We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

ペットショップで動物を買ってきて

     「ボクの家族です」

    とか言っている悪魔の様な人間がなぜこんなにも多いのか?
    こういった類の人間というのは、妻や息子、娘を幾らで買ってきたのだろうか?

      たとえ家族でも、飽きれば、手に余ったのなら
                    保健所で殺処分するつもりなのだろうか?

金で買ってきた人命を、 これ 奴隷と言う。
金で買ってきた動物は、 これ 家畜と言う。

  これらの命を売買する商売には、昔も今も、ユダヤと朝鮮カルトが関与している
  そして、動物たちの命を救おうと奮闘する人達に暴力的な妨害を今もしている。

殺生を忌む仏教が浸透していた日本では
基本的には四つ足を食べる習慣はなかった。

   牛馬は人と一緒に田畑を耕す“家族”であり、“労働力”であった。
   犬は警備要員であり、猫はネズミの駆除を担っていた。


でも現在の動物たち、家畜には二種類の運命が待っている

      屠殺されて肉にされるか・・・・

      ペットにされて慰みものにされるか・・・・

   いまの私たちにとっては、牛や豚、鶏は殺して食う専用で
     人々は、ベルトコンベアーで屠殺された牛の肉を、これまた
     牛馬の様な待遇の店員によって出だされる
     250円のどんぶりにのせて喰らい・・・・

     犬、猫、などの動物はペットとして慰みものにする。

     ビールのコマーシャルで黒いラブラドルが流行れば
     ペットショップではいわゆる“黒ラブ”特需が起き、
     そしてさらにしばらくすれば保健所の殺処分を待つ部屋に
     黒ラブが溢れかえる

     アイフルのコマーシャルでチワワが出てくれば
     ペットショップではいわゆる“チワワ”ブームが起き・・・・
     以下略)

     以後、その繰り返し・・・・

       ペットとして品種改造された憐れな命は
       コーギーやらボストンテリアやら、・・・ 
       遺伝子レベルで人間にオモチャにされた
       この可哀想な子達は、自然界には存在しなかった
       不自然な体型である為、短命であったり
       苦しんで死んだりする

     この問題を調べていた十年度前に、私は精神を病んでしまった。
     その後遺症が、このブログである。

犬猫は動画でアップされて「かわいい」とはしゃがれる反面
年間一万頭以上は保健所で殺処分される

そのような殺処分の個体を減らそうと活動する人達が
猫カフェなどに連れて行くと、ペット利権団体が
深夜に店舗を破壊したりと言った暴力(犯罪)行為をしてまで妨害してくる

                ・・・・ なのに、報道さえされない (怒)


こういった動物たちへの残虐な社会性のルーツを辿れば、
   「神が七日で世界を作って、最後に人間を作った」
                    という旧約聖書に行き着く

そして動物に対してこの様な仕打ちを平然と出来る人間は、
基本的に動物だけではなく、まずは人間を家畜のように見なしている。

      つまり、自分の家族や雇用者も“所有物”と見なしている。
       常に、心理的に支配し、その自由意思を踏みにじっている

  愛は、          全ての存在を命あるものとして扱い
   愛の欠如は、     全ての存在を無機的な物体として扱う

☆ 食肉に関して

  玄米正食の世界では「食は遠くて近いものを選べ」という言葉がある

   つまり、種族としてなるべく遠いもの・・・哺乳類でも爬虫類でも魚類でもなく
                            昆虫や、植物が、良い

   そして、なるべく生活地域の(風土の)近いもの・・・とくに植物。(野菜、果物、穀物)

                        を、摂取した方が健康によいとされる。

   内視鏡を開発した日本人ドクターとして有名な
   新谷 弘実
(しんや ひろみ、1935年 - )氏は、
   「体温が人間より高い生物は食べるな」という。

    つまり、牛や、馬、鶏など、温血動物のなかでも特に人類は、
         かなり低い平熱でも血行が保たれ、細胞は癌化しない
         この人間の体内に、高体温を維持しなければ腐敗してしまう
         温血動物の細胞を摂取するとどうなるか?

         人間の(特に日本人の)長い腸を通過する際に
         人間の体温では“保温しきれずに”癌化、つまり腐敗しはじめる

         これが、肉食による発癌要因のメカニズムなのではないだろうか?




    私の住むアパートの隣にも、ニートの息子と母親とが生活していて
    その母親の、息子をなじる声が、しょっちゅう聞こえてくる

その声を聞くごとに、私はいつも思う・・・「おー やっとるなあ~~~(笑)」

  ・・・・その母親の、グチグチとなじる声が絶えるその日が来るまで、
     この地獄の家畜ゲームはつづくことだろう・・・・

      いや、もし人に輪廻転生があるのならば
      この母子は、来世では親子(加害者と被害者)の役割を交代して
      また、「子供ペット化無間地獄ゲーム」を続けるかも知れない

      ヒステリックなお説教で、人が変容することは
      永遠にないだろう。  状況が悪化する以外の変化はありえない

     息子を手放せない、息子から“子離れ出来ない”
     バカ母の、・・・ムスコ=ペット化の無間地獄ゲーム・・・・
     それを、“愛”なのだと信じて疑わない劣等感に蝕まれたカーチャン...

     日本中のニートや、マザコン創価学会員達が、
     この自立不能・劣等感ゲームの渦中にある

「愛」の美名の下での家畜化・・・・

    大いにやればいいのだ、
    苦しみ続ければいいのだ

    ・・・・この無限ループのゲームを、「もう沢山だ!」と思うまでね
 

         わざわざペットショップで金を払って買ってきた、
          自分で望んだ、地獄のゲームなのだから・・・・




全ての、時間が尽きるまで・・・
全ての命が、絶え果てるまで・・・・


和尚ネオタロット:59.Come,Come,Yet Again Come
   好きなだけ、繰り返せばいい 
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)



OSHOがよく講話で取り上げたグルジェフのメソッドに「ストップ」というのがある。



弟子達が何かをしているとき、出し抜けに「ストップ」とグルジェフが叫んだならば
弟子達はどんな最中であろうと、その場で凍り付かなければならない


もし、あなたがいつ如何なる瞬間であろうと、

「いま、この瞬間がすべて(有頂天)だ」
と、理解していれば、あなたはいつ如何なる瞬間でも
               死ぬ(静止する)ことが出来る

もしあなたが、

  「自分はまだ未熟で、自分には
   辿り着かなければいけない
    いつか、どこか  ...がある」

っと思っていたならば、あなたはストップ出来ない。

   実際のところ、  本当に、  間違いなく
            人生のストップは出し抜けに来る

   だから、如何に平和な日常の中にあっても
        誰もがこの突然の終わりを意識の片隅に持っている

        ・・・それが人を、常に狂気と紙一重にさせている。

                 例外なく


      それは素晴らしいことだと思う

         この世界に、永遠に安住出来る場所など、ありはしない
         この世界に、永遠に安住出来る者など、居やしない
            そのシビアな事実が、人々に、等しく、覚醒を促し続けるからだ。


       「ジョー・ブラックに」 よろしく ・・・伝えて欲しい

    諸行無常 一切皆苦 諸法無我 涅槃寂静 


     森羅万象は千変万化し、けっして常なるものは無し

     ゆえに肉眼で見える世界のすべてに安住の地はなく
       にもかかわらず
        (自分が生み出したホログラフの幻影に)
                   安住(自己同一化)を求めても、
                     それらの苦闘は徒労に終わる

     しかし、それら諸行の底流に流れるすべての法則が
      FAIR(無我)であって、FEAR(恐れる)必要は無いと悟れば

            そこに、永遠の安らぎと静寂が見いだせるだろう



  瞬間瞬間を一心に生きるとは、凄まじい緊張の様に見えるが
   実際は究極のリラックスだ。

 それは「いまここ」への専念ではあっても、集中(視野狭窄)ではない

ア カップ オブ ティー
和尚
めるくまーる
1995-02



 究極の自己受容に達したもののみ、時を刻んで(stop)生きることが出来る
       時というのは決してぼんやりと流れて(Flow)いるのではない。

   時が流れて(Flow)見えるのは“前後のつながり”の中に生きているときだ。

   人は、あなたに一貫性を求める。つじつまを求める

      それは人の勝手な期待だ。

      長男ならこうあるべきだ、大人ならああであるべきだ

      女の子はこうでなければいけない、ああでなければならない

      夫はこうでなければ、  妻はああでなければ.....


   こういった、世間の“期待”から脱線しようものならば、
   あなたは批判を浴びるだろう、制裁を喰らうだろう。

    この、世間との「取り引き」「決めごと」「妥協」の中に
    身を置き続けているうちに、あなたは
    その“鎧(よろい)”が自分なのだと錯覚する様になっている

       そこにアイデンティティーを置く様になってくる


     しかし、突然のストップは、容赦なくあなたの鎧を引っぺがす

     鎧は物体だから慣性の法則が作用する
     鎧には「ストップ」は効かない・・・

     「あなた」は凍り付いても、鎧はそのまま歩き続けようとする

     首をはねられたニワトリが、よろめき歩き続ける様に....


     しかし、そこで「ハッとした」あなたは、立ち止まる。
        --- マトリックスにビビッとノイズが走った瞬間だ。

和尚ネオタロット:15.Vulnerability
   傷つきやすさ
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)



















      覚醒の中にあって、人は不動である。 止揚の中に留まる。

DEVILMAN_05_005


      その瞬間、あなたは「別の何か」に乗っ取られる

       「愛」に乗っ取られる  「慈悲」に魅入られる
       「生命の息づかい」に、 「シンクロニスティー」に飲み込まれる


         だから、そのとき思い出すだろう

        実際は「いままでが」乗っ取られた人生であり
        それをあなたは思い出す勇気がなかっただけなのだ

        「〝死〟は突然来るものなのだ」っと留意し続ける勇気。

        「他人や社会は飴と鞭で私を調教し、
           そして、社会保障や身分証明を提供はしてきたけれど...」

        「その交換条件に
          私が、自分自身への誠実な生き方を
           思い出すことを、
            問いただすことを     ・・・・決して望みはしない」




        でも、それを自覚し続けなければ、実はそっちの方が・・・
        ぼんやりとした平和な人生への安住の方が

               ・・・・・本当は  “死”  なのだとあなたは思い出す


   ひとたびSTOPしたならば、
   あなたは、もう、牛尾にも、鶏頭にも、もどれない

   なぜなら、尻尾であれ、頭であれ、パーツとは死体、肉片だからだ

   「死」とは、明日来るものなのではなく・・・・関係性の中でまどろんで生きてきた
                              サルのような人生の事だったのだ。

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以前のブログ(抹消済み)で、「無条件の愛」という言葉の危険を指摘させてもらった。


そもそも、「愛」とはなんぞや?

・・・こういった抽象度の高い言葉の定義は当然、千差万別、十人十色だ。

  以前若い女性と話していて、
   「愛って、優しさのことでしょう?」と言われ、
    アゴがはずれそうになった経験がある。


  たぶん、いま同じ問いを発するならば、
   「え? 愛って当然経済力だよね?」とか言われ、
    今度こそアゴが地面に落っこちるかも知れないから
    イマドキの女性にはそんな質問は訊かない様に留意している。


そもそも、「愛」という現象の言語化自体に暴力的な要素がある。

言語化とはロジック化なので、「愛というロジックを越えた現象」を
言語化しようと試みている時点で、ヤバイのである。

そこへ持ってきて「無条件の愛」というと、もっとヤバイ



  もちろん、
  わたしなりにこの言葉の美しさは理解しているつもりだ。

そもそも、「条件付け」こそが「愛」の正反対であり
「~~したら、あなたを愛しましょう」
「あなたがXXであれば、私はあなたを愛する」
などというのは言葉の遊びも甚だしい。

“受験戦争”という言葉が聞かれる様になった頃からの
教育ママゴンの「あなたの為を思って・・・・」というフレーズは、
斉藤一人の「地上が天国になる話」によって
その正体が、「愛」ではなく、むしろその対極の
「劣等感」「強迫観念」「世界への不信感、不安感、危機感、・・・」
であることが暴かれた。

  ※ たぶん、ママゴン自身がペットへの「餌付け」や「調教」と
     我が子への「躾(しつけ)」とを混同しているのだろう。


しかし、これ程までに明快に解明されたことであるのにもかかわらず
残念ながら、この地上には、いまだ劣等感や強迫観念が
満ちあふれている。

   原罪思想、罪悪感流布の....
    進撃のキリスト(人類奴隷化)、恐るべし!!
     【動画資料】zeitgeist 時代の精神

   さらにその劣化コピーの
  キムチ・キリスト壺売り教、キムチ折伏ナンミョー学会、たまんねっす!!
    “ ニ ダ ヤ ”が解るとユダヤが見えてくる
     

さて、これ程までにあらゆるカルマの吹きだまり状態の現地球において
「無条件の愛」とか、(愛に餓えた)ネラーの目に留まろうものなら、さあ大変で、

即座に、

   「無条件の愛、かよ!?  そっか!だったら全財産くれや!!」

   「ついでに、俺の奴隷になれや!」

                    とか、  彼ら、マジで言い出しそうだ。


「無条件の愛」  っと言う言葉自体が、即、
「有条件の愛」  っという概念を生む。

  「優しくしてくれるのが愛」
  「甘えさせてくれるのが愛」
  「構ってくれるのが愛」
  「囲ってもらってこそ愛人」
  「愛しているなら、カネをくれ!養ってよ!」 っと、
               本気で言い出す人間を輩出させる。

そういう人は厳しい愛のカタチを学べる
「女王の教室」でシゴかれた方が良かろう



本来、愛とは「無底(底なし)を根底としたエネルギー現象」だ。

だから、無条件の愛とは底抜けの愛のことでもある。

いや、そもそも「愛」に
「無条件の~」  やら
「有条件の~」  やら、があるのではなく
愛という現象自体が、「無条件さ」であり「無分別さ」であり
              「底抜け」の美しい狂気である。

和尚ネオタロット:22.Innocence
   イノセンス(無垢)
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)



和尚ネオタロット:49.Love    愛 
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)




OSHOが「愛」という漢字の構成を生前ご存知だったかは知らないが
(たぶん知っていたと思うが)

「愛」とは「受容性の中心にある(真=ま)ごころ」と書く。

「(イヤイヤ、しかたなしではなく)本音の真心からの全ての受容性」

                ・・・・それが、漢字の「愛」の構成である。

だから、受容性の素晴らしさを強調して止まなかったOSHOの講話は、
〝愛〟という文字の構成の真意を見事に再現していたとおもう。

しかし、このデリケートなナザレのイエスの「神の御心」の世界を、
     デリケートであるが故に、いともた容易く悪用して成立
     した(パリサイ人プロデュースの)キリスト教とは、
まさに「ダース・ヴェーダ」・・・・

(「神の愛」「自己犠牲」という
 美名の許での)

   ・・・・〝殺戮の教典〟だ。   





「無条件の愛」という言葉の流布とは、かように誤解を招く
おかしなホームラン王!、恐るべき危険性を孕んでいる。
キリスト教徒に「無条件の愛」だなんて言おうものなら、
即座に
 (西欧社会で二千年間愛好されている人間干物グロ・フィギュア)
  十字架を取り出して、目をしばたたかせて言い出す。

「そうですね!わたしたちは主、イエス様の磔の姿に
 無条件の愛、無限の愛をいつも感じるのです」 ...って

  
  キメえんだよ!!羊の皮をかむった
  偽善の教典主義者どもはよぉ!!


  立川の聖☆おにいさん(ジョニデ似のロンゲの方)には
  この問題を、いま、どう感じているのか?是非突っ込んでみたいところだ。



そもそもこのトマスのエピソードは、イエスの復活劇が
邪悪なウソであることの大切な証拠である

キリスト教では「私は命である、私は復活である」と
渋谷駅前のマイクロフォンで喧伝しているが・・・・

それは、この「トマスが聖痕に指を入れてみた」という
エピソードが重要な“証言”となっている

確かに生命の偉大な働きのひとつは
「ホメオスタシス(恒常性)」にある

もし、トマスが出会ったというイエスが、死体(ゾンビ)で
あったなら傷口は開いたままなので指を入れることが出来る

しかし、もしトマスが出会ったのが、正真正銘の生きた
“ナザレのイエス”(生体)なのならば、肉体は修復しようと
大急ぎで傷口を塞ぐ為に指を入れるなど不可能だからだ。

つまりこれは、<復活劇を仕組んだ者達>がでっち上げた
奇跡の証言なのだ。

十字架で果てた弟のイエスとそっくりの場所に切り傷を付けた
一卵性双生児の兄イエスが、復活の証言に必要な最低限の
人達と会ってまわり、正体がばれる前にさっさとどこかに消えて
I'll be back 私は再臨する」と言い残したのだろう。

                (死の教典)キリスト教、一丁上がりぃぃ!


弟イエスは本当に素晴らしい人物だったのだろう

だから、彼の言葉に感銘を受けた人達も多かっただろうし
復活と再臨を望む“願望”も強かったに違いない。

そして、その当時ローマ帝国の圧制下で、救済を切望していた
ユダヤの民、その他の民族が多かったことを考えれば、救世主を
切望する人々の期待感が如何にムンムンしていたか?

そんなところに、この “奇跡の復活” を目にしたら、どうなったか?
察するにあまりある

「水の上を歩いた」 「どらえもんの様にパンを出しまくった」

あとはもう etc...etc...etc...  もともとプロデュースされたことなのだ

脚本家達があらかじめ用意したデマゴーグ達やら、弟イエスの
本当のファンの人達やらが入り乱れて、..迷える子羊たちが
唾を飛ばし、興奮して語り合った奇跡のエピソードのオンパレードである。

西欧社会が潜在的に抱えている劣等感、罪悪感は察するに
あまりある

キリスト教と言えば、すっかり“白人文明の根幹宗教”なのだが
彼らにとって最大のタブーは、当時のユダヤの民はスファラディー、
つまり浅黒い肌のセム系の人々であり、彼を磔にしたローマ帝国こそが
白人であることはガチだということだ!

   「自分たちで磔にした人物を神の子として信仰している」

これほどの自虐的な世界があるだろうか?

だから、イエスの脇腹を刺したロンギヌスが、その返り血を浴びて
目を癒されるというエピソードが、どれ程白人にとってすがりつきたい様な 
“寓話(ファンタジー)” なのかは、白人達の心境を想像するにあまりある。

キリスト教というのは、二千年間の罪悪感による集団ヒステリー(狂気)である

 では、この兄イエスと共に、この人類愚民化、奴隷化ヒステリー教を
 プロデュースした <悪の天才達> は誰か?

 彼らは、二千年も前に人間の心の弱さ、洗脳の心理学を熟知している

  となると、素朴な人間ばかりだった当時に、そんな連中は多くはない

  つまり、かれらは決して疑われないところに我が身を置いて
  この遠大な人類の奴隷化の脚本を演出した・・・・

  かれらは当時も今も「敵の中に身を隠す」ウィルスの様な連中だ

    つまり、映画「インサイド・マン」=偽善の律法学者達だ

    かれらこそ、「自由・平等・博愛」の演出者

    かれらこそ、「スピリチュアル、ニューエイジ、エコロジー」の


               そして 「無条件の愛」 の宣伝マン達だ



  「バシャやんはこの事(「無条件の愛」のバーゲンセール)に
   責任持てるの?」っとわたしは以前ブログで追求したら、・・・

  「チャネリングの言語化は伝達ミスも多くて...」とか、バシャールには珍しく
  釈明的な記事がPLANET NEBULAに翌日速攻でアップされてワラタ


で、今回のお題は「引き寄せの法則」なのだが、
これは、いわゆるスピ(スピリチュアル)系と、脂ぎった成功法則系との
双方にまたがって、絶賛浸透中である。

しかし、(気がついている人も多いと思うけど)

“引き寄せる”動機が、エゴからなのか?愛からなのか?というところに
違いがないのか? という視点から、まず指摘させてもらいたい。

そもそも、なぜ?「何かを引き寄せたい、のか?」と問うならば、
そこに欲(望)があるからだ。

成功法則の伝道師達はそこで、その問題を問われる前に

「お金を受け取る(お金儲けを目指す)事への
 躊躇(ためら)い -罪悪感- を振り払いましょうね!!」っとくる。

まあ、確かに間違ったことは言ってない。

現代は貨幣経済にドップリの世界なのだし、それは最低限の生活でさえ
必要不可欠なのだから、「貧しき者は幸いです」みたいな

 貧乏礼賛教、
  自己否定教、
   罪悪感注入の悪魔教のタワゴトを払拭することは良いと思う。

しかし、

   「人々の必要を満たすのには充分だが、
       欲望を満たすのには地球は耐えられない」

         っというガンジーの言葉は真理であると思う。

つまり、そこのところの“境界線”が明確でないままの「引き寄せの法則」
というのはたんなる欲望の際限なき刺激でしかありえず、それが今の




  「今年FXでAさんは43億円を稼ぎました」     
  「ねえ?そうでしょ?Aさん」
  「ハイ」

  「さあ!、あなたもこころ(無限の欲望)を
   解放するのです・・・」


    といった成功法則 アドバルーン商法の氾濫へと繋がっている。

「金融ビッグバン、ユダヤの巨大カジノに日本人はカモられる!?」
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動画:上杉鷹山:200年前の行政改革
動画:上杉鷹山:200年前の行政改革

    アメリカン・ニューエイジ・ムーブメント、
            ニューソート(成功哲学)とは
             “彼ら”が仕掛けたものだから・・・・

一般的に「引き寄せの法則」と呼ばれている“何か”とは、
実際的には「欲望のたぐり寄せの法則」と呼ぶべきだ。

最近は「セレンディピティー(意外な連鎖成果)」という言葉が
流行りだしている。 わたしはこちらの方ならばまだ、従来の脂ぎった
「願望実現させるぞ!エイエイオー」法則よりは、ずっと好意を
感じられる。

そもそも一体何をたぐり寄せたいのか?

人々に、好みの異性を尋ねると「優しい人がいい」と解答する人は多い。
で、そんな人に限って実際はDVだの浮気だの離婚だのとなる。

    「理想と思える人」と出会えたから
     結婚という一大事を決心したのではないか?

※ ぶっちゃけ、ここだけの話・・・・  “異様なまでの”優しさって、単なる無責任(放任)に過ぎない事が多い。

教育ママゴンの“調教”がトラウマになった、その裏返し、反動としての
 -やさしさ(甘さ、放任主義)- に、気をつけるべきである・・・ 

 特に、誰かに優しさを求め、探している人は
そういう人と出会いやすい・・・引っかかりやすい。
まさしく「引き寄せてしまう」のだ。

・・・そういう「甘えん坊」に対して、本当に愛のある人なら、
むしろ冷たく、厳しく接したりするものだ。

それゆえに、「恋愛」と一括りに言うが、「恋」と「愛」はまるで別物だ。

急流の様に惹かれ合う“恋”の関係とは・・・・
「人と人(男と女)」との出会い、引き合い、恋とは、往々にして
(腐れ)縁、カルマ的だ。

その“カルマ”とは、
『前世でふたりはどうのこうの』と言う因縁の意味だけに限定されず、
トラウマや、その他思い込み、頑迷さ、経験不足、気付きの不足、
理解不足が関与しているという意味である。

“愛”というのは、
執着なき、山の清流の様
だ。
涼しく爽やかに吹き抜ける一陣の風の様だ。

それは瞬間的なすれ違いざまの出会いに見えても、
いつまでも忘れがたい永遠の輝きを記憶に留める。

しかし、こんな“恋”と“愛”との分類も、最終的には“愛”に統合される。

なぜなら、
すべての出会いが学びであり
すべての出会いが癒やしであり
全ての出会いは結局のところ、祝福だからなのだ。

5/5 [邦画] -東北の風景、そしてスーちゃん-
エンディング
 

実際は、エゴの思い描く理想のイメージをたぐり寄せたとしても、
それは往々にして「計算違い」の結果を生むことは、わたしたちは
イヤというほど実例を目撃してきて(体験してきて)はいないだろうか?

      自分自身こそが「限界の根底」なのだ


もし、「愛」というのが、OSHOの言うとおり、その文字の構成通り
その本質が「受容性」にあるのなら、「なにかをして上げること」
「何かをたぐり寄せること」自体が「愛」なのではない。

   「受け入れる」とは、では何を?

   それは「あるがまま」をだ

       ...「わたし」や「あなた」、そして世界の・・・

「でも、自分自身こそが限界の根底といったジャマイカ?」

そう、  何かを渇望し、 いまここの、あるがままの「わたし」を
受け入れられない自分こそが、限界の根源なのだ。
自分自身こそが呪縛なのだ。


  「引き寄せる(たぐり寄せる)べきものなど、何もない」

という洞察に達することが、「すべてと共にある」ことなのだ。

「すでにそうであるもの」を発見したときに、すでに全てを引き寄せている。

「すでにそうである」ならば、そこに時間(いつ?)、空間(どこ?)は関与しない。
誰が?という行為者も、何を?という対象も、なぜ?という動機も....

  いま、 ここで   Now and Here  .......

  引き寄せなければいけないものがあるとしたなら、
  それは、あなたが永遠に不幸であり続けるであろう事の証明に他ならない。

   なぜなら、それはあなたが「いま、ここで」人生の終わりを宣言されても
   受け入れ難いことを意味するからだ。

    だから、その“とりっぱぐれたもの”を取りに、
    必ず帰ってこなければいけないだろう、  ・・・「いまここ」に


ナポレオン・ヒルは、「願望は実現する」と言った。

ああ、確かにその通り!

マインドは物質的な、物理的なエネルギーで、別にオカルトでも神秘でもない
それゆえスピリチュアリズムとも無関係だ。

クレジット・カードで実現させるか? 念力で実現させるか?
・・・実は大した違いはない。

ユリゲラーのスプーン曲げが、念力であろうがなかろうが、
単にそれが目に見えない力学かどうかの問題に過ぎず、
「内面の(因果を越えた)真実」とは、全く無関係だ。

ラジオ電波が見えないからと言って、それをオカルト現象だと
誰も思わないのと一緒だ。

単に現在の科学では測定、観測不能な
脳が発する未知のエネルギーなのか?
それとも何かのトリックなのか?
いずれにせよなにがしかの因果関係なのだろう。

マインドのパワーが、
何か外面世界の制御を実現させても、
何かをたぐり寄せるのに成功しても、
それは内面の静寂、豊穣、至福とは何の関連もない。

むしろそれらがエゴの成果であり、好ましからざる反作用に
自分自身が驚かされ、苦しめられる可能性の方が重大だ。

クレジットカードだって、一見お金を支払っている様には見えないが
ちゃんと請求されている。

では、マインドのパワーで引き寄せたのなら、何の請求(反作用)も
無いのかって?  ・・・いやいや、そんなことはない(笑)

オリジナル・テレビドラマ(OST)スタートレックの初期のエピソードでも
「光る目玉」「セイサスから来た少年」など、未熟で自制心のない子供が、
それにそぐわない強力なマインド実現能力をもってエンタープライズを
混乱に貶めるエピソードがある

和尚ネオタロット:43.マインド 
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)



念力(サイコキネシス)で、コップを動かすよりも、手でコップを持って
さっさと水を飲めばいいのだ。その方が効率的だ。

空中浮遊で毎日出勤出来るわけでも、海外旅行に行けるわけでもないなら
電車なり、飛行機なりを使えばいい

 

人の生活には、水も必要だし、お金も必要だ。
そして、その必要を見たそうとする分には、
決して、わたしたちが思い込んでいるほどの苦労、努力は、
実は必要ない。

“欲”(必要性)というものは、わたしたちが思い込んでいるほどには
大した問題もなく解決可能なものなのだ。

“欲”と“無欲”とは矛盾しない

自然で必要な欲求のためだけに起こされた行動は
最大限に燃費がよいのだ  ・・・それを“無欲”とも呼ぶ。

しかし、わたしたちは往々にして“望”(未来)に囚われてしまい、
過去の記憶に縛られてしまっているが故に、単純な欲=必要性さえ
充足に困難をきたすようになり(老病)
欲+望=欲望によって破滅(死)に突進してしまう

「欲望が憧れる奇跡」とは全く別種類の「奇跡=グレイテストミラクル」がある

それが、「すでにいまここにあるもの」への感謝だ。

今、この瞬間とは、全宇宙、全時空、永遠と繋がっている。

どっちを向いても、どこまで行っても、     行った先の「そこ」とは、
「ここ」と切れ目無く一体の空間であり、  あいもかわらず「ここ」なのだ。

   そして「その時」、   経験出来ることはやっぱり「いま」の連続なのだ。


どれほどジタバタしても、わたしたちは「いまここ」から一歩たりとも
踏み出したことはない。

   ...だから「引き寄せるべきもの、こと、状況」など...  ない


                そしてそこで起こる「最大の奇跡」とは、
                  超伝導(スーパーコンダクト)である

   つまりは

 「偽らざる自分という
       無=0(アイン) の源泉に消滅する」
                                      ことであり、

 「自分の運命を瞬間瞬間デザインしているもうひとりの自分、貴方=アナッタ
       無限の宇宙=00(アイン・ソフ)を信頼する」

                                      ことであり、

 「いまここから、一秒も、1mmも踏み出した
    ・・・ことなど無く、その必要もなく、それがすべてであり、
      この時空間の一点にすべての可能性と繋がっていると言うこと
        無限の光=000(アイン・ソフ・アウル)を受け入れる」
   
                                      ことである。

この印が、「シンクロニスティー(全宇宙との共鳴現象)」であり
     その現象が引き起こす素敵なハプニング
       (運命からのジョーク・メッセージ)の連鎖を
                  セレンディピティー(思わぬ僥倖)と呼ぶ。

  ブルートゥースを正常にベアリングしたいのならば、
  一気に欲張って幾つもベアリングしようとしたりせず、
  干渉しそうな電波が無い様な環境でするといい

  静かにあらゆるノイズも干渉もなくベアリング機器を検索している
    「完全なる待ち受け」状態が、
        「無条件の愛」「無念無想」をよく比喩していると思う。


   本田健氏が「ユダヤ大富豪の教え」で、冒頭から喰らったカウンターが
   「富豪になりたいのなら、お金の事など忘れなさい」であったが
   この一見、禅の公案の様な命題は、上記の様な法則
   「瞬間瞬間に専念しなさい」に則っている。

dai

だからわたしも、警告したい

 「引き寄せの法則」なんぞ、忘れなさい!
  なぜなら、エゴによる「たぐり寄せの法則」と
      時空を越えた「シンクロニスティー」との
       味噌(ミソ)糞(クソ)のチャンポンを、世間では
          「引き寄せの法則」と一緒くたに呼称しているからだ!!

    混ぜるな危険!!  ・・・・なのである

でないと、
「引きつけ(痙攣)の拘束」に、見舞われますよ! ってね




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