We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

この世界には大別して二種類の法則が支配している様に思う

ひとつは有限の法則・・・(書き表せる)可視の法則
この世にかたちあるものとして現れたならば、
塵一つに至るまで
そこには必ずなにがしかの法則による支配がある

 逆に言うならば、全く何の法則の支配も受けずに
 この世に現れることが出来るだろうか?
 この世に現れ出でると言うことは
 「なにがしかの法則の許に現れる」と言うことだと思う

例え私たちの目から見て
魔法の様に現れて、変化し、消え去るものがあったにしても
それはあくまでも
  私たちの波長とスケールと次元の範囲内から見てのことであり
私たち人間を、
地を這うアリンコの様に見下ろす未知の波長とスケールと次元からみれば
    そこにはきっと私たちが思いも寄らぬカラクリが働いているはずだ

・・・
もうひとつ、
 「無限を根拠とした法則なき法則」とも呼べる「何か」が
          この世界にも働いていると思う


「コンピュータの基礎理論を作ったフォン・ノイマンの『量子力学の数学的基礎』という論文には、量子力学の数学的な扱いが延々と書いてあるのですが、その中で何が波動関数を収束させているのかについてたった1カ所、“自我である”と書いてあるんです」
ここでノイマンが言っている〝自我〟というのは
    〝自由意思〟と読み換えても良いと思う

〝自我〟であれ〝自由意思〟であれ、
要は
意識を持ち、意思を持つ生命体の存在を敢えて無視して
物理学は発展していった・・・、何か厳密な物理学の実験装置に
あなたが手を伸ばしたら、あなたは科学者達から叱られるだろう
っということだ

私たちが
量子力学の実験装置にイタズラを仕掛ける意思を持ち合わせていることが
果たして自由の本質なのか?は、議論の余地があると思うが、
少なくとも生命現象がエントロピーの法則に反している・・・、
その点には有限性と無限性との境界線が存在している様に思えてならない

この世界が必ずしもリクツばっかりではなく、
アクシデント、ハプニング、フェイント・・・
カオスなイタズラ心で満ちていることを
私たちは人生の実感として感じている

それら〝不測の事態〟を文明の利器で
  〝思い通りにコントロールする〟ことこそが
       人間的な自由の通念なのだけれど
しかし、
本当は、
そういった「宇宙的な気まぐれ、イタズラ」に委ねることにこそ
            人生の本質的な自由がある様に思う

それが
「絶望(ゼロポイント)を通過することで
 突如開示される新しい水平線上に現れる希望」

  ・・・つまり、「自由意思を超えた自由」だ

森羅万象は、
多種多様な有限法則、限定法則が複雑に絡み合って
万華鏡のように変化し続けているが、
その「千変万化」は、全体的には「無限性」を表現している・・・

それら「森羅万象のサイケデリックな千変万化」の
一つ一つを切り取って観察、分析するならば、
私たちはそこに一種の規則性を発見できるだろうが
あえて微分も積分もせずに、
あるがままをあるがまま見た時
そこには宇宙の根源(ルーツ)である無限性を表現しようとする・・・、

・・・すがた無き
 ・・・画家が、音楽家が、舞踏家が
   ・・・臨在していることを感じる

    宇宙の表層は「科学(有限)」だが、深層は「芸術(無限)」だ

私が今回ここで書き残したかった防備録とは
この
〝どちらも〟〝同時に〟存在していると言うこと・・・
アインシュタインの様に・・・、
分離しがたき同一人物の中に
個性としてブレンドして存在していると言うことだ・・・
                 ・・・科学者と芸術家とが

これが単純に「どちらかだけ」であれば、話は簡単だ
便利に「使い分けできる」のであれば、
何も、謎は、混乱は、なかったかも知れない

でも、OSHOの弟子達をずっと見ていると、
あまりにも右脳的な「芸術家的な生き方、職業」に偏っている気がする
その感じは
私がOSHOの言葉に夢中になっていた二十代の時、すでにひしひしとあった
それゆえに一旦、私はOSHOの世界と人間関係から離れた、
いや、ほぼ拒絶していた

そして二十年近くが過ぎ、
私の中で国際政治の陰謀論に愛想が尽きた2008年末から、
私はまたOSHOに戻っていったが、
だからといって
この過去のサニヤシン達への〝違和感〟が消えてていた訳ではなかった

つまるところは、無限世界と有限世界とは分離しがたい、というのが結論だ
「法則のある」世界観と
「黄金律など無い、ということが唯一の黄金律」という世界観とは
     上手に、器用に、単純には使い分けられないのだ・・・

だから高倉健さんのセリフではないが、
「不器用ですから・・・」と、いうところに落ち着くことになる

OSHOにせよ、その他の覚者にせよ、
彼らの教えとは、「教え」ではない
彼らから「生き方」「人生のノウハウ」を学ぶことは出来ないのだ

「私は知っている」という感覚ほど有害なドラッグは無い
           ・・・そうOSHOは「存在の詩」で語っている

「知っている」ということは当然「何かについて」だ
わたしが「何か」について「知っている」ということだ

その時、わたしは「何か」について特定の観点から語っている
「何か」について定まった観点から見た時、
はじめて私たちは「何かを知っている」という感覚を持つ

そしてそれは即時に「別の観点も存在する」ことを暗示している
単純な、たったひとつの事実に関してでさえ
天地上下左右、360度・・・無限に沢山の観点が有り得る
そしてどの観点も真実を内包している

だから
ありきたりな、ありふれた、「当然のこと」でさえ・・・、
いやいや、
「当たり前の事だ」と思い込んでいからこそ!
その「知っている」という感覚は私たちを特定の世界観に縛り付けてしまう

「もしかしたら全く思いもよらない、別の世界観、別の観点があるかも知れない」
少なくともそう、自分の常識を疑う余地があるならば
私たちは多少は自由だ

もしあなたのグルが『私は知っている』というならば
           彼は何も分かっていないと思ってよろしい
 なぜなら
   『知っている』ということが指し示すのは常に過去のことだからだ
                  っとクリシュナムルティーは言う

つまり
  「私たちは多少は自由だ」と言った時、
    私たちは一体「何」から自由なんだろうか?

・・・つまり「知っている過去」から自由なのだ

      「知っている過去」とは、つまりはアイデンティティーそのものだ

       「知っている」という感覚の正体とは
        「自分という感覚」を支えている土台そのものだ

        「そんな事ぐらい当たり前だ」
        「そんな事ぐらい知っている」と自信満々に宣言する時
              私たちは岩のように堅い現実を感じている

     その時、その「岩のように確かな現実感」とは
     その実、「岩のように確かに存在するジブンという感覚」を
                      同時に発生させている

だから逆に言うなら
 私たちは、自分の常識、世界観が崩れ去ってしまった時、
 私たちは、人格崩壊をも起こしかねない

でもそのナーバスな、アンビバレンツな、危険な状態とは
同時に「大いなる自由」に向かって開かれつつある状態だとも言えると思う

そこには、もう安全地帯は無い
「私は」「知っている」と
 主張出来る、ふんぞり返ることが出来る・・・
        「支えとなる観点」はもう無い

「私は何一つ知らない」という無垢になった時
  その感覚は恐怖で私たちを戦慄させるだろう・・・

  そんな危なっかしい状態の、いったいどこが「自由」なんだろうか?

     ・・・・しかし、「自由」と「安全」とは決して両立しない

「わたしは赤子のように何も知らない」

そんなガケップチの自覚に立った時、私たちはあらゆる観点から自由なのだ
なによりも、安全な過去の知識にしがみつこうとする、自分自身から自由なのだ





「あなたの解釈が
 あなたに害を与えます。」



解釈、意味付け、概念、定義・・・・
そういったものを判断材料として
ありのままの現実に対して下すことによって
私たちは〝自分の置かれた立場〟を確認しようとする・・・

「カレは私のことをどう思っているの?」

これが一昔前の恋の占い師達が
もっとも聞かされてきた質問だ
私もウンザリする程聞かされて
そして占い師をやめた

「当たるも八卦当たらぬも八卦」というのは
「八卦をどう解釈するか次第で占いの結果は変わる」
事を意味する

確かにセンスの良い解釈は
恐ろしい程、現実を上手く言い当てるが、
同一の事実は多様な面を持っていて
その光の当て方、つまり解釈次第でどの様にも見える

その沢山の解釈の
「どれ」が正しく
「どれ」が間違っているのか?

,,,その正誤の判断ですら、これまた解釈次第だ

それら無数の解釈の
すべてが「正しい」ともいえるし
すべてが「単なる思い込み」だともいえる

だから弁明なんて無限に続けることが出来る
議論なんて永遠に終わらない

「~イズム」つまりなんちゃら主義とは
こういった様々な現実に対する解釈のしかたや議論の、
〝どれか、どこかの正しさ〟に固執することを意味する

そこに人生を何十年も費やす人もいるし
その為に切腹する人さえいる

わたしは彼らが「間違っている」と批判したいのじゃない
また彼らの間違いを完全に証明(論破)することは出来ないだろう

論理や法則には必ず例外があり、言い逃れは出来る
ドロボウにも三分の利が必ずある

あなたは正しい!
あなたの信念はきっと紛れもない事実に裏打ちされているのだろう・・・

でもまさにその正しさが・・・、
その正しさの〝確かさ〟が・・・・!
   あなたや私をメクラにしているのだ

重要なのは「水も漏らさない完璧な理論の構築」なのじゃない
私たち自身が「水の様に生きる」ことだと思う


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