We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

若い時の私は焦っていた・・・

世界はこんなにも広く、人々はこんなにも多かった・・・
学ぶべき事は沢山あるはずなのに、わたしは遅々として学びが進まなかった

いろいろな経験をしたがっていつも焦っていた
そして日々が変わり映えがないことが、孤独で不安で、退屈だった

でもその反面、若い時から
「人が学べることは決して多くはない」とも感じていた
・・・当然ながら個人の認知には限界がある

もし、神というものがいて、
この限界だらけ、制限だらけのわたしたち人間の短い一生の間に
〝すべてをまなべ〟というのなら、それは何ともご無体な話だ

人が一生の間に学ぶべき事、特に重要なこととは決して多くはないはずだ
そしてたぶんシンプルなことなのだ

そしてわたしにとってそれは
  「知らない」ことを「知らない」と答え
  「解らない」ことを「解らない」と答える勇気だ
  ・・・究極的に考えるならそれだけが有ればいい

だから私は多くの無知を抱えたままだが、それでも心配しない様になった
「私は知っている」という人に敬意を払うことはあっても崇拝することはない

一つの世界でわたしより経験者であるならば・・・

 たとえば
  わたしが囲碁の世界の入門者であるならば
  相手が例え小学生であっても、わたしよりも上段者であるなら
  その小学生に経緯を払って、囲碁を教えてもらうだろう

  かといって、その小学生が増長して威張りだしたなら不愉快になって
  わたしは「囲碁の先生」を変えるかも知れない

私自身のこういった経緯から言って
年齢が上であるとか、その道の権威者であると言って威張り散らしている人間とは
愚か者以外ではあり得ない・・・たとえその知識や経験が如何に偉大であってもだ!

「知っている」ひとこそ、その世界の広がりを理解しているはずである
つまり「謙虚」であるはずなのだ ・・・わたしは「謙虚」なひとを尊敬する

単なるぶりっことしての「謙遜」ではない、ホンモノの謙虚さとは
「私は知らないと言うことを、より深く知っている」ものだと思う

  それがわたしの人物の基本的な評価法で、
   この評価法に確信を持ってさえいれば、「百戦危うからず」なのだ

しかしひとは往々にして権威や、その恫喝に弱い・・・
誰もが大なり小なり自分の「小ささ」を知っている、そして他人と「比較」している
人生に絶対的な確信を持って生きている人なんてそう多くはない

では「確信を持っている」ことが「エライ」のか?というと別にそうではない
単に「威張っている」人とは「井の中の蛙」なのだ
その同じ「井戸の中」に入っている人だけが、そのカエルを褒めそやす
     「ご立派ですね」「大層な知識とご経験ですね!」っっっと・・・

  他人を褒め讃える人間の動機なんて、
  「相手に良く思われたい」「そして取り入りたい」とか
  「メンドクサイからおだてておく」とか・・・
  あるいは「自分自身もいつか権威者になって褒められたい」からとか・・・

でも、その「井戸の世界」の大小さえも、実は相対的なことに過ぎない
 マクロな世界だろうが、ミクロの世界だろうが
 メジャーであろうが、マイナーであろうが
 バーチャルであろうがリアルであろうが・・・

ところが、なかなかその確信というのは人生で持ち得ないものなのだ
「偉大なもの」と「矮小なもの」、「聖なるもの」と「俗なるもの」・・・

・・・わたしたちは様々な「井戸の世界」には〝大小〟があると思っている
   だからいつまでも井戸の中にふんぞり返った親分ガエルの存在を認めてしまう

でも、本当に偉大な人は「謙虚」だと私は思う

 そしてその「謙虚さ」そのものこそが
  本当のその人の〝魂の年輪〟つまりは、〝偉大さ〟なのだと思う


物心ついたときからわたしは
絶対零度的な静寂と無為を求めていた
それはこの世に溢れかえる様々な
目的志向や信念体系の虚偽性を暴くには有利だった

「無駄じゃ無駄じゃ」と言うのが口癖の
ムーミンに出てくる年老いた哲学者の ジャコウネコの様に
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それはある意味では 無敵ではあるだろう・・・・

しかし結論から言えば
絶対零度的な静寂と無為は
仏教的な中道ではなく
 本当の意味での絶対性ではない
それは即身成仏的なフリーズドライの冷凍食品みたいなもんだ

もし 前世というものがあるんだとしたら
インドで断食して果てたという前世の私は、
そういった見てくれの聖人君子に憧れていたに違いない

私たちの住む地球という惑星も
実に様々な 時代を通過してきたとのことだ
ある時は スーパー氷河期の様な全球凍結と言う時期もあったらしい

まさかの全球凍結!明らかになってきた6億年前の地球の姿


しかし そんな時、
生命は閉じこもり、のびのびとした進化や躍動はない
水が滔々と 脈打つ様な環境でこそ、命もまた流れていくことができる・・・



そして時には そこに激しく雨が打ち付けたり 嵐が吹きすさぶこともあるだろう



パラドックスなのだけれど、
  そのダイナミズムの中に……
   むしろ そのダイナミズムの中にこそ
     常に自然な静寂や無為が見出せるのだ



  ・・・「諸法無我」だ、
  森羅万象、沢山のことが起きていて
  街では人々が気ぜわしく行き交っている・・・
    でもそこには誰も居ない
     「見ている私」さえ、いないのだ


より、以下に引用・・・・









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