We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です


心身脱落=肉体的にも心理的にも完全にリラックスすると
脱落心身=その「緩やかさ」そのものがあなたの心身となる

ってなところですかね?


だから“無”というのは、“なにも存在しない”と言う意味じゃなく
すべての存在の本性は
「何の力みもない」
「何の作意も持っていない」
「どんな定義からも自由だ」

   ・・・・それを一言で表現する単語が「無」なのだとおもう


すべての分離はあなたの錯覚~ナイト・アンド・デイ 投稿者 maneel-katal


このシャンタンの言わんとすることを
演繹法ではなく帰納法で見てみましょう


 なぜ私たちが
  目的志向と理想主義、希望、期待、絶望、失望・・・・
  これらの餌食になってしまうのかと言えば、【疲れ】があるからです

  〝意外性〟〝未知性〟を恐れ、
   いつも柳の下の闇を恐れて、ビクビクして、ヘトヘトになってるんです


  だからいつもどこかに辿り着いて、
   「永遠の安らぎが欲しい」
     ・・・と渇望する習慣がこびりついているのです


  手塚治虫の「火の鳥」でも出て来るように
   私たちにとって「永遠の生命」とは、
    実を言えば罰ゲームに見えてしまうんです


だって、気が狂っちゃいそうでしょ?
生きるのにヘトヘトの人達ってさ


だとしたら
  私たちは本性として元々「不老不死」かもしれないのに
   それを「悟る」ということは、
     「絶対的な拒絶対象」  「絶対的な恐怖」

        ってなことになっちゃいませんかねぇ~?(爆)


  それゆえに、「不老不死」を拒絶しつつ
          この肉体の世界で「不老長寿」を求めて

 ・・・・過度に神経質に食べ物や健康に潔癖になってしまっている

そりゃあ、ひとつの文明が滅びてしまうことだってあるでしょ
この地球だって、永続するわけではないでしょう?

   「でもだから、何か?」(バシャールの言う「So what's」)



OSHO:それは終わりのない旅だ。


http://ameblo.jp/miyairikuro/entry-11984630749.html



バシャールの必殺スペシウム光線!
「エキサイトメント=ワクワク」というのは
【意外性、未知性】をポジティブに解釈したフィーリングですね

それをネガティブに解釈すると「恐れ」となります


つまり「恐れ」を「ワクワク」に、
闇を光にひっくり返すのが、この三次元の「気づきの旅」です

エンライトメントという言葉は、つまり「明るくする」という意味は
そういうことなんです

OSHOが
   「誰もが全てエンライトメントしている」と宣言しているのは
   「あなた達という存在は本性としてすでに〝ひかり〟なんだよ」っと
                   っと言っている意味だったんですね~~



「真心」から「受け止める」と書いて「愛」と言う文字になる

昨日の記事で、「愛は定義を嫌う」と書いたけれど
「愛とは何か?」と語るとき、それは「受容性」の話だからだ

・・・花束を持って
   「アイラブユー」「アイウォンチュー」と追いかけてくる行動は
   ハッキリ目に見えるが、その花束を受け止める側の人の
   「包容力」には得てして気が付かないからだ

    愛は子宮を持って命がけで受け止める、包み込む・・・・
    女性が主人公の舞台だ

    花束が愛なのではなく、その花束を
           〝受け止める〟ハートにこそ、愛は宿っている

     それは、常に何かを「する=行動」に取り憑かれてしまった
     競争思考、獲得思考の現代人には理解しがたい事なのだ

      にもかかわらず、「愛」という言葉だけは巷に溢れかえっている

       漢字における  「〝愛〟の勇敢さ、尊さ」 とは
       「相手を真心から受け止める広さ、豊かさ、暖かさ、包容力」 だ


母の証言によると、会社の社宅住まいだった両親の若き貧しき頃、
幼い長男だった私は、半狂乱の金切り声を上げて狭い部屋の中を
叫び回っていたそうだ。

商社の社長の娘で、富山市では有数の邸宅の〝娘さん〟であった母は
結婚して、信じられないようなウサギ小屋に閉じ込められ、私を産んだ

そんな「急転直下」な感覚を味わっていた母にとっては、狭苦しい社宅は
ひとりのサラリーマンの男に売り飛ばされた性奴隷のような感覚だったようだ

母本人も、
「その時期、私はどうしていいかわからず、うろたえていて、
心ここにあらずの状態で、お前の目をろくに見ることも無く授乳していた」と言っている


自分では覚えていないが、幼い私は、発狂した動物実験のサルのように叫びながら
コタツの周りをグルグルとかけずり回って、転び、特に頭を何度も打ちつけ
切って何針も縫っている

    その私の行動は精神的にどん底だった母をますます追い詰めた

もともと体面が全ての母は、私の叫び声に社宅の同じ社員達が
「オタクの長男の叫び声を何とかしてくれ!」という回覧板が
回ってくるごとに怯えていたそうだ


幼稚園に通うようになった私は、今で言う典型的なADHDの強烈な症状を
見せていた (このあたりからは自分自身の記憶にある)

一瞬たりとも椅子に座ってジッとしていることはなく、協調性は全くなく
・・・つまり他人と一緒に行動するのを極端に嫌い、酷い対人恐怖症だ

幼稚園の卒業式、みんなで写真を撮るというとき、
ひとりで幼稚園の池をしゃがみ込んで見つめていた私は
連れにきた母親にブツブツと呟いたそうだ

  「ボクには勇気が無い」  「ボクには勇気が無いんだ・・・」


  実を言えば、52才の今でも、内面的には何も変わっていない

わたしにとって唯一の救済は「ユーモア感覚」だ

わたしは冗談を言っているときだけ、それを人に笑ってもらっているときだけ
自分の対人恐怖症を瞬間忘れることが出来る

この瞬間の、「心のオアシス」から出てきてしまうと、またとてつもない
心の闇に苦しむ

わたしは、
他人と接するときは、この「ユーモア」だけを支えに向かい合っている

だからひとりの時は、この
「自分自身を卑下したり笑い飛ばすことで支える努力」から解放され
まるで潜水夫が潜水服を脱ぎ捨てるような開放感を味わう

潜水服を着けた対人関係も
潜水服を脱いでしかくつろげない自分の習性も・・・  窒息するような恐怖だ



このとてつもない対人恐怖症の感覚を分かってくれる人はいないだろう
それを他人に責めるつもりはない、だって、自分自身が意図的に隠して
いるのだから

しかし、少なくとも赤裸な自分を見せることが出来た相手(異性)とは
数人出会えた・・・数年共に生活した人もいた

確かにそれは救いではあったが、彼女たちは
通り過ぎていく存在だった

                    ---アローンアゲイン (ナチュラリー)


世の中にはヒーラーだの、教祖様だのいっぱい居る
如何にも悟った顔、あなたのことを全てお見通しのような顔をしている・・・

あなたは、キチガイでないなら自分が「寄る辺なき身」であることを知っている
自分は自分自身でも理解出来ない程、不完全で、ちっぽけな存在だと知っている

  「だから、ボクよりも僕自身をよく判っている人が居るに違いない!」

  「アタシを情熱的に『愛してる』、と言ってくれる、求めてくれる人は
   あたし自身が気が付いていない、アタシの魅力を見つけてくれた人なのだわ!」

  「だってアタシ、愛される値打ちがある女だと、自分でも思えないんだから!!」


ってな具合で、人はグルや、マスターやカウンセラー、生き神様、超能力者を
探し回る、あるいは熱烈にあなたに花束を掲げて追いかけてくれる男性を夢見る


クリシュナムルティ~『真似する人生から、真の自... 投稿者 maneel-katal


ああ、それもいいだろう!
たしかにあなた自身さえ気が付いていない、
未知の側面のあなたが見える人は居るかも知れない

  でもたとえそんな人と出会えても、その人と永遠の愛を誓っても
  その人はあなたを死ぬまで看取ってくれるだろうか?

  いや、あなたを不老不死にしてくれるだろうか?


この場合の「不老不死」とは肉体的な意味でなくてもいいのだ

  要は、
  私たちは意識を失う前に「不滅な何か?」と一体になれるか?である

  さらに別な言い方をするなら、
  「来ては立ち去る者ではなく、
   自分自身と永遠に共にある事が出来るものとは?」

  ・・・つまり「永遠の救済は有り得るのか?」

     それを切実に、狂おしい程せっぱ詰まって探すことなのだ

      子供の時の私は、その回答が「母親ではない」ことを
      全身で理解していたのだ・・・

      その点、
      「頼りない箱入り娘だった母親」の許に生まれたことは
      私を本質的な探求に向かわせてくれたという点で
      最高の母だったのかも知れない

大多数の人は、私とたいして違わない状況のハズなのに
なぜか?探求しない

探求のパラドックスを見抜いて、卒業したのではなく
単純に、真剣な探求をしない・・・  それが私には理解出来ない

たぶん、まだ、「結婚」とか「出世」「名声」「蓄財」「不動産の取得」
「社会の向上」などに期待しているからなのだろう・・・

昨日より、明日はきっと良くなるだろう、っと

そういう人間は、コタツの周りを口から泡を吹きながら
グルグル駆け回ったりはしないだろう

そして、社会の中に「はまる場所」を首尾良く見つける

聖☆おにいさん03_116


本当に「まごころ」から「受け入れる」とは、どんな状況なのかと言えば
それは、「自分自身の狂気すらも抱きしめる」ことではないだろうか?

  結婚式で愛を誓う・・・  

  いいだろう!!、確かにその日、その時は、そんなムードだったのだ

   花嫁も泣く、花嫁の父も泣く、参列者ももらい泣きする・・・

    感動的な光景じゃないか?



でもこれは本当に「永遠」なのか?
全ての全てに「妥協」はないのか?

「妥協」とは「心からではない~」「渋々の~」受諾に過ぎない

本当に「永遠に、恒久的に・・・」愛を誓えるほど、私たちの心は
      愛に満ちているのだろうか?       安定しているのだろうか?




 私の中ではまだ、叫び声を上げて、延々と社宅の四畳半の居間で
  ぐるぐるとかけずり回る狂ったサルがいる・・・、52年間ずっと居る

       でも、社会人として常識をわきまえ
         ユーモアを交えて談笑する私ではなく
           むしろこの狂気のサルの方が本当の私なのだ


            あなたの中には?居ないのか?  ・・・狂ったサルは?

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