We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です


48.Challenge
   挑戦


 少しの苦闘は必ず必要です。

 私たちは嵐--稲妻、雷鳴、そして悲しみ--を経験することで、
同時に喜びと幸せを経験することでも、より豊かになってゆきます。




Bhagwan Shree Rajneesh

 私は古くからあるたとえ話を聞いたことがある。
非常に古い話にちがいない。というのも、その頃、
神はよく地上に住んでいたものだからだ。



 ある日、ひとりの男が、年老いた農夫が来てこう言った。

「いいですか?、
あなたは神かもしれないし、世界を創ったかもしれない。
でも、私はひとつのことだけはあなたに言わなければ
なりません。

あなたは農夫ではないのです。
あなたは農業のいろはさえ知らないのです。

少しは学んだらどうですか」

 神は言った。
 
      「どうすればいいのかね?」

 農夫は言った。
 
 「私に一年という時間をください。そして、
ものごとをただ私の言うとおりにしてください。
それでどうなるか見てほしいのです。貧困は
すっかりなくなっているでしょう!」



 神は喜んでそうした。
そして、その農夫には一年が与えられた。
当然、彼はもっとも良いものを求めた。

彼はもっとも良いこと--雷鳴はない、
強い風はない、穀物に危険はないといった
ことしか考えなかった。



   あらゆることが快適で、
   心地よかったので、
   農夫はとても幸せだった。


小麦はほんとうに高く育っていた!


 太陽が欲しいときには、太陽が照った。
 雨が欲しいときには、雨が降った。


しかも彼の望みに応じて!。
この年はすべてにおいてまちがいがなかった。
数学的に正しかった。

  小麦は非常に高く育っていた。

……農夫はよく神のところに行って、こう言った。

「見てください! 今度の穀物は、たとえ人びとが
これから先 十年は働かなくても充分なほどに
なるでしょう!」



 だが、穀物が取り入れられると、なかには
 小麦がなかった。


 農夫は驚いた。

 彼は神にたずねた。

「どうしたのでしょう?
 なにがうまくいかなかったのでしょう?」


神は言った。

「チャレンジがなかったからだ。
争いがなかった、あつれきがなかったからだ。

お前が悪いものをすべて避けたために、
小麦は能力がないままだった。少しの
争いは必ず必要なものだ。」

「嵐は必要だ。雷鳴、稲妻は必要だ。
彼らは小麦のなかの魂を揺り起こす」



 このたとえ話には途方もない価値がある。

もしあなたが
幸せで、
幸せで、
ただ幸せなだけだったら、
幸せはすべての意味を失う。

それはまるで、誰かが白い壁に白いチョークで
書いているようなことになるだろう。

  --彼は書きつづけることはできる、
が、けっして誰もそれを読むことはできないだろう。



 夜は昼と同じだけ必要だ。
 
 そして悲しみの日々は、
 幸せの日々と同じように欠かすことができない。

 これを私は理解と呼ぶ。
 
 そして、徐々に徐々に、
 生のリズムを、
 二元性のリズムを、
 両極性のリズムを
 見るようになればなるほど、
 それだけあなたは
 求めるのをやめる、選ぶのをやめる。

 あなたは秘密を見出したのだ!



   この秘密とともに生きることだ。
   そうすれば、あなたは突然驚くだろう。
   生の祝福はなんと偉大なのだろう!
   瞬間ごとに、いかに多くがあなたに
   注がれていることか!

だが、あなたは自分の期待のなかで、
自分の小さな取るにたりない欲望のなかで、
ずっと生きている。

そして、ものごとが自分の欲望にかなって
いなかったら、あなたは惨めだ。



あなたがものごとの自然に従うときは、
どのような影も投げかけられていない。
そのときには、悲しみすらも輝いている。
悲しみが来ないというのではない

   --それはやってくる--

だが、それはあなたの敵ではない。
あなたはその友だちになる。
その必要性がわかるからだ。

あなたはその優美さを見ることができる。
そしてあなたは、なぜそれがそこにあるのか、
そしてなぜそれが必要なのか、見ることができる。

そして、それなしでは、
あなたはもっと少ないだろう、もっと多くはない。



     THE PERFECT MASTER,Vol.2pp.307-311





14.Trust
   信頼
 深い信頼のなかにあれは、状況はどうあろうとも、信頼のその質があ
なたの生を変容してくれます。


 ミラレパがチベットの彼のマスターのところに行ったとき、彼は
あまりにも控えめで、あまりにも純粋で、あまりにも真正だったために、
ほかの弟子たちが嫉妬し始めた。彼が後継者になるのは確実だったので、
彼らは彼を殺そうとした。

 ミラレパは人を疑うということがまったくなかった。ある日、ほかの
弟子たちが彼に言った。

「もしお前がほんとうにマスターを信じていたら、崖から飛び降りる
ことができるだろう? もしそこに信頼があったら、それはなんでも
ないことだ! けがをすることはないさ」

 そこで、ミラレパは一瞬の間もためらわずに跳んだ。

弟子たちは駆け降りた……それはおよそ三千フィートの深さはある谷
だった。彼らは散乱した骨を見つけるために降りて行った。だが、彼は
そこに蓮華座で、途方もなく幸せに坐っていた。

 彼は目を開けて言った。

「あなた方は正しい- 信頼は命を救う」

 彼らはこれはなにかの偶然の一致にちがいないと思った。
そこである日、家が火事で燃えているときに、彼に言った。

「もしお前がマスターを愛し、信頼していたら、
 火のなかにだって入れるさ!」。

彼はなかで取り残されていた女性と子どもを救うために飛び込んだ。
火はとてつもなくすさまじかったので彼らは彼が死ぬものと期待して
いた。だが、彼はまったく焼けていなかった。しかも彼は、その信頼
ゆえに、さらに輝きを増した。


 ある日、彼らは旅をしていて、川を渡ることになった。そこで彼らは
ミラレパに言った。

「お前は船に乗る必要はない。お前には非常に大きな信頼があるんだ
  --お前は水の上を歩けるさ」。すると、彼は歩いた。

 マスターが彼を見たのはそれが初めてだった。彼は言った。
「お前はなにをやっている? ありえないことだ」

 ところがミラレパは言った。

「マスター、私はあなたの力でこれをやっているのです」


 さあ、マスターは考えた。

「もし私の名前と力で、無学な、愚かな男にこれをやらせることが
できたのなら……自分でためしてみたことは一度もなかった」。

そこで彼はためしてみた。彼は溺れた。それ以来彼の消息はまったく
聞かれなかった。

 光明を得ていないマスターですら、もしあなたが深い信頼のなかに
いたら、あなたの生に革命をもたらすことができる。そして、その
逆もまた真実だ。

光明を得たマスターですら、どんな役にも立たないかもしれない。
それは完全にあなた次第だ。


                THE BELOVED,Vol.1,pp126-127
         邦訳「バウルの愛の歌」上・下巻 めるくま-る社刊


この旧正月の行事を改めて考えてみた

なんで「鬼は外」なのか?

日本鬼子」というのが2010年にネットで話題になったけれど

日本鬼子2a81ac8d-s

私たち日本人にとって「鬼」とはそれ程悪い意味は無い

上記画像にもあるように「智恵の般若」とも連想していることも
一因だろう

ある意味で「無水無月」の千代能さんも「般若」かもしれない
真理を求める強烈な集中力、追求性だ

でも 「もう「そこ」には「底」がなかった」 でも書いたように
探求とは常に「外向きのもの」だ

・・・・・その様相はやはり般若の如き厳しく険しいものになる



なぜ鬼を「豆で打つ」のだろうか?

豆とは「いまここ」の事だと思う

おたふくとは内面からとめどなく湧き上がるアバンダンス:豊かさだ



「いまここ」という豆を打つことによって
般若の「シリアスさ」を追い払うと
そこにアバンダンスがあるというのが「おたふく」の象徴だと思う

いまここに立ち返った時、わたしたちはホッとすると「おたふく」
過去を悔やんだり怨んだり、未来を憂うると「鬼」がでる

私たちは「おたふく」を望み「鬼」を追い払おうとするが
その努力は愚かさ、分離意識からではないだろうか?

鬼とは「悪」でも「邪」でも「魔」でもない

現代の鬼の象徴は「デビルマン」の主人公:不動明が
一番しっくりくるのではないだろうか?

DEVILMAN_05_005



私の昔の女性グル・アニマは
「これから白でも黒でもない、グレーの時代が来るよ」と
言い残してくれたが、今思うと戦慄するほどの預言であった気がする

マ・プレム・アニマは、OSHOのサニヤスではあったが
昭和天皇陛下の放つまばゆい光を霊視して日本に駆け戻った女性である

わたしもまた、現在は当時のアニマよりもオッサンになってしまったが
日本神道の白と日本仏教(禅)の黒との板挟み状態にいる者だ

今世界は、単純な白や黒では色分けできない状態であると思う

ユダヤ陰謀論に染まればあなたは「豆まき」を始めるに違いない

「私は神と愛と光の天使であり、邪・悪・魔を払う神の軍団だ!」

そう勇ましく名乗りを上げるスピ系女子は今、多いのではないだろうか?
・・・つまり「豆まき」だ

ロックフェラー(金融と石油の王=デーモン)がいま、
いよいよ倒れかかっているけれど、
それは「彼女たちの勝利」を意味しているのか?

わたしは「おたふく達=白の軍団」の勝利だとは思わない

そこには「勝者」も「敗者」もおらず、「能面(不動明)の世界」が
残るのでは無いだろうか?

あらゆる達成も、努力も、勝敗もなく
「底が抜け」た瞬間 ・・・

そのときは「外も内も」なくなる
あらゆる分離が熔解して「ひとつ」になる

これが「おたふく」でも「般若」でもない「能面」だ
それはすべてがニュートラルになった瞬間の様相だと思う

でもこの話は美しすぎる

この話に憧れて、この世界に飛び込みたいと願うと
そこにはまたワナがある

なぜならそれもまた「願望」「欲望」だからだ

まだまだ「豆まき」を楽しみたい人達は沢山居るように思う

「能面の静かな世界」に入ってしまうと、たぶん、「豆まき」は無くなるだろうから
楽しむのは今のウチに精一杯しておくことだと思う

もし私たちが、「おたふく(悦び、豊かさ)」を求めながらも
実際は「鬼の面(つら)構え」になってしまっているのなら
そこで葛藤するのではなく、もっと鬼を徹底するべきだ!と思う

判ったふり、悟ったフリなんかしてるヒマなど無い

おおいに「鬼」になるべきだ、「鬼」を楽しむべきだ
豆で鬼を追い払うのではなく、豆をぽりぽり食べながら
マインドもフル回転させて、瞬間瞬間の真剣勝負にかからなければいけない

いまとは、「グレーの時代」だ

悪魔的な危険やタブーも恐れない人間=デビル・マンの時代なのだ
天国と地獄が融合するゾルバ・ザ・ブッダの時代なのだ

きれい事に埋没している場合じゃない

「鬼」も「おたふく」も「能面」も、全部マスク・・・私たちの仮の姿であることを
私たちは忘れず、この瞬間瞬間の仮面舞踏会=マスカレードを
十全(トータル)に生きよう、・・・・亀:タートルのように、じっくりと慎重に、

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