We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

いま、私が自殺とは何か?と尋ねられたら

「殺人の一種ですね」とまず解答するだろう

だから、自殺に自己犠牲的なイメージを投影しているお馬鹿がいたならば

「じゃあんた、自分の家族も、愛するペットも皆殺しにしてから自殺しなさいよ」と
そそのかすかも知れない


キリスト教というのは、ファリサイ人たちの着ぐるみ宗教なので
罪悪感(自己否定感)と自己犠牲的な聖人のイメージをばらまいた。

これらの観念に拘束された人々を支配するのは実に容易いからだ


しかし、かれらは人々を支配するのが目的なので
これらの自己否定感と自己犠牲意識に取り憑かれた人達が
自殺へと殺到してもらっては困るのだ。

・・・・支配すべき人達が、みんな自殺して、居なくなってしまうから

支配の要諦は「活かさず、殺さず」である。


自己否定感とは、もっとも愛に反するものであるとバシャヤンは喝破したが
自己否定感、自己犠牲感という狂気の美学に十字架の元で酔いしれる人々は、
同時に生き地獄を味わうことになる。

それゆえにキリスト教では生き地獄からの逃亡である自殺を強く戒めた。

「活かさず、殺さず」である。


もし、ひとりの父親が、その自意識の重みに耐えきれずに
私の言うとおり、家族を殺しはじめたとしよう

妻や子供達は「お父さん、何をするの!やめて!」と泣き叫びながら
血だまりの中で息を引き取っていくだろう

でも、もし、  本当にその家族達が潜在意識的に、パパに殺されることを
同意していなければ、そのパパの凶刃から逃れることが出来ただろう。


この世で起きていることは深いレベルではすべて、
当事者同士の同意で起きていることだからだ


ペットの動物たちは、何時も準備が出来ている

なぜなら彼らは腹をむき出しにして飼い主に愛撫を求めるからだ。

彼らは知ってしまったのだ。

動物にとって腹を差し出すというのは、「どうぞ殺して下さって結構です」
という服従の印だが、ペットの動物たちは、自分たちの生存本能よりも
あるじに命を差し出すことの快感を、知ってしまったのだ。


これら、家族もペットも皆殺しにしてみて、パパは初めて気がつくだろう

これらの命は、みな差し出されたものであることを

命を差し出すと言うことは、実は気持ちの良いものなのだ

なぜなら、それは自殺ではないからだ

もう、バトンタッチされた命は、「託された」ものだ。

自我を託すというチャンスは全生涯においてなかなか無いものである。



家族全員の命を引き受けることが、ある意味ではパパの責任なのだから
その意味ではもれなく皆殺しにするべきである

殺すこと、  という本質とは、命を引き受けることなのだ。


そして、もし無事にもれなく家族を皆殺しにしたら
いよいよ、残虐のクライマックス、パパの自殺である


自殺というのは、
「いつ、どこで、どんな風に死ぬのか自分で決めたい」
ということである

つまりは、エゴによるコントロールの極限である。

だから、自殺によって唯一死なないものがある

それはエゴだ。  それは確実なのだ。

この世で唯一、エゴだけは自殺が出来ないのだ

自分のボディーは殺せる

自分のボディーさえ、ある意味では借り物だからだ。

でも、実はエゴはそれをよく知っている。

「自分の肉体さえ、自分の運命さえ、自分はコントロール出来ない」

それは、エゴにとって最大の恐怖だ。屈辱だ。


だから、殺す。

この肉体を殺す。運命をコントロールする。


始めから終わりまで


このドラマはエゴで始まり、エゴで終わる

すべてはエゴだった。

自己犠牲も、自己否定も、  それはエゴの否定の様でいながら
自他のコントロールも、社会の改善もそれは最大のエゴのトリップだ。


血の海の中、もし最後にそれに気がつくならば
パパは泣き叫び、自殺を止めるだろう

家族の分まで生きる為に
捧げられた全ての命の為に



この世界には自己を持った人などいない

私自身をひっくるめて、人間という種族がこの地球を席巻しているだけだ

シャーリーマクレーンは、自ら主演した映画
「アウト・オン・ア・リム」で、海に向かって叫んだ。

   『 アイ ・ アム ・ ゴッド !! 』



宇野正美氏は講演で言っていた。

『中東紛争を解決し、ヨーロッパを統一した人物が言うだろう・・・
  -- アイ ・ アム ・ ゴッド !!-- っと』

『そう叫んだ人物こそが666の獣だと黙示録では語られている』


  だから、 シャーリーマクレーンが映画の中でとはいえ
  こんな発言をすることが如何に勇気が必要だったのか? 想像を絶する。



          --- わたしたちは、 間違える。  ・・・選択をミスる。


そして縮こまる・・・・  「ああ、私は何て限界だらけなんだろうか?」っと

だから日々確信を募らせる・・・・  「吾が神だなんて・・・ とんでもない」

でもわたしは敢えて言いたい。


   「それで(限界だらけ、欠陥だらけで)、いいのだ!!」



多くの人が、ニルヴァーナ(絶対的な安らぎ)を目指している。

でも、わたしたちはそこから旅立ったのだ。自分たちの希望によって・・・・

だから、この旅は未知へのジャーニー(流離い)ではなく、
涅槃への帰郷の旅なのだ。

そこにおいて、我らは惑う、間違える、手探りする・・・

   ・・・・それで、いいのだ!!

      “無限”であることを忘却して、“無”となり、そして“有”となることを
      自ら望み、無限者であることを思い出す帰郷への旅を
      私たちは何億年も苦しみ~~楽しんできたのだから・・・・

ありとあらゆることが“舞台装置”であった。

   ・・・・・・「エグザイル」が「マチガエル」為の、・・・・・

旧約聖書は警告した

「おまいらは、ミンナ罪の子だっちゃ!」

「ユメ夢、 おまいらちっぽけな人間共よ
   - I am GOD -とかほざくんじゃねえぞ!」

「そんな奴はエンガチョだかんな!!」

「なお、聖書をぜってー疑うなよ!預言とか当たりまくりだからさ!!」

「この聖書の言葉であるヤハヴェこそわたしこそが唯一の神だかんな!」

「疑う奴ら、みんな死刑な!!」

  ・・・・なんともはや、ガチガチのプロテクトをかけたものじゃないか?

      ・・・・ これもまた、  敢えて目覚めにくくする為に
          私たちが生まれてくる際に仕組んだ“舞台装置”である。

   絶対にあり得ない可能性・・・・  そこにゴールがある。


 この「超ハードモード」の覚醒の旅を解く鍵こそが

    「アイン(無)=0」と「アイン・ソフ(無限)=00」とが
                      一体であると言うことだ。

無知、無力、無能と、全知全能とが、まさかコインのウラオモテだなんて
五井野正くんもビックリではないか?


「小我と大我」という“比較級”で「わたしと神(ハイヤーセルフ)」とを捉えようとすると
気の遠くなる様な長く苦しい巡礼の旅しかあり得ない。


 自意識の愚かさ、我が身の小ささに恐れおののいていたのでは
 この無限につづく苦行の旅以外には、選択肢がない

   “比較級”には救済などあり得ないのだ!!


わたしたちは、日々間違える。
  わたしたちは、日常の一挙手一投足が
   躓き、よろめき、うろたえながら、正解を手探りする盲人だ。

でも、そのことで自己卑下したり、 自己憐憫に陥ったり、 絶望したり・・・・

・・・・それは一見謙虚な様でいて、実は宇宙大の傲慢なのだ!!

    だって、  「わたしとすべてのすべて」とを比較するだなんて!!!!!

                 でしょ?  宇宙大のフーリッシュ・シングスだ(爆)


「小我」なんていじくり回さないことだ・・・・  もっと徹しなさい!

                「無我」へ   ・・・・と


   比較してご覧?  あなたと、芋虫やみみずとを・・・・
       人間のあなたに見つかって逃げ惑うゴキブリと、あなた自身とを・・・・

         「比較出来ない!」と気がついて、爆笑がこみ上げてきたならば
         あなたはエンライトメントしちゃったのだ!!


「己の小ささ」も、「エゴが犯す間違い」も、それによる「いじけ根性」や「絶望」も

    「痛み」も、「悲しみ、別離」も、 「貧困」も、 「自己卑下」も、
    「正しさ」「正当性」、「罪悪感」、「優越感、劣等感」への偏執も、

 すべてはロールプレイング「ドラゴンクエスト」の為の自己プログラムだったとすると?

  ・・・え?  「そうじゃないかもしれないじゃん?」  って?

    いや、 「その可能性、その疑いがある」  だけで、実は充分なのだ!!!

    なぜなら  「それ以外の可能性」とは、
           無限につづくゴルゴダの丘への受難の道しかないからだ

 いま、地球には「キリスト教の道」か? 「それ以外の道」か?
     究極的にはその二者択一しかないのだ。

     どちらを選んでも、それはあなたの自由だ。

     無限の苦役か?  今この瞬間の救済か?

  現在の地球にはどんな宗教、どんな思想の中にも
      キリスト教的な「自己否定」「原罪思想」が混入している
       一見キリスト教と全く無関係な思想体系においてすら、っだ


    それさえ選択しなければ
      それ以外の道は、すべて

         「自己責任による選択のバリエーション」

                       に、過ぎない


   で、あれば、わたしたちは
       自分自身の無知・無力・無能・お馬鹿さを、笑える、。

     ・・・・失敗を、限界を、おおいに楽しめる!

       まったくキリスト教的な深刻さを持ち込まずに人生をエンジョイ出来る。


   で、あれば、あなたが「アイアム・ゴッド」を自覚するのに、
                           もうそんなに時間はかからない


実は「わたし」なんて、どこにもなかったのだ!!

ぜーーーーーんぶ、プログラムじゃないか?  あぁ~~ん?



あなたのくしゃみさえ・・・・  勘違いさえ、  空腹さえ、  スケベ心さえ・・・

           見てご覧?   そうでしょ???

深刻さなんて、一体どこに必要あるかい_?

もはや、「小我と大我」のパラダイムも、「羊と羊飼い」のパラダイムも、




   そのとき、あなたは  “無”  を自覚する

   するとすぐさま、    “無限”  を感じる


   そして、全知全能者が、 無知無能にも成れる
                          と言うことに驚いたとき

   あなたは  アイン・ソフ・アウル=000 “無限光” とは何かを知るだろう


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