We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です


20.Understanding
   理解

 あなたが他人のなかに見い出すものは、
あなた自身が抱えているものだということを理解しましょう。

あなたの判断は、
 実際にはあなた自身の内側で抑圧されたか、
   あるいは拒絶されたものの反映なのです。


 ふたりの禅僧が河を渡ろうとしていた。

彼らは同じように渡りたがっている、とても若くて美しい女性と
出会ったが、彼女は怖がっていた。そこで、僧のひとりが彼女を
肩にかついで向こう岸に運んだ。

 もうひとりの僧は怒り狂った。

ひとことも口には出さなかったが、内側では煮え立っていた。

    こんなことは禁じられていたのだ!
    仏教の僧は女性に触れてはならない!
    しかも、この僧は触れるだけではなく、
    その女性を肩にかついでいた!!


 何マイルもが過ぎた。
僧院に着いて、扉を入るところで、怒っている僧は最初の僧の方を
向いて言った。

  「いいか!?
   このことを私はマスターに話さなければならない。
   報告しなければならない。禁じられているんだぞ!」

最初の僧は言った。

  「なんのことを言っているのだ?
   なにが禁じられているだって?」

  「お前は忘れたのか?」

二番目の僧はたずねた。

  「お前はあの若くて美しい娘を肩にかついだのだぞ!」

最初の僧は笑って言った。

  「そのとおりだ、私は彼女を運んだ。
   だが、私はあの河に彼女を置いてきた、
   何マイルも後ろに。

   お前はまだ彼女を運んでいるのか?」


 抑圧され、拒絶され、地下室に放り込まれたあなたの
内面もまた、あなたの行動に影を投げかけつづける。
ときとしてあなたはなにかを避ける!そのときですら
また、あなたの逃避そのもののなかに・・・・

        ・・・・あなたの理解が姿を現している。



    THE DISCIPLINE OF TRANSCENDENCE,Vol.4.p.22

ウィンドウズの「デスクトップ」とは何か?

もちろん直訳すれば「机上」ということになる
しかし、「分かりやすくする為」に考案された、この
「デスクトップ」という概念は、ある意味パソコンの初心者にとって
意外に難しい・・・・

逆に言えば、この概念が分かると「ディレクトリー」という概念は
かなり分かりやすくなり、Macに比べてWinが、如何に技術屋的な
発想のインターフェイスなのかが分かる


Winに慣れている人は、画面を指さして「デスクトップ」と呼ぶ

ところが「画面」はあくまでも「画面・・・映像モニター」なのだから
このどこが「机上」なのか?混乱して当然だ

この「机上」とは、「あなたの机の上を仮想しているんですよ」という
Winの長年ユーザーにとっては「当たり前」なことを、まずは初心者に
伝える義務があると私は思う

だから、もしあなたが机ではなくコタツの上でノートパソコンを使っていれば
画面は「コタツトップ」であり、もし料理のレシピを見る為にまな板の上に
ノートパソコンを置いて使っているのなら「まな板トップ」である

するとこんどは「仮想(バーチャル)」とはなんですか?
と言う疑問が湧くかも知れない・・・・当然だ

あなたが食堂のテーブルにチューリップの花柄のテーブルクロスを
掛けていて、その上にノートパソコンがあるならば、画面の壁紙も同じ
チューリップの花柄にすれば、ちょっと「デスクトップ」とは何か?実感できる
かも知れない

でも実際は「デジカメ写真でそのテーブルクロスを取り込んで」
そして壁紙設定して・・・・と言った様な作業をしなければ
画面の中の「デスクトップ」もテーブルの延長された仮想空間だよ?
っという風には思えないかも知れない

画面が、単なる「画面」にすぎなければ、画面には記憶容量もないし
画面自体は二次元なので、チューリップ柄のテーブルクロスを敷くことも
出来るわけはないし、画面には何一つものは置けない

しかし、私たちはデスクトップいっぱいに各種ショートカットなどを置いたり
ダウンロードしたファイルを置いたりする

  ・・・つまり、「画面」のくせにモノが置けるのだ!

     パソコン初心者は是非このことにもっと疑問を持つべきだ!

    「ぺったんこの画面に何で、モノが置いておけるの・・・?」

ここで、初心者が「理解に苦しまないこと」に対して、私は理解に苦しむ


つまり「空想上の机の上、作業場所、まな板・・・」だからこそものが置けるのだ


     まず、あなたの部屋があり、そしてその部屋の机の上には
     パソコンが一台有る

     つまり、デスクトップとは
      「あなたが今見ているパソコンの周囲の状況」
      「あなたが今見ているパソコンの〝外の世界〟」を仮想していて
      この「デスクトップ」という仮想の作業場は実際には、
      そのパソコンの中の、
      そのハードディスクの中の、
      そのシステムパーティーションの
      フォルダーの奥で管理している

    だから「画面」であるのにもかかわらず、読み書きできるのだ

    そして、この「デスクトップ」には
    「マイ・コンピューター」や       
    「ネットワーク・コンピューター」がユーザーの希望によっては置いてある

    あなたのコンピューターの中に「あなたのコンピューター」が入ってる!!

    何だか混乱しないだろうか?

    つまり、「デスクトップ」というのは、あなたのコンピューターを
    飛び出した概念なのだ



      あなたの「内側奥深くに組み込まれた内容」が
      あなたの「目の前の作業エリア」として見える!!!

   これはつまり、私たちの体験している世界そのものの
   ひな形だと言えないだろうか?

  しかもこの「目の前の作業場」には
   「マイコンピュータ=あなたの肉体」もあれば
   「ネットワーク・コンピューター=身近な人達」との繋がりの出入り口もある

このWindowsコンピューターのデスクトップと言う概念は
「自己も、他者も、・・・両方があなた次第でシームレスに使えます」
っと私たちに告げているのだ

そしてその、エリアは、本当はあなたの奥深くに保護されているのだ


つまり、コンピューターにとっての「あなた=管理者」とは
あなたにとっての「ハイヤーセルフ」との関係に似ている

あなたの自覚としては、自分の管理責任があるのは自分の肉体だけだろう

しかし、「マイ・コンピューター」だけではなく「ネットワーク・コンピューター」も
あなたが自由に使いこなせる様になった時、あなた自身もまたスタンドアロンの
存在ではなく、神経ネットワーク的な存在なのだと言うことを容易く理解出来るだろう

あなたは「世界の片隅にいる末端(まったん)者」ではない

あなたとは「全宇宙のネットワークと連携し合った端末(たんまつ)」なのだ

その責任の自覚が大きい程、あなたには大きな宇宙へのアクセス権が得られるだろう




49.Love
   愛
 自分の愛を貯め込んだり、計算したりしないように覚えておきましょう。
けち臭くなってはいけません。あなたはなにもかも逃してしまうでしょう。
その代わりに、あなたの愛を咲かせて、それを分かち合いましょう。
それを与えて、育てましょう。

 ある偉大な王に三人の息子がいて、彼はひとりを
自分の後継者に選びたかった。

ところが、それは非常にむずかしかった。

というのも、三人ともみな非常に賢くて、とても勇敢だったからだ。
しかも彼らは三つ子だった--みな同じ歳だ--だから判断しようが
なかった。

そこで、彼は偉大な聖者にたずねた。
聖者は彼にある考えを提案した。
 王は家に帰って、三人の息子たちみんなを呼び寄せた。
そこで彼は、花の種の入った袋をひとつずつ彼らに与え、
自分は宗教的な巡礼に行くつもりだと告げた。

「数年はかかるだろう。一年、二年、三年、もっとかもしれない。
それに、これはお前たちへのある種のテストだ。私が戻ったら、
この種をお前たちは私に返さなければならない。そして、誰であれ
それをもっともよく守ったものが私の後継者になる」。

そして彼は巡礼に出て行った。


 最初の息子は考えた。「この種をどうしたらよいだろう?」。
彼はそれを鉄の金庫に入れて鍵をかけた--父親が帰ってきたら、
それをそのまま返さなければならなかったからだ。

 二番目の息子は考えた。
 「兄がやったように閉じ込めてしまったら、種は死んでしまうだろう。
  死んだ種はまるで種ではない」

そこで彼は市場に行ってその種を売り、金を取っておいた。
そして彼は考えた。

 「父が帰ってきたら、私は市場に行こう。
 新しい種を買って、それを父に返そう。最初のよりは良い」

だが、三番目の息子は庭園に入ってゆき、あたり一面に種を蒔いた。


 三年たって、父親が戻ってくると、
 
最初の息子は金庫を開けた。種はすべて死んでいた、臭いを放っていた。
そこで父親は行った。

「どういうことだ!私がお前に与えた種がこれなのか?
 それらは花となって咲いて、すばらしい薫りを与えることもできたのだ

      --それなのに、この種は悪臭を放っているではないか!
                     これは私の種ではない!」
 
 息子はそれは同じ種だと言い張った。が、父親は言った。

 「お前は物質主義者だ」
 
 二番目の息子は市場に駆けつけた。種を買い求めて家に帰り、
 それを父親に贈った。父親は言った。

 「だが、これは同じものではない。お前の考えは最初のよりは良かった。
  だが、お前はまだ、私がお前にそうあって欲しいと望んでいるのには
  かなっていない。お前は心理学者だ」


 彼は三番目の息子のところに行った
       --大きな期待と、恐れをも抱いて--
              「彼はなにをやったのだろう?」と。

三番目の息子が彼を庭園に連れてゆくと、何百万もの花があった。
そして、その息子は言った。

   「これがあなたが私にくださった種です。
     時機が来たらすぐに私は穂を集めて、あなたにお返しします」


 父親は言った。

 「お前が私の後継者だ。それこそ人が種に対してなすべきことだ」


 貯め込む人は生を理解しない。
 そして計算だかいマインドもそれを逃す。

創造的なマインドしかそれを理解できない。
それが花の美しさだ--彼らを貯めることはできない。

        彼らは神を代表する。神を貯めることはできない。
        彼らは愛を代表する。愛を貯めることはできない。

 何代にもわたって、あらゆる国で、あらゆる種類の社会で、
 花が愛のシンボルでありつづけたのは偶然ではない。
 愛は花のようだ--それがあなたのなかで咲き始めると、
 あなたはそれを分かち合わなければならない。
 あなたは与えなければならない。
 
 そして、与えれば与えるほど、愛はそれだけ成長する。
 もしあなたが与えつづけたら、あなたが愛の絶えることのない
 無限の源になる日が来る。



      ZEN:THE PATH OF PARADOX,Vol.2,pp.43-45


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