We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です


OSHO_子供をあなたのコピーにしてはいけない(日英... 投稿者 maneel-katal

親が子を自分のコピーにしたがるというのは
かなり根深い問題だと思う

 親は自分に似ているからこそ
 子供がカワイイ
 自分の生きた証し、血の伝承者だからこそ
 我が子がカワイイ

それはつまり親自体が
自分の人生を完結させられないからこそ
子供を欲した、血を残したのだと自白していることになる

結果、
子供はその親の期待にこたえられない 自分という存在自体に罪悪感を持つ
それはバシャールが言う様に
「ほんの一滴でも全人格を抹殺するのに充分な猛毒・・・」であり
「それこそが愛にもっとも対立するもの・・・」である

ところが、世界中の多くの親たちが、
その自己コピーの強制、罪悪感の押しつけを
「子供達のためを思うが故に・・・」
 つまりそれが〝愛なのだ〟と思い込んで実行しているわけだ

親は自分なりにマスターしてきた「人生の生きやすい道」を
〝親の愛情なのだ〟と全く信じて疑わずに子供に強制していく・・・

・・・しかし、その〝生きやすい道〟こそが、
   まさしくその親の世代の人生全体を
   未熟なもの、未完成なものにしてきた
  (冒険も挑戦も前人未踏の試行錯誤も避けてきた)原因なのに・・・だ

親が自分の人生を生きて(LIVED)こなかった
それが愛という名の下に悪魔(DEVIL)へと本末転倒してしまったのだ

だから、
親への反抗心が附属池田小学校無差別殺傷事件といった凶悪犯罪や
悪魔教的なカルト組織に吸収されていくという
オウム真理教を代表としたような現象は偶然ではないのだ



私たちの悲惨さ、
世界残酷物語」はそのシンプルさから一歩を踏み出した時から始まった
「モア:もっと」を考えはじめ、
 過去から未来への時間的な継続を考えはじめた時から
             わたしたちの人生は始まった
つまり
「自分の人生は限られている・・・」
「・・・だけど、もっと!」と意識し始めた時から心理的な時間が始まったのだ



だから、パラドックスなのだけれど
 この心理的な時間、「モア=明日」が終わった時が
 わたしたちの「限られた人生」の完全な終わりの瞬間でもある

アンディーウィリアムスの名曲内の歌詞では
「僕ほど誰も君を愛せやしない」というラブソングになっているが
実際には「比較級:more」や「最上級:most」といった言葉の中に、愛はない

  ・・・「ああ、この菓子は実にウマい!」
      そのONE&ONLYの至福の中にしか愛はないのだ



それがきっと
OSHOが言うところの「究極の死」でありカルマの終焉だ

  それは必ずしも「肉体の死」を意味するわけでは無い・・・ 
    ・・・ただ、「肉体への執着~わたし」が死んだだけのことだ

そのとき
 私たちのあれこれは終わる
 わたしたちはその時、再会する
再び「あなたがいてわたしがいる」だけのシンプルな世界に還れるのだろう

落ち葉をブロワーで集めていると、
まるで落ち葉が生き物のように見えることがある

 わたしたちは動いているものに反応する
 わたしたち自身が動物だからだ・・・

 植物は知識としては生物だと知ってはいるが
 一見まるで静止しているから気にも留めない
 その色彩や造形を見て、生き生きとした感じは受けるが
 我々と同じタイムスケールで変化する〝動物〟ではないからだ・・・

 だから植物に代わって蝶々や、その他昆虫が
 まるで「動く植物の分身」であるかの様に感じることが私はある

ブロアーが起こす風は複雑な干渉波である程、
地面にへばりついた落ち葉を揺すぶり起こし、
まるで生き物のように踊り出す・・・・

その「落ち葉のダンス」を見ていると
ふと「生命現象とは波である」という言葉を思い出す

2017-09-22 (1)

私たちはいろいろ考える・・・
「考える」と言う自分達の〝脳内の動き〟を自分たち自身で自覚するから
私たちはそれをもって「自分は生きている」と確認している。

 思考の波に目を奪われ続けているから
「生きている」という確証を持ち続ける・・・

でもそれは「ブロアー(吹くもの)に突き動かされた」物理現象に過ぎない
その「目を奪われた」その目… 意識それ自体が私たちであるはずなのに・・・

OSHO 祈るように愛を交わし、それを目撃し続けなさい from Katal Maneel on Vimeo.


このページのトップヘ