We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です


宮井陸郎 シャンタン
質問 :

バガヴァン、マインドを完全に取り除くべきでしょうか?

バガヴァン :

いいえ、あなたはマインドなしで行きていくことはできません。

なぜなら、マインドは必要だからです。

しかし、必要な時だけマインドが働く代わりに、

マインドは常に働いているように見えます。

例えば、雪のなかを歩くには雪靴が必要ですが、もしあなたが

それを寝室や食堂でも履くとしたら、とても煩わしくて邪魔になります。

それと同じように、マインドにはマインドの場所があります。

しかし、(大部分の人においては)

マインドがどこでも、いつでも働いているようです。

それゆえに邪魔になるのです。

質問 :

満たされていること、あるいは持っているもので

満足することは世界でのその人の能力を下げることになるのでしょうか?

外側の世界で有名になりたいという動機は悪いことでしょうか?

バガヴァン:

あなたが自然にそう感じるのである限り、私にとって悪いものは何もありません。

私は2つのダルマがあると思います。

1つはマインドのダルマ、そして2つめはハートのダルマです。

もしあなたのハートが開いていない場合、

それはマインドの枠組みのなかで機能していることを意味します。

もしあなたがマインドの枠組みのなかで

人生を生きているのなら、あなたはそれに正直であるべきです。

マインドはセルフ(自己)の回りを回転し、セルフは表現することを必要とします。

セルフはお金、名前、名声などを得ることに喜びを感じます。

セルフは自然にそれらに引かれます。

セルフは進んで犠牲を払おうとするかもしれません…

お金など欲しくない、名前や名声など望まない、と。

それもまた自己の表現です。

なぜなら、あなたは人々があなたを愛し、

あなたの偉大さを認めてくれることを欲するからです。

あなたは全てを放棄し、それに満足します。

お金を放棄するか、または反対に多くのお金を所有することで満足するか、

名前や名声を放棄するか、またはそれを得ることで満足するか、

それはあなたの選択次第ですが、しかしそれは同じことです。

あなたがそれを放棄するにしても、追い求めるにしても、それはセルフの表現です。

それゆえ、あなたがマインドのなかで機能している限り、

名前や名声を求めることはまったく自然なことです。

それに正直でありなさい。

そしてまたハートが開いている人々もいます。

そのような人は物に執着しませんが、それはそのように努力するからではありません。

彼らのハートが開いているので、自然にそうなるのです。

満足し、満たされている状態は彼らにとって真実であり、自然なことです。

それは彼らの動機が劣っているとか、有能でないということではありません。

彼らは自分のセルフを満足させるためではなくて、

より偉大な原因によってそうなるのです。




質問 : マインドは、投げ出されなければならないのですか?

osho :あなたの身体から投げ出されるべきものは、何ひとつない....

あらゆるものが変容され、併合されなければならない。

マインドは醜くない。

あなたの扱い方が醜いのだ。

扱い方を変えなさい。

マインドは醜くはない....あなたが、無意識なのだ。

その馬車は美しい、金色の馬車だ。

それなのに御者は酔っ払い、ぐっすり眠りこけている。

そして彼は馬車をののしり、非難している。

自分が溝にはまったとわかると、彼は馬をむち打ち、

馬車を非難し、馬車の製作者を非難し、

それが馬車の欠点でもなければ馬の失敗でもなく、

馬車の製作者の過失でもないとは、決して思わない。

それは彼自身の失敗だ。彼が酔っ払い、眠りこけていたからだ。

馬車が溝にはまってしまうのは当然だ....全責任は、あなたにある。

マインドを破壊するとか、投げ出すという問題ではない。

マインドは美しいメカニズム(機械装置)、

存在する最も美しいメカニズムだ。

なのに、あなたはマインドの召使になってしまった。

あなたが主人なのに、主人が召使の役をしている....

マインドは召使なのに、あなたが召使を主人にしてしまった。

マインドは、最も美しく、最も複雑で、

最も発展したメカニズムのひとつだ。

それはあなたの世話をよくして来たし、

今でもよく世話している。

その働きによって、

あなたは人生の中で同じストーリーをくり返して来た。

誰もが同じストーリーをくり返して来ている....

あなたはマインドを主人にし、

今、その主人はあなたをただの召使として扱っている。

これが問題なのであって、

マインドを投げ出さなければならないわけではない。

そしてそれが、瞑想とは何なのか、

ということのすべてだ....

マインドから離れ、

マインドの上位に立ち、

マインドに対して超越的になり、

「私はマインドではない」と知ることのアートだ。

それは、マインドを投げ出さなければならないということではない

「私はマインドではない」と知ることは、あなたを再び主人にする

あなたはマインドを使うことができる。

今のところ、マインドはあなたの手の内にはない。

あなたは、よい御者ではない。



私たちの意識(あるいは無意識)の本体はホワイト・ボードだ

いわゆる表面意識とか、顕在意識というのは
ホワイトボードに書かれた文字であり、これは
ホワイトボードの上に何万年もの歳月とその試行錯誤で
練りに練り上げられた生体OS=オペレーション・システムと
そのさらに書き加えられたアプリケーション群、
つまりマインドの出力結果である

OSHOが「マインドを見抜け」という場合
ホワイトボードである自分自身を見いだせ!
書かれた文字に自己同一化するな!と
言ってるのであって、書かれた文字を
何とかしろとか、ホワイトボード自体を
破壊しろと言ってるのではない

ところが、ラインマーカーでくっきり書かれた
文字は記憶中枢を通るが、ホワイトボードは
記憶できない・・・その必要がないからだ


それゆえに私たちは自分自身の
〝出力”である文字の方に
アイデンティティーを持ってしまう

つまり過去(記憶、思い込み、信条、解釈)や、
未来(期待、不安、予測・・・)を自分だと
思い込んでしまうのだ

ホワイトボード、それ自体は光だ。
それは恍惚だ。
だから記憶できない


    ※さらにその背景がタキオン(滝音)だ

だから無念無想の瞑想を試みると
「自分はマインドで一杯だぁ~~」と見えるが
実は全く悲嘆する必要はない
いままでも、これからも

私たちの人生の瞬間瞬間は、全て光に包まれている



追記:
日本の禅の伝統を由来とする
「無念無想」や「只管打坐」は
限りなく真実に近いが故に
非常に誤解されやすい言葉だ

まず、「無念無想」という言葉は、
ふたつも“無”が出てきているが、
これは私のブログを今まで読んで
来てくれた人には

「この “無” って “ない” とか “無くす”
        じゃなくFFDだよね?」

で、イッパツ理解が可能だろう

また、「只管打坐」というのも
これをポーズ(格好)だけで捉える
アホウはダイナミック瞑想100回の
刑に処する(笑)

日本の僧侶の90%は
以下の様な本のアホさ加減を
     見抜けないから
     バカの生臭ばっかりなのだ

ダイナミック瞑想100回の刑が必要なのだ
   ↓     ↓     ↓
考えない練習 (小学館文庫)
小池 龍之介
小学館
2012-03-06


ポーズ(見かけ、思考停止)のボーズ(僧侶)では
駄目なのだ

      川に浮き
      川と戯れ
      川と共にある

           OSHO「存在の詩」

       そこで“自然に起きる”のが
             只管打坐・・・・

   「古池や    The ancient pond
    蛙飛び込む   A frog ! Junp in
       水の音」        --- Plop!

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                     である



11/28~

月曜日
赤魚味噌煮 サラダ
肉野菜炒め ハムマヨカツ 五目ひじき煮
火曜日
メンチカツ サラダ ポークカレー
オムレツ さんま南蛮焼き

水曜日
さばの塩焼き サラダ
照り焼きハンバーグ
焼きビーフン 鶏の唐揚げ
木曜日
アジフライ サラダ 厚揚げうま煮
甘酢肉団子 しゅうまい

金曜日
カニクリームコロッケ サラダ
ナスチリソース ウインナーソテー
きんぴらごぼう
土曜日
カレイ磯辺揚げ サラダ ソース焼きそば
筍豆腐チャンプル 煮物…


尚、仕入れ等の事情によりメニューを一部変更する場合があります。
また、ご注文前までに売り切れなどやむを得ない場合も
メニューを変更させていただく場合があります。

お手数お掛けしますが、ご注文の際にお問い合わせくださいますようお願い申し上げます。

たけ
たけ外観
たけ地図

とどのつまりが
自我が何を探索しても
発見出来るのは“自我(の投影)”だけだ。



  それは

    “有限アリンコ君”が理解(捕食)出来る対象“X”は
             すべて“有限”だということだ


それが
 “THE SEARCH=探す”ということの決定的本質だ





占星術やタロットを習得していけば自ずと解ってくる

     “夢”が見つけられるのは
     “夢”だけだ


ルパン三世(1st) ED stereo 投稿者 dm_5006737fd65a7



       水に映る月をどこまで探しても
       もちろん実物の月を得ることなど決して出来ない

         それで得られるのは、どこまでも“月の映像”だけだ

その堂々巡り、それ自体がとてつもない
苦痛と狂気の世界(桶)に、自らを閉じ込めることになった。



しかし、
   桶の底が抜けた瞬間・・・・

    「桶狭間の戦い」  はこれにて終結する



バシャールは、「桶に映る月探し」を

「永遠に遊んでいられる素晴らしいこと」
  っと表現したが、

 私に多くの気付きを与えてくれ
   自分自身への「素直さ、率直さ、正直さ」の大切さを
    教えてくれた宇宙存在に、
     今の時点、この点ではわたしは彼らに同意出来ない

  最後の最後、彼らとは求めるものが違っていたのかもしれない・・・

和尚ネオタロット:46.Serching,Seeking,Questing
    探すこと、求めること、探究すること
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)
46miner1_wands08


 バシャール達は

  「わたしたちは自分たちで作った夢と知って、夢見続けることを選んだ」

               っと、言っている。

    その点で彼らもまたエンライトメントした存在なのだろうけれど・・・

  でも、そもそも、

チャネリングというのも、占いというのも
スピリチュアリズム、ニューエイジも
弟子とマスターと言う関係、
あらゆる交流会、ワークショップも
輪廻転生とか、ハイヤーセルフというコンセプトも・・・

   「桶の水に映る月探し」であること、
   法華経で言う「化城」「方便」であることは、まず間違いないだろう

   わたしたち地球人は、少なくとも一度は、
   このヘヴィーな夢から醒めて、「荷を降ろ」さないと
   個々人の精神的にも、文明社会としても、持ちそうにないからだ

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特に、私たち日本人は、ALONENESSを受け入れられずに
発狂しかかっている要素が強い。

天皇という心のよりどころを敗戦によって
絶対視することが出来なくなり、・・・

皮を剥かれたサルのように、・・・

・・・アリンコの様に「澱んだ空気の底」で、
しがみつき合い、
うなずき合い、
拘束し合い、
イジメ合い、
自己を見つめるよりも、
テレビ、ネット、スマフォ・ゲーム、仕事、酒、煙草、ギャンブル・・・に
自ら率先して中毒になり、精神的な病理が進行した社会なのだ

http://discovermeditation.com/wp-content/uploads/2012/10/bliss-e1347993614938.jpg

  その狂気の中から脱出したい私は

安達千代野さんがALONENESSの威厳の許において
 溶解してしていった 「無」 の中に、・・・
   
     ・・・私も、彼女を追って消滅することを望む

  だからその点では、恩人、バシャールとは
   歩む道が違うのかも知れない。

ALONENESSの無限抱擁という狂気の中に堕ちていく
それ以外に、「外を探し続ける」という狂気を終わらせる
方法がないのだから・・・・

つまり、この世界の
 すべて は、  狂気サイケデリクス)だったのだ
no title
(※『ジョジョの奇妙な冒険』に登場する
  東方仗助のスタンド・クレイジーダイヤモンド

あらゆるドラマ、悲喜劇はすべて無限の一点(ワンネスの中)に集約されるのだ

Kubrick // One-Point Perspective from kogonada on Vimeo.




    残るのは、その狂気に無意識に流され続けるか?
                   意識して楽しみ続けるか?

      その二者択一しか残されていない  ・・・いなかったのだ

「愛と風 AETOCAZE」

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