ほんのちょっと考えてみれば、あったりまえのことだった
何で私たちは「希望」にしがみついていたのだろう?
何でわたしたちは「いまここ」を踏んづけて、「いつかどこか」への
踏み台にしていたのだろうか?
「絶望」と聞くと誰もが、真っ暗な世界をイメージしてしまう
私たちは常に「いまここ」から飛び出し、掛けだして、
明るく楽しく、幸せな明日を追いかけ続けることが
自由なのだと、なぜか思い込み続けていた
きっと明日は明るい、きっと明日は良くなる、自由になる、豊かになれる
努力し続ければ「誰かに」なれる・・・・
でも、それに反して「いまここ」とは、瞑想とは
・・・・・・退屈で、寂しくて、イライラする
「いまここ」に縛られるのが〝不自由〟で
何かの欲望を追いかけ、
何かのショッピングで好きなモノを選ぶことが〝自由〟だと・・・・
わたしたちは一体いつから思い込んでいるのか?
私は別に、「ここにジッとしていろ!」と説教しているのではない
「なぜあなたは、いたたまれないのか?」
「その葛藤は苦しくないのか?」
「あなたの心を引き裂く原因を知りたくはないかい?」
そう問うているだけだ
何かに「なろうとする努力」 それ自体が「制限」の正体であると
あなたはおもわないのか?
そうだ、単純な話だ
あと5kg体重を落とすために、こう言う食事制限をしよう
東大に受かるために、 もう一時間睡眠時間を減らして勉強しよう
収入のアップと安定のために、 この資格を獲得しよう
私たちはいつも、
〝自由〟に「成りたくて」、〝何か〟に「成ろう」としているが
実際には、それこそが〝不自由になる〟ための唯一の方法だったのだ
こういった努力を、「してはいけない」 と、私があなた咎めてているのでは?と
そんな風に勘違いしないで欲しい
それらがあなたにとって自然な運命として必要なことであれば、
あなたはそれ程それらの努力、学習、工夫に、不自由を感じないだろう
いや、むしろそれらを
苦労とも、忍耐とも感じず、楽しくワクワク感じるだろことだろう
でもあなたが、脅迫観念的に「何かになろう」としたら、
それらの努力や工夫は
楽しくはない、苦渋に満ちたものになるだろう
あなたが「いまここ」にいたたまれなくて、
自分をせき立てる、
不自然で、脅迫観念的な努力をしているのなら、
退屈や不安や孤独感に
交互に、あるいは同時に襲われることだろう
実はこれが、
大人達 (良識的人々、教育者達、) が、ずっと子供達に
「希望を奨励し、学校の作文に書かせ、絶望を避けさせてきた・・・」
無意識の習慣なのだ
彼らが、あなたの人生で感じている渇望を
満たしてくれる、保証してくれる日は、決して来ないよ?と
わたしはあなたに耳打ちしておきたいのだ
「外」に向かって飛び出せば出す程、駆け出せば出す程、
私たちは「素(ス) の 自分」から離れてしまう。
・・・遂には、〝遠く離れてしまっている〟こと自体さえ自覚できず
思い出すことさえ困難になってしまう
なぜなら、「素の自分」を思い出そうとすると、不安を感じるからだ
・・・それは「絶望」という名の暗黒のように見える
でもあなたが運良く、「いまここ」に戻ってくることが出来たら
あなたは様々な不安から解き放たれはじめる
自分自身にくつろぎはじめ、信頼しはじめる、様々な気づきが訪れる
ありのままに世界が見えるし、それは美しい
・・・それと同時に、今、人々がどれ程の狂気に取り憑かれているのか?
その根底がまざまざと見えてくるだろう
人が死を恐れるのは、その肉体の苦痛からではない
その「自分たちの文明、社会では手に負えない」未知性を
イタズラに怖がっているだけだ
本当は人は皆、言われなくても知っている
いつ?如何なる瞬間に、突如人生は「はい!おしま~い」と待ったなしの
ゲームオーバーを宣告されてしまうのか?
それがいつなのか?と言う保証が
全くないことを・・・イヤと言う程知っている
だからこそ、そこから逃げだそうと、明日を追いかけ続けている
その結果、瞬間瞬間、「生きていない」状態が連続している
それも、何とはなく気が付いている
「生き延びる」ことと「生きる」事とは全く別物なのだと言うことに
何とはなく気が付いている
わたしたちは、かろうじて「生き延びてはいる」が「生きてはいない」
わたしたちは、常に「生きる」ということ、「この瞬間瞬間を使い切る」という
全面的な炎(ほのお)の様な生き方に、憧れはするが
それは芸術家だけの特権だと思い込み
自分たち自身は「先送り」「延期」しているのだ
だから私たちは、集団的な狂気にいつも取り憑かれて生きている
イワシの大群のように「統計学的に、死はまだ来ない」と自分を安心させて
睡眠薬、精神安定剤をがぶがぶ飲みながら生き延びている
炎のような狂気を避けるために、
生ぬるい慢性的な集団的狂気のなかで、まどろんで生きているのだ