We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

“神”という言葉をカルトが連呼し続けるので、
すっかり“神”という言葉にはヤバイ人以外は人が寄りつかなくなってしまった。

最近は、その言い換えとして“ワンネス”とか“グレート・サムシング”とか
“インテリジェント・デザイナー(知的創造主)” “デヴァイン”いう言葉が
使われるようになった

私としては、東洋の生み出した偉大な言葉
“無”こそが
“それ”と同一ではないかと思っている

つまり、無の定義に成功してみると
それは“不在”ではなく、“存在するもの、すべてのすべて”となる

だからそれは“アイン・ソフ無限”でもあり、
また“アイン・ソフ・アウル=無限光”でもある

と、

だんだんその呼び名が変遷し始めてから、“神”自体が、ひょこひょこ
人類にコメントするようになってきた(笑)

映画「オーゴッド」「神との対話」である

で、  “彼” のはなしを聞いてみると、こいつ(おお!失礼します)が
結構かわいい、萌えキャラなのだ。

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そして、私たちに後悔を告げている

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でも、彼の新しい名前“ワンネス”は、彼が如何に恐ろしい
存在なのか?告げている

すべてがひとつに溶けて回帰してしまったら、もうそこからは
帰ってこれない・・・  
だから詩人タゴールは、「彼の自宅を避けて彼を捜している」
と笑って良いんだか悪いんだかワカンナイことを言っている。

そしてそれは“無”という言葉が未定義というか誤解されていたことにも
関係している。  つまり究極的な非存在なのだと・・・

だから、“無”つまりはそれを体現した“ム”の人=仏とは
神とは別物と思われたりしていた。

でもそれが誤解であることは、私は説明できたと思っている。

仏とは確かに神の顕現なのだ・・・ ただし、人の姿であるが故に
誤解されてきたし、仏教では“神”という言葉(表現)を避けてきた。


“ワンネス”というのは、一種の“(根源的な)状態の表現”であって、
それゆえに、広義にはすべてが(※FFDであるがゆえに)

                  “無”であり、

ゆえに全て(八百万=限りなく沢山)は神である。

  ※ FFD=freedom from Dimension

まだ最先端マスメディアがラジオであった時、小説「君の名は」というのが
放送され、銭湯はがらがらであったという古き良き時代のエピソードが
残っているが、「君が代」の“君”とは、私たち日本国民からすれば、神の子孫
である天皇陛下であり、また、天皇陛下自身からすれば、“君”とは国民全てである

君が代とは「君の代が永遠に絶える事なかれ」という祈りの歌であり、
つまりは天皇陛下と日本国民とのコールアンド・レスポンスである。


なぜ、神が遠い存在になってしまったのかと言えば、それは言うまでもなく
聖書によってである。 聖書を信じたなら誰であれ神に親友のような感覚を
持つ人はいないだろう

「天の父」という言葉さえやはり遠い、途方もなく遠い


NHKの「こころの時代」という長寿番組で、もっとも古い聖書では
「天の父」というのは、ニュアンス的に「おとうちゃん」に近いものだったと
言っていた記憶があるので、それならばまだ身近なのだが、であれば
長い改ざん、変遷の歴史の中で、現代のような“超越的絶対者”に
なっていったのだろう

FulPZ
     はい…ちゃぶ台なしでも 自分を
       コントロールできるようになりました…
                   先生のおかげです…


この分離感の原因はしかし、根本的には原初からあったと思う。
なぜならば、「君」という分離をワンネス(わたしたち)が望んだことで
この世界は始まったからだ

わたしたちは、潜在的に詩人タゴールと同じく、神との再会は
「終わりの時」であろうという予感を感じているのだろう

しかし、「オーゴッド」で神は言う

「君達は複数いる。助け合えばいいじゃないか?」

「終末論かね?わたしとしては、望んでいない。
         修羅場を見るのはもうウンザリだ」

  だから、宇野正美氏にもそろそろ改心していただきたい

つまり、再会したからと言って、エヴァンゲリオンのような強制的な
再融解の禍々しいことにはならないようなのだ。

“彼”は限りなく私たち個々を尊重してくれているし、
かといって、いままでは「遠すぎた」、もう積極的に助けたいと願っている
様なのだ。

ところが、私たちの方も「絶対的全知全能者」と思い込んでいるが故に
神の側は迂闊に近づけなくなってしまってもいるようだ。

   ・・・・・御利益宗教の弊害はこんな所に出てきている。

「崇教真光です
 あなたの長寿と繁栄を祈らせて下さい」


spock

怖え~よ!あっちいけ!!


空間とは「隔たり(ホドケ)」であると同時に「繋がり(ムスビ)」である

つまり、“彼”とは完全に分離することもないが、同時に完全に溶けて
個別性を失うというのとも違うようだ
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もし一体という見方をするのであれば、いますでに一体であるはずだ
だから、“彼”との再会は感激ではあっても、その瞬間に全てが終わる
のではない

     ・・・・たぶん、ある意味では意外なぐらい
               「今と変わらない」のではないだろうか?

先日7月27日のシュリ・ヴァガバンでの質疑応答では

「日本人が呪われているのではなく、ワンネスが日本人に理解しやすい
表現をまだ探しあぐねている」  っと解答していた。

このブログもミスターワンネス氏とある意味では同じ試みなのだ


この記事は

シャープさが人を癒す - I am my own Dimension
http://gocky.blog.jp/archives/3479470.html

の続編というか、追記的な内容です


自分のエンライトメントへの物理的タッチとは、カンタンに言えば
自分の骨にタッチすることだ

これはわたしの長年のテーマの「治療、癒やし」に関する
ひとつの最終結論かも知れない

あなたの身体のどこでもいいからぎゅっと押してみて
すぐに骨を感じるところはあるはずだ
             (頭蓋骨などは見つかりやすい)

たとえばそれが筋肉の場合は
「俺は忙しいんだ、アッチにいきな」

っと言っている


たとえばそれが何か血管とか筋で、ぐりぐりする感じだったら
「ほーれ、あちらと思えばまたこちら♪」

っと言って逃げ回る


膜とか脂肪の様なグニャッとかプニっとした感触は、その奥が
かなり骨に近い

「う~~ん、もうちょっとで到達」

っと言っている

そこからたとえばドリンクのビンの飲み口のような
シャープな堅さとつるんとしたしなやかな感触を併せ持つもの
を指圧補助道具として使い、グニャッとかプニっとした感触を
奥まで探ると、ツーンと言うかぴりっとした感覚に出会う事が多い

これが最終防衛戦なので、無理のない程度にじんわりと
そこで暫く待ってみる

すると刺激が身体を一周して胃腸がグルグルいいだしたりして
嬉しそうな音を立てるかも知れない・・・  そうなったらもうすぐだ

すると急にふわっと広がって奥の骨にコツンと触れる感触が得られる

骨自体は無茶なインパクトさえ与えなければ痛いものではなく
とても気持ちいい

この感触と対話してみて欲しい

それがエンライトメントの感触だ。

そこにはダイレクトな真実へのタッチがある。


ちょっと余談に書くならば

この「コリッ」とした感触は勃起したペニスの感触と共通する

だから、勃起したペニスの硬さとは、性の真実へのタッチの
感触なのだ

若い男性は、人生が停滞した感じがあるとマスターベーションが
多くなるが、それに罪悪感を持って欲しくはない

それは停滞していると感じているが故に、真実へのタッチを
あなたが求めているのだ

もちろん、それは多大なエネルギーの流出なので、そのあとの
グッタリした感覚に「無駄なことをした」という自己嫌悪を感じるのは
自然だが、その瞬間の恍惚感の中に、光へのタッチがあるのだ

だから、本人が自覚する以上の様々な大切なメッセージを
その瞬間に受け取っている

それは記憶中枢を通らないのでテキスト化は不能だが
すぐに顕在化できないからと言って焦ったり自己嫌悪に
ならないで欲しい。

性の爆発の瞬間、そこには死の感覚がある
死の感覚は、人生にタイムリミットがあることを思い出させてくれる

滅多に戦争もなく、死を身近に感じることがない
私たちに残された大切な感触だ

だからこそ、そこには

感じられるのだ  ・・・・死に神、様々である


女性も、男性のペニスに触れる時、思い出して欲しい

そこにはわたしたちワンネスが、この三次元宇宙を創生した時からの
脈々とした、「確かな手応え」を求めてきた情熱が込められていることを

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だから女性が男性の「隆々とした脈動」に愛おしさを感じるとき、
それは宇宙の営みを、意思を感じているのだ

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男性は、女性の乳房や性器に触れる時に感じて欲しい。
その温もり、暖かさ、やわらかさは、
「女性が子供に乳を含ませる時の育みの名状しがたい“な”気持ち」
円周率(パイ)の表現なのだと

スジャータ




宮井陸郎 シャンタン
質問 :

バガヴァン、マインドを完全に取り除くべきでしょうか?

バガヴァン :

いいえ、あなたはマインドなしで行きていくことはできません。

なぜなら、マインドは必要だからです。

しかし、必要な時だけマインドが働く代わりに、

マインドは常に働いているように見えます。

例えば、雪のなかを歩くには雪靴が必要ですが、もしあなたが

それを寝室や食堂でも履くとしたら、とても煩わしくて邪魔になります。

それと同じように、マインドにはマインドの場所があります。

しかし、(大部分の人においては)

マインドがどこでも、いつでも働いているようです。

それゆえに邪魔になるのです。

質問 :

満たされていること、あるいは持っているもので

満足することは世界でのその人の能力を下げることになるのでしょうか?

外側の世界で有名になりたいという動機は悪いことでしょうか?

バガヴァン:

あなたが自然にそう感じるのである限り、私にとって悪いものは何もありません。

私は2つのダルマがあると思います。

1つはマインドのダルマ、そして2つめはハートのダルマです。

もしあなたのハートが開いていない場合、

それはマインドの枠組みのなかで機能していることを意味します。

もしあなたがマインドの枠組みのなかで

人生を生きているのなら、あなたはそれに正直であるべきです。

マインドはセルフ(自己)の回りを回転し、セルフは表現することを必要とします。

セルフはお金、名前、名声などを得ることに喜びを感じます。

セルフは自然にそれらに引かれます。

セルフは進んで犠牲を払おうとするかもしれません…

お金など欲しくない、名前や名声など望まない、と。

それもまた自己の表現です。

なぜなら、あなたは人々があなたを愛し、

あなたの偉大さを認めてくれることを欲するからです。

あなたは全てを放棄し、それに満足します。

お金を放棄するか、または反対に多くのお金を所有することで満足するか、

名前や名声を放棄するか、またはそれを得ることで満足するか、

それはあなたの選択次第ですが、しかしそれは同じことです。

あなたがそれを放棄するにしても、追い求めるにしても、それはセルフの表現です。

それゆえ、あなたがマインドのなかで機能している限り、

名前や名声を求めることはまったく自然なことです。

それに正直でありなさい。

そしてまたハートが開いている人々もいます。

そのような人は物に執着しませんが、それはそのように努力するからではありません。

彼らのハートが開いているので、自然にそうなるのです。

満足し、満たされている状態は彼らにとって真実であり、自然なことです。

それは彼らの動機が劣っているとか、有能でないということではありません。

彼らは自分のセルフを満足させるためではなくて、

より偉大な原因によってそうなるのです。




質問 : マインドは、投げ出されなければならないのですか?

osho :あなたの身体から投げ出されるべきものは、何ひとつない....

あらゆるものが変容され、併合されなければならない。

マインドは醜くない。

あなたの扱い方が醜いのだ。

扱い方を変えなさい。

マインドは醜くはない....あなたが、無意識なのだ。

その馬車は美しい、金色の馬車だ。

それなのに御者は酔っ払い、ぐっすり眠りこけている。

そして彼は馬車をののしり、非難している。

自分が溝にはまったとわかると、彼は馬をむち打ち、

馬車を非難し、馬車の製作者を非難し、

それが馬車の欠点でもなければ馬の失敗でもなく、

馬車の製作者の過失でもないとは、決して思わない。

それは彼自身の失敗だ。彼が酔っ払い、眠りこけていたからだ。

馬車が溝にはまってしまうのは当然だ....全責任は、あなたにある。

マインドを破壊するとか、投げ出すという問題ではない。

マインドは美しいメカニズム(機械装置)、

存在する最も美しいメカニズムだ。

なのに、あなたはマインドの召使になってしまった。

あなたが主人なのに、主人が召使の役をしている....

マインドは召使なのに、あなたが召使を主人にしてしまった。

マインドは、最も美しく、最も複雑で、

最も発展したメカニズムのひとつだ。

それはあなたの世話をよくして来たし、

今でもよく世話している。

その働きによって、

あなたは人生の中で同じストーリーをくり返して来た。

誰もが同じストーリーをくり返して来ている....

あなたはマインドを主人にし、

今、その主人はあなたをただの召使として扱っている。

これが問題なのであって、

マインドを投げ出さなければならないわけではない。

そしてそれが、瞑想とは何なのか、

ということのすべてだ....

マインドから離れ、

マインドの上位に立ち、

マインドに対して超越的になり、

「私はマインドではない」と知ることのアートだ。

それは、マインドを投げ出さなければならないということではない

「私はマインドではない」と知ることは、あなたを再び主人にする

あなたはマインドを使うことができる。

今のところ、マインドはあなたの手の内にはない。

あなたは、よい御者ではない。



私たちの意識(あるいは無意識)の本体はホワイト・ボードだ

いわゆる表面意識とか、顕在意識というのは
ホワイトボードに書かれた文字であり、これは
ホワイトボードの上に何万年もの歳月とその試行錯誤で
練りに練り上げられた生体OS=オペレーション・システムと
そのさらに書き加えられたアプリケーション群、
つまりマインドの出力結果である

OSHOが「マインドを見抜け」という場合
ホワイトボードである自分自身を見いだせ!
書かれた文字に自己同一化するな!と
言ってるのであって、書かれた文字を
何とかしろとか、ホワイトボード自体を
破壊しろと言ってるのではない

ところが、ラインマーカーでくっきり書かれた
文字は記憶中枢を通るが、ホワイトボードは
記憶できない・・・その必要がないからだ


それゆえに私たちは自分自身の
〝出力”である文字の方に
アイデンティティーを持ってしまう

つまり過去(記憶、思い込み、信条、解釈)や、
未来(期待、不安、予測・・・)を自分だと
思い込んでしまうのだ

ホワイトボード、それ自体は光だ。
それは恍惚だ。
だから記憶できない


    ※さらにその背景がタキオン(滝音)だ

だから無念無想の瞑想を試みると
「自分はマインドで一杯だぁ~~」と見えるが
実は全く悲嘆する必要はない
いままでも、これからも

私たちの人生の瞬間瞬間は、全て光に包まれている



追記:
日本の禅の伝統を由来とする
「無念無想」や「只管打坐」は
限りなく真実に近いが故に
非常に誤解されやすい言葉だ

まず、「無念無想」という言葉は、
ふたつも“無”が出てきているが、
これは私のブログを今まで読んで
来てくれた人には

「この “無” って “ない” とか “無くす”
        じゃなくFFDだよね?」

で、イッパツ理解が可能だろう

また、「只管打坐」というのも
これをポーズ(格好)だけで捉える
アホウはダイナミック瞑想100回の
刑に処する(笑)

日本の僧侶の90%は
以下の様な本のアホさ加減を
     見抜けないから
     バカの生臭ばっかりなのだ

ダイナミック瞑想100回の刑が必要なのだ
   ↓     ↓     ↓
考えない練習 (小学館文庫)
小池 龍之介
小学館
2012-03-06


ポーズ(見かけ、思考停止)のボーズ(僧侶)では
駄目なのだ

      川に浮き
      川と戯れ
      川と共にある

           OSHO「存在の詩」

       そこで“自然に起きる”のが
             只管打坐・・・・

   「古池や    The ancient pond
    蛙飛び込む   A frog ! Junp in
       水の音」        --- Plop!

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                     である



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