We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017-06-22
「自分が本当にやりたいことは何だろう?」

マ・プレム・アニマとの思い出がある八王子城跡の無人の寺で
20代の時、一週間立てこもって断食した時のテーマだった

でも断食7日目の朝、念仏のように脳内で繰り返していた
「自分が一番したいこと・・・」
「自分が最もやり遂げたいこと・・・」
    という問いかけは突如ピタリと止まった

寒い朝だった、ひもじい朝だった、
なのに自分は乞食のように
雨水だけを飲んで荒れ寺の中で震えている・・・・

「一体私は何を好きこのんで、
  こんな所でこんな時を過ごしているのだろうか?」

「自分の人生の目的探し」のハズだったのに
「何故いまここにいるのか?」という風に
私の問いかけは、〝いまここ〟へと突如シフトしたのだ!

「私は凄くバカなんじゃないか???」

その途端、回答は降って涌いてきた
〝いつかどこかで〟成し遂げたいこと・・・
   ・・・そんなことは死ぬまで断食して考えても
       「いま現在の」私に分かるハズはなかった

しかし〝いまここ〟の自分のホンネであるならば
それは決して難しくはないシンプルな問いだったからだ
このナンセンスな、寒さと餓えの理由は実に簡単明瞭だった
「自分自身が望んだから」だった!

 こんな当たり前の大昔の「問いと答え」を
  何故ここで皆さんにクドクド紹介したのか?

なぜならば、最もシンプルな回答は疑いようもなく正しいのだが
その「疑いようもなく正しいこと」が、往々にして
もっとも「受け入れがたい真実」だからだ

あなたは
ここまでこの馬鹿げた文章の当たり前すぎる結論までを付き合ってくれて・・・
               ・・・でも果たして納得してくれただろうか?

私達は大抵、自分の現状に満足していない

だからいつもマインドに取り憑かれている、「だって」「なんで」「どうして?」
誰も「それは自分自身が望んだから」と、完全に満足しきってはいない

・・・だから問いかけ続け、
だからいつも「自己の向上心」に自分自身で追い立てられている
だから今日も「人生成功セミナー」に出席するのではないか??

「問いかけ」とはその始まりから「自分自身への詐欺」なのだ
これぞまさしく「オレオレ詐欺」なのだ

無数の説明ができる、無限の意味づけ、解釈が出来る・・・
「それはこうだったから」「あれはああだったから」

じつはそういった「過去の説明」「意味づけ」は全部、豚のエサなのだ
説明だの理由付けだのと、グルグルと追いかけっこをしている以上
私達は決して永遠に「加害者と被害者」「原因と結果」の円環から
脱出することなど出来ないのだ・・・

「いまこことは何か?」

その質問を〝科学的に〟もっともな回答をするならば
「今・ここ は時空が交差する座標軸上のポイント。
       面積も実態もない、単なる定点。・・・」
「いまこことは時空上の〝現時点〟〝現地点〟に過ぎない」
                     っとなるだろう

ところが
「いまここにいる理由」の返答に
「わたし自身が望んだから」という自発性、内発的自覚が伴うと、
「いまここ」とは単なる〝科学的な〟パラメーターを指し示す言葉ではなくなる

「いまここ=NOW HERE」とは「時空上の何処かではない=NO WHERE」
「いまここ」とは「わたし自身が望んだ結果」を意味する言葉に変換されるのだ

つづく

以前も書いたことですが、もう一度書きまず

鉛筆が三本、鉛筆が二本、鉛筆が一本・・・
そして鉛筆がゼロ本・・・

リンゴが三個、リンゴが二個、リンゴが一個・・・
そしてリンゴがゼロ個・・・・

では鉛筆がゼロ本、リンゴがゼロ個の
物理空間とはいったいなんでしょうか?

それは「鉛筆ゼロ、そしてリンゴゼロの空間である」となりますね?
そこにはでもボールペンなら存在するかも知れない
そこにはミカンなら有るかも知れない・・・

では、何も無い空間ならどうでしょうか?

鉛筆もボールペンもリンゴもミカンも、
その他の文房具もその他の果物も、空気すらない真空の空間・・・

ところがそれを指さすと
「鉛筆がゼロ、リンゴがゼロ、ボールペンがゼロ、ミカンもゼロ
 パイナップルもゼロ、細菌もゼロ・・・・」っと
その真空を指さして、ありとあらゆる単位を持ってきて
「それらがゼロだ」と無限に様々な単位のゼロを延々と言うことが出来ます
そしてそれらは数学的には別に間違っていない、単に「無意味」なだけだ

つまりありとあらゆる単位のものが「無い」という状態
それが真空上の空間です

逆に「~~が無い」という前提で言えば
その何も無い空間には、ありとあらゆる「単位」が詰め込めるはずです

そこに唯一「空間がない」ということだけが言えない
そこに何も無くとも「真空があれば」そこには唯一「空間がある」といえる
そして三次元空間がなくても、二次元の「広がりがある」とはいえる
二次元の広がりはなくても一次元の「距離(長さ)はある」とはいえる

そして空間上の、「膨らみ」も「広がり」も「距離」もない純粋な点・・・
「ゼロ次元」であっても、それでもなおかつそこには
あいかわらず「リンゴがない、鉛筆がない」と、〝単位〟を持ち込むことが出来る

まったく純粋な空間上の「座標点」に対してでさえ、
人間のイマジネーションはそこに
「~~がない」という〝単位〟を持ち込むことが可能だ

無限に沢山の〝単位〟が、「膨らみ」も「広がり」も「距離」もないところに
好きなだけ詰め込めるのだ・・・さて、これはいったい何を意味するのだろうか?

・・・つまり「何々がない」というのは
   「人間のイマジネーションや欲望だけに可能な概念だ」と言うことだ

目の前にリンゴが五つあったとしよう
でも六人の子供に1個ずつ分けて上げるならば
その五つのリンゴを指さし、人間は言う
  ・・・「リンゴが1個足りない」「リンゴがマイナス1っこだ」と
                ・・・何と不思議な光景だろうか?

  目の前の5個のリンゴを指さし、
  人間は「リンゴが五個有る」と言わずに
     「リンゴがマイナス1個だ」というのである!!

つまり、
  「物理的な空間や座標」の状態と
  「無」「ゼロ」の概念とは、無関係だ! と言うことなのだ

それ、つまり「無」「ゼロ」とは
   人間のイマジネーションや欲望を前提とした
           純粋に抽象的な概念なのだ

   人間は対象物の
    「欠乏状態」のことを「マイナス」と呼び
     「余剰状態」のことを「プラス」と呼んでいる

      この「プラス」と「マイナス」との均衡状態を
       「無」「ゼロ」と私たち人間は呼んでいる

だから自然界ではありとあらゆるものが
「無」「ゼロ」といった均衡状態で存在しているが、
つまりそれは
「バランスが取れて静止している状態」のことなので
人間以外の生物は、それを意識的には捉えないのだ
     なぜなら「その必要が無いから」である

ある時空間を指定し、指さして、
そこに「アレがある」「コレが足りない」と人間は意識する

その「アレ」や「コレ」が、〝単位〟である
「食料が足りない」とか「人数が余剰にある」とか・・・

ある限定された時空間の中で、
ある単位について「語られはじめた」時、「問題に」なった時とは
つまりそれらの単位に「過不足が発生した」からであり
逆に言うならば「問題が無い」とき、「話題になる〝単位〟」も存在しない

時空間の大小にかかわらず、
そこでは森羅万象、ありとあらゆる単位が<人間によって>持ち込み可能だ
それは人間のイマジネーション、欲望が、自然の制約を受けないからなのだ

しかし
にもかかわらずそこにもし
「何の話題も持ち上がらない」「何の過不足もなく」
「すべてがバランスよく存在している」・・・その時
それらの均衡状態は、人々に満足感に満ちた沈黙をもたらす
ありとあらゆるイマジネーションが、欲望が可能であるのにもかかわらず、である

  ・・・・それが「無-ム-」である

だから音読みの「無-ム-」と、訓読みの「無-ナ-い」とは意味が違ってくる

その時空間の中に豊かな均衡、満足がある時、それは「無-ム-」であり
何かの単位の過不足が発生し、人々がざわめきだした時
「あれが無-ナ-い」「これが無-ナ-い」と、人々は言い出す

人々が「無-ム-」に中にくつろいでいる時、人は何も「指ささない」のだ
つまり
あらゆる〝単位〟が話題に上らない、
あらゆる〝定義〟〝言葉〟を必要としない、


「ゼロ」とは、
実質的に「単位の消滅」「話題の消滅」「問題の充足」のことなのだ

なにひとつ指さして騒ぐ必要が無い時、
あらゆる「定義が不要な状態」それが音読みの「無-ム-」の定義なのだ

そして人が過不足を感じることなく、満ち足りて
一切の時空間座標を「指さす」ことをやめた瞬間・・・

つまり、それが「NO WHERE(どこでもないところ)」ということになる

私のOSHOへの尊敬の念は、
わたしに2人の古株のサニヤシンへの尊敬の念を抱かせていた
しかし、それは私に大きな精神的な足かせとなっていた

でももうその足かせから、今夜自由になった
「アウェイクニング・コース」と銘打ったセッションで
芭蕉会館の一室に、ある意味軟禁されていた私は、
そのセッションの最後に「望まないハグ」を強制された
自然にわき出た感動からではないハグだった
儀礼的な、欺瞞に満ちたハグだった
嘘の体温を交わした、相手も自分自身のハートも裏切る後味の悪いハグだった
それをわたしは醜い老人の支配欲のために妥協してやってしまった
私の人生における最大の嘘、最悪の裏切り、最低の屈辱だった

今夜その最悪の思い出を、やっとこさ払拭出来たようだ
その軟禁状態での強制されたハグを、
単に私は「拒絶すれば良かった」だけなのだ
そういう意味ではその老人自身が言ったように
「誰の性でも、ありませ~~ん」なのだ (でも自分で言うなよ!自分で!!)
なぜ2万円を払ってまで
フレンドシップを〝強要〟〝命令〟されなければいけなかったのか?

いまなら彼のカルト性を断罪出来る
今までそれが出来なかったのは彼がOSHOの日本における最古参の弟子であり
(やはり敬意を抱く)バガヴァンのところでの異色のリーダー格であったことが
わたしの判断をずっと曇らせていた

 ・・・私のお得意の〝批判精神〟が、
     OSHOやバガヴァンの威光の影で
      その白い髭の老人に対しては、いささか鈍っていたのだ

わたしともあろうものがコギャルじゃあるまいし
恥ずかしくも「ブランド」に目がくらんでいたのだ

現在の彼に関しては私は知らない
しかし過去に受けた仕打ちは忘れない、また許す気も無い
彼は自分を信頼して集う男女が密室の中で受けた命令が
どれ程強制的な意味を持つのか?その自覚がない限り
私に謝罪するつもりはないのだろうから・・・
そして自分の欺瞞性もたぶん、まだ自覚してはいないだろう

だからいまや私もキッパリと断言出来る、
「もうあなたのあの2014年の時の命令の影響から、今夜限りで出て行く」と

覚えておきなさい
 完全に「NO!」といえる自由がある時だけに、
   あなたは初めて
  完全に「YES!」という事が出来るのだ   BY OSHO

Noという権利を相手の外堀からじわじわと奪っていって言わせたYesは
  本当の肯定ではない・・・、
   全面的な肯定、自然な肯定では決してあり得ないのだ

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