We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です


25. 実用性 Practicality

あなた自身の内成る神性を見せてくれるものに
魅せられたり、囚われたりしてはいけません。
その代わりに道に、神性に至る道の上にとどまりまりなさい。


非常に暗い夜、
森のなかで道に迷ったふたりの人のことを聞いたことがある。
それは非常に 危険な森だった。
野獣がたくさんいて、しげみは深く、まわりじゅうが闇だった。
ひとりは哲学者で、もうひとりは神秘家だった
ひとりは疑いの人で、もうひとりは信頼 の人だ。

突然嵐になり、雷鳴がとどろき、すさまじい稲妻が走った。
稲妻が光るその瞬間に、
哲学者は空を見た
神秘家を道を見た。

あなたは、この物語の森よりも
さらに深い森のなかで道に迷っている。

夜はさらに暗い。
と きとして稲妻の一閃がやってくる
道を見るがいい。
荘子のような人は稲妻だ。
覚者は稲妻だ。私は稲妻だ。
私を見てはいけない、道を見なさい。
もし私を見たら、あなたはすでに逃している
稲妻は一瞬の間しかつづかないからだ。

永遠が時間を貫く瞬間はめったにない。
それはまさに稲妻に似ている。
もしあなたがその稲妻を見たら・・・・、
    それはまさに稲妻に似ている。

もしあなたがその稲妻を見たら、
もしあなたが覚者の方を見たら・・・

しかも覚者は美しい。
その顔は心を奪い、
その目は磁石のように引きつける

もしあなたがその覚者を見たら、
あなたは道を逃している。
道を見なさい......道に従いなさい。


THE EMPTY BOAT, pp.127-128



もしあなたが
「これぞ真理だ」と右(Right:正しいもの)を指させば
遅かれ早かれ
「反対側の真理」左(Left:残されたもの)が報復してくる

だから指さされた正しさ、語られた真理は常に「片手おち」になってしまう
そのことを知っている人は他人を責めないし、自分も批判しない



そんな人の沈黙こそが雄弁に全てを語っているのだ




幸せを感じている人は
人生の意味を問うことはまずない
エクスタシーの真っ最中で深刻に問うべきことがあるだろうか?

不幸を感じている人
孤独を、不安を、退屈を感じている人は
人生の意味を問う、深刻な哲学者になる
 そしていつも、何か「意義深い目的、理由」を探している・・・

   ・・・健康に良いとか、
      社会的生産性とか、貢献とか、
      宇宙の進化とか、神の意志とか・・・

ひとは
今の人生が決して無意味では無いのだと言い聞かせる支えが欲しい
今の自分よりも、より偉大な、自分を肯定してくれるものが欲しい
  ・・・そしたら、きっと人生に納得出来る、充実できる

でも、いまここに歓びを感じている人に、
それ以上の何が必要だろうか?

たとえ私がそう問うても
きっとすぐに私は叱られてしまうだろう

「確かに今はハッピーかも知れない」
「でも今こそ、時間を無駄にせずに
 〝ちゃんとして〟おかなければ、
  きっと明日は困ることになるんだよ!」 っと

  ・・・そんな風に警告する人も多いだろう
   ・・・他人の心配をするのが好きな人達
      確かに彼らの心配は
     「それみたことか!」と
      的中することもある
      だからそういう人達は、
      もちろん、ますます、四六時中、何かを心配している

そこでもし、
「人生の究極的な意味など、ない」と私がちゃちゃを入れれば
そんな人達から私は袋だたきに遭うだろう
彼らは自分の心配に、根拠がある、確信がある
だから私は容赦なく攻撃されるだろう

でも私も彼らに疑問がある
いったい彼らはいつになれば、どうなればハッピーになれるのだろうか?
彼らが高々と掲げる「人生の究極の意味」「究極の価値」・・・
・・・でもかれらに(よせばいいのに)私はまたちゃちゃを入れるだろう

   「で、それの意味は?」っと
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   「己を失う者は、おのれを得る」
          ・・・という言葉がある

人生は何て単純明快で、複雑怪奇なのだろうか?

 この言葉は、
  クリスチャンにとっては
  「自己犠牲による魂の救済」を言っている様に見えるだろう

  OSHOのサニヤシンにとっては
  「恍惚の至福の中で起きる神秘」を語っていると見えるはずだ

私はきっとこの正反対の解釈のあいだをずっとさまよい歩いてきたに違いない

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