We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です



ある科学実験によれば
白人には衝動的に黒人の姿を見て恐怖感を抱く
遺伝的、生理的な反応があると言うことだ・・・・

五井野正氏の「法華経大系」内で語られた世界史によると
「白人は近代史とは逆に黒人に〝奴隷にされた〟経緯がある」と
言うことだそうだ・・・

もしそれが事実なのならば、上記の「生理的恐怖感」にも説明が付く

アニマンダラの公演中の話によれば
「自然に対する哲学の高さの象徴であるアメリカインディアンも
 白人に土地を追われる前、バッファローを乱獲しすぎて
 アメリカ大陸の環境を破壊してしまったトラウマがある」とのことだ

物事は断片的、表面的に捉えれば「加害者と被害者」が存在する
しかし、
個人レベルだけでは無く、民族単位のレベルでの〝カルマ〟というものも
どおやら確実にありそうなのだ・・・・

・・・もし私たちにそこまで俯瞰できる視野があるなら
   そこには「加害者も被害者も・・・」存在しないのかも知れない

しかしただ無意識のトラウマに操られて他民族に偏見を抱き
その恐怖感から過剰な反応を抱いて物事に対応したら
それはまた新たな〝カルマの連鎖〟を生じさせてしまう

だからこそ「子供のような純真さ」「先入観の無さ」「愛情深さ」が
こういったカルマの繰り返しに対する素晴らしい解毒剤になるのだ

引き寄せの法則に気をつけろ
「引き寄せたい」という思いは
  欠乏感~つまり欲望から来る
  だから欠乏状態を引き寄せてしまう

「類は友を呼ぶ」法則にフォーカスするべきだ
であれば、自分の身の周りで起きたことは全て
自分自身の鏡として起きていることにすぐ気がつけて
「全てが自己責任だ」とハッキリ理解出来る

結果として
「加害者と被害者」というカルマから脱出しやすくなる

一~二年程前、あるスピリチュアルなテーマの座談会に出席したとき
熱心にトイレ掃除の流儀と、その開運効果を説明している女性がいたのを
ふと思い出した

  拭き掃除の順番はこれこれ、
  まず縦に拭かなければいけない、
  次に横に拭かなければいけない・・・等々

  そしてこんなチャンスを得た、あんな開運が出来たと興奮気味に語っていた

その話を私は、肯定するでもなく否定するでもなく聞いていた

      これは日々のジンクスや、他愛のないおまじない、厄除け、
   あるいは厳かな宗教的な儀式にまで、すべて言えることだと思うのだが・・・

もし、
私たち人間の世界観、強固な観念が、
そのひとの周囲の現実の状況そのものに
何らかの大きな影響を与えるというのなら
そういったおまじないやら儀式やらの効用を厳密に証明出来ることが
はたして本当に可能なのだろうか?



たとえばトイレ掃除の際、壁は必ず縦から拭く?そしてもう一度横から拭く?
するとこれこれこういう現象や効能が得られる?
ではついうっかりそれをあべこべに拭いたらどうなる?

それは、この「トイレ掃除開運法」を強く信じていても、いなくても
誰がやっても同じような現象が百発百中で起きて、
科学的に検証出来るのだろうか?

 もし科学者が「結果はこうなるに違いない」という信念の元で
 科学実験していて、その信念が実験結果に影響を与えていたならば?

どんな原因~インプットに対して、どんな結果~アウトプットが得られたか?
ではその因果律には如何なる法則が働いていたのか?

・・・もし、人間の主観が、物理的客観状況をも変化させてしまうのなら
   原因と結果との因果律は、とりとめもなく無限に説明可能であるように思う

しかし、その「無限に、如何様にでも説明可能である」と言うこと自体が
もはや、「物事は何ひとつ、絶対的証明が出来ない」っという
              何よりの証明ではないだろうか?

  っとなると絶対的な客観性、客観的な科学性というもの自体が
  本当に存在するのか? 実に怪しげになってゆく

占い、まじない、開運法、・・・
こういった主観を扱う技術のバックボーンとして
「主観科学」なるものが成立するだろうか?

わたしは占星学に夢中になっていた20代前半、
そういった主観科学が陽の目を見る~市民権を得る時代が来るべきだと
熱望していた・・・
  いわゆる〝オカルト・サイエンス〟と呼べるかも知れない

しかし現在、「幸福の科学」という宗教団体の名前が象徴するように
「これは宗教なんて言う迷信じみたものじゃないんです・・・」
「これは科学なんです!!」っと高らかに主張するモノが花盛りだが
いわゆるスピリチュアル・ブームが、いわゆる主観科学的な装いを持ち始めている

それは都合良く
「信じるものだけが救われる」
「信者にだけ理解出来る科学」という名の神が主祭神だ

そこでは、どれほど脇が甘い、ガバガバの理論でも大手を振って通用する
・・・でもそれは、実に危ない世界のように思う

   それは霊感商法が、都合良く七変化して姿を変えて追求を免れる世界だ

  その怪しさ、胡散臭さを何よりも当事者こそが自覚しているからこそ
 なにか〝それっぽい〟現象が起きたら、鬼の首を取ったかのように
 自分達の〝教義〟に我田引水する・・・

・・・こういった状況はずいぶん前からおきてきているように思うし
   むしろますます悪化してきているように思う

なにしろ、物理的、客観的な科学の検証を免れつつ
「科学」の看板を掲げることが出来る、甘く、オイシイ分野だからだ・・・

こういった「宗教」と「科学」とのご都合主義的な二股の許された世界は
一体どういう結果を招くだろうか?

  誰も完全否定出来ない・・・、ところが、誰も完全肯定も出来ない・・・



  「思考停止」がむしろ神聖視される・・・
それは人間のずる賢さにとっては、
むしろ〝天敵が不在の絶好の開拓地〟なのだ

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