We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

名前はまだ無い。
・・・今後も必要ないかも知れない



無知故に自由である

もし、色々知っていたら、自分の試行錯誤と直感が
実は古代インド哲学と一致しただなんて
素晴らしいハプニングを体験することは出来なかっただろう。

無知故にあらゆる定義や既成事実からも自由である

何か素晴らしい真実の過去の発見や発表とわたしの
発言が一致して、それで盗作だと言われようとも、
それは事実ではないことは自分自身が知っている。

事実私は知らなかったのだから・・・・
にもかかわらず、古代の聖なる英知と合流出来たとしたら
何と素敵なことだろう!!


私自身の意識とは最大の謎だった。

きっとあなたもあなたも、あなたも、やっぱり自分という意識の存在が
最大の謎であり、恐怖であり、未知であり、神秘ではないかなと思う。

そして、わかった

この最大の謎、最大の神秘が、実は全ての解答だったと言うことだ。

それ以外はあり得なかった。

「自明である」と言うことが、最大の謎であり、解答なのだ。
「自明である」と言うことこそが、「無明」への最大の解答だ。

時間をかけては絶対に解明出来ない謎、
それが「私は在る」ということ。

そして、「わたし」とはゼロ次元であると言うこと
それゆえに、私には境界線が存在しない
でもそれは、わたしが全知全能であるという意味ではなく
わたしが、なにひとつ断言出来ない存在であることを意味する。


わたしはあなたが何を考えているか解らない
わたしにはあなたはコントロール出来ない最大の未知だ

わたしはあなたを知らない。

あなたはわたしと境界線なき存在であるのにも関わらず

わたしはあなたを知らない。

わたしにとって、もうひとりのわたし、つまりあなたは最大の神秘

きっと「距離のある1次元世界=汝が居る世界」を私がある日望んだのだろう

それがいつだったのかさえ忘れたが・・・・

きっと「広がりのある二次元世界=我々がいる世界」を、我々自身が
望んだのだろう

きっと「天と地の階層がある三次元以上の世界=あらゆる可能性の我々」が
同時存在しえるスペクタクルな多次元世界を私たちは手分けして創造しはじめた

あなたが私を殺すかも知れない世界。

わたしが時空を超えて誰かと
          出会えるかも知れない、
          解り合えるかも知れない世界。

       この「絶対に夢とは見破れそうにない世界」を
       もう長い間蓄積してきた・・・・

       この多重に重なる夢の世界、官能と苦痛のかくれんぼ世界を
       わたしたちは、今この瞬間も楽しんでいる

我が輩は無知である。
その自覚ゆえに人生は愉快だ。
すべてがアリスのワンダーランドだ。

映画「マトリックス」では、高速度で演算シュミレートされた世界の中で
人類が金魚鉢の中の金魚の様に〝養殖〟されている悪夢が描かれていた。

コスミック・トリガー―イリュミナティ最後の秘密
ロバート・アントン ウィルソン
八幡書店
1994-04


           「我々は“飼われて”いる」

私はまだ見たことはない映画だが、「インセプション」という最近の映画では
さらに、夢が何階層にも重なっている描写があるそうだ。

つまり、夢から覚めたと思ったら、それもまた夢だったという話だ。


  これらの映画の世界は、それでもまだ、“サイバーパンクだねえ”と、
  あくまでもSF世界として“面白がられて”いるだけに過ぎない。

  最近、イギリスの科学者だか科学誌かなんかに、

  「我々の住んでいるこの世界は、どおやら数百年後の
  コンピューター・シュミレーションの中の様だ」

  っという話が掲載されたらしいという話題を見かけた。


 それでも、まだまだ、これは人々の間では仮説という段階でさえ
 捉えられていないヨタ話扱いなのではないだろうか?


 わたしは、このブログで何度か「その疑いがあるだけで充分だ」という
 表現を、かなり意図的にしてきた。

 その最たる“疑い”というのが上記のマトリックス世界観だ。


バシャール -BASHAR- 2009/9
 ファースト・コンタクトとその後について


バシャール -BASHAR- 2009/9 ファースト・コンタクトとその後について


オリジナル翻訳字幕=平山 由紀子/地球人のためのスピリチュアル・レッスン☆VastStillness: http://yukiko.vastill.com/4/


     字幕編集zowgenジャンプ先はワークショップ動画= sm3013163



ここでバシャールは「あなたたちは制限世界の博士号を取得しようとしている」
と称賛してくれている。

改めて・・・この「制限」とはなにか?問うてみたい

そりゃああるでしょ?  重力とか、貨幣経済とか・・・イッパイ
そりゃあもう地球は    ・・・制限だらけ(笑)

でも、もしかしたら、最大の制限とは、わたしたちが一番疑っていないこと

    ・・・・かもよ?

つまり、唯一一番疑いにくいこととは

「この制限世界は現実ではない、仮想現実なのではないか?」ということだ。

確かに、最近のIT技術の進歩によって、カクカク動くネトゲ世界の廃人が
社会問題になるぐらい、仮想現実に精神が飲み込まれることが話題にはなるけど
だからマトリックスの様な映画も「空想可能」になった。

「でもあくまでも空想話でしょ?」

「いくらコンピューターの発達がめざましいとは言っても、
  この今見ている世界までもがリアルじゃないだなんて
                ・・・頭イカレてるんじゃない?」

ほとんど誰もが、そう思ってるんじゃないだろうか?

その最大の原因は、この世界のあまりにも緻密さ、
肉体に備わる五感で感じ取ることの生々しさ・・・

これほどまでの凄まじい情報量を、シュミレーション出来る
演算装置・・・つまりコンピューターの可能性を、到底想像出来ないからなのだ。

自分の身体の体毛一本に至るまで、目くそ鼻くそ一つに至るまで、
この世界のチリホコリ一つに至るまで、....いやいや、それを構成している
分子レベル、原子レベルまでが、ずぇ~~~んぶシュミレーションだって?

オナニーしたときの快感までが?


                          ・・・んな馬鹿な!あり得ない!!

いくら、高速演算が出来るとしても、そんなの想像も出来ない!

    ごもっとも

第一、万が一それが可能な演算装置が未来に可能であったにせよ
(本当はその、私たちから見た“未来”が、本当は現在で、
わたしたちが2014年だと思わされているだけだとして・・・・)

   ・・・・じゃあそんな莫大な演算の為のエネルギーは何の為?
             わたしたちにこんな緻密な夢を見せる“目的”は何?


   これらの疑問は、「高速な演算」という概念自体を越えることで
    解答し得る。


    まず、これほどまでに超高速な情報処理装置が存在し得るか?
   っと言うことに関すれば、実は<ある>のだ。すでに!

    それは、<あなた>という意識そのものだ。


   ファ?  そんなばかなだって?

   確かに私たちの表面意識は、2~3桁の四則演算をしようとするだけで
   「う~~ん」となってしまう。

   でも、いまあなたが見聞き、感じている世界とは、あなたの脳が五感情報を
   一瞬に統合して得られた結果だ。

    ・・・如何に莫大な情報が捌かれているのか?あなた自身さえ把握していない

     「あなた」という表面意識が捉えている、把握している情報とは、
    あなたが実際に、瞬時に捉えている莫大な情報のホンの一部に過ぎない。

   体内の皮膚感覚やら、血流の感覚、脳内の血糖値が下がることによって感じる
   空腹感・・・・  これらのプロセスのどれ位までをあなたの表面意識は
   把握している?  ・・・・身体の内外の様々な出来事、これらすべてだ。


   人間の脳が、それ程までに凄まじい能力であるとして、
   じゃあ、これらの大脳の進化は、偶然の重なり?

   もしそうではないとしたら、(必然だとしたら)この自然の進化の過程で
   人間の大脳までを作り上げた“宇宙的意思”って何?

   つまり、これはもう、「演算」というレベルというか、概念を越えているのだ。



   「演算」とは、インプットがあり、アウトプットがある。その間には
   「演算過程」がある。

   「演算過程」には、どれほど小さくとも(高速であっても)どうしても
   時間が必要だ。

   これら、全宇宙で同時多発的に同時進行している様々なプロセスは
   どこかで集中演算して、その結果をフィードバックしても

<到底間に合わない>
<光の速度でもぜんぜん間に合わない>


となると、そこにタキオン(滝音)粒子の様なものを想定せざるを得ない。

つまりは、物理的な因果律を越えた無限速度での全宇宙の統合調和だ


   これこそが、<私たちの意識>そのものではないか?

いや、それ以外の可能性があるだろうか?


つまり、私たちが今見て、体験している世界とは、
私たち自身が創造、生成している世界というわけだ。

マトリックスで、人間を“飼っていた”のは、コンピューターだったが
この現実世界で、制限を与え、・・・

    人間の意識であるわたしたちに
制限世界のリアリティーの夢を見させているのは、
           わたしたち自身である    ・・・可能性が極めて高い。

夢を見ているものと、見させているものが、同じなのだ。

つまり、意図的に夢を見させているとしたなら、
つまりは、これは自分で作ったゲームに、自分自身が潜り込んでいる
と言うことになる。

こうなってくると、寿命の意味も理解出来る
つまり、確実に覚醒する為に人体という夢のカプセルに仕掛けた
タイマー・・・・  それが“寿命”だということになる。


なぜ、ヴィパサナが瞑想の中でも、もっとも重要で基本的と見なされるのか?

つまり、呼吸とは「自分の様な」「自分じゃない様な」表面意識と潜在意識との
中間的な共同作業としての色彩が強いからだ。


じつは“なにげ”な意思決定のほとんどは「自分の様な」「自分じゃない様な」
部分でなされている。

でも、日常でそれに気がつくことは少ない。
つまり、表面意識と潜在意識とは「分離している」という「思い込み」で
わたしたちは日常暮らしているのだ。

「覚醒」というと、わたしたちは夢から覚めて活動している日常をイメージする

ところが、OSHOやその他、“覚者”と呼ばれる人達が指し示す“覚醒”とは
むしろ“夢”と“現実感覚”との中間的なトランス状態を指し示している様に感じる。

「俺がやっている」という責任者的自覚とは、むしろ「幻想だ」と覚者は言う

むしろ「存在に身を委ねなさい」という。  「そこに覚醒がある」っと。

つまり、「えーっとぉ・・・」  っと、必死に解答しようとしている「わたし」こそが
幻想と言うことなのだ。  それは「演算」の世界だ。

「演算」を越えた「コール&レスポンス」こそが
「無」と「無限」とのキャッチボールなのかもしれない。


あなたという意識は、“彼方”から来ているのかも知れない
あなたという意識は、すでに「死を越えた向こう側から」来ているのかも知れないのだ

“無”の定義というのは実に難題だった。

しかし、もし今回の私の仮説が正しいのだとしたら
これで一気に“神秘”と呼ばれている “コト” のほとんどが
説明可能になる・・・・


 無(ム)とは、....

英語のナッシング「何もない」、のではなく

     『全ての定義から解放された状態の名称』

である。




    まだ、誰も見ていないところで、誰も見たことのない花が
    今日もきっと地球のどこかでひっそりと咲いている

    それは、“無”の花・・・・  それこそが、最大の神秘じゃないだろうか?

  「すべての定義から解放された状態・・・それが 無 の定義」

        だとしたなら、パラドックスを使うことによってのみ
                  「無」とはやっと定義できるのだ。


 ・・・ こう見てみると、たしかに純粋に数学的な意味での数字の
    “ゼロ” とは、 “無” と非常に似ている。

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OSHOは私が知る限り、二回、無の定義について
以下の様に返答している。

「無、とは“ナッシング(何も存在しない)”じゃない、
          “ノーシング(事物ではない)”だよ」

現代のドイツ人禅師、エックハルト・トールも
(彼がOSHO読者なのかどうかは知らないが)
全く同じ返答をしているのを見かけた。

人類史上、この“無”という言葉は
体積や質量などがナッシングであるという解釈を受けてきた。

メートル単位で距離を表現するX軸を想定してみよう

1m~2m~3m~....

これを延長してゆくのではなく、逆にゆっくりと原点に近づけていってみよう

たとえば分数を用いて

1/2m( =50cm)~ 1/3m(33.3cm)~ 1/4m(25cm)~~

こうして分母をどんどん大きくしていけばどんどんゼロに近づく
さてそしてそれが1/∞mとなった場合....

とうぜんそれは限りなく限りなく“小さく”なる

それは≒ゼロ(メートルの原点)となる。

だからゼロとはその延長線上にあり、
だから私たちはその極微なるものが、遂には消滅した状態をゼロなのだと考えてきた。

「無」というのも、それに同じく「何もない」状態だと思ってきたのは当然だった。

ところが、ゼロというのは、例えば1と3との間が「2」である様な、単純な通過点
ではない。

   どれ程、微小であっても、
        超・極微量であろうとも、
           「有」と「無」とでは、
      「量的(物量的)」には無視し得るものであれ、
      「質的(エネルギー的)」には決定的な違いがある。

そこでは極性が変化する・・・・プラスからマイナス、マイナスからプラスへと・・・

たとえばリンゴの個数であれば、3個、2個、1個と減らしていく

そして0個となったあと、じゃあ次の-1個、-2個とは何か?といえば
自然界では“不足”を意味する。  ・・・つまり“借りとくね”というわけだ。

お金だともっと分かりやすい、つまり借金だ。

つまり、0個とは貸し借りないニュートラルな状態を意味する。

もし、1個、10個、百個、・・・と余剰な状態であれば、

「これ、リンゴ余ってるんだけれどミンナで食べて下さい」っとお裾分けしたり

市場で売ってお金に換えるとかするかもしれない。

どこかに腐らない様にストックするのかも知れない。

ジャムにしたりとか・・・


とにかく、「余分」であるということは、なにがしかのアクションを意味する
      「不足」であることも、なにがしかの困窮を意味する。

つまり、ゼロ=ニュートラルとは、単に何もないのではなく
「リンゴに関して何も問題が(過不足が)ない」という意味なのだ。

「リンゴ」にかんして「話題にする必要もなく、議論の対象でもない状態」
それがゼロ、ニュートラルの意味するところだ。


リンゴをカウントする為の軸線上とは、当然「リンゴを問題とした世界」だが
ゼロという特異点においては、それが消失しているのだ

その軸線上であるにもかかわらず・・・・


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     バシッ!・・・まっくろくろすけ死亡(TωT)



これは、ありとあらゆるパラメーターにも共通する。

それが何かの果物の個数であれ、長さや面積や重量の単位であれ

そのカウントの原点=ゼロにおいては「それが話題にも問題にもなっていない」
状態を意味する

ゼロとは、あらゆる単位(定義)が消失した点なのだ。

わたしたち日本人にとって、水や空気や平和は“無”に等しい。

でもそれは“何もない”という事ではなく、“意識しないで済んでいる”と言う意味だ。

中国の大気汚染やら、尖閣騒ぎによって、はっとする

当たり前の健康的な環境や平和のありがたさを・・・

「意識せずに済む」ということは、ありがたいことなのだ
それは「あって当たり前」であり、それは「無限の信頼」を意味する。

金魚たちの金魚鉢の環境に対する、「無限の依存」を意味する



逆の見方をすれば、ゼロとはありとあらゆるパラメーターに顔を出すことが出来る。

ゼロとは
あらゆる定義の“排除”なのではなく、
あらゆる定義の根底であり、基底であり
それでいて、
あらゆる定義からの自由であり、
あらゆる定義の解放である。


中空を飛ぶコマ・・・・  それは完全バランスの象徴だ!


あるときはリンゴの個数であり、
あるときは長さの単位であり、 
またあるときはエネルギーの単位である。


ここで見渡してもらいたい

あれを、これを、それを・・・・

すべてのものは、いろいろな角度、視点、価値観から定義することで
千差万別の様相を持っている・・・・

     ・・・・そう、

       「無」とは“何か”の不在なのではなく
      存在事物、森羅万象全てのバックボーンなのだ



     ・・・・そう、

        もう気がついたと思うけれど
        「無」とは「無限」なのだ。

  たとえば、「円(or 球)の中心から円周に向かって引ける半径を表す
         直線は何本引けるか?」

  答えは、「無数にある」となる。


  つまり、この場合の“無”とは、
        「一本もない」と言う意味ではなく
        「定義不能」を意味する。
        円周は点によって分割不能なので
        円の中心から無限に直線が引ける。

        「カウントは不能だ」という意味で「無数」なのだ。 

          点、線、面、体積・・・  次元の違うもの同士で
           比較したり、分割したりというのは「不能」だ

            だから単に「無い」のではなく「無理性」に、無の本質がある。
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追記:  OSHOの「存在の詩」の中に
         「“無”から与える」という言葉がある。

      また、同じく「存在の詩」の中に
         「本当の恋人同士とは“無”と“無”との出会いだ」というのもある。

      どちらも、素敵な言葉だと思う

      そしてふと思うのは、イエスが5千人分のパンを出したという逸話だけれど
      なぜイエスほどの人が、そんな馬鹿げた手品まがいのことをしたのか?
      疑問だったけれど、これもまた“無”から与えることのメタファーかもしれない

      つまり、「人はパンのみにでなく、神の言葉で生きる」という言葉と
      強く連携したエピソードとして考えれば、
      「神の言葉=“無”=“無限(の滋養)”」を暗喩しているのかも知れない

      「水の上を歩いた」みたいな奇跡話も、“無”の静寂性、絶妙なバランス性
      のメタファーとしてとらえれば、イエスが俗悪な手品師ではなかった
      と言うことになる






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