We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です



私は別に「依存が悪」だとは思わない

物理的には私たちは常に相互依存の関係があり
「社会的な種族」である私たちは、生活の上で相互依存は不可欠なのだから
そのことには全く問題は無い

ただ、
問題なのは心理的な依存関係だ

これは恐ろしいことに、殺人でさえ正当化しようとする
マインドへとあっさりと移行してしまう

だから、恋人関係、夫婦関係にはいざこざが絶えないのだ

最初の期待が大きいほど、互いに相手に

           「裏切られた!!」

  っと、思い込んだ後の冷淡さは、どこまでもエスカレートする

誰かへの何かの期待が  ある以上は、残っている以上は・・・

                このまま一夫一妻制度は永続するだろう、

この男女の相互独占制度は永遠に男と女を相互に苦しめ続けるのだろう・・・

「花嫁強奪」でも書いたけれど、結局の所、ボスザルのハーレムからメスザルを
強奪し、オス達は仲良くメスを分配した・・・  それが一夫一妻の始まりだ

占星術では金星の象徴するのは「財妻芸美」だが、昔も今も、「夫婦」とは相互に
略奪品なのだ。独占物なのだ。「所有物」なのだ。

ここから一歩も進化は出来ない、人類は・・・

バシャールが言う、惑星が丸ごと一つの家族だ、っという世界は
この「所有物」(占星術で言う第二ハウス)の感覚が消えない内は
この地球には実現しないだろう

それは基底に「飢餓感」があるからだ


先ず隗より始めよ・・・・

中国の故事から、現代のスピや成功法則でも、
さんざん言われてきたキホン中の基本として有名なセオリーだ

遠く広く、大きな事より、手近なところ、内側、自分自身から物事は変革できる

でもなぜか、いまだ私たちは小手先で制度を変えようとしたり
他人を改善しようとしたりする・・・・

何でそうなってしまうのかと言えば、
やはりこの言葉がピンと来ていないからなんだろう・・・・


ついつい人は目に見える結果を出そうとして、小手先でものごとを
外側から変化させてしまおうとするものなんだ

じゃあ、どうしてそういう判断に飛びついてしまうのかと言えば
目に見えない変化よりも、
わたしたちは眼前を飛ぶ蠅を捕まえるカエルと同じように、
目に見えるものに、ついつい機械的に反応してしまうからだ

なぜ?OSHOにせよクリシュナムルティーにせよ、

他人のカーボンコピーになるな
あなたたちはイミテーションのカタマリでしょ?

っと異口同音に言うのか?

機械的なパターン、カーボンコピー、イミテーションというのは
何も考えなくて済むからだ、何も疑わなくて済むからだ

        ・・・マインドを研ぎ澄ます必要も無い


今世の中は、コピペで溢れている

お金でさえ、ただのコピペだ

なぜなら、コピペという名の「偽札」が充分価値を持って、
もてはやされているからだ

健康法一つにしても、「玄米が良い・・・」
「いや、炭水化物や糖類、穀類にあまり頼らない方が良い・・・」

よく見ていると、実は矛盾したような内容のニュースが流れている
わたしたちは、そういう矛盾にもあまり考えずに思考停止している

  コピペコピペコピペコピペコピペコピペコピペ・・・・

いつしか、ソースは何か?オリジナルは何処か?
そこにはどんな意図があるのか?
突き止めるのを諦める習慣が付いてしまった・・・
まあ、突き止めたにせよ、
それが何を意図しているのかを洞察する能力もない

それらのコピペニュースは整然と列を成して私たちの前を胸を張って
威風堂々と行進している・・・・  だから価値があり、そこには「より良い明日」が
保証されているかのように見える  ・・・・でも本当にそうなのだろうか?

・・・・私にはむしろ逆に見えてきた

    むしろこれらの手と手をつなぎ合った連帯の行進、友愛、善意、
    そして、無条件の愛の尊さと気高さを賛美した多くの言葉が・・・
     うさんくさく、そして姦しく感じる


     私たちはそんなに素晴らしく、英知に溢れた存在なのだろうか?

      で、あるならば、彼らの行進の先には輝かしい人類の希望、未来が
         待ち受けているに違いない・・・  でも、私にはそうとは思えない

その行進の先にあるのは茂みで覆われ、巧妙に隠されたガケップチのように見える

それは、どの方向が正しく、どの方向が間違っていると言うことではない
      あえていえば、全部間違っている

      360度、どっちの方向も、
      もれなく、「死」だ! どれもが「破滅」だ!!

わたしたちはどっちの方向に行進していっても、
奈落の底に突き落とされる運命しか、無い様に思える

わたしたちは、「正しい選択」と「間違った選択」があり、
「正しい選択を自分たちはしている」と思って、皆自信に輝いているようだが
わたしはあなたたちに同行したいと思わない、友になりたいとも同志になりたいとも
思わない   ・・・・集団が行動した先は、すべて奈落の底が待ち受けている


  人はなぜ、孤独を感じるのか?

   それは、
   周り中が全て「不確かさ」で埋め尽くされている事に
   何となく気が付いているからではないだろうか?
   しかも、それに関してどうしようもないことも、気が付いて・・・

    ・・・本当は誰もが、心の奥底では、  ・・・絶望しているのではないだろうか?

        ・・・だから人は、希望にすがろうとするのではないか?


    私たちはいつも、「確かな何か」に餓えているのではないだろうか?
           しかもその「餓え」は、絶対満たされないことも気が付いている

その耐えがたい孤独故に、
       わたしたちは友を求め、理解者を求め、集団に所属したがる

  ・・・・それが本当の私たちの、「全ての動機」「根底の動機」ではあるまいか?


       本当は私たちは、「何処か輝かしい未来に整然と行進している」という
         夢を見ているだけで、本当は集団自殺の狂気の中に居るのでは
                                         ないだろうか?

      だとしたら実相とは「狂気の集団暴走の渦中」に誰もが居る
        まるで「増えすぎて発狂したネズミたちが海を目指す」様に・・・・

           だから思う   「これは集団狂気だ、混乱なのだ」

                    それを自覚する勇気こそが必要では無いか?


その時、その人はひとりぼっちになる、誰とも妥協できない

      誰の弟子にも、指導者にもならない、友にもならない・・・・


         誰が「混乱」なのか?が問題ではない

         自分自身こそが「混乱」なのだという自覚があるのなら

         その人は、孤高を気取っているのではなく
                 何かになろうというわけでもない

          ただただ、 人と共にはいられない
                  群れることが出来ない

   群れること自体が、
    集団無意識の暴力に同化することだからなのだ


  「自分は何一つはじめようがない〝存在〟なのだ」  っという
        〝自覚〟に、〝嘆き〟のなかに、ただただひとり取り残された・・・

     ・・・そんなひとこそが、 「はじめのひとり」  であり 

                     「さいごのひとり」  なんじゃないだろうか?



サニヤシンと話していると、
OSHOの「ノーマインド」と言うことに囚われすぎている気がする


私は昨日もサニヤシンの一人に
「でもあなたの本性もすでにブッダだよ?エゴももう超えた存在だよ?」
っていってるんだけれど


「いや私は違う、私はまだ達していない!」

「すべてのエゴが消え失せる瞬間が〝いつか〟来る
              “その”瞬間エンライトメントなんだ!」

                       ・・・彼らサニヤシンはそう言ってきかない

わたしは“それ”っていつだよ?っていいたいね
サニヤシンはよく、エゴやマインドからの脱出を言うが
サニヤシン達の最大のエゴとは
「サニヤシンであること」なんじゃないだろうか?

  ・・・だから、「サニヤスとかディクシャというのは方便じゃない?」
           っというのが、私の持論だ

どんだけスピ世界で「エンライトメントはいまここ」にあるっっ・・・ と
口酸っぱく、
耳にタコができるぐらいみんな「いまここ」っと聞かされても、
不思議なくらい「いや、“いつかどこか”なんだ!!」っと反論してくる


きっとみんな、エンライトメントの為には、
何か“資格”試験のようなものに合格する必要があると思ってるんだね・・・

わたしに言わせれば、その条件付けの発想そのものが
「受け取れない」唯一の条件だよっ?  と、からかいたいね


あまりに美し過ぎるマスターであったOSHOの弟子であることの
最大のハンディーキャップは、これだな・・・っとシャンタン氏の
語ってくれたサニヤシン達の思い出話を連想していた昨夜だった

↑このページのトップヘ