「あり得ない」
---だなんてこと
何もあり得ない
---だなんてこと
何もあり得ない
ヌーソロジーでは
「スピリチュアルなどで
〝内側=主観的な認識〟と呼んでいたことは、
実は〝外側〟だった」と言っている。
つまり、この言葉は
「堅く限定された物理空間でさえもが、
実は私たちの意識の投影だった」
っという風に言い換えられるかも知れない。
「物理的な環境が先か?」
「意識が先か?」・・・難しい課題だ。
一般的なアカデミックな(いわゆる)科学では、
迷うことなく「脳(ハードウエアー)が意識を作った」っと解答するだろう。
たとえば、私が住む東京の街は、私が東京に来る前から存在していた。
そしてその東京に住む私は、東京という環境によって明らかに影響を受けている。
「東京が今の私を形作った」っと言っても良いかも知れない。
でもその反面、
「今の私(=意識)が東京という街をずっと待ち望み、
宇宙開闢以来から東京という街をずっと準備し、形成し
表面的、近視眼的にはあきらかに「今の私(=意識)が東京という街をずっと待ち望み、
宇宙開闢以来から東京という街をずっと準備し、形成し
「東京が、私を作った(私を招いた)」としか思えない。
そしてこれは同時に、
「現代の貨幣経済が、今の私たちを生みだした」とも言い換えられる。
この〝近視眼的な見方〟は一見するならば明確な因果関係を物語っていて、
不可逆的に見える。
すると私たちはいわゆる
「世の中やっぱカネが全てじゃん」っていう結論に縛られることになる。
この「表面的、近視眼的な因果関係がすべて」という囚われが
まさしくわたしたちを束縛している「人生の罠」そのものではないだろうか?
しかし、
実際には誰もが無視できないような
シンクロニスティーを体験したことがあるだろう。
それがまたソクラテスの言った「無知の知」が指し示すところでもある。
つまり、すべてを因果律(自然科学)のみに頼って、
いつかはすべて説明し尽くせるという日が来る、っという傲慢だ。
私たちの見えないところでは、
物事は表面的な因果律を超えて
あらゆる事が「起こり得る」。
この最たる例が、「ひとの考え方=MIND」だと思う。
あなただって、
巨大な岩石のような堅くて重たい
「人のありかた、考え方」を実感したことがあるはずだ。
ところがその反面、
たった一晩で、いや、一瞬で、がらりと変わることもあり得る・・・
それがやはり「人のありかた、考え方」でもある。
そしてその変化は時と場合によっては、
モーセが紅海を割ったような、信じられないルートを私たちに開示するのだ。