは
「解答すべき対象がばかでかすぎて返答不能だったから」だそうだ
つまり、私が以前書いた
「真実なんて無いよ」ではなく
「真実とは“無”である」ということと対応していると思う
これらは、「ギバー」とか「リーグ」という言葉には到底収まりきらない
じゃあ、「たとえOSHOが地球に帰って来たとして
何が出来るのか?」っと言うことになる
ここにオーシャンさんの“型破りさ”あがある
OSHOはそもそも、「私はあらゆる宗教組織を否定する」と宣言した人である
しかし、開きメクラがほとんどの、この地球の住人達には、
ローレックスの時計や
11台のロールスロイス、
シーラの裏切り劇しか見えない
OSHOとはその肉体存在それ自身が一種の“公案”なのだ
だから、ほとんどのサニヤシンも、OSHOの読者もそこを突破出来ない
だから、もしバガヴァンが本当にOSHOの引き継ぎ手なのならば、
OSHOのとてつもない究極のジョークも引き継いでいるだろう。
それをオーシャン氏は、あっさり言語化してしまったわけだ
「あなたが、デヴァインだよ(爆)」っと・・・
実はこれは、わたしの“密かな”解答と完全に一致している
だから、わたしは「自分がスターになっても良いけど?」っとなる
でも(可能な限り誤解を回避する為に言えば)
このスターというのは、特定の「選ばれし者」では無い
本当は誰もがそうなのだが、引き受けられる者がいないだけだ
本物の友情が可能なのは、
矛盾するように聞こえるだろうけれど
絶対的な孤独を引き受けられる者達だけだ
スターというのは、
十字架に掛けられる前から、十字架に掛けられた存在なのだ
スターというのは、
チャップマンに射殺される前から、
もう誰か熱烈なファンに射殺されることが決まってしまっている存在なのだ
ガンジーしかり、マルコムX、キング牧師、然り・・・
だからわたしも、手を震わせ、脂汗をかいて、「なってもいい」と宣言した
迷える子羊たちとは、いつも羊飼いを捜しているが
本当は羊の皮を被った狼なのだ
血に餓えた暴徒なのだ。
いつだって、次の生け贄を探している
その唯一の例外が天皇陛下と日本国民の関係なのだが
今後はどうなるのかわからない
ただし、もし誰もがスターになったのなら、この禍々しい十字架から・・・
スターは、王将は、免除されるし、この時代ならば、その奇跡は有り得る
ただ、そもそも何で
「羊の皮を被ったずる賢く無責任な、血に餓えた暴徒」どもに、
カワイイ自分の命を危険にさらしてまで舞台の上に立つ必要があるだろうか?
学ぶ気がないヤツなど放っておけばいい
56億7千万年を何回だって繰り返してりゃあいいじゃないか?
・・・それが望みなんだろ?
逆に真摯に学ぶ気がある人は、どんどん勝手に先に進むだろう
わたしなぞ無用だ
もし、そうではない、どうしても私だけが持っている鍵があるのだとしたら
取りに来ればいい
なんでオレがチンドン屋に頼んで広告費を払って呼ぶ必要がある?
せいぜいこのブログぐらいで充分だ
気が向けばフェイスブックのシャンタンさんのところで暴れればいい(笑)
っということで、お昼寝の時間だ
コメント
コメント一覧 (16)
季節の運行や王権の授受、災害の平定みたいに「強いけど劣化する力」を王が持つことを前提としてる宗教観と
神道の天皇じゃそぐわないもの
ディクシャを離れてよかったですね。
ディクシャをしているサニヤシンは、本質を取り逃がしている人たちだと感じます。
最たるは、シャンタン。
OSHOは、汝自身の光で在れ、と言ってますが、
バガバンは、私が悟りを授けてあげようなどと語ってますよね。
元々の本質であるものを、授けることができるものなどどこにもいないのに。
不要なものを溜め込んでしまったから、見失い苦しんでいるのに、
他の何かを授けようとは、いったい何の冗談なんでしょうね。
> ディクシャを離れてよかったですね。
確かに、「ギバーだなんて、嫌だ」
というのは私の中で明確に出た答えです
また、シャンタン氏はは彼のフェイスブックで、
クリシュナムルティーを
「救世主になることを頑固に拒否して苦しんで死んだ男」
っと表現しています
これに関してわたしはクリシュナムルティーに
シンパシーを表現しました
https://www.facebook.com/rikuro.miyai/posts/616423028474633#
でも私のコメントを読んでいただければお判りのように
わたしはクリシュナムルティーとも考えは違います
また、シャンタン氏本人にもテイクサニヤスのことを
実際にお会いしたときに以下の様に尋ねました
「いまなら、確かにテイクサニヤスは出来るだでしょう」
「ところが今は、テイクサニヤスの為の動機自体がうすらいで
しまってるんです」
「なぜなら、わたしにとってOSHOはマスターと言うよりも
父、マスターと言うよりも友なんです」
「弟子とマスターとの関係をあれほど強調していたOSHOだけど
もはやそれも方便にしか見えない」
そのわたしの話を聞いてくれたシャンタンは
「うん、その通りだ」
と答えてくれました
「わたしだって、バガヴァンの組織の一員とか、弟子という分けじゃないよ・・・」
と言ってくれました
なんだか、バガヴァンの関連の人達でも、(嫌な表現方法ですが)
ハイクラスのレベルの人達は、これらナンセンスなショーの
オチを最後まで判っていて、敢えて演じていうるような気が
してならないんですよ
どちらにしろ、OSHOは自らそれを示してくれている訳で、
それは、自分自身の中にあるのですから。
バガバンに与えてもらう必要のあるものなどないのですから。
確かに間違いございません
禅宣言シリーズでは、OSHOは画面に向かって
「友よ」
っと最初に話しかけています
その映像を見てとても胸が熱くなりました
長年の想いが通じたような感でした
> バガバンに与えてもらう必要のあるものなどないのですから。
わたしはバガヴァンの著作というか講義録というのをまとまっては一つも
読んでいないので、そういう記述があったのならば、大変お手数では
ありますが、このコメント欄に是非ご引用いただければ幸いです
もし、「エンライトメントはオレが与えるものなのだ」みたいなおかしな
表現をしているとしたなら、私のバガヴァンへの評価はかなり変わります
ここの読者は少なくて、大した影響もないブログではありますが
シャンタン氏のフェイスブック経由で見に来ている人がいるので
それで目を醒ます人もいる可能性はあります
わたし自身がバガヴァンに関して「あれ?」っとすでに思っていることは
「信じなければ何も顕現しない」
「疑ってはいけない」と7月27日でのスカイプダルシャンでの質疑応答でした
これは正直、耳を疑ったし
そもそも、「福島を癒す云々」と言うことに関しても
シャンタン氏の投稿に関して、私は皮肉めいたコメントを書いています
https://www.facebook.com/rikuro.miyai/posts/615851631865106
「もしあなたが指先一つで地図の上の福島に触れただけで
原発漏れを止められるとしたら、そうしますか?
多分私はしないでしょう・・・」
「なぜならそうした方が良いという確証を持てないからです」
ところがシャンタン氏自身も、その私の意見に関して「いいね」を押してきているのはちょっと意外でした
なので、「すべて判った上で、あえてバガヴァンに頭を垂れている」のではないか?っという仮説がぬぐいきれません
バシャールが言うとおり
「疑いと信じる事とは同じエネルギー」だと思います
単にベクトルの向きの問題です
ただし、重要なことはどっちの方にベクトルを向けるにせよ
このベクトルは全て外向きであると言うことです
つまり、「他者への期待や失望」こそが、このベクトルの正体です
私はその点で、バガヴァンがどうとか評価出来る立場にはありません
最も基本的な立脚点はそこですね
なぜバシャールが出るのか分かりませんが
バシャールは、それとは程遠いと感じますが。
それは、内側に在るのだから、直接観れば良いだけですから。
それは、右でも左でもなく、中心に在るのですから。
わたし自身がまだ自己受容からほぼ遠かった時期、
自己受容の重要性を教えてくれたのはバシャールでした
まあ、OSHOも自己受容の重要性はずっと話していたことではありますが
バシャールの表現の方が私の心に届いたという点では
バシャールは恩人です
また、彼の星では「すべての人が全ての人に結婚している」というのも
最初は「ふ~~ん、さすが宇宙人種やね」ぐらいにしか思っていなかった
のですが、いまは地球全体にとって切実な問題だなと思ってます
都留晃一氏やバシャール、そして最近のスピ系では“無条件の愛”を
強調する風潮が強いですが、つまりはボーダレスということです
これは当然現実社会の中では実現していません・・・無条件の愛に
関してはわたしはこのブログでも何度か批判してきた言葉です
愛や自由や平等は事として外部へ要求した途端に激しい反作用を
起こします
また、バシャールとわたしとのもう一つの食い違いは、夢に関してです
彼らは「意識的な夢を永遠に見続けると決めた」そうです
いかにもチャネリング対象の宇宙人のお話らしいけれど
わたしはこれは望まない。たとえ意識的な夢であっても
やはりそれは投影だと思う
そうですか?
わたしは日々の生活などでは自分の信念体型は
大いに役立っています
> それは、右でも左でもなく、中心に在るのですから。
「それ」に関してはもう少し具体的にお尋ねしたいところですね
「それ」というのがOSHOがいう存在そのものを意図していらっしゃる
のなら、「それ」へのアプローチのためには信念体系は確かに
邪魔と感じることもあると思います
信念体系はすべて因果律、つまり時間の流れという錯覚に基づいた
相対世界において成り立っています
なので、右とか左とか言う片寄りでもなく、中心ですらなく
「信じる」「疑う」の中間地点でもなく、「それ」はまったく別次元であると思う
つまり、「内面」とはどこかの三次元座標に存在するものではない
かといって観念上のものでもない
「それ」とは時間(=渇望)の静止した恍惚の光の中に
意識がメルトした瞬間の中に出会えると思う
っというか、「それ」との出会いは最近だんだん増えてきていますし
再現性への手がかりも見つかってきています
最初は非常な恐怖に襲われましたが、最近はだんだんその
恐怖感も薄らいでます
当初の内は「現実世界に帰ってくこれる」様に思えなかったのですが
寿命が来るまではどおやら帰ってくるようです(笑)
もっとも、「それ」と出会っている時、「出会っているわたし」は
消滅していますから、正確には「出会い」でも「体験」でもありませんが・・・
私も、スピリチュアルなことに興味を持った最初の頃は、バシャールやエクトンなど、チャネリングに興味を持った時がありました。
でも、彼の星のことは、ふ~ん、くらいでよいのではないでしょうか?
なぜなら、彼は居る必要があり彼の星に居る。
私たちは、居る必要があり地球に居る。
訳ですから。
本当に伝えたいことがあるなら、誰かの体を借りて好き勝手なことを言うのではなく、
体を持ってこの星に生まれ、自ら生き、自ら体現することでそれを示すでしょうから。
バシャールだけでなくいろんなところで情報を集めて居られるようですが、
知識ばかりを集めて混乱していませんか?
内なることは、頭は必要ありません。
思考は、意識の一番外側にあり、内側に入ることはできませんから。
内なることは、ただ感じることができるだけです。
それができたなら、外側のことも考える必要が無くなります。
愛、自由、などという言葉も、思考から使うなら表層の偽りのものを作り出してしまいます。
愛とはこんなものに違いない。
愛ある人は、こんなことをするに違いない。
というように。
しかし、愛とは、私たちの本質の一つです。
それは、内側深くにあります。
内側深くに入って、繋がればよいのです。
すると愛に満たされ、そこから起こることは愛の表現になります。
信念体系は、外側のことも内側のこともあるがままに観ることを妨げています。
しかし、役に立つと感じるなら、使い続ければよいだけです。
右や左、正しいや間違い、信じることや疑うこともは意識の一番外側にある思考にあります。
そして中心とは、その間ではなく、違う次元にあります。
それは、この瞬間が、過去と未来の間に在るのではないのと同じです。
ですから、信念体系から生きるのと、内なる次元から生きるのでは、全く違う世界を生きることになります。
全く違う次元に生きていても出会えるのが、この星の醍醐味ですね。
恐怖とは、それから分かち、思考に同一化してしまった原因である内なる壁の構成要素の一つですね。
この辺りは、悟りのシンクロニシティの127ページに描いてある、意識の多重構造マップをご覧いただくと分かりやすいと感じます。
ただ、書き込んでいただいているお言葉を拝見していると
あなたの「教えてやりたい」という気持ちの強さをどうしても感じてしまいます
比較してしまうのは大変失礼ではありますが
「静かな受容性」に関してはシャンタン氏により強く感じるものがあります
もちろん私の勝手な感想ですので、あまり気になさらないでください
お薦めいただいた「悟りのシンクロニシティ」
アマゾンで評価を拝見してきました
「悟りの境地とは、全く特別なものではなく
日々の当たり前の中にある」
まったく同意です
なので取り立てて、この本を買わなければという
衝動には襲われませんでしたが、いつか見かけたら
是非読んでみようかなと思いました
私は信念体系を日常の仕事や買い物に使っています
たとえば作業の効率化だとか、コストパフォーマンスの良い
買い物の方法だとか・・・
要は過去の体験を体系化して見いだせる法則性のことです
こういったものは、非常に役に立ちますし
逆に言えば、何をするのにもいちいちリセットがかかっていたら
痴呆症のような人生になってしまうでしょう
この相対の世の中では、比較や過去の蓄積、そこから見いだされる
法則性を知る事は非常に重要です
ところが、そういった比較やら類推がまったくお手上げの問題があります
愛の問題や、人生の価値、意義を問うこと、・・・
これらは、機械的な比較は出来ないし、類推を絶する究極的な洞察が
必要であったり・・・
そんな時にはあらゆる信念体系に対してフラットであるべきだと思います
そうではないのかと感じたので、答えたまでですから。