We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

「人殺しなんて悪いことに決まっとるやないかぁ~!!」
という大前提に立てば、
〝殺さない〟と〝殺せない〟との微妙な違いなど
どうでもいいこととして見逃してしまうかもしれない

「しない」と「出来ない」とでは
日本語上なら誰にも分かる明瞭な違いだが
ひとが自らのこころを理解しようとする時
「当たり前の明瞭なこと」の中に
とてつもない本音が押し込められ、抑圧され、
潜んで見えなくなってしまっていることが多々ある・・・
それは「自分自身の本音との出会い」に大きな障壁となる

ねっふりで連ドラ「100万円の女たち」を昨夜見終わった
2018-08-26 (2)
主人公の(あまりぱっとしない)若い作家は、
父親(リリーフランキー)が妻(つまり主人公の実母)の
不倫中の現場に出喰わし、
衝動的に不倫相手共々刺し殺してしまい、
死刑が確定しているという経歴を持つ

だから主人公の書く作品では「人が死なない」・・・・
それは父親が殺人者だという罪悪感を背負っている故だった

その罪悪感は、彼に「人を好きになる」という感情を抑え込んでしまっていた
そんなどこか無感情な、ぬぼ~っとした主人公に突如、五人の美女が
転がり込んできて、家賃を各人が月100万円も支払いはじめる・・・

そんな奇々怪々な状況が始まって、もうかれこれ半年が過ぎて・・・
っというところからドラマはスタートする

このドラマのメインテーマは、この主人公の〝罪悪感〟であろう・・・
ドラマのクライマックスにおいて、主人公は指摘される

  「あなたは〝殺さない〟のじゃなく
        〝殺せない〟のだ・・・」っと

この〝殺さない〟と〝殺せない〟との微妙な違いの中に
主人公の罪悪感が、・・・

  ・・・つまり
「如何なる理由があれ、人を殺すのは許されないことだ」という
 〝誰でも同意しえる〟道徳観が、強迫観念として主人公の胸ぐらを
  ずっと掴んで話さないでいるのだ・・・・

ラストシーンでは、主人公は叫ぶ
  「もう、誰も傷つけたくないんだ!」っと・・・

確かにその言葉自体は主人公の優しい心を物語ってはいる・・・
しかし、その〝優しさ〟はあくまでも強迫観念に凍り付いた主人公の
「正しさ」から絞り出された言葉に過ぎない

たぶんこのドラマの原作者は、主人公の
〝殺さない〟と〝殺せない〟との違いも
        凍り付いた「正しさ」も、
        「ニセモノだ!!」と
      言いたいのではないだろうか?

人を殺すのは悪いこと
人を傷つけるのは悪いこと・・・

  しかし、それらの〝正論〟が
  強迫観念に凍り付いたこころから語られたならば
  それは「真正なもの」ではない・・・

  つまり、
 「正論」よりも「真正さ」が優先することを描いた作品なのでは無いだろうか?

かく言う私自身にも、主人公の様な「恋愛恐怖症」がある・・・

 「人を殺してしまったらどうしよう?」
  「相手を傷つけてしまったらどうしよう?」

  それはもっともな、当然な、責任感溢れる・・・
  そして一見、こころ優しい危惧(心配)にも見える

私だけではなく
現在、なぜ世の男性に恋愛恐怖症が広がっているのかと言えば
この「心優しい計算高さ」が作用しているのでは無いだろうか?

最近「テレビ番組が面白くなくなった」というのは私自身も強く同意する
しかしある意味、ちょっとテレビ番組の制作側に同情していうならば
「侵害だ」「差別だ」「傷ついた」というクレームを、制作側が
ビクビクしながら「無難な」内容のものしか放送出来なくなった・・・
                 という事情がある様だ

除夜の鐘すら、最近は「近所迷惑だ」の電話で自粛する場合があると聞く
現代というのは、「クレーマーの時代」「被害者の天下」という様相がある

怪しげな、ビクビクした〝気遣い〟〝優しさ〟が、
非常に人々ののびやかな内発性を萎縮させ窒息させている時代だと言える

鼻歌を歌えばジャスラックが飛んでくる
踊ることも出来ない、愛することも出来ない、呼吸すら遠慮しながら・・・


・・・そんな中で、一体どれ程「生きる価値」が残されているのだろうか?

そう考えていくと
つい先日見たOSHOのドキュメンタリー
ワイルド・ワイルド・カントリー」を
       思わず思い出してしまう

思考やら観念やら信念の上で展開される「善悪」「正邪」が
如何に虚しく、偽善的で、そして殺人的ですらあるのか?

それはひょっとしたら実際の殺人を〝上回る〟罪でさえあるかも知れない

なぜなら観念とは覚醒の代わりに自己の責任を負おうとする
粗悪な代用品だからだ

ロボットは「汝殺すなかれ」とプログラムされれば、確かに殺さないだろう
それは単に「殺せない」だけなのだ

ロボットが殺しても殺さなくても、ロボットには罪は無い
「罪を犯さない」のではなく「罪を犯せない」だけなのだ

そしてロボットには愛することも命の尊厳も解らないままだ

「殺す」「殺さない」も、「愛する」「愛さない」も
表裏一体の可能性で
同じ内発的な意思を持つ者だけに与えられた選択だ

100万円の女たち」を見終わり、
私は作者からそんな風に語りかけられている様に感じた




五井野正氏は著書「科学から芸術へ」の中で
「イコールでは無く“移行〟」ということを書いている
「1+1=2」だというならば
本当にバラバラの1が二つと、その両者が結合した「2」とは同じか?

その左辺が右辺に〝移行〟する為には時間とエネルギーが必要なのであって
それは化学的にはちゃんと2H+O→H2Oと言う様に矢印で表現するのに
数学では無理矢理イコールで結びつけている・・・
  と言う指摘だ

科学から芸術へ
五井野 正
創栄出版
1995-12


これは私が20年近く五井野氏のところで学んだ中では、最も深く感銘した指摘だった

つまり、右辺と左辺ではエントロピーが変化しているのだ
確かに数字の「1」とは数字の単位源だから、それは単純に
「2と言う数字の定義とは?」と言う意味でなら
「1+1=2」と言ってもいいかも知れない
では右辺と左辺を倒置して「2=1+1」なのか?っといえば
皆さんは「あれ?」っと思わないだろうか?

0.2+1.8だって「2」になる
6÷3だって「2」になる

つまり右辺と左辺とではエントロピーが違うのだ
これを無視して数学は成り立っていることを五井野氏は指摘している

モノの「個数」(~整数)や
「量:クオンティティー」(~小数)を計算するだけならば
             確かに従来の数学は役に立つ

しかし、「0」~「1」~「2」~「3」~ ・・・「9」
数字それぞれの独特な「質:クオリティー」に関して従来の数学は無頓着だ

この「質(クオリティー)」を論じているのが「数秘術(ヌメロロジー)」であり
カバラのゲマトリアなどが代表的だ

これは前回の記事の「事実と真理との違い」に平行した問題だと思う
事実というのは一切のキャラクター付けがされていない無味乾燥なものだ
事実を解釈意味付けして、キャラクター付けするのは私たち人間だ

それによって初めて事実とは「人格的な顔」を持つ
そこで数字も生き生きとした人間的なドラマやストーリーに参加する様になる
「2」や「3」は単純な「1」の合成物では無く、独自のキャラを持つ

無味乾燥な事実の羅列や蓄積というのは巨大な瓦礫の山だ
それが緑の溢れる生きた自然の山に変化する為には
単に数学的なだけでは無い、化学的な反応がなければいけない

しかし、太古の地球に生命が発生した瞬間に、
単なる化学的反応だけがあれば良かったのか?

生命が存在しない多くの無名の星々は、単に「事実」としてだけ存在している
    しかし宇宙的なバランスの重要性を考えた時に、
    この世には無駄なものは塵一つ無いのだろう・・・

OSHOが言う「真理」とは、
まさしくこの物質(事実)だけの世界に生命が宿り始めた起源・・・
・・・・エントロピーに逆らうエネルギー体が
   「聖なる介入」をはじめたキッカケにまで遡る様に思う

私たちが安易に「比較」に囚われやすいのは
「量」に囚われすぎていて「質」が見えないからだ
それは希少なものの価値が見えない、微妙なバランスの意味が見えない
そして、「人生を生きる価値」に対しても盲目になりやすいことともなる

私は、伊東聖鎬氏から
「この宇宙が生まれた動機と、あなたが生まれた動機は同じです」
            という名言を聞かせていただいたが、
その言葉を応用するなら
「生命の誕生物語とわたしの誕生した動機も同じ」なのだと思う

それが「右辺と左辺とのデリケートな違い」の中に語られているに違いない

真理は人物ではないし、
真理はどこか外にあるものではない。
それは客体として 見つかるものではなく、
みずからの目撃しつつある主体だ。



知的に知りうることは99.9%正しいかも知れない
しかし100%はあり得ない

物理的には完全に正しいことであっても
それは単なる〝事実〟に過ぎず
真理とは、単なる事実の羅列のことではない

たとえば
「隣の奥さんは不倫していた」だとか・・・
「OSHOが斯く語った」だとか・・・

  ・・・「それが何?」で終わりだ

事実を記述した紙を月の距離まで積み上げたとしても
それによって真実が導き出されることはない
ここにAIがシンギュラリティを向かえ、
認識主体である意識が目芽生えるか?否か?の鍵がある

真理とはシンプルに、自明のことに過ぎないかも知れない
しかし真理は、それを悟った者達を圧倒する、ノックアウトする
ひとの意識を変化させ、生き様をひっくり返す・・・それが真理だ
真理にはそれだけの大きな力がある
そうでなければ単なる知的に事実を知ったと言うだけのことだ

事実というのはひとつひとつの事象の記録でしかないけれど
それを如何に観るのかによって人々に全く違った解釈や実感を与える

たとえばひとつの事件や事故を観ても
それは観る人によって色んな教訓や感想を抱かせる・・・

・・・それによって「私はそのことを知っている」と各人が思う
   しかし「たったひとつの事件」に対して
   各人が持ち帰った教訓や感想を照らし合わせてみると
   あきれかえる程違っていたりする

そのどれかが〝正解〟であったり〝誤解〟であったりすることは
真理とは無関係なのだと思う
「真理とは何か?」と考えた場合、
それらさまざまな視点や解釈は皆、
人間的な〝何か〟に過ぎない、相対的な意見や解釈に過ぎない
と言うことが重要なのだ

ある人の意見は斬新で鋭いかもしれないし
ある人の感想は的外れなものかもしれない

・・・しかしそれらはすべて〝人間的な解釈〟の範疇を出ない

精神病院の中の百人の患者が、
「余はナポレオンじゃ」と宣言したにせよ
その中の一人は、本当に前世がナポレオン・ボナパルトなのかも知れない
あるいはナポレオンの魂が100人に呼びかけているのかも知れない
誰かが何かを宣言したとして、私たちはそれについて何と言い得るだろうか?

人々の目に映った事実とは、たったひとつの単純なことに関しても十人十色だ
だからそれは相対的でどれかひとつが絶対的と言うことは無い

「あれに関すること」を指さしたとしても
「これに関すること」を指さしたとしても
「それに関すること」を指さしたとしても絶対的な知などありえない

私たちが断言し得ることとは、常に「いまここ」に関してのみだ
あなたの「いまここ」に関する絶対的な知、絶対的な権威はあなただけが持つ
わたしの「いまここ」に関する絶対的な知、絶対的な権威はわたしだけが持つ

それは、周囲の誰の同意も得られない
誰かの同意を得たとしても、その同意には何の絶対性もない

たとえ今まであらゆるパラレルワールドがあったにせよ
たとえこれからあらゆる平行宇宙の選択肢があるにせよ
それら無数の線を束ねる「いまここ」というキングピンは、たったひとつしかない
それは「解釈」「感想」といった曖昧な余地を一切持っていない

 ・・・OSHOはその認識主体を〝真理〟と呼んでいるわけだ

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