We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

「剣をとる者は剣で滅びる」と
   ナザレのイエスは言った

「Penは剣よりも強し」と
   いうことわざがある

では「Pen(文章)をとって敵を滅ぼそうとする者」は
   「Penによって滅ぶ」と言えるのではないだろうか?

確かに剣に比べればPenはより平和的な道具ではある
そしてPenには剣と違って〝武器〟というイメージは薄い

・・・しかし、Penは剣よりも遙かに強力な武器にもなり得る

   Penとは単に文章の象徴ではなく
       文明全体の象徴でもある

 たとえば「核のボタン」もPenによって作られた強力な剣だ

 日本が明治維新の始まりに、アメリカによって強制された
 日米の不平等条約は、桜田門外の変へと繋がった

三橋貴明:帝国主義の本質とは不平等条約にある

〝国家間条約〟という恐るべきPenの破壊力が
その後の私たち日本の先祖達を如何に苦しめたのかを考えれば
桜田門外の変という血なまぐさい事件も
一体どれ程その〝暴力性〟を糾弾しえるだろうか?

もちろん状況は井伊直弼の生首だけで解決はしなかったのだが・・・

確かに剣とは規格にならない莫大な破壊力をPenは持つ
では、その「Penによって滅びる人々」は如何ばかりだろうか??

私の様な(社会的影響力は微々たる)ブロガーであっても
多少は知らずに人を傷つけているかも知れない

「一見平和的に見える・・・」が故に
Penはインターネットの時代を迎えた現代
どれ程、「人が人を傷つける道具~武器」として使われたことだろう?

そう考えると、
むしろ現代で「Penによってもたらされる災い」と
全く無関係な人を探す方が、むしろ難しいぐらいかも知れない

それは
〝相対的自由〟と〝絶対的自由〟だ

〝選択する自由〟と〝無選択な自由〟
〝知る事で得られる自由〟と〝知らないことの自由〟
     っと、言う風にも言い換えられるだろう

「他人に騙されない、損をしない、効率が良く合理的な」
       選択が出来る人は〝賢い人〟だと言える

一方
「目の前にした運命が与えたものは
 何であれ感謝をもって
 嬉々として拝領する・・・」
   無選択、無分別な自由に生きる人もいる
    そんな人は〝狂人〟にしか見えないだろう

しかし、
私たちの人生には、
この正反対のどちらの自由も必要だ

トーシンさん流にいえば「どちらが先手か?」ということかもしれない
つまりそれは「人事を尽くして天命を知る」ということだ

食べ物だろうが毒だろうが何でも無分別に食べていたら、
そりゃあそんな人はすぐに死ぬ ・・・それは愚かな生き方だ

しかし、
人生は、そのスタートライン(出生)から〝終わり〟が・・・
つまり「死」という絶対的な運命付けがなされている

マトリックス「始まりが在るものには終わりがある」

私たちは「賢い選択」「正しい選択」をし続けることによって
この絶対的な運命を回避しているが、そこにはおのずと限界がある

私たちは日々・・・
健康に気遣い、不老長寿を求めるが
手塚治虫の「火の鳥」でも見られる様に
その「賢者への道」の背後には常に愚かな悲喜劇が繰り返される

その賢さの追求は私たちに無意識レベルでの強い緊張の原因となっている
「賢い選択、正しい選択を常にしよう」
「愚かな選択、損な選択は極力回避したい」

・・・それは知らない間に私たちに
   「生き(延び)る為の身構え」という
     無意識の緊張、硬直性を強いる

そこには人事を尽くした「賢い選択の自由」はあるだろうが
その緊張感そのものは、本質的には「不自由」なのだ

モーフィアスとアンダーソン

リラックスの中にしか、自由の本質は存在しない
無選択、無分別・・・、
「どちらでもいい」という「聖なる狂気」の中にしか
本質的な自由は無い

本質的な自由、絶対的な自由とは
「不老長寿の探求」ではなく
「不老不死であることの自覚」のことだ
そこには「選択」も「探求の努力」も「善と悪との闘い」もない



J.Krishnamultiがいう
「(知る事ではなく) 知らないことが自由」というのは
そういう意味ではないだろうか?

それが「いまここにあるものがすべて天命だ」という達観なのだと思う
そこでは生と死さえも分別しない視座なのだと思う



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真実は
 自他の否定にも肯定にも無い、
 批判にも弁明にもない
 右にも左にもない、
しかし
 その中間点にもない

それらの地平から垂直に上昇した
無限遠点の視座にのみある

意識物理学研究所より
観察と次元 observation and dimension

ただ、手つかずの、
作意なき「いまここ」にのみ
    真我、自己受容があり

純粋な「自己受容」とは
 「自己肯定」でも「自己否定」でも
 「中立」や「無関心」「冷淡さ」でもない

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